18
日が沈み、夏の湿った空気に混じって時折吹く涼しい風に秋の気配を感じながら蛍はゆっくりと川縁を歩いていた。初めてヒカルと出会った日に来ていたあの川だ。リー、リー、と遠くから控えめに虫の鳴き声が聞こえてくる。夏の終わり。それは。
「ケイとももうすぐお別れだね」
ヒカルが蛍の後ろから声をかけた。
「きっと、明日には僕は消える。……自分が消える時がわかってるのって、ちょっと怖いな」
困ったような笑顔を浮かべてヒカルが言う。蛍はその笑顔を同じように困ったような顔で見つめ返した。
「ねぇケイ」
蛍の困り顔に気付いたヒカルは慌てて目尻を下げて穏やかに笑いかける。
「最後のわがまま、聞いてもらってもいい?」
「最後のわがまま……?」
「明日、ケイの一日を僕にくれないかな」
翌日の早朝、駅の改札前でヒカルを待つ蛍の姿があった。
「今日は寝坊しなかったね」
そう声がした方に振り返ると、ヒカルがおかしそうにくすくすと笑いながらそこに立っていた。
――海へ行こう。
それがヒカルの提案だった。
「生まれ変わったら、きっと今の記憶は無くなってしまうから。『今の僕』のまま、一緒に海に行きたい」
電車に揺られて二時間。周りから変な目で見られないよう会話は最小限に抑えていたが、初めての二人での遠出に蛍はずっと胸がどきどきしていた。流れる車窓の景色の速さと心臓の鼓動の早さがリンクする。
電車を降りて、海までの道のり。暑さと照りつける日射しで蜃気楼のように揺らぐアスファルトを嬉しそうに歩くヒカルの姿を見て、全てが夢とか幻のように思えた。目の前の彼は、今日にはいなくなってしまう。今がずっと続けばいいのに――。
「海だ」
ヒカルのはしゃいだ声にはっと我に返る。目の前に那由多に広がる水平線。潮の香りが鼻の奥をつつく。走り出したヒカルの後ろを追うように砂浜を歩いていく。柔らかい砂浜は太陽の熱を蓄えて、踏み出す度に沈み込む蛍の足を熱くさせた。その熱さで思わず小走りになった蛍は波打ち際に立つヒカルに追いつき、熱くなった足を海水で冷やす。寄せては返す冷たい波が、足にまとわりつく熱と砂をさらっていった。
「ヒカルは海が好きなの?」
きらきらと太陽の光を反射させる海と同じように輝く瞳で海を眺める彼の姿に声を掛ける。ヒカルは海を眺めたまま答えた。
「夏が好きなんだ。海とか、入道雲とか、花火とか、蝉の声とか夏のもの全部。もちろんホタルもね」
「へぇ……。あ、私の名前、ホタルって書いてケイって言うんだよ」
「そうなの!? そっかぁ、だからかぁ……」
「何が?」
「僕が蛍を好きな理由」
ヒカルが少しだけ顔をこちらに向けて、横目で蛍の顔を見る。その目と視線が合って、蛍は顔の中心に火がついたように真っ赤になるのを感じた。
「蛍は僕の神さまだ。僕に生まれ変わる理由をくれた」
ヒカルは蛍の方へ向き直り、そっと蛍の両手を握った。ひやっとした感覚が手を包みこむ。その冷たさは火照った身体の熱を奪うようで、少しだけ蛍に冷静さを取り戻させた。
「僕は僕を諦めようとしてた。でも蛍が諦めないでくれたから、ちゃんと僕を覚えていてくれる人たちがいることを知れた。僕の生きた十五年の意味を教えてくれた」
その言葉を聞きながらじっとヒカルの瞳の中を見つめる。瞳に映る光が揺らいでいる。まるで海の水面みたいだ。
「もう一度僕は僕の人生を生きたいって、そう思えた。……でもね。それよりもっともっと大事な理由が見つかったんだ」
ヒカルの手がぎゅっと蛍の手を力強く握る。
「蛍だよ」
揺らいだ瞳から何かがこぼれ落ちるのを必死でこらえようとするヒカル。普段は穏やかで感情をあまり表に出さない彼の、初めて見る表情。
「僕は蛍がいるこの世界に絶対戻ってくる。必ず蛍に会いに戻る」
「……待ってるよ」
蛍は満面の笑みでそう返した。笑った瞳からぽろっと涙が落ちる。その一粒の涙を合図に、堰を切ったように涙がどんどん溢れてきた。泣くつもりなんてないのに。
「どうして蛍が泣くの?」
そう笑ったヒカルの両目からもつっと涙が落ち、頬に跡をつける。
「蛍が泣くまでは泣かないつもりだったんだ。でも蛍がたくさん泣いてくれたから、僕も泣くことができた」
ヒカルの両手が蛍の頬をそっと包んだ。
「ありがとう、蛍」




