2
それからというもの、春奈は何度もあの白い世界の夢を見た。
「悪魔さん!」
「……また来たのか」
「うん!」
いつものように寝転ぶ黒い外套の隣へ、春奈は嬉しそうに駆け寄る。
「部活、決めたよ! 写真部に入ったの。走らなくてもいいし、病院の日があってもこれなら続けられるかもしれないって、先生も勧めてくれて」
「ふーん」
「前に悪魔さんが言ってたでしょ。できないなら、他の方法探せって。だから探したんだよ」
「……言ったか?」
「言ったよ、もう!」
覚えてねぇ、とそっぽを向く悪魔に、春奈はくすくすと笑った。
病気と付き合いながらの学校生活は楽ではなかったけれど、春奈は夢中でシャッターを切り続けた。
クラスメイトたちも車椅子を押してくれたり、荷物を持ってくれたりした。
「悪魔さん、聞いて! 私の写真、地域の賞に選ばれたの!」
「そうか」
「ちょっと、もっと褒めてよ」
「写真見てねぇし」
「ひどーい!」
そんな他愛のないやり取りが、春奈はたまらなく好きだった。
**
ある夜。いつものようにたどり着いた夢の世界には、誰も寝転んでいなかった。
「あれ……?」
代わりに佇んでいたのは、柔らかな白い衣をまとった青年だった。
金の髪に、澄んだ青い目。そこにあるだけで周囲の空気が清らかに澄んでいくような、不思議な雰囲気を放っている。
「こんばんは、春奈さん」
青年は、春奈の名を呼びながら、慈愛に満ちた柔らかな笑みを浮かべた。
「ええっと……誰、ですか?」
「初めまして。私は天使です。あなたとは一度、お話したいと思っておりました」
春奈はパチパチと目を丸くした。
「えっ、本当に……!? じゃあ、いつもの黒い外套の人は、本当に悪魔なの?」
天使はくすりと上品に微笑む。
「ええ。あの方は本物ですよ。相変わらずやる気のない態度をされているようですが、怖くはありませんでしたか?」
「ううん、全然! ぶっきらぼうだけど、すごくいい人……あ、悪魔だけど」
春奈が慌てて言い直すと、天使は否定することなく、「そうですか、なら良かったです」と目を細めた。
「今夜は、良ければ私にもあなたのお話を聞かせてください」
その声は、聞いているだけで胸の奥の痛みが溶けていくようだった。
**
それからは、夢を見るたびに会う相手が変わった。
悪魔の日もあれば、天使の日もある。
その2人との何気ない会話が、春奈の現実を支える両輪になっていった。
けれど、高校に進学してしばらく経った頃、病状が急激に悪化し、長期の入院を余儀なくされてしまう。
その夜、夢の中にいたのは天使だった。
「修学旅行、行けなかったんです……」
春奈は膝を抱えて俯いた。涙を堪えるように、唇をぎゅっと噛み締める。
「みんな今頃、京都で美味しいものを食べて、笑ってるのに。ずっと、ずっと楽しみにしてたのに……」
天使は静かに隣へ腰を下ろし、春奈の細い肩にそっと手を添えた。
「悲しかったですね」
「……はい」
「泣いてもいいんですよ、春奈さん。頑張って前を向こうとするあなたは美しいですが、悔しかった気持ちまで、我慢して無かったことにする必要はないのです」
あまりにも優しい声だった。
堰を切ったように、春奈の目から大粒の涙があふれ出した。
「私……歩けなくなっても、リハビリ頑張ったのに。みんなと一緒に、行きたかったな……っ」
「はい。本当によく頑張っています。だからこそ、悔しくて、悲しいのですね」
天使はそれ以上、何も言わなかった。
けれど、春奈の流す涙を、その溢れる悲しみを、静かに丸ごと受け止めてくれた。
**
次に夢を見た夜、そこにいたのは悪魔だった。
「悪魔さん」
「何だ」
「この前ね、天使さんの前でいっぱい泣いちゃった」
「そうか」
「天使さんが、泣いていいよって言ってくれたの。泣いたら、ちょっとすっきりした」
「そうか」
それだけだった。悪魔は相変わらず、励ましも同情もしない。
けれど、春奈はもう、その言葉の裏にある「じゃあ、次はどうする?」という無言の促しに気づいていた。
「今日はね、遥と写真部のみんなが、病室にお見舞いに来てくれたんだよ。お土産たくさん持って」
「へぇ」
「悪魔さん……あのね、同じ写真部になった『遥』っていう女の子がいてね。すごく明るくて、優しい子なの」
「そうか」
「……よく私の車椅子とかも気にして声をかけてくれるの」
「いい友達じゃねえか」
「……友達?」
春奈が小さく呟くと、悪魔があきれたように鼻を鳴らす音が聞こえた。
「違うのか?」
「友達って……私が勝手に思ってもいいのかな? 私、ずっと入院してるし、気を使わせちゃうかもしれないし……」
「思うのに許可は必要ねえだろう」
悪魔は面倒そうに頭の後ろで腕を組んだ。
「そいつはお前と向き合おうとしてるぜ。何を怖がってんだ? 相手がどう思うかは、相手が決めることだ。他人の頭の中を勝手に決めつけてんじゃねぇよ」
その言葉に、春奈の胸の霧が晴れていく。
(……そうだ。私はまた、自分で勝手に壁を作って、諦めようとしてたんだ。今度は私から、遥ちゃんに声をかけてみよう)
**
そこからの高校生活の残りの時間は、春奈にとってさらに濃密なものとなった。
写真部のみんなと笑い合い、遥と恋バナをして、放課後の夕日を一緒に眺める。
病室のベッドで、一人静かに涙を流す夜もあった。
夢の中では、天使がその涙と傷を受け止めてくれた。
悪魔は変わらずぶっきらぼうに、次の日への一歩を引っ張ってくれた。
春奈は夢から覚めるたび、昨日より少しだけ前を向けるようになっていた。
限られた時間の中で懸命に生きる日々。
白い世界で、天使や悪魔と過ごす何気ない時間。
そのどちらもが、春奈にとって、かけがえのない宝物になっていった。




