第10話:家族のぬくもり
玄関の中に連れ戻されても、靴すら脱ぐことができなかった。
まるで自分の体からすべての骨が抜け落ちてしまったかのように、どうしても立ち上がれない。野崎は冷たい床の上で、芋虫のように背中を丸め、声をあげて泣きじゃくった。
野崎「私の、存在が、め、迷惑だって……っ」
母親「誰がそんなこと言ったの!!」
野崎「私の斜視も……気持ち悪いみたいで、っ」
父親「お前は迷惑でも気持ち悪くもない!! 俺たちの、世界で一番可愛い娘だ!!」
次の瞬間、二人に強く抱きしめられた。
まるで幼い子どもに戻ったかのように、漫画みたいに「ウワーーーン」と声を上げて大泣きした。両親の体温が、凍りついていた心の奥底をじんわりと溶かしていくようで、また涙が溢れて止まらなくなった。
しばらくして、激しい慟哭が少しだけ落ち着きを取り戻した頃。
母親「何があったの。ゆっくりでいいから、話してみなさい」
野崎の震える背中を優しく、何度も擦りながら、母親が問いかける。
隠し通せるわけがなかった。入社してから今日までの約1ヶ月間、あの監獄のような給食室で起きたすべての出来事を、堰を切ったように話し始めた。
毎日が本当に辛かったこと。泣かない日なんて一日もなかったこと。そして、大好きな家族に余計な心配をかけたくなくて、ずっと一人で耐えていたこと――。
すべてを聞いた父親は、怒りで我を忘れた。
父親「なんだそいつは……!! 俺が今から学校に殴り込みに行ってやる!!」
あまりの激昂ぶりに、顔の血管が今にもはち切れそうだった。
母親「ちょっと待って!!」
今にも玄関を飛び出して行きそうな父親の体に、母親が必死の形相で羽交い締めにする。
父親「止めるな!! お前はこれで我慢できるのか!! 娘がこんなにボロボロにされて、こんなに傷つけられてるんだぞ!!」
母親「我慢できるわけないじゃない!!! でも!! まだこの子の意見を聞いてないわ!! もし本人が会社を辞めたいって言うなら、私だって一緒に学校に乗り込んでやりたいわよ!! だけど、まだ他の学校への異動だって、他に手があるかもしれないじゃない!?」
涙を流しながら、母親は必死に父親を説得する。目の前で繰り広げられる両親の必死な姿に、胸が締め付けられてさらに涙が出た。
父親「……お前はどうなんだ? そんな会社、今すぐ辞めてしまえ! お前が潰れてしまう!」
母親「だから待ってってば……。正直な気持ちを聞かせて。アンタは、どうしたい?」
じっと見つめてくる両親の視線を真っ向から受け止め、野崎はぐちゃぐちゃの顔のまま、本音を絞り出した。
野崎「……辞めたく、ないよぉ……っ」
この1ヶ月近く、本当に地獄みたいなことばかりだった。
でも、出来上がった給食をクラスに届けに行くと、中学生たちがキラキラした笑顔で迎えてくれるのだ。
「わぁ!! 給食きたー! 楽しみ!」
「いつもありがとうございます!! 給食めっちゃ美味しいです!!」
「頑張ってください!!」
その真っ直ぐな応援の声を聞くたびに、面接を受けに新社会人として門を叩いた時とは違う、『この子たちのために、本当に美味しい給食を作ってあげたい』という確かな想いが、野崎の心の中に芽生えていた。
あんなクソみたいなチーフのせいで、自分の夢ややりたいことを奪われ、給食を作れなくなるのが何よりも悔しかった。
辞めたくはなかった。……でも、今のあの職場に戻る勇気は、どうしても出なかった。
野崎「給食ね……中学生が美味しいって言ってくれるの、すごく嬉しくて……っ」
母親「うん……ゆっくりでいいから。お母さん全部聞くからね」
野崎「私、今まで夢とかなかったけど……美味しいって言ってもらえて、初めて幸せな気持ちになれたの」
父親「……」
野崎「なにより……みんなが応援してくれた、初めての就職だから……。こんな形で終わりたくないよぉ……っ!」
母親「分かった。分かったよ。まずは居間に行こう。こんな玄関に座り込んでないで、体を休めよう」
二人に両脇を支えられながら、居間のソファへと移動した。
すると、いつもは呼んでも絶対に来ないし、尻尾すら振らない、ツン度100%の愛犬が、様子を察したのか遠慮がちにトコトコと近寄ってきた。そして、そっと野崎の膝の上にちょこんと座ったのだ。
こんな時だけ優しく寄り添ってくれる愛犬の温もりに、また涙の堤防が崩壊する。
愛犬をギュッと抱きしめながら、野崎は小さく呟いた。
野崎「私、頑張れなかったよ……。なんでこんなに心が弱いんだろう。だめだめだよね……」
母親「アンタは十分頑張ったわよ。大人のくせに、入ってきたばかりの若い子を虐めることしか考えていない、そいつの頭がおかしいの」
父親「そうだ。お前は本当によく頑張った。今だって必死に闘ってる。もしお前が辞めるって言うなら、俺は刑務所に入る覚悟で、そいつを殴りに行ってやるからな」
野崎「へへ……父親を犯罪者に、できないねぇ……」
涙混じりの、ひび割れた声だったけれど。
この日、野崎の顔に初めて小さな笑顔が戻った。
父親が大きな手で、愛おしそうに頭を優しく撫でてくれた。
(やめてよ……また涙が出ちゃうじゃん……)
心の奥底にあった冷たい孤独が、家族の圧倒的な愛によって、少しずつ溶かされていくのを感じていた。




