17.こゆるぎさんはおちつきたい
「――凪沙」
耳元で、甘く低い声がした。
背中に触れた温もりに、心臓が跳ねる。
力強く、優しい腕に後ろから捕らわれていた。
どこか縋るように抱きついてきた相手の声は、聞き間違えるはずもなく。
「あ、アキ――」
ピピピピピピ、と甲高い電子音。
ばちりと開いた目が見慣れた天井を捉えた。
――毎朝見ている、自分の部屋だ。
「――う、わぁぁぁ!」
夢を見ていたのだと気づいた瞬間に、凪沙は頭を抱えて左右にゴロンゴロンと転がり――ベッドから落ちた。
「凪沙! うるさいわよ! なに!?」
「ごめんなさーい! なんでもなーい!」
リビングの方から飛んできた姉のお怒りもごもっとも。
反射的に謝ってから、頭を抱えてはあーとため息を吐く。
「何て夢、見てるのよ〜……」
今度こそ願望が痛すぎる。
推しにバックハグされる夢、なんて。
――いや、それこそオタクの本望とも言える夢だけれど。
以前の凪沙であれば、有頂天になっていただろう。
でも、実際に知り合いとなってしまったら、罪悪感と羞恥が半端なかった。
「うう、この間庇ってもらったからかな……」
頬が熱い。
視線を向けた祭壇に鎮座するメンダコの曇りなき目に、良心がちくちくと痛む。
名前で呼び捨てにされて、抱き締められたい――そんな邪な気持ちを持っているのか。
(身の程知らずすぎる!)
もう一ヶ月は経とうかというのに、AKIとの水族館デートは昨日のことのように思い出してしまう。
AKIの笑顔。ぶつからないように避難させてくれた時や、不可解な現象の時に守ってくれようとしたこと。
(いい匂いと、一瞬でもがっしりした筋肉がわかった――)
パアン、と両頬を叩いてしまった。
煩悩退散。
「……写経とかすべきかな……」
ひりひりする頬の痛みで冷静さを引き戻し、時計を見ると、既に準備して出勤しなければならない時間だった。
――悶々とし過ぎた。
のろのろと身支度を始める。
ちら、と推し祭壇を横目で見て、きゅんと跳ねる心を叱咤する。
最近、AKIをファン目線で見ようとするたびに、彼の体温や声を思い出してしまう。
推し活したい。でも妙にやましい気持ちがわいてくる。
推しへの葛藤を抱え、ポスターのAKIからそっと目をそらして、小さく朝の挨拶をした。
――毎朝のルーティンは信者として欠かせないのだが、今日は真っ直ぐに目を見ることができなかったのだった。
◇ ◇ ◇
凪沙の職場、常羽ノ宮学園の中は今、普段よりもずっと活気に満ちていた。
あちらこちらで大学生や高校生が催しの準備をしていて、看板やらテントやら、機材が運ばれ大道具が設置されているのだ。
「そういえば、凪沙ちゃん聞いた?」
「はい?」
仕事の手を休めないまま、隣の先輩が声を掛けてきた。
「今年の飛翔祭。警備は頼んであるけど、例のごとく、ステージの手伝いに、大学側へも応援の要請がくるって。……で、うちからも駆り出されるかもって」
「えー……大変な役回りですね……」
「高等部の事務だけだと手が回らないのはわかってるけど、私たちがキャパオーバーしそうよね」
その言葉に苦笑を返して、凪沙はキーボードを叩く手を動かした。
最近は、以前よりこうして笑うことが増えた気がする。
飛翔祭、とは、ここ常羽ノ宮学園の文化祭期間の総称だ。
初等部・中等部はそれぞれ一日開催だが、高等部と大学部は同時期に合同で行われる。
特に大学部主催の飛翔祭は規模が大きく、高等部、中でも芸能科との合同ステージイベントが対外的な目玉とされている。
開催は三日間。前夜祭、本祭、後夜祭に分けて行われ、本番まではあと二週間を切っていた。
そのため、急ピッチで準備が進められているのだ。
学生自治が原則なので、おおよそは学生達の手で作り上げられる祭といっても、備品の貸し出しや様々な許可など、学園側の負担も大きい。
凪沙達、学園事務局の職員は通常業務に加えて、文化祭の処理業務が増え、てんてこ舞いだった。
備品や電力、警備、搬入の申請許可、模擬店のテントや使用教室の配置確認など全体調整、外部対応、トラブル窓口――枚挙にいとまがない。
(まぁ、毎年こんな感じだけど……)
飛翔祭は学園の一大イベントだ。
来場者も多いし、トラブルも多い。
対外窓口となる事務局が忙しくなるのもいつものこと。
――ただ。
(私、あんまり表立って人の多い所で仕事するのは苦手なのよね……)
凪沙は裏方の方が得意だし落ち着く。
だから大学時代も飲食店などはアルバイトの候補に挙がらず、大学内でひっそりと働けて良かったと思っている。
そのまま就職できた事務局なんて、基本的にこもって決裁する側なので最高の職種といえた。
対外部の業務だけは苦手意識があるが。
――この間の母校訪問のように。
「今年のステージイベントのメンバーには、Twin Stellaがいるから、ステージ外でも出待ちとか多そうよね……誘導とか大変そう」
先輩の嘆息混じりの呟きに、凪沙は首を傾げる。
「ツインステラ、ですか?」
「え、知らない? 凪沙ちゃんってアイドル興味ないの? 最近有名じゃない」
「えーっと、名前は聞いたことあるような気がしますが……。最近の若い子はあんまり知らなくて……」
「凪沙ちゃんだって若いでしょうにー」
「あはは……そんな」
推しはバリバリの国民的アイドルで、そのアキと絡みがあれば忘れません、とは言えなかった。
(高校生の頃のアキも、学祭楽しんだのかな……)
少し前の、母校を懐かしげに見つめる推しの表情をつい思い出して、胸の奥がくすぐったくなる。
制服のアキの秘蔵画像はプリントして壁に貼ってあるし、大切にバックアップを取っているけれど、生で見たかった――と、思うのはオタクの叶わない夢。
そもそも、アキが高校生の頃、凪沙はまだ彼を知らなかった。
はじめて知ったドラマで19歳ながら着ていた学生服は恐ろしく似合っていたが――それはそれ、これはこれ。
(いけない、仕事仕事)
軽く首を振って妄想を止め、業務に意識を引き戻す。
手を休めないまま、雑談は続いた。
「うちの子達はステラって呼んでたわね。お母さん関係者枠で絶対チケット取ってきて! なんて言われて……」
「ご苦労さまです……」
十代のお子さんのパワフルさに辟易している先輩には悪いが、自分も同じ立場でアキが出るならそう言うだろうなと、凪沙はそれしか言えない。
「よく似た双子でね。性別不明アイドルとして売り出してて、女装も男装もしてるのよ」
「へえ〜」
「性別はどっちがどっちでしょう、なんてアンケートが時々出てるみたいで、子どもたちも盛り上がってるわ。今時は色んなアイドルがいて凄いわねー」
「ほんとですね」
アバターなどで素顔を晒さない歌手もいることだし、多様な芸能人がいるのは実は中々に凄いことなのかもしれない。
似たようなことを姉や両親も言っていた気がする。
昔は顔出ししないなんてありえなかった、とかなんとか。
以前、ライブ中水分補給があるって言ったら驚いていたなぁと思い出す。
コンプライアンスにも厳しいし、この先も、世の中は時と共に変わっていくものなのだろう。
――色んなことが便利になっているはずだし、AIも活用しているのに、行事の時のこの忙しさが変わらないのは何故なのか。
先輩はよく随分便利になったわなんて言うけれど、そのうち自分がもっと手間を省いてやる。
多忙さにそう誓う凪沙だった。
◇ ◇ ◇
慌ただしくタスクをこなしていくうちに、あっという間に飛翔祭当日となった。
開催日の金土日のうち、前夜祭は昨日無事に終了している。
そして今日、本祭が始まる。
外部客に一般開放され混雑する二日の内、最終日は出店などが昼までとなっているため、中日の今日が一番忙しい。
凪沙は基本的には事務局待機だが、例年、来賓対応や全体調整、予期せぬトラブル対応など、何だかんだで現場に出て走り回ることが多い。
この三日は、いつもより少し早い出勤だった。
本祭の開始時刻前に、少しでも事前に処理できる仕事を片付けておこうと、始業から事務局の面々は慌ただしく働いている。
凪沙達は普段はカレンダー通り土日祝日が休みだが、学園最大級の行事だけは別だった。
後日振替休日が与えられるとはいえ、手放しで喜べるものでもない。
「文化祭の後って、結局業務が山積みなのよね……」
それなら普通に出勤した方が負担が少ないかも、と思ってしまう。
だからこそ、開始前のわずかな時間でも、今のうちに手を付けられるものは処理しておきたいのだ。
既に局長をはじめとする上層部は、実行統括本部として本部テントを拠点にしつつ、各会場へ巡回対応に出ている。
(上の人たちも、大変だな……)
そんなことを思いながら、凪沙も業務処理に没頭する。
――そして、気がつけば、校内放送が流れ、本祭の開始が告げられていた。
直後に、内線電話が鳴り響く。
なんとなく、事務局全体に、「もう始まった……」というような空気が広がったのは、気の所為ではないと思う。
文化祭本番。縁の下の力持ちとして、頑張り時だった。
慌ただしく仕事に振り回されているうちに、気がつけばお昼を回っていた。
「休憩順番に取ってー。本部に事前注文の分届いてると思うから、誰かまとめて持ってきてくれる?」
こういう時は若手から休憩をもらえるので、必然的に取りに行く流れだ。
「――はい、行きます」
凪沙は去年一昨年と同じく、当然のように声を上げた。
一人では持ちきれないため、年の近い同僚数名と一緒に本部テントに向かうのもお約束。
先輩方の分を事務局に届けてから、それぞれ順番に休憩を取る。
模擬店での食券がもらえ、事前注文が出来るのは職員の特権だが、何せ昼時だ。
この時間帯はどこも混雑して列が出来ている。
祭りをひやかすのは楽しみでもあるけれど――限られた時間に混んでいる中を回るには、効率を考えて行列の少ない所に行くのが一番だったりする。
もう裏方としては、忙しい時は仕出しの注文もありではなかろうか。
事前に注文していた焼きそばに、食券でゲットしたからあげとたこ焼き。
本当はベーカリーの限定パンとか、美味しそうなクレープも気になったけれど、並んでいる時間に休憩が終わりそうで諦めた。
「うーん、結局定番で食べやすいの選んじゃうな。栄養バランスは悪いけど」
それが祭の醍醐味でもある。
たまに炭水化物祭り万歳。
最後の唐揚げを咀嚼していると、まさかの着信音。
嫌な予感におそるおそる画面を見れば、事務局から。
休憩時間はまだ残っているけれど。
(ああ、さよなら私の息抜き時間……)
口の中で急に味気なくなった唐揚げをごくんと飲み込んで、応答する。
案の定、午後から開始のステージイベントの方で手が足りないので、そちらに回ってほしいとのことだった。
『まだ食事が終わってなければ、終わってからで大丈夫だけど、なるべく早めに来てほしいんだって。うちから何人かって言われて、結構人数が必要みたいで、ごめんね――』
「いえ、大丈夫です! 十分で向かいます」
そう言って申し訳なさそうな先輩との通話を終える。
「大変な役回りは私だったか……」
先日のフラグを回収してしまった。
ステージが近くてよかった。
五分もあれば走っていける。
周りの楽しげな人々が羨ましい。
(もう少し見て回るか、せめてゆっくり味わいたかった……)
たこ焼きを放り込み、焼きそばをお茶で流し込む。
五分後には空になった容器を片付けて、凪沙は急ぎ足でステージ会場へと向かった。
到着して、人波に圧倒された。
「うわ、多……」
流石芸能科がメインのステージ。
既にアイドルや歌手としてデビューしている高等部の生徒も多いので、短時間で色んな学生が出演するとはいえ、一種のライブだ。ファンが集うのも頷ける。
警備や整列のスタッフを大変そうだなと横目に見ながら、受付の方に向かう。
見知った職員に声をかけると、有難そうに言われた。
「助かった! どこもかしこも人が足りなくて。事務局の方なら、チケットの後処理や関係者受付とか、ステージ裏の調整とかに回ってほしいです」
あれよあれよと言う間にスタッフとしてバタバタと動くことに。
関係者受付の確認をしていれば、半泣きの客に呼び止められて紛失した入場証の再発行をして。
出演者家族の誘導や控室の整理。
気づけば一時間以上、まともに立ち止まる暇もない。
ステージイベントが始まってからも、会場の熱気を横目に必死に働いていた。
(デジタル化なんだからこの辺ももうちょっとなんとかならないのかなー!)
結局人の目で確認しなければならないことはあるけれど。
チケット処理の合間にエラーを吐いたパソコンの整備をしながら、内心でため息を吐く凪沙だった。
『次の出演者は――ツインステラ――!』
漏れ聞こえるマイクの声と、歓声。
先輩が言っていたアイドルか、と何となく気になりつつ、歌声はあまり聞こえない。
ただ、何となく少し、気持ちが落ち着いたように思って――よし、と気合を入れ直して励んだのだった。
お読みいただきありがとうございます。
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