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十八歳の冬。
病室の格子窓の向こうでは、静かに白い雪が降っていた。
春奈はベッドに身体を預けながら、穏やかな表情で外を眺めている。
「……綺麗」
その呟きに、隣にいた母が堪えきれずに涙を流した。
「お母さん、そんな顔しないで」
春奈は困ったように、けれど優しく微笑んだ。
「私ね……楽しかったよ」
写真部のみんなと笑い合って撮った写真。
遥と恋バナをして過ごした放課後。
叶わなかった修学旅行もあったけれど、みんなが車椅子を押してくれて文化祭には参加できた。
やり残したことは、まだたくさんある。けれど。
「昔の、ただ諦めて泣いていた私より、ずっと幸せだもん」
母は春奈の手をぎゅっと握りしめる。
「ありがとう。お父さん、お母さん。私を育ててくれて」
母が涙を拭いながら、ふと訊ねた。
「……春奈の好きな人は、最後まで教えてくれないの?」
「うん、ごめんね。秘密なの」
春奈はいたずらっぽく笑ってから、ベッドの傍らに立つ親友へ視線を向けた。
「遥」
「……うん、春奈」
「私と本当の友達になってくれて、ありがとう」
遥は何度も何度も頷きながら、溢れる涙を必死に拭った。
「こちらこそ……。私の方こそ、ありがとう」
病室に、穏やかで静かな時間が流れる。
やがて春奈はゆっくりと目を閉じた。苦しそうな表情はどこにもない。
まるで、大好きな日常の夢でも見るように。
少女は静かに、その短い人生の幕を閉じた。
**
ふと、目を開ける。
そこは、もう見慣れたどこまでも白い世界だった。
「……あ」
春奈は自分の両手を見つめた。
身体が驚くほど軽い。
もう、あの鉛のような痛みも息苦しさもなかった。
「終わっちゃったんだ、私」
「お疲れ様でした、春奈さん」
振り返ると、そこには白い衣をまとった金髪の青年が立っていた。
「天使さん」
天使は青く澄んだ目で、優しく微笑みかける。
「本当によく、最期まで頑張りましたね」
「ありがとうございます」
春奈が少し照れくさそうに笑った、その時。
バサリと黒い外套を翻し、一人の青年が歩いてくるのが見えた。
「よう」
聞き慣れた、ぶっきらぼうな声。
「悪魔さん!」
「早かったな、迎えに来た」
悪魔はそう言うと、一瞬だけ春奈を見つめ、すぐにいつものように視線を逸らした。
「約束どおり?」
「仕事だ」
「そっか」
素っ気なくされても春奈は嬉しそうに笑う。
二人はいつもと何も変わらない。
その変わらなさが、春奈にはたまらなく安心できた。
天使は二人を見つめたあと、静かに口を開いた。
「春奈さん。あなたには今、選んでいただかなければなりません」
春奈は姿勢を正し、天使へ向き直る。
「人間は、私たちのような者を『天使』や『悪魔』などと呼び分けていますが、本質的に私たちは同じ存在なのです。ただ、役目を終えてやってくる魂を、どちらの方向へ導くかが違うだけに過ぎません」
「?」
同じ存在、という言葉に春奈が小さく小首を傾げると、天使は続けて言葉を紡いだ。
「私を選べば、あなたの前世の記憶も、苦しみも、悲しみも、すべてが浄化されます。病に苦しんだことも、涙を流した夜も、来世へ持っていく必要はありません。今世とは違う新しい世界で、まっさらな人生を歩むことになります」
春奈は静かに耳を傾けた。
天使は今度は、悪魔へと視線を向ける。
「ですが、隣の男を選べば、あなたの魂は今の業や傷を抱えたまま、また同じ世界で来世を迎えることになります」
春奈が目を瞬かせると、悪魔は面倒そうにガシガシと頭をかいた。
「魂の形がそのままだ。記憶を失って生まれ変わっても、また同じように、短い人生になるだろうな」
そう突き放すように言いながらも、悪魔は腕を組んだまま、しかしその視線は春奈から離れようとしなかった。
白い世界に、静かな風が吹き抜ける。
天使が、もう一度穏やかに問いかけた。
「春奈さん。あなたは、どちらの手を取りますか」
春奈は二人を見つめた。
天使には、たくさん慰めてもらった。泣いてもいいと言って、私の悲しみを全部抱きしめてくれた。
そして、悪魔。
彼はあの日。
『やればいいじゃねぇか』
『できねぇなら、他の方法探せ』
『残ったら、向こうでやりゃいい』
あの何気ない言葉がなければ、私は生きることを最初から諦めていた。
春奈は迷わず、天使へ向かって深く頭を下げた。
「天使さん、ありがとうございました。天使さんがいてくれたから、私はちゃんと泣くことができました。悲しいって思ってもいいんだって教えてくれたから、私は最後まで笑って生きられました」
天使はすべてを受け入れるように、穏やかに微笑んだ。
「その言葉だけで十分です。どうか、あなたの望む道を」
春奈は向き直り、黒づくめの男の前へと歩み寄った。
そして、その赤い瞳をまっすぐに見上げる。
「約束、守ってよね」
悪魔は少しだけ、意外そうに目を丸くした。
「……約束?」
「忘れたの? 『残ったら、向こうでやりゃいい』って言ってくれたじゃない」
悪魔は少し記憶をたどるように視線を彷徨わせ、
「あぁ……」
と短く呟いた。
「言ったかもな」
「だからね」
春奈は満面の笑みを浮かべる。
春奈は迷うことなく、その黒い手袋に包まれた手を両手でぎゅっと取った。
「あなたと行く。来世も、その次も」
悪魔は掴まれた手を驚いたように見つめ、しばらく黙っていた。
いつもならすぐに素っ気なく引き剥がすはずなのに、その手には、ほんの少しだけ春奈の手を握り返すような微かな力が籠もっている。
やがて、悪魔は小さく、呆れたような息を吐いた。
「……そうか」
そう言った悪魔の手は、最後まで春奈の手を離さなかった。




