7話 勇者の息子
神聖ヴェルディア王国、王都セレスティア。
貴族街の北部に建つヴァルハルト家の屋敷には、朝早くから剣を振る音が響いていた。
「はあっ!」
白銀の刃が朝日を受けて輝く。
剣を振るっているのは、テオドール・ヴァルハルト。
二十一歳。
灰金色の短い髪に、父親譲りの澄んだ青い瞳。整った顔立ちには、真面目さと青年らしい爽やかさが漂っている。
白を基調とした騎士風の上着に、銀色の胸当てと肩当て。襟元にはヴァルハルト家の紋章が刺繍され、腰には青い革ベルトを巻いていた。
手に握るのは、長剣。
銀色の柄には青い宝石が埋め込まれている。
「《光刃連閃》!」
テオドールが踏み込む。
剣に白い光が宿り、連続した斬撃が訓練用の人形へ襲いかかった。
最後の一撃で、人形が真っ二つに割れる。
「……まだだ」
テオドールは額の汗を拭った。
「父上なら、もっと速く斬れるはずだ」
「精が出るな、テオドール」
背後から、穏やかな声が響いた。
「父上!」
振り返ると、一人の男性が立っていた。
ローデリック・ヴァルハルト。
四十七歳。
金色の髪に鋼青色の瞳を持つ、魔王討伐の英雄。
白いシャツに紺色の上着をまとい、腰には聖剣を携えている。
「今朝も訓練か」
「はい! 少しでも父上に近づきたくて」
ローデリックは微笑んだ。
「剣筋は悪くない。だが、お前は少々前へ出すぎる」
「……はい!」
テオドールは素直に頷く。
彼にとって父親は、何よりも尊敬する存在だった。
幼い頃から聞かされてきた魔王討伐の物語。
人々を守り、世界へ平和を取り戻した勇者。
いつか自分も、父のような英雄になりたい。
それが、彼の夢だった。
「父上。一つ、お聞きしてもよろしいでしょうか」
「何だ?」
「黒冠の悪魔についてです」
その瞬間、ローデリックの表情が変わった。
「……ヴァレイン・クロイツか」
「はい」
テオドールは拳を握る。
「あの男は王宮へ侵入し、父上の肖像画を破壊したと聞きました」
「…………」
「そればかりか、英雄たちへ宣戦布告したとも」
ローデリックは黙っていた。
「父上。なぜ、あのような犯罪者を放置しているのですか?」
「テオドール」
父親の声が低くなる。
「あの男には関わるな」
「……なぜですか?」
「危険な男だ」
「だからこそ、私が――」
「やめろ」
普段は温厚な父親の厳しい声。
テオドールは驚いた。
「……父上?」
ローデリックは一瞬、何かを言いかけた。
しかし、すぐに視線を逸らす。
「お前には、まだ早い」
その言葉が、テオドールの胸に突き刺さった。
父親に認められたい。
自分にも、人々を守る力があると証明したい。
その思いは、ますます強くなっていった。
*
その夜。
テオドールは自室で一枚の報告書を読んでいた。
『悪の晩餐会』
『首領――ヴァレイン・クロイツ』
『通称――黒冠の悪魔』
王宮襲撃事件。
貧民街の支配。
王国軍との衝突。
報告書には、数々の事件が記されていた。
「……これ以上、好き勝手にはさせない」
テオドールは報告書を閉じる。
壁には、幼い頃に父から贈られた木製の剣が飾られていた。
『剣とは、人を傷つけるためではなく、守るために振るうものだ』
父は、そう教えてくれた。
ならば今こそ、その教えを実践するときではないか。
「……私が必ず捕らえてみせる」
テオドールは《クラリス》を手に取った。
父親の名誉を守るため。
そして、王国の平和を守るため。
青年は、単身で悪魔の領域へ向かうことを決意した。
*
翌日の午後。
テオドールは王都南西部の旧市街《灰色区》へ足を踏み入れた。
「……ここが」
古い建物が立ち並び、細い路地が複雑に入り組んでいる。
しかし、彼が想像していたほど荒れてはいなかった。
修復された家屋。
食料を運ぶ住民。
広場では子どもたちが笑っている。
「……犯罪組織が支配する街のはずでは?」
テオドールは首を傾げた。
近くにいた老人へ声をかける。
「失礼。この辺りに、悪の晩餐会の拠点はありますか?」
老人の表情が変わる。
「……何の用だ?」
「私はテオドール・ヴァルハルトと申します」
「ヴァルハルト……?」
老人が目を見開いた。
「勇者様の息子か!」
周囲の住民たちがざわめく。
「勇者様の息子だって?」
「本物なのか?」
しかし、誰もが歓迎しているわけではなかった。
顔を曇らせる者。
子どもを抱き寄せる母親。
不安そうに視線を逸らす商人。
その反応に、テオドールは戸惑う。
(……なぜだ?)
父は世界を救った英雄だ。
その息子だと名乗れば、人々は安心するはずだった。
だが、ここでは違う。
「……あんた、また軍を連れてくるつもりじゃないだろうな」
老人が尋ねた。
「いいえ。私は一人です」
「そうか……」
老人は小さく息を吐く。
「あの連中に会いたいなら、東の旧倉庫へ行きな」
「ありがとうございます!」
テオドールは頭を下げ、歩き出した。
*
旧倉庫の扉を開けると、中は静まり返っていた。
「……誰かいるのか?」
「いらっしゃーい!」
突然、背後から明るい声が響く。
振り返ると、白髪の青年が立っていた。
フィン・アルカナ。
十九歳。
少し乱れた白い髪に、青緑色の瞳。
黒と紫を基調とした魔導師風の上着をまとい、腰には魔導カードを収めた革製のベルト。
口元には、いたずらっぽい笑みを浮かべている。
「君が勇者様の息子?」
テオドールは剣の柄に手をかけた。
「……誰だ?」
「僕? ただの案内人だよ」
フィンは楽しげに笑う。
「ボスに会いたいんでしょ?」
「ヴァレイン・クロイツはどこだ!」
「そんなに怒らなくてもいいじゃん」
フィンが指を鳴らした。
その瞬間。
倉庫の壁が歪み始めた。
「……何!?」
何もなかった場所に扉が現れる。
廊下が無限に続き、天井からは無数の時計が吊り下がっていた。
《虚構劇場》。
フィンの幻術能力。
「さあ、勇者の息子様」
フィンは優雅に一礼する。
「悪魔の舞台へ、ようこそ!」
テオドールは《クラリス》を抜いた。
「幻術か……!」
目を閉じ、呼吸を整える。
父から教わった言葉を思い出す。
『目に映るものだけを信じるな。剣士は、気配を感じ取れ』
「……そこだ!」
テオドールが剣を振るう。
白い光が走り、幻の扉が砕け散った。
「おおっ!」
フィンが目を丸くする。
「やるじゃん!」
テオドールはさらに進む。
幻術の迷宮を突破した先には、広い訓練場があった。
その中央に、一人の男が立っていた。
*
銀白色の長い髪。
血のような深紅の瞳。
漆黒の軍服風ロングコート。
高い襟元には銀糸の刺繍が施され、胸元では細い銀鎖が揺れている。
腰には黒剣。
ヴァレイン・クロイツ。
黒冠の悪魔。
「……ほう」
ヴァレインはゆっくりと振り返った。
「これはまた、随分と懐かしい顔だな」
テオドールは眉をひそめる。
「……何?」
「いや。父親によく似ている」
ヴァレインは皮肉げに笑う。
「ローデリック・ヴァルハルトの息子か」
「父上を侮辱することは許さない!」
「随分と親孝行な息子だな」
ヴァレインは肩をすくめる。
「それで? 俺に何の用だ?」
テオドールは剣を構えた。
「貴様を討伐する!」
一瞬の沈黙。
そして。
「……ははっ!」
ヴァレインは愉快そうに笑った。
「面白い。実に面白い」
「何がおかしい!」
「いや、失礼」
ヴァレインは黒剣へ手を伸ばす。
「父親に似て、随分と真っすぐな男だと思ってな」
黒剣が抜き放たれた。
「来い、勇者の息子」
*
「はああっ!」
テオドールが地面を蹴る。
《クラリス》が白い光を放った。
「《光刃連閃》!」
高速の連続斬撃が、ヴァレインへ襲いかかる。
しかし。
ガキンッ!
ヴァレインは黒剣で最初の一撃を受け止めた。
続く斬撃も、すべて受け流していく。
「……悪くない」
ヴァレインが呟く。
「だが、まだ甘い」
「くっ……!」
テオドールは歯を食いしばる。
さらに踏み込み、剣を振るった。
縦斬り。
横薙ぎ。
鋭い突き。
しかし、すべて見切られる。
ヴァレインの動きは、まるで舞踏会で踊っているかのように優雅だった。
「どうした? それで終わりか?」
「まだだ!」
テオドールは連続攻撃を繰り出す。
しかし、ヴァレインは冷静だった。
「なるほど。父親の剣を真似ているのか」
「真似ではない!」
「ならば、なぜ次の一撃まで同じなんだ?」
その瞬間。
ヴァレインが剣の軌道を変えた。
ガキィンッ!
《クラリス》が弾かれる。
「……っ!」
黒剣の柄が、テオドールの胸元へ叩き込まれた。
「ぐあっ!」
青年が後退する。
それでも、剣は離さなかった。
「……まだ、終わっていない!」
ヴァレインは剣を構えたまま、静かに問いかける。
「なぜ、そこまでして俺を倒したい?」
「貴様が、父上を侮辱したからだ!」
「それだけか?」
「父上は世界を救った英雄だ!」
テオドールは叫ぶ。
「何も知らない貴様に、父上を悪く言う資格などない!」
ヴァレインの笑みが消えた。
「……何も知らない?」
深紅の瞳が冷たく細められる。
「それは、こちらの台詞だ」
「……何?」
「お前は父親の何を知っている?」
「父上は勇者だ! 人々を守り、魔王を討伐した!」
「それ以外は?」
テオドールは言葉に詰まった。
ヴァレインは小さく笑う。
「……なるほど」
そして、静かに告げた。
「お前は父親の英雄としての姿しか知らないらしい」
「黙れ!」
テオドールは最後の力を振り絞った。
《クラリス》が強烈な光を放つ。
「《光刃連閃》――最大解放!」
無数の光の斬撃が、ヴァレインへ迫る。
しかし、ヴァレインは一歩も退かない。
「……遅い」
漆黒の剣が閃いた。
光の斬撃が次々と砕け散る。
そして。
ガキィィンッ!
《クラリス》が弾き飛ばされた。
「なっ……!?」
次の瞬間。
ヴァレインは青年の背後へ回り込み、足を払った。
ドサッ!
テオドールが床に倒れる。
その首元に、黒剣の刃が突きつけられた。
「……終わりだ」
冷たい声。
テオドールは息を呑んだ。
*
ヴァレインは倒れた青年を見下ろす。
「随分と立派な剣だったな」
テオドールは歯を食いしばった。
「……殺せ」
「何?」
「敗れた以上、覚悟はできている!」
ヴァレインは小さくため息をついた。
「……馬鹿な男だ」
そして、右手を持ち上げる。
――ジャラリ。
黒い霧の中から、漆黒の鎖が現れた。
「……っ!」
テオドールは身構える。
しかし。
鎖は彼の身体に触れる直前で動きを止めた。
そして、力を失ったように崩れ落ちる。
ヴァレインは目を細めた。
「……やはりな」
「何だ……今のは?」
「《罪喰い》」
ヴァレインは静かに告げる。
「人間の罪を、鎖として具現化する能力だ」
「……罪?」
「ああ。だが、お前には反応しない」
テオドールは言葉を失う。
ヴァレインは黒剣を持ち上げた。
青年は目を閉じる。
しかし、刃が振り下ろされることはなかった。
カチン。
黒剣が鞘へ納められる。
「……何?」
テオドールが目を開ける。
ヴァレインは背を向けていた。
「帰れ」
「……なぜだ?」
「何が?」
「なぜ、私を殺さない!?」
ヴァレインは足を止めた。
そして、ゆっくりと振り返る。
「父親の罪は、お前の罪じゃない」
テオドールは息を呑む。
「……父上の、罪?」
「そうだ」
ヴァレインは静かに続ける。
「お前が何も知らず、父親を尊敬していることまで罪にはならん」
「父上が罪を犯したと言うのか!?」
「ああ」
ヴァレインは即答した。
「だが、その罪をお前に背負わせるつもりはない」
「……ふざけるな!」
テオドールが叫ぶ。
「父上は英雄だ! そんなはずがない!」
ヴァレインは冷たく笑った。
「ならば、その英雄様に直接聞いてみるんだな」
「……何を?」
「父親が何を守り、何を犠牲にしたのかを」
テオドールは言葉を失った。
ヴァレインは静かに告げる。
「父親を尊敬するのは勝手だ。だが、その正義まで無条件に信じるな」
「……貴様に、何が分かる」
「そうだな」
ヴァレインは小さく笑った。
「少なくとも、お前よりは知っている」
*
「フィン」
「はーい!」
壁際から、フィンが姿を現した。
「こいつを外まで案内しろ」
「えー、もう帰しちゃうの?」
「ああ」
「せっかくの勇者様の息子なのに?」
「二度言わせるな」
「はいはい」
フィンは肩をすくめる。
「じゃあ、お客さん。出口はこちらでーす」
テオドールは悔しそうに拳を握った。
「……覚えていろ、ヴァレイン・クロイツ」
ヴァレインは笑った。
「その言葉は、俺より父親に向けたほうがいい」
「……何?」
しかし、ヴァレインは答えなかった。
テオドールは落ちていた《クラリス》を拾い、鞘へ納める。
そして、出口へ向かおうとした。
そのとき。
「……テオドール」
背後から声が響いた。
青年は振り返る。
「何だ?」
ヴァレインは静かに問いかけた。
「エルムガルドという街を知っているか?」
「……エルムガルド?」
テオドールは眉をひそめた。
聞いたことのない地名だった。
「知らない」
「そうか」
ヴァレインは小さく笑う。
「十年前、王国の北方に存在した街だ」
「……十年前?」
「ああ」
深紅の瞳が冷たく光る。
「魔王が討伐された年にな」
テオドールは息を呑んだ。
「その街が、どうしたというんだ?」
ヴァレインは静かに答えた。
「消えたんだよ」
「……消えた?」
「建物も、人間も、記録も。すべてな」
テオドールは言葉を失った。
ヴァレインは背を向ける。
「父親に聞いてみろ」
そして、最後に告げた。
「十年前、エルムガルドで何があったのかをな」
テオドールはその場に立ち尽くした。
エルムガルド。
聞いたことのない街。
父親の罪。
そして、悪魔が自分を殺さなかった理由。
そのすべてが、彼の中に疑問として残った。
「……父上」
小さく呟く。
今まで一度も疑ったことのない存在。
世界を救った英雄。
尊敬する父親。
その背中に、初めて知らない影が見えた気がした。
やがて、フィンが軽い調子で声をかける。
「さあ、勇者の息子様。帰ろっか」
テオドールは何も答えなかった。
ただ、ヴァレインの背中を見つめていた。
彼が信じてきた父親は、本当に正義の英雄なのだろうか。
その疑問は、まだ小さなものだった。
しかし、一度生まれた疑問は、簡単には消えない。
そして、その答えを知る日が、やがて訪れる。
――第7話「勇者の息子」完。




