第2話 薔薇の城の少女 5
最後の大きめの扉を抜けると、広い廊下に出た。
天井が見上げるくらいに高く、彫刻や絵がずらりと並んでいるので、圧倒される。
廊下は、薄闇に包まれていた。
もう日は沈んだようだ。窓の向こうには、青黒い空が見えている。
(もし人間として、この時間にこの城にいたら、きっと怖いだろうな)
七都は、思う。
おそらく人間には、重苦しい闇しか見えないだろう。
その一つ一つに亡霊でも潜んでいそうな、暗黒の影。夜の城には、そういう影が至るところにわだかまっている。
もしかしたら、イデュアルに殺された旅人たちの霊魂が、この城の中をさまよっているのかもしれない。死んでしまったことに気がつかないままに。
そんなふうに思ったら憂鬱で暗い気分になるが、七都の魔神族の目には、相変わらず、闇は闇には見えなかった。だから、恐怖もそれほど感じない。
七都は猫のようにしなやかに、窓枠に飛び乗った。そして、窓を開けてみる。
窓は、簡単に開いた。
夜の冷気を帯びた風が、開いた窓から流れ込む。
七都の長い髪も、風に乱れた。
いつの間にか、三つ編みはすっかりほどけていた。
ランジェに粗暴に扱われて、ここまで連れて来られたので、ほどけてしまったのだろう。
七都は、窓の下を眺めた。
城は、崖の上に建っていた。
吸い込まれそうなくらい遠いところに、底が見える。
けれども、もちろん、自分はそこまで飛べる。ゆっくりとなら。何も問題はない。
ここから逃げよう。イデュアルのことは、放っておいて。
彼女に構っている場合じゃない。自分にいったい、何が出来る?
もちろん、エヴァンレットの剣なんかで彼女を殺したり出来ない。襲われたわけじゃないのだから。
地の都に着いたら、地の都のお役人だか誰かに、イデュアルのことを話すとか?
人間の城に、処刑場から逃げ出した罪人のイデュアルが、かくまわれています。人間を襲っています。何とかしてください……って?
それで、地の都の同族たちは、動くのだろうか。
人間が絡んでいるから、無視するかもしれない。しかもその人間は、このあたりの領主で、避難所の管理者なのだ。
人間がどれだけイデュアルに食べられようと、はっきり言って、魔神族には関係がない。痛くもかゆくもないことだ。
それとも、ランジェの上の人――というと、この国の王様とかになるのだろうか。
あそこの領主は魔神族を城にかくまっていて、旅の人たちをさらって、食べさせてます。
そう告発する。まだ、そちらのほうが動いてくれるかもしれない。
けれども、一介のアヌヴィムの魔法使いの言うことを聞いてくれるかどうか。下手をすれば、正体がばれる。
それに、そういうことは、本来なら、この領地に住んでいる人間がするべきことなのでは……。
(わたしは、そこまでしなくちゃならないの?)
怪我をしているし、時間もないし、正体を知られたら厄介なことになるこの状況で?
だけど、まるっきり知らないふりは出来ない……。
自分がここを出て行っても、ランジェは旅人をさらい続けるだろうし、イデュアルはその人たちを無意識のうちに殺し続けるだろう。
それは、どうしても止めなければ。
(とにかく、今は、この城から出なくちゃ。あとのことは、それから考えよう)
七都は、窓から身を躍らせようとした。
だが、出来なかった。
城の外壁を這っている沢山の黄色の花が、カーテンのように、いきなり窓の向こうに下りてきたのだ。
「あっ!!」
蔓のように延びた茎が、七都に絡みついた。まるで、意思を持った生き物のように。
花をたくさんつけた茎が七都の体に幾重にも巻きつき、甘く濃い薔薇の香りが、七都を取り囲む。
黄色の花で包まれた七都は、ゆっくりと床に下ろされた。
絡みついた花を残したまま、窓が大きな音をたてて閉まり、風もやむ。
七都を覆った黄色の花が、残らず深紅に変化した。それは、怖気を感じるような血の色だった。
「いやがらせの混じった、おちょくりだ」
七都は、顔をしかめた。
花の一つが七都の気持ちに反応して、たちまち分解し、花びらが床に散らばる。
血の滴がこぼれたようだった。
「蝶だけじゃなくて、薔薇も苦手になりそう。……だけど、やっぱり、ここから出られないってこと?」
七都は、閉まった窓を見上げる。
ガラスの向こうには、黄色の花が、ぎっしりとひしめいていた。まるで七都を見張るかのように。
魔力で対抗しようとしても、当然、無理だ。
同じくらいの歳とはいえ、魔神族として育ったイデュアルのほうが、はるかに七都よりもうわてだった。
魔法の花で城をことごとく覆うなんて、百年たっても七都には出来ない芸当かもしれない。
おまけに彼女の体は、たくさんの気の毒な旅人のエディシルで満たされているのだ。
「シャルディン、呼んだら助けに来てくれるかな」
七都は、呟いた。
「家族水いらずで過ごしているだろうから、あまり呼びたくないんだよね、絶体絶命状態にでもならない限り。でも、そうなってからじゃ、もう遅いかな。絶体絶命になりつつあるのかもしれない。彼が来たとき、わたしは既に消えているかも……。もちろん、まだあきらめないけど」
七都は、床に座り込んだまま、体に巻きついた深紅の花を、一つ一つひきちぎるように取り除く。
その時――。
ひんやりとした、細くて薄い銀色の金属が、七都の首筋に当てられた。
背後に、誰かが立っている。
それがランジェであることを七都は感じ取った。
首に突きつけられているのが、彼の剣であることも。
「どうやって、あの部屋から出た?」
ランジェが言った。
「扉を通り抜けただけ」
七都は、後ろ向きのまま、答える。
魔法使いだってこと、わかってるでしょ。魔法使いだったら、それくらい朝飯前だよ。
本当は、わたしは魔法使いじゃないし、そういうことは初めてやったわけだけど。
「そうか。アヌヴィムの魔女だったな」
ランジェが、納得したかのように呟く。
「だが、所詮、アヌヴィムはアヌヴィム。魔神族のイデュアルにはかなわぬ。部屋に戻れ」
「いやだ。今、出てきたところだもの」
七都は、ランジェの剣をゆっくりと手のひらで押し戻し、それから振り向いた。
剣を持ったランジェが、七都のすぐ後ろにいた。
七都を見つめる鳶色の目が、不気味なくらいに、すわっている。
あぶないなあ、この人。狂気みたいなものを持っている。
旅人を大勢、魔物に食べさせたわけだから、それは『みたいなもの』じゃなくて、まさしく『狂気』としか言いようがないけど。
七都は、ランジェから少し離れ、彼のほうに向き直った。
「領主さま。あなたがやっていることは、人間として、許されることじゃない」
七都が言うと、ランジェは眉をぴくりと動かした。
(こういうの、魔神族のわたしが言うこと自体、そもそもおかしいんだけど)
思いながらも、七都は続ける。
「上に立つ人が、そんなこと、やっちゃいけないよ。そんな恐ろしいことを……」
「領主になりたくて、なったわけではない」
ランジェが言った。
「でも、なっちゃったんでしょう。なった以上は、領主さまとして、下々のことを考えて……」
「考えたから、旅人を選んでいる。領民には手は出さぬ」
七都は、ランジェを睨んだ。
あきれ果てるのを通り越して、次第に怒りがこみ上げてくる。
「見知らぬ旅人なら、さらってきて、魔物に食べさせてもいいの? そんなの、ひどい。領民も旅人も、同じ人間でしょう。旅人だって、家がある。きっとみんな、どこかの領民だよ。それぞれ事情があるから、旅をしているだけだ」
「……」
ランジェは無言のまま、七都をめがけて剣を振り下ろした。
七都が素早くよけると、剣は、七都がそれまで座っていた床に突き刺さる。
「そんなものを振り回すのはやめてよ。危ないでしょう」
けれども、七都の言葉を無視するように、ランジェの剣の銀色が、再びきらめいた。
七都は、身をすくめる。
ばちっという音がして、七都の胸当てが一瞬、ぼうっとした薄緑の光を放った。
ランジェの剣が、派手な音をたてて、床に転がる。
(あ……。この胸当て……)
セージが別れ際にくれた、遺跡から掘り出したという魔神族の胸当て。
思いもよらぬ力を持っているようだ。
七都に振り下ろされたランジェの剣は、その胸当てに、はじかれてしまった。
だが、剣を失ったランジェは、今度は七都の首に両手をかける。恐ろしい力だった。
「美しい娘よ。生意気な口がきけるのも、今のうちだ。明日になれば、おまえは、老いさらばえた醜いむくろとなっているのだからな。私は、おまえのそのもの言わぬむくろを見て、始末せねばならぬのだ」
ランジェが言った。
わたしの体は、むくろにはならない。死んだら分解して消えてしまって、あとには何も残らない……。
七都は、ランジェの腕をつかんだ。
それ以上強く首を絞めたら、廊下の向こうまで、蹴り飛ばしてやるから!!
「ランジェ。その子を乱暴に扱うのは、やめてくれない? 弱っているんだから」
ランジェが、はじかれたように、声の主の方を振り返る。
イデュアルが、宙に浮いていた。闇に包まれた、荘厳な廊下の装飾を背景にして。
七都でさえ、その姿を見て、身震いするくらいだった。
魔神以外の何者でもない。その妖しさ。美しさ。その燃えるような目の金色。宙に広がる、長い紫の髪の不気味さ。
「外が騒がしいから、寝ていられないじゃない」
イデュアルが、抗議をするように言った。
だがその顔は、微笑みを浮かべている。ぞくっとするような、微笑み。それも人間のものではなかった。
「なぜ、ここに……」
ランジェが、呆然として呟く。彼の体は、恐怖で硬直している。
檻から逃げ出した猛獣と、丸腰で対峙してしまった猛獣使い。きっとそんな感じだろう。
「ああら。夜になったら、いつもこうやって部屋を抜け出して、散歩しているのよ。あなたが知らないだけで」
イデュアルが、いたずらっぽく笑った。
「ランジェ。もうひとり、魔神族を飼ってみない? 私の隣の部屋にでも閉じ込めて。そうしたら、お友達が出来て、私はとても嬉しいんだけど」
イデュアルが、ちらっと七都を見下ろして、言った。
「それは、どういう……」
ランジェがうめく。
イデュアルに、きちんと質問することさえ出来ていない。
きっと彼の頭は、パニックだ。七都は、少しだけ彼に同情する。
「その子。アヌヴィムの魔女なんかじゃないよ。魔神族なの。私と同じだわ」
イデュアルが、七都を指差した。
「あなたは、この城に、魔神族の女の子をもうひとり連れてきてしまったの。彼女も、相当きれいだしね。それはあなたも認めるでしょ。血統も家柄も、私より上かもね。こうなったら、飼うしかないんじゃない?」
ランジェは、七都を振り返る。その目の中に、恐怖がさらに広がって行く。
あーあ。領主さま、さらに、パニック。猛獣が、二匹になっちゃった。
七都は、溜め息をつきたくなる。
だけど、そうだね。妥当な反応の仕方だ。
もしこの城を無事に出られたら、きっとこれからわたしは、こういう顔をたくさん見ることになる。
これは、わたしが魔神族だとわかったときの、人間の顔。
わたしが普通の人間と接触して、正体がばれてしまったとき、たぶん見なければならない反応なんだ。
「ランジェ、冗談だよ」
イデュアルが言った。
彼女も、パニック状態のランジェに同情したのかもしれなかった。
「あなたは、私だけで精一杯だものね。これ以上負担をかけたくない。その子はやっぱり、今夜のわたしのご馳走にする」
ご馳走!?
七都は、イデュアルを睨んで、身構える。
「自分のお部屋に戻って、ランジェ。私たちも、朝になるまでにちゃんと部屋に戻るから。少し遊ぶだけ。召使いたちにも、外に出ないように命令しておいてね」
イデュアルが、ランジェに言った。甘えるように、やさしく。
ランジェは、しばらく宙に浮いているイデュアルを見つめた。
それから、マントをふわりと翻して、ぎこちない動きでイデュアルと七都に背を向ける。
彼の姿は、すぐに扉の向こうに消えてしまった。
扉は、固く閉ざされる。
鍵をかけても無意味だと、もうランジェにはわかっているはずだった。だが彼は、そうせざるを得なかったのだろう。
イデュアルは七都を見下ろして、にっこりと笑った。
「さ、ナナト。何して遊ぶ?」




