13.こゆるぎさんはときめきたくない
夜中にごめん。と。
そんな一言の後に続いていた文章を、 何度も読み返す。
『真ん中で応援してくれて嬉しかった』
――あの時。
センターステージで目が合った気がしたのは、勘違いだと思っていた。
あれは、気のせいじゃなかったんだと――そう知ったら、ときめいてしまった。
正しいファンで在ろうと決めたばかりなのに。
どうして彼は、こんなにも沼らせてくるのか。
眠れないまま迎えた翌朝。
何度も打ち直して、最後に送ったのは、たった一文だった。
『お疲れ様でした。最高のライブでした』
それしか返せなかった。
そうして、ライブの興奮も冷めやらぬまま、何事もなかったかのように日常が戻ってくる。
まだ余韻が抜けないままで、仕事も、いつも通り――とはいかないけど、何とかこなした。
――気がつけば、残暑厳しい初秋を迎えていた。
夏休みを終えた学生達で賑わうキャンパスには、推しが撮影した名残はもう残っていない。
あの時のことを思い出して少し落ち着かないのは、凪沙だけ。
昼休み、ベーカリーで名物のごぼうマヨパンとパンナコッタをゲットした凪沙は、ふと携帯の通知に気が付いた。
「あれ……田中さん……?」
AKIのマネージャーの田中さん。
そういえば連絡先を交換していた。
『通話でお話したいことがありますので、都合の良い日時を教えていただけませんか』
そう届いていたメッセージを読んで、何事かと返事を入力する。
パンに齧りつこうとした所で、着信があった。
(早っ!?)
緊急の用事ならと思い、都合のつく日時にこの昼休みも含めたが、まさかすぐ連絡が来るとは思わなかった。
さっと荷物を手に、職員専用通路に入る。
「――はい。小動です」
『小動さん、お忙しい所申し訳ありません。今お時間大丈夫でしょうか?』
「はい。短時間でしたら。――あの、アキ、さんに何か……?」
ドキドキしながら尋ねる。
マネージャーから連絡が来るなんてどうしたのだろう。
『ああ、ご心配なく。体調などは問題ありません。マッチングのことでもなく――実は、仕事のことでご相談がありまして』
「――はい? 私に、ですか?」
推しが元気と聞いてほっとしたが、思わずやや素っ頓狂な声が出た。
芸能関係のことで相談されることが何かあるだろうか。
「あ……母校訪問の時のことですか?」
『いえ、そうではなく。実は――』
告げられた内容に、目を丸くした。
そんなこと出来ないと一度は断ったが、良識と理解ある適任者が他にいない、と説得されれば――ファンの鑑になろうとする自分に無碍にできることでもなく。
「わかり、ました……でもあの、記者とか……」
『ああ、その点はご心配なく。私も控えておきますし』
「はあ……」
炎上だけは避けたいが、あちらの方がそれは一番よく分かっているだろう。
『充分に対策して参ります』
「ええと……それでしたら……」
『ありがとうございます。では、日程についてのご相談は後ほどご連絡差し上げます。お忙しい所お時間を頂きありがとうございました』
「あ、いいえ、お気遣いなく……」
ついぺこ、と頭を下げてから、通話を終える。
「はあ……?」
席に着き、いつもなら舌鼓を打つごぼうとマヨネーズの味のバランスに、もっと気付けになるくらい胡椒が欲しいと思いながら、パンを咀嚼した凪沙だった。
◇ ◇ ◇
田中さんとのメッセージで決まった約束の日時は、週半ば平日の午後だった。
改札を抜け、とあるビルへ向かう。
昼食を終えた人々が行き交う中、目的地はエレベーターに乗った先――ビルの屋上に広がる、水族館だった。
(うわー……)
まだ入場もしていないのに、内装や看板に浮足立って、思わずきょろきょろしてしまう。
水族館。
最後に行ったのはずいぶん前だが、凪沙はその落ち着いた雰囲気と水辺の生き物の観察が好きだった。
子どもの頃、海辺の大きな水族館に行ったことを思い出す。
街中の水族館ははじめてだ。
なかなか行く機会がなかった。
多分、勝手などは似たようなものだろうと、事前にリサーチは済ませておいたが、今回役に立つのかやや心許ない。
エレベーターの脇、チケット売り場よりも手前で携帯の画面を確認する。
待ち合わせ時間よりも三十分ほど前に着いてしまった。
……早すぎたかもしれないが、遅れるよりはいいだろう。
(待たせるわけにはいかないし!)
手持ち無沙汰で辺りを見回すと、小さな子どもがぬいぐるみを抱えたまま保護者に抱かれて退場して行く姿が見えた。寝落ちしたのだろうと微笑ましくなる。
土日祝日はどの時間でも混んでいるそうだが、流石の平日午後。
家族連れや年配の方が多いようだが、混雑しているわけでもなく、スムーズに入場できそうなことにほっとした。
そうこうしている内に、エレベーター横の階数表示が目に入った。
下の階から、数字がゆっくりと上がってくる。
やがて到着音が鳴り、扉が開いた。
降りてきたのは、一人の男性。
AKIのマネージャー、田中さんだった。
今日はスーツではなく、ジャケットに襟付きシャツとスラックス。
革靴まできちんとしていて、相変わらず小綺麗な印象だ。
こちらに気付き、穏やかに声をかけてくる。
「小動さん。お待たせしてしまいましたか?」
「いいえ! 私が早く着いてしまっただけで――」
首を横に振った途端、田中さんの後ろからもう一人の人物が現れた。
シンプルな黒いキャップを目深に被り、マスクをつけている。
普通のグレーのパーカーに、淡いブルーのジーンズ。スニーカーは真っ白で、派手な装飾は一切ない。
一見すると、どこにでもいる青年に見える。
――でも。
「こんにちは、凪沙さん」
聞き慣れた声。
キャップの影から覗く目元の柔らかさ。
いつもの芸能人オーラを潜ませ、目立たない服装なのに、彼だけが不思議と特別に見える。
「こっ、こんにちは……っ」
どきん、と心臓が跳ねる。
必死で平静を装った。
(うわぁ、アキー! うわーっ! 落ち着け!)
AKIだった。
もっとがっつり変装するのかと思いきや、かなり普通だ。
その為か、予想より人目を引いていない。
あまりに自然過ぎて、脳内に『推しとオフの日にデートするなら』というテロップが流れた。
――そうだ。
今日は、田中さんに頼まれた、仕事のお手伝いなのである。
数日前の会話を思い出す。
『小動さん、水族館に行かれたことはありますか? 実は今度、水族館でデートするなら、というバラエティの企画があるんですが――風見はそういう場所に行ったことがほとんどなくてですね』
はあ、と気の抜けた声を出してしまったものだ。
『もしよろしければ、下見に少しお付き合い頂けませんか? 女性ファンとしての視点からアドバイスしてやってください』
水族館ならどんなデートが萌えるか、という企画を女性ファン目線から手伝ってほしいと。
『お願いします。――他に小動さんのように安心して頼める方がいないので……』
そうまで低姿勢で言われては、ファンとして応える他なかったのである。
――そして、現在。
自分がファン代表として立派に務め上げねば、と意気込みする凪沙をよそに。
「では、私は少し離れたところで待機していますので。何かありましたら、すぐご連絡ください」
「――え?」
依頼主の田中さんに爽やかに言われ。
「じゃあ行こうか」
と推しがするりと手を引く。
(え?)
事前購入されていたらしい電子チケットで入場して、頭が真っ白になった凪沙へ、AKIはマスク越しに微笑んだ。
「あ、そうだ。今日は屋外だし、念の為本名で呼んでくれる?」
推しと手を繋いでいる。
近い。
自分だけに向けられた笑顔。
あったかい、この間握手した、手。
反射的に引き抜こうとしたが、やんわりがっちり握られていてびくともしなかった。
(ぎゃぁぁぁー!)
思考がフリーズしている間、足はなんとか動いていた。
こうして、企画デートの下見は始まった。




