5.消された記憶
深い緑に囲まれた何処とも知れないその場所は、冷たい朝靄の薄っすらとした白色の中に隠れるように存在していた。小さな男の子が必死になって遅れまいとするその先には、これまた白いワンピースに赤色の大きめなベルトを腰の部分にポイントとした服装の女の子が綺麗な黒髪を弾ませながら、ゆっくりと歩いて行く。辺り一面を包み込む柔らかなこの空間には時間も、方角さえも感じられないほどだった。
「ねぇ、もう帰ろうよ」
「あ、もうそんな時間?そうだね、もう帰らないと心配しちゃうね」
女の子は罪のない可愛らしい笑顔で、男の子の方に振り向いてそう呟いた。
「今日は一緒に帰れるんだよね?」
男の子の心配そうなその問いかけに、女の子は小さく首を振り、
「私はいいの。ねぇ…」
そう言って、男の子を愛くるしい瞳で見つめた。ほんの少しの時間が二人の間に流れてゆく。
「ねぇ…私たちが一緒に居られないのは、直くんのせいじゃないんだからね」
「もしかして、ボクがまた何か悪い事しちゃったの?」
女の子はその問いかけに、再び小さく微笑んで首を振る。
「違うよ。いつか…いつかね。きっと直くんにもわかる時がくるよ」
そう言うと、その女の子は、ふぅっと男の子の手の届きそうもない遠くへと吸い込まれるように消えてゆくような感じがした。
「お、おねぇちゃん?」
いつもの朝。携帯の目覚ましにセットしたsweet boxの「For the Lonly」が流れ出す。彼女の甘い声が夢と現実を優しく繋げて行く。谷原直人はその瞼を開けると、目の前に広がる一面の天井を見据え、たった今見ていた深い森の余韻をベットの中で感じていた。忘れた頃に今までにも何度となく繰り返されてきた夢…きっと彼女はもっと違う何かを伝えたいに違いない。そう思って呼びかけるのに、いつも同じ場面で目覚ましに邪魔をされる。直人はスヌーズ設定で再び流れ出した、もう何年も変えていないお気に入りの音楽を止めたかと思うと、ゆっくりとその体を起こした。
谷原直人は、某東京の現役大学生で母と共に二人暮らしをしていた。父親をガンで3年前に亡くし、5歳離れた姉は行方不明。あの日から、この家では時間の経過がとても残酷なものでしか感じられなかった。父親は死ぬ直前まで自分を責め続けていた。溺愛していた娘と直人から、目を離したばっかりに…それを自分の責任だと、深く心に傷を負っていた。体を悪くしたのもおそらくあの日からの気の持ちようだったのだろうか。早期発見なら救われていた身体であったと、残された家族が聞かされたのは、父の余命を宣告された日のことだった。
直人はカーテンを徐に開けると、穏やかな朝の光を部屋の隅々にまで取り入れる。今日も清々しい朝だ。傘も必要としそうにない空を確認すると、彼は2階の自分の部屋を出て、廊下の突き当たりにある、あの日のままの状態に置かれた姉の部屋のドアのノブを見つめるのだった。日当たりが良い姉の部屋には、今でも彼女の大好きだったテディベアやアニメキャラクターの縫いぐるみが可愛らしく留守番をしている。いつ姉が帰ってきてもいいように、部屋は綺麗な状態を母のおかげで保ち続けていた。
階段を降りると、母、美子が直人の朝ご飯を用意したそのテーブルに肘をついて、対面式キッチンの前にあるカウンターに置かれた家族の写真を懐かしそうに見つめていた。それは4人揃って撮った最後の写真だった。この写真を見つめる時間帯が母にとっては一時の至福と感じられるものであり、それを日の始まりの日課としていた。
「おはよ」
直人の挨拶が、止まった時間を動かし始める。
「あ、直人。ごめん、おはよ、味噌汁冷めるわよ、温め直す?」
その問いに大丈夫とばかりに首を振り、小さい頃からの変わらずの場所のその席に着いた。彼の隣の席は掃除の時以外、引かれることはない。
直人の朝はいつも、ご飯と味噌汁と半熟の目玉焼きに海苔と…これぞ、日本の朝ご飯だと言わんばかりだ。たまには、苦手な納豆も添えて…。だが、直人にはこれが落ち着く食事なのだ。
「もう、15年も経ったんだね」
母、美子がため息混じりにそう呟いた。
「きっと、おねぇちゃんは何処かで元気にしてるんだよ。何らかの理由で今は帰って来れないだけ、きっとそれだけなんだよ」
「そうだね」
慰めだってことは重々分かっていた。だけどそれ以上にどう話せただろう。恐らく、母もその事については理解しているはずだ。もちろん、先祖代々の仏壇の前には姉の写真も飾られていた。だが、それは彼女を守ってくださいねという心からの願いによるものであって、家族の誰もが認めたがらない真実であろうそれからは目を背けてきた。例え…例え万が一の事があったのだとしても、どんな形であれ帰ってきて欲しい…家族の願いはその事だけだった。
あの日…
「裕美、直人を少し見ててくれるかな?」
父、謙治は裕美の目線にまで腰を降ろして、そう笑顔で優しく声を掛けた。
「大丈夫だよ、心配しないで。直くんのこと、ちゃんと見てる」
裕美はお父さん、謙治が大好きだった。そして弟の直人のことも。
直人もお姉ちゃんっ子で、お姉ちゃん、裕美のすることなすこといつも真似をしていていた。またそれでお父さん、お母さんに褒めて貰えるのが、直人が嬉しいと感じる一番のご褒美だった。小さい頃から仲の良い姉弟だった。
その日は、近所の同じ年頃の子供を持ったお父さん、お母さんたちが、1日キャンプということで、山間にある、このキャンプ場に乗り合わせてきていた。たまたま、夕刻の焼肉パーティーに肉が不足するんじゃない?ということで、地元のスーパーに買い出しに行くのに謙治が名乗りをあげたのだ。母、美子がその日、少し体調が悪く参加できなかった分、謙治は率先してテント張りや、薪木集めなど、子供たちとの楽しい思い出作りに奮闘していた。なにせ、裕美も直人もこの日が決まった一ヶ月も前からこれを楽しみにしていたイベントだったからだ。
謙治はキャンプ場を後にする時、子供達が一緒になってその場所に設置してある遊戯施設で遊んでいるのを微笑ましく見ながら、車に乗り込んだ。それが、最愛の娘の最後の姿になるとも思わずに…。
直人はそれまで一緒に遊んでいた、おそらく捨てられたのであろう少し薄汚れた仔犬のことを追いかけて、他の子供たちと逸れて森のほうへと駆け出して行った。裕美もそれまではブランコに夢中になっていたのだが、その直人の後ろ姿に気が付くと、ブランコからすぐさま飛び降り、直人を追いかけて行った。
「直くん、そっちに行っちゃダメ。直くん…」
二人はほんの少し、大人たちの注意が削がれたその間に姿を消してしまったのだ。二人がいなくなったことに気付いた大人たちは子供達を一箇所に集めて、二人を探し始めた。それから数十分は経ったであろうか、暫くすると謙治も帰ってきた。事の説明を受けた謙治は真っ青となり一緒になって辺りを探し始めた。大人達は周辺をしきりに探して廻ったのだが、二人の姿は忽然と消えてしまい、何処にも見つける事ができなかった。警察にもいち早く事の次第を連絡して、駆けつけてもらう事にした。
「まさか…」
そう言えば、森を抜けた場所、大人の足でもキャンプ場からは20分ほど降ったところに地元の農業用貯水池が存在しているということを思い出した謙治は一抹の不安を感じながらも、そちらへと駆け出して行った。そしてその池の手前で謙治は直人が仰向けとなって倒れているのを発見するのである。だが辺りを見回しても裕美の姿は何処にもない。その場で膝をつき、直人を抱きかかえると謙治は悲痛な声で叫んだ。
「ひろみ〜」
警察が翌日も、またその翌日も池の底を浚ったが裕美は見つからなかった。病院に運ばれ、意識を取り戻した直人もなぜか大事だと思われるその一定の時間の記憶を失っており、結局、裕美のことは行方不明者、事件に巻き込まれたなど、多方面でマスコミなどを利用して広く情報を求めたが、事は迷宮化していった…。




