問8)幼馴染の絵馬を見たときの俺の心情を答えよ
好きな漫画や小説があればわかってもらえると思えるのだが、気に入った物語というのは定期的に読み返したくなるものだ。
話を把握した上で一巻から読むと、初見のときには気づかなかった楽しみなんかも見つかったりするし、いいシーンは何度読んでも泣いてしまったりする。
その一方で、読み返したくないページというのも確かにあるよな。
主人公が裏切られるシーンとか、主人公が大きな失敗をするシーンとかさ。
あまりにも恥ずかしかったり腹立たしかったりして、読み返すときにも飛ばしてしまう場所だ。
あるだろう? ないか?
まあ、どちらでもいい。要するに何が言いたいかというと、ここからの展開が俺にとってのそれだ、というお話だ。
読み返したくない、目を逸らしたくなるシーン。
だがまあ、恥ずかしく腹立たしいからと言って飛ばすわけにはいかない。
俺もそこまで恥知らずじゃあないさ。
腹をくくって話すとしよう。
最初は気づかなかった。
そして途中からは気づかないフリをしていた気がする。
だから俺がどの時点で気づいていたのか、正確なところは自分でもわからない。
ただ、はっきりと「やはりそうか」と思ったのは神社に行った日のことだ。
新月封印が転んだ。
それまでも気にはなっていた。
新月封印がときおり疲れた表情を見せること。
あれだけ機敏で活動的だった彼女が、一日をやり直すといつも縁側に寝そべっていること。
目の下にうっすらとできた隈と、わずかに痩けた頬のことも。
だが、何もないところで転ぶなんていうドジっ子のお約束のような事態を見て、俺は初めて確信を持ったのだ。
――やっぱりこいつ、繰り返すたびに弱っている。
俺は彼女を抱き上げて石の階段を登った。
新月は大丈夫だ歩けると主張したが、取り合わなかった。
猛暑とセミの騒音の只中を汗だくになりながら登りきった。
最終段の一歩先にある鳥居をくぐれば、そこはもう神社の境内だ。
荒い息をしながら、空気の違いを感じる。
まるで別世界のように涼しい。
無数の巨木で影ができているからか、手水舎の湧き水の効果か、神様のご利益か。
――とか言ったら「神様を信じているのか」って言われそうだな。
確かに俺は限りなく無神論者に近い。苦しいときと行事のときだけ神頼みに来るタイプの人間だ。それでも足繁く通ったこの神社は特別だ。
いるものとして、敬意を払っている。
新月を抱えたまま参道を少し歩き、狛犬の前で彼女を下ろす。
それと同時に俺も座り込んで大きく息を吐いた。
「……すまないな、ユキハル」
「やめろ。らしくもない。笑って俺を利用してりゃいいんだよ。これまでだってそうだったろうが」
「そうかもしれないが……新月は、お前に何も返せない」
「その顔で笑ってくれりゃそれでいいさ」
そう言うと新月は一瞬戸惑ったように視線を動かし、それから笑った。
「ユキハルは安上がりだな。かはは」
「安くない。値千金なんだよ、俺にとっては」
そうでなくても感謝している。
突然に失ってしまった奏と、またこうして歩いている。
ロスタイムという表現でいいのだろうか。それともモラトリアムか。いずれにしろ彼女の作ってくれる時間のおかげで耐え難い喪失感が薄れているのは確かなのだ。
そんなことを考えながら立ち上がり、尻の汚れを払う。
「さて。じゃあ神様にご挨拶と行くか」
「カミサマ? するとここは神殿か。困ったな、新月はここの作法を知らないぞ」
「俺が教える」
と言っても、俺だって参拝の作法に詳しいわけじゃない。
だが少なからず通って一度もバチを当てられないんだ。
この方法でやって神様が怒り出すということはないはずだ。
「まずこの石で舗装された道は中央を歩いちゃいけない。神様の通り道だからな。端を使わせてもらう気持ちで歩く」
「なるほど」
「でもってここが手水舎。手を清めるための場所だ」
参道の途中にある石造りの手水舎を示す。
湧き水が静かに溢れ出し、一部に苔が生している。
「この柄杓を使ってこんな風に洗うわけだ」
「ふわっ――冷たくて気持ちいいな」
「おう、顔を洗いたくなってくるよな」
「かはは。罰当たりめ」
本当は口もすすぐのが作法らしいが、生水が怖いので俺はいつもやっていない。
新月封印にも教えなくていいだろう。
「で、これが賽銭箱っていって、お布施を入れる箱だ」
「ふむふむ」
箱を観察する新月に、俺は財布から取り出した五円玉を渡す。
その中心に空いた穴を覗き込みながら彼女は言った。
「銀ではないな」
「日本の――この国の硬貨はほとんど銅の合金らしいぜ。さておき、賽銭には語呂合わせの験担ぎでこいつを使うのが一般的だ」
「ほうほう」
「まずは金を賽銭箱に投げ入れるだろ。で、垂れてる縄を引っ張って鈴を鳴らす。それから二回頭を下げて二回手を叩き、そのまま頭の中で願い事を言う。最後にもう一回頭を下げる――って感じだ」
「なかなか丁重な儀式だな」
「まあ、本当はこんな様式より気持ちのほうが大事なんだろうけどな」
「信仰心か」
「というよりは、敬意かな」
「ふむ?」
涼風が吹き抜ける。
それに合わせるように俺は息を吐いた。
こうして古びた木造の拝殿を前にしていると、いつも一緒に来ていた懐かしい声が聞こえてくる気がする。
「これは奏の受け売りなんだが、神社で祀られてる神様って、半分くらいはすごい不幸な目に遭ってるんだそうだ」
「不幸な目に? 神なのにか?」
「うちんとこの神様は万能でも絶対でもないからな。戦いに負けて逃げ落ちたり、子供が産めなかったり、恋人と引き離されたり、そういうことがしょっちゅうある。神社ってのは本当はそういう神様を慰めるためにあるんだと」
ねえハルちゃん。
神社って本当はね、自分勝手な願いを押しつける場所じゃなくて、神様のために祈る場所なんだよ。
――とか言ってたっけな、あいつ。
「『私は貴方が不幸な目に遭ったことを知っています。その苦しみが理解できます。だから安らかに眠っていてください』って祈るんだ。その結果として、喜んだり共感した神様が力を貸してくれるわけだ」
戦いに敗れた神は武運を。
子供が産めなかった神は安産を。
愛するものと引き離された神は良縁を。
自分ができなかった分だけ俺たちに助力してくれる。
「だから神の来歴を考えると真逆にしか思えないご利益を司る神様がいるんだってさ」
イザナミノミコトがいい例だな。
火の神様を産んで股間が焼けて死んでしまった。
死後も旦那と壮絶な喧嘩別れをした。
そんな彼女が授けてくれるご利益が、安産と夫婦円満だ。
もしかしたら、神様たちも後悔したりすることがあるのかもな。
あのときああすればよかったとか。
あのときああなっていればとか。
思わずポケットの中のむき出しの指輪をズボン越しに撫でる。
……ああ、先に立たないから後悔と言うってのは、まったく至言だ。
「神でさえままならぬ――か」
「ん? どうした?」
「なんでもない。では新月もここの神に祈るとしよう」
教えたとおりの手順で、新月封印は神を拝んだ。
真剣な表情だった。
今どきこれほど真摯に神に向き合う参拝者はいないだろう。
ああ、いや。
思えば奏もこういう表情をしていたな。
それで社務所で絵馬を買って、なんでもないようなそのときの願いを書いたりしていた。
俺は右手にある絵馬掛に近づく。
古い絵馬はいつの間にかなくなっているものだ。だから掛かっているのは比較的新しいもので、それでも人の少ない地元のこと、見慣れた名前がいくつかある。
その中に、奏の名前を見つけた。
その絵馬には、ただ一行、達筆な字でこう書かれていた。
『いつか、ハルちゃんとまたここに来れますように』
「――――」
ざくり、と。
心臓を氷のナイフで抉られたような感覚。
あいつはどんな気持ちで一人ここに来て、これを書いていったのだろう。
そして――俺はいったい何をしているのだろう。
新月封印は奏の姿をしていても、決してあいつ自身じゃないのに。
それどころか、俺は問題を先送りにすることで、あいつの死そのものを冒涜しているんじゃないのか。
早くすべてを終わらせて、眠らせてやることが奏のためなんじゃないのか。
「何を見ているんだ、ユキハル?」
いつの間にか祈り終わっていたんだろう。
俺の背中越しに絵馬掛を覗き込む新月封印に、訊ねた。
「もう少しだけ歩けるか?」
「む? ああ、問題ない。おかげでだいぶ回復したぞ」
その言葉を俺は額面通りに受け取った。
だから続けた。
「じゃあ、このまま学校に行こう。それで回るところは全部だ」
「――ユキハル?」
「そこで学校での奏のことを話す。そしたら終わりだ。終わりにしよう」
俺は一方的に、そう告げた。




