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ハルカの問いかけに蛍が静かに頷く。ハルカの両目には今にも零れそうな大粒の涙がかろうじて下睫毛の先に留まっていた。蛍はしゃがみこむと、その涙を人差し指ですくいとりながら言った。
「ハルカ、今でも僕があげたうさぎのキーホルダー付けてくれてるんだね。ありがとう」
その言葉にハルカは心臓を掴まれたように胸が苦しくなった。名前を呼ぶときの柔らかくて優しい声。目を見つめて穏やかに微笑む表情。目の前にいる兄を知るはずもないただの女子中学生が、確かに兄と同じ仕草で語りかけてきたからだ。
ハルカにとっては、ずっと聞きたかった声、ずっと交わしたかった言葉、ずっと見たかった表情。十四年、押し殺してきた感情が今にも爆発しそうだった。
「おにい……ちゃん……! わたし……っ、ひどいこと言ってごめんなさい……!」
―本当は、全て。全て覚えていたの。記憶をなくしたんじゃない。記憶をなくしたかったんだ。私は。
私はお兄ちゃんが大好きだった。大人になったらお兄ちゃんと結婚しようって、本気で思ってた。本当に優しくて面倒見が良くて、親より私の世話をしてくれるお兄ちゃん。朝夕は保育園の送り迎え。帰り道に神社で一緒に遊ぶのは私の毎日の楽しみだった。遊び疲れて帰ったら、一緒にお風呂に入って、ご飯を食べて、眠る前には絵本を読んでくれた。お兄ちゃんは絵本を読むのがすごく上手で、登場人物になりきって台詞を言ったりするから、私は興奮しちゃってなかなか寝付けないこともよくあったっけ。甲斐甲斐しく私の面倒を見てくれるお兄ちゃんを、両親もとても頼りにしていたと思う。
そんなお兄ちゃんを好きなのは私だけじゃなかった。お兄ちゃんとの会話でたまに出てくる学校の話の中には、毎日一緒に本を読んでるっていう友達がいた。でも、きっと今思えばただの友達じゃなかったんだと思う。まだ四歳だった私は、一丁前にやきもちを妬いたりなんかして。図書室で試験勉強を教えてもらってるって聞いた時には、私もお兄ちゃんと勉強したいから連れてけって駄々をこねたな。高校生の勉強なんてわかるわけないのにね。
そんな何気無い日々を私は自分で壊してしまった。あの時、私が肩車なんてねだらなければ。あの時、私が蜻蛉になんて気をとられなければ。階段から転げ落ちる瞬間は、世界がぐるぐると回転して何が起きているのかわからなかった。気が付いたらお兄ちゃんが人形みたいにぐったり倒れていた。呼んでも呼んでも呼んでも呼んでも呼んでも呼んでも。何回呼んでも泣いても喚いても、お兄ちゃんは二度と私に返事をしてくれなかった。
私は、この世界からお兄ちゃんを奪ってしまった。お兄ちゃんを大切に思う人たちからお兄ちゃんを奪ってしまった。お兄ちゃんの命を――奪ってしまった。お兄ちゃんじゃなくて私が死んでいればよかったのに。きっとその方が世の中の為になっていたはず。お父さんもお母さんも、お兄ちゃんの友達だってそう思ってる。みんな私のこと憎んでる。恨んでる。ねぇ、お兄ちゃんもそう思うでしょ――。
そうして、私は私の記憶を心の奥底に仕舞い込むことにした。兄なんていなかった。そう思わないと耐えきれなかった。私は本当に弱くて最低な人間だ。兄の記憶を無くしたふりをしている私を周りは可哀想だと言った。……可哀想なもんか。こんなに下劣で卑怯な人間なんて、やっぱり死んだ方がよかったんだ。
私は自分が赦されたい為に、あの神社へことあるごとに足を運んだ。神に祈ることはたったひとつ。
『死にたい』
いつしかそれは私の口癖となった。
『死にたい』
いつしかそれは私の願いとなった。
『死にたい』
いつしかそれは私を喰らい尽くそうとしていた。
もう限界だった。十四年かけても、兄のいた四年間を消すことなんか出来るわけもなかった。嘘に嘘を重ねた自分の人生に絶望しかなかった。早く誰か殺しに来て。そう思っていた矢先に、あの子が現れた。
『お兄さんと友達なんです』
初めは悪趣味な冗談か何かだと思った。死んだ兄をネタにするなんて許せないとも思った。――許せないなんて言えた立場じゃないけど。
でも二度目に会った時、もしかしてこの子は死神なんじゃないかと思った。とうとう兄の代わりに私のことを殺しに来てくれたんだ、と。
それなのに、私は自分が本当に死ぬことを考えたら怖くなった。ずっと死にたいと言い続けてきたくせに。私は気付いてしまった。私が本当の本当の本当に望んでいたことは。
『赦されて、生きたい』
笑っちゃうぐらい自分勝手な願望だった。自分で自分を殺してやりたくなった。でも怖くて出来ない。生きたい、生きたくない、生きたい、生きたくない。
だから兄の命日の今日、私はすがるような思いでこの神社に来た。もしかしたらあの死神が来るかもしれない。来るなら今日しかないって思ったから。
私はいつものようにお参りをして、神様に祈った。
「どうかあの死神が来ますように」
神様に死神のことを祈るなんて、どうかしてるかもしれない。でも待っても待ってもあの子は来ない。まぁ『もう来ないで』って言っちゃったしな。あんなこと言わなきゃよかった。でも仕方ない。そう諦めて、境内の階段を降りる。一番下まで降りたところで、あの事故の日の兄を思い出す。私の兄との最期の記憶は涙でぐしゃぐしゃになっていて、兄がどんな表情をしていたのかもわからない。兄に会いたい。幽霊でもなんでもいいから会いたい。そのままあの世まで一緒に連れて行ってほしい。そんなことをぼんやり考えていたら、ふと子どもの頃の遊びを思い出した。『影おくり』。兄はよく『おおめだま』とかいう訳のわからない妖怪みたいなポーズをしてたな。せめて影だけでもいいから、私の隣に現れてくれないかな?
私は十四年ぶりに『影おくり』をしてみることにした。兄の影が見たくて。十、数えたら。きっとこの空に兄の影が白く浮かび上がる――。
十数えて現れたのは、兄の影ではなくて死神だった。死神は兄の言葉と表情でこう言った。
『僕の分まで生きて』
――死神は死神じゃなかった。この子が連れてきたのは死とか絶望なんかじゃなくて、私が心の底から渇望していた言葉。私の目の前にいるこの子は、きっとかみさま。
おにいちゃん。おにいちゃんは かみさまに あえたんだね。わたしも あえたよ。ねぇ、おにいちゃん――。
「私……っ、生きててもいいの……?」
ハルカが胸元をぎゅっと握りながら涙をこらえて聞く。真っ赤な瞳は蛍を通して兄であるヒカルを見ているようだった。
ヒカルが蛍に耳打ちをする。蛍は小さく頷くと、ハルカの瞳を覗きこんで言った。
『ずっとずっと生きて、その先でいつかまた会おう。絶対だよ』
そしてハルカをそっと抱きしめた。蛍の体温がハルカに伝わって、心の奥の凍って動けずにいたところを溶かすようだった。
『ハルカ、大好きだよ』




