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どこまでも境界のない白い世界を、二人はゆっくりと歩いていた。
風もなく、音もない。
生前のすべての重荷から解き放たれた春奈は、弾むような足取りで、楽しそうに歩いている。
「悪魔さん」
「何だ」
「これからどうするの?」
「どうもしねぇ」
悪魔は面倒そうに肩をすくめた。
「次の転生を迎えるまでは時間がある。言ったとおり、しばらくは暇だ」
その言葉を聞いた瞬間、春奈の瞳がぱっと輝いた。
「じゃあ、遊ぼう!」
「……は?」
「約束したもん!」
「約束?」
「さっきも言ったでしょ?忘れたの?」
春奈は悪魔の前へ回り込み、通せんぼをするように両手を広げた。
「『残ったら、向こうでやりゃいい』って、最初の日に言ってくれたじゃない」
「あぁ……」
悪魔は気まずそうに頭をかき、小さく息を吐く。
「またその話か」
「そのためにここへ来たんだから!」
春奈は嬉しそうに指を折りながら数え始める。
「まずは遠くへ旅行!」
「それからお花見!」
「海も見たいし、満天の星空も見てみたい!」
「あとね――」
そこで春奈は、少しだけ悪戯っぽく、しかし真剣な顔になった。
「どうしても、生きてるうちに叶えられなかったことがあるの」
「……何だ」
「恋!」
白い世界に、数秒の完璧な沈黙が訪れる。
「……は?」
「だ・か・ら、恋!」
「聞こえてる」
悪魔の困惑した表情に、春奈はむっと頬を膨らませる。
「高校生になったら、素敵な恋愛をする気満々だったの!」
「そうか」
「でも、できなかった!」
「病気だからだろ」
「違う!」
春奈は勢いよく首を横に振った。
「悪魔さんのせい!」
「……なんで俺のせいなんだよ」
「だって!」
春奈は少し頬を赤くしながら言う。
「夢で会うたびに、悪魔さんのことばっかり考えちゃうんだもん!」
悪魔が、ぴたりと動きを止める。
「今日は会えるかな、とか」
「この話をしたら何て言うかな、とか」
「次はいつ会えるかな、とか……」
春奈は少しだけ寂しそうに笑った。
「そんなことばかり考えてたら、私の高校生活、終わっちゃったんだから!」
「……知らねぇよ、そんなもん」
悪魔はふいと顔を背ける。
「だから、責任取って!」
「取らねぇ」
「ひどい!」
春奈は笑いながら抗議する。
「じゃあ、恋するのに付き合ってよ」
「だから紛らわしい言い方をするな」
「恋愛の練習!」
「そんなもん、俺にできるかよ」
「悪魔なのに?」
「悪魔は関係ねぇ」
「えー!」
春奈は声を上げて笑った。
悪魔は額に手を当て、大きくため息をつく。
「……面倒くせぇやつ」
「めんどくさくて、可愛い、じゃなくて?」
「ちげぇ」
「えへへ」
春奈は満足そうに笑う。
悪魔は観念したように、小さく息を吐いた。
**
それから少し歩いたところで、春奈はふと思い出したように首を傾げた。
「そういえば」
「何だ」
「悪魔さんって、名前あるの?」
「……今さらか」
「だって知らないんだもん」
「お前が訊かなかったんだろ」
「それは『悪魔さん』でちゃんと通じてたし」
悪魔は少しだけ黙り込んだ。
そして、自分の足元を見つめながら、ぼそりと呟く。
「……ルシアン」
「え?」
「俺の名前だ」
春奈は目を丸くした。
「ルシアン……」
小さく繰り返す。
その響きを確かめるように、もう一度。
「ルシアン」
春奈の顔に、今日一番の満面の笑みが浮かんだ。
「いい名前だね」
「名前なんざ、個体を識別する記号だ。何でもいい」
「よくないよ」
春奈は嬉しそうに歩幅を速める。
「これからはちゃんと名前で呼ぶね。ルシアン」
「……」
「ルシアン!」
「おい、静かに歩け」
「今まで呼べなかった分、たくさん呼ぶの」
「仕事の時は、みんなから『悪魔』って呼ばれてるんでしょ?」
「人間がそう呼んでるだけだ。分かりやすいから、そう名乗ってる」
「じゃあ、私がいっぱい名前を呼んであげる」
「やめろ」
「やだ」
「……」
ルシアンは完全に諦めたように、深く肩を落とした。
「好きにしろ」
「うん!」
**
しばらく並んで歩いていると、遠くに黒い光が見えてきた。この空間の出口なのかもしれない。
春奈はふと声の調子を落として呟いた。
「ねぇ、ルシアン」
「何だ」
「私、ずっと気になってたことがあるの」
「何だ」
「どうして、私の夢にルシアンが来てくれたの?」
「普通は、みんな死ぬ前にこうして夢で会えるものなの?」
ルシアンの足が、ほんの一瞬だけ止まった。
けれど、すぐに何事もなかったように歩き出す。
「さあな」
少し間を置いて。
「……ただの、偶然だろ」
「偶然?」
「ああ」
春奈は少し考えるように視線を彷徨わせる。
そして、ルシアンを見上げると、くすりと笑った。
「そっか」
「じゃあ、私ってすごく運が良かったんだね」
「……そうかもな」
それだけ呟いて、ルシアンは再び歩き出す。
その歩幅は、先ほどよりもほんの少しだけゆっくりだった。
「待ってよ、ルシアン!」
「遅ぇ」
「だって急に歩くから!」
「知らねぇよ」
いつものような、ぶっきらぼうな回答。
けれどルシアンの耳は、ほんのり赤く染まっていた。
**
「まずはどこへ行く?」
春奈が弾む声で尋ねる。
「好きにしろ」
「じゃあ、やりたいことリスト、いっぱい考えるね!」
「ほどほどにしろよ」
「無理!」
即答する春奈に、ルシアンは呆れたように上空を見上げる。
「……暇じゃなくなったな」
「え? 何か言った?」
「何でもねぇ」
春奈は首を傾げたあと、鈴を転がすように楽しそうに笑った。
ルシアンと出会った、殺風景で真っ白な世界。
それは春奈にとって、決して終わりを意味する場所ではなかった。
十三歳の春。
絶望の中で何気なく交わした、一つの小さな約束。
その約束は、少女の限られた人生を鮮やかに変えた。
そして今。
その約束は、二人の新しい時間の始まりを告げている。
悪魔は今日も、ぶっきらぼうだった。
けれどその隣には、一人の少女が、これ以上ないほどの笑顔で、約束の続きを歩いていた。
終




