第11話:涙のノートと、母の作戦
母親「まず、解決策として。アンタが今までされた事、言われた事をノートに書き出しなさい」
野崎「……なんで?」
母親「日付も書いて、詳しく全部書き出しなさい。チーフがいないタイミングを狙って、マネージャーにそのノートを直接見せるの。チーフがいないタイミングなんてある?」
野崎「2日後は親学校の分しか給食がないから、チーフはお休みらしい……。明日はいるらしいけど……」
母親「じゃあ、明日は体調を崩したってことでお休みしよう。もうチーフと顔を合わせるなんて無理でしょ? 明後日出勤して、マネージャーの電話番号を他の調理員さんから聞き出すのよ」
母親の現実的かつ迅速な提案に、父親が不安そうに口を挟んだ。
父親「明後日また学校に行くなんて、野崎は大丈夫なのか? もう直接、会社の事務所に電話をかけて相談した方がいいんじゃないのか?」
母親「そういう本社の窓口なんて、所詮は事務的な対応しかしてくれないわよ。『嫌なら辞めれば?』って言われて終わり。だって考えてみてよ、会社が新人と、経験豊富なチーフのどちらを取ると思う?」
父親「……新人は切られるな。すぐに」
母親「そう。だからこそ、現場のパワーバランスをよく知っているマネージャーに、今の異常な現状を直接目で見て知ってもらう必要があるの。電話をして、そのまま現場に来てもらえるのが一番いい」
(――もう一度、あの給食室に足を踏み入れられるだろうか)
今日あった出来事を思い出すだけで、目の前が真っ暗になる。チーフに会うのはもってのほかだが、他の調理員たちの顔を見るのも同じくらい恐ろしかった。
あの人たちは、誰も助けてくれなかった。二人きりの空間でのモラハラ発言は知らないにしても、調理中、明らかにおかしな理不尽な叱られ方をしている時ですら、誰も庇ってくれなかったし、後からフォローの言葉をかけてくれることもなかった。
それどころか、お茶汲みやパシリ業務を「新人なんだから当たり前」という顔をして、私を都合よくこき使う人たちなのだ。そんなおばさんたちが、マネージャーの連絡先なんてあっさりと教えてくれるだろうか。
あと一日だけ、と言われても、その一日を私は踏ん張れるのだろうか。
(でも……このまま、あんな奴らのせいで辞めたくない。負けたくない。あんなクソババアたちのせいで、私の大切な仕事を失いたくない……!)
野崎は涙を拭い、両親に向き直った。
野崎「……一日だけ、頑張ってくる。その次の日からゴールデンウィーク(GW)に入るから、その連休の間にフェードアウトするなり、会社と交渉するなりできるかもしれない。その日一日だけ頑張れば、まだ給食の仕事を続けられるかもしれないから……。私、頑張る」
母親「分かったよ。でもね、絶対に無理だけはしないこと。世の中に仕事なんて山ほどあるんだから。給食を作りたいっていうアンタのその素敵な気持ちは大事にしてほしい。でもね、それ以上に私たちはアンタの体が一番大事だから。無理だけはしないで」
*
自分の部屋からノートを引っ張り出し、入社してから今までにされたこと、言われたことを一つずつノートに書き出していく。
文字に起こしながら、あの時の恐怖や悔しさが鮮明に蘇り、またボロボロと涙が溢れて画面が滲む。文字にすることで自分の置かれている異常な環境を客観的に見ることになり、余計に胸が締め付けられて辛かった。
父親が、ずっと野崎の横で背中を優しく擦りながら、ノートに紡がれていく悲痛な文字をじっと見つめていた。
たまに、父親の動きが止まる。
チーフのあまりの酷い言動に憤り、怒りのあまり拳を強く握りしめているのだ。背中を擦りながら拳をギューッと握るものだから、野崎の髪の毛が巻き込まれて引っ張られる。
(……痛い)
でも、自分のこと以上に本気で怒り、悔しがってくれている父親の姿を見て、野崎の胸の奥にはなんだか温かい、幸せな気持ちがじわじわと広がっていった。
なんだろう、この不思議な感覚は。
親の絶大な愛情というのは、こんなにも辛い状況なのに、同時に不謹慎なほど幸せな気持ちにさせてくれるものなのだ。
母親「今日はアンタの好きなもの、何でも作ってあげるからね!! たくさん食べて、早く寝て、元気になろう!!」
食卓に並んだのは、野崎が大好きな「母特製オムライス」だった。
美味しい。本当に美味しい。
けれど、たまにボトボトと落ちる涙が混ざって、少しだけしょっぱかった。
*
夕食を食べ終わった。
居間にそのまま残っていたら、また涙が溢れて親に心配をかけてしまう。そう思った野崎は、居間の隣にある静かな和室へと移動した。
暗い和室の中でポツンと体育座りをし、ぼんやりと天井を眺める。
何も考えまいと、無心になろうとした。けれど、頭の中を今日チーフに言われたあの残酷な言葉たちが何度も何度もリフレインし、どうしても涙が止まらなくなってしまう。
そこへ、またしてもあの愛犬がトコトコと寄り添ってきた。
いつもならツンツンしているくせに、その不器用な優しさが、今は余計に涙を誘う。野崎は愛犬をギュッと抱きしめ、声を押し殺して泣き続けた。
涙のせいで愛犬の毛がべちゃべちゃになっていく。普段ならすぐに嫌がって逃げ出すくせに、こんな時に限ってしっかりと空気を読み、野崎の腕の中にじっと留まってくれていた。
しばらくして、ようやく少しだけ気持ちが落ち着いてきた。
それでも、野崎は体育座りのまま顔を膝に深く埋め、暗闇の中で微動だにできずにいた。明後日という決戦の日に向けて、静かに心を整理するように。




