第12話:不器用な兄たちと、たくさんの選択肢
夜遅く、長男が会社の残業から帰ってきた。
静まり返った我が家に入ってきた長男が、居間で「妹は?」と呟く声が聞こえる。いつもなら寝る直前まで居間で過ごしている私がいないのを、不思議に思ったみたいだ。
和室は居間のすぐ隣なので、両親が長男に事情を説明している会話が筒抜けだった。
それから10分ほど経った頃、すべてを察した長男が、私が引きこもっている和室の襖をそっと開けて入ってきた。
長男「……話、聞いたけど。おいおい、目が真っ赤じゃないか。まぁ……元気、出せよ」
長男は昔から不器用な男だ。人を言葉で励ましたりするのが、お世辞にも得意ではない。それでも、私のすぐ横にしゃがみ込むと、大きな手で私の頭をポンポンと優しく叩いてくれた。
長男「まぁ、これでも食って元気出せよ」
そう言って、私の手のひらに小さなグミを1粒、ぽつんと握らせてきた。
その不器用な優しさにまた涙が溢れて止まらなくなり、私はぐしゃぐしゃの顔で号泣しながら声を絞り出した。
野崎「……そ、それ……わだしの、グミだよぉぉ……っ!」
長男「あー……。そこに置いてあったから……。あぁ……(グミを自分の口に放り込む)美味いぞ!」
野崎「゛ぞれ゛ぇ゛……わだしのグミぃぃ……っ!」
母親「ちょっとアンタぁぁ!! なんで落ち込んでる妹をさらに泣かせてるのぉぉ!!!」
遠くからそっと様子を見守っていた母親が激怒し、和室に突っ込んできて長男の首根っこを引っ掴むと、そのまま居間へと強制連行していった。
その様子を涙目で遠目に見ながら、(あぁ、長男なりに私を励まそうと、心配して部屋に来てくれたんだな)と心が温かくなった。……なったけれど、長男は結局、私が大切にしていたグミの袋をしっかりと握りしめたまま、リビングへ消えていった。ちょっとだけ複雑な心境だった。
足元にいた愛犬も「ヤレヤレ……」といった呆れ顔をして、長男たちの後を追うようにトコトコと居間に帰っていった。
それから20分ほど、再び静かになった和室で体育座りをして天井を見つめていた。
長男のあの予想外の奇行のおかげで、張り詰めていた心の糸が少しだけ緩み、呼吸が楽になった。
泣きすぎて頭が割れるように痛かったけれど、いつもなら不安でなかなか眠れないのに、今日は精神的な疲労のおかげですぐに眠れそうだな……と、ぼんやり考えていた。
そんなしょうもないことを考えていた、その時。今度は次男が残業から帰ってきた。
次男「あれ? 妹は? ――っていうか、なんで長男がリビングで正座させられてるの?」
また居間から、母親がことの顛末を10分ほどかけて説明する声が聞こえてくる。
次男「あー……。なるほどね。ちょっと俺、行ってくるわ」
ガチャリと和室の扉が開き、次男が入ってきた。
部屋の隅っこで小さく丸まっている私の目の前まで来ると、すとんと男らしくあぐらをかいて座った。
次男「話、聞いたぞ。お前なぁ、そんなに目がパンパンになるまで泣くことあるか? 社会に出るっていうのはな、嫌なことの繰り返しなんだよ。学生と違って、楽しいことなんてほとんどない」
野崎「……うん」
次男「でも、給料を貰うってことは、嫌なことでも我慢しなきゃいけないことがたくさんあるんだ。楽なことばかりしてお金が稼げるわけじゃない」
次男は昔から頭が良い。誰かと会話をしていても、いつも論理的で筋が通っている。私はバカだから、普段は次男の難しい話なんて半分くらいしか理解できていない。けれど今日は、私の拙い歩幅に合わせるように、とてもゆっくりと言葉を紡いでくれた。
次男「世の中に、仕事って何個あると思う? 今の仕事を頑張りたいっていうお前の気持ちはよく分かるよ。でもな、それだけに固執してお前が挫けて(病んで)しまうなら、何の意味もないんだよ。その仕事を失ったからって、生きていけなくなるわけじゃない。次も、そのまた次だって、お前には選択肢がいくらでもあるんだ。落ち込む必要あるか? 泣く必要あるか? ――お前には、あんなに心配してくれる父さんと母さんがいるだろ? 長男だって、俺だっているんだぞ」
野崎「……うん……っ」
次男「そんなクソみたいな奴のために泣くな。お前が泣いた分だけ、そいつが喜ぶだけだろ。無理に元気を出せって言いたいわけじゃない。でも、俺が言いたいのは、そんな奴のために泣いているお前の『時間』が、何よりも勿体ないってことだ」
野崎「……そうだね。ありがとう」
(私、こんなにも、家族に愛されているんだ――)
次男の言葉が、すとんと胸の奥に落ちていった。
そうだ。本当にその通りだ。あんな歪んだ人間のために、私の大切な時間を使って泣き腫らすなんて、無駄以外の何物でもない。
もう、あいつのために泣くのは絶対にやめよう。
もし明後日、マネージャーにあのノートを見せて味方になってもらえなかったら……その時は、こちらからこんなクソみたいな職場、叩き辞めてやればいい。
私には、次がある。未来の選択肢なら、いくらでも選べるのだから。
大好きな家族に心配をかけたくなくて、ここまで一人でボロボロになるまで頑張ってきた。だけど、その結果として最後に一番の心配をかけてしまっては、どうしようもない。まずは自分の心と体を守らなきゃ。
翌朝。当日欠勤の連絡は、本来なら朝早くにチーフの携帯へ直接入れなければならない。
けれど、あんな奴の不快な声を二度と聞きたくもなかったし、私の声を1ミリだって聞かせてやるものかと思った。
野崎はチーフを完全に飛び越え、朝一番に会社の事務所(本社)へと直接、体調不良による欠勤の電話を入れた。




