第15話 雨の日の濃いめ普通
米乃家で、俺は言ってはいけない一言を言った。
メンちゃんは怒鳴らず、静かに店を出た。
あれから一週間、仲直りできないまま、雨。
遠くへ行く元気はない。
けれど、近場の暖簾ならくぐれるかもしれない。
濃いめで、油は普通。
雨の日の身体に合う一杯と、一週間ぶんの謝る言葉を、俺は持って出る。
雨の日の朝は、胃袋より先に肩が重い。
今朝は、肩より先に、部屋の空気が重かった。
窓の外では、細い雨がずっと降っていた。
靴下の端をじわじわ湿らせて、気分の底まで重くしてくる雨だった。
あの日から、一週間が経っていた。
米乃家の三杯目。
下げられた茶碗を追いかけて、俺は言ってはいけない一言を言った。
うるさいな。今、うまいんだ。
メンちゃんは怒鳴らず、静かに店を出た。
そして俺は、まだ謝れていない。
ごめん、の二文字は、あの一言を言ったのと同じ喉だと思うと、声にならなかった。
この一週間、家の中は静かだった。
メンちゃんはご飯を作ってくれるし、「おはよう」も「おやすみなさい」も言う。
ただ、そのあいだの言葉がなかった。
優しいまま、閉じている。
その閉じ方が、怒鳴られるより、ずっとこたえた。
机の端には、券ノ助の白い食券が置いたままになっている。
いつの間にか、俺のポケットに紛れ込んでいた一枚。
もう光らないその紙に、俺はまだ触れられずにいた。
「ご主人様。朝ごはん、できてる」
「ああ」
「……以上です」
以上です、で会話が終わる朝が、もう七回目だった。
味噌汁は、うまかった。
うまい、と言いかけて、喉で詰まった。
今の俺が「うまい」と言うと、あの夜の「うまいんだ」に聞こえやしないだろうか。
考えすぎだと分かっていても、箸は静かになった。
メンちゃんは向かいで、自分の椀を両手で包んでいた。
その指先は、まだ少しだけ薄い。
俺は、決めた。
今日、謝る。
家の中だと、言葉が畳に沈む。
だから、外へ出る。
「メンちゃん。今日、付き合ってほしい店がある」
メンちゃんの手が、椀の上で止まった。
「……雨だよ」
「知ってる」
「休日だよ」
「だから行くんだ」
メンちゃんはしばらく黙って、それから、小さな声で言った。
「……好みは?」
椀を見たままで、それでも、聞いてくれた。
俺は自分の胃と相談した。
一週間分の重さと、三杯目まで走ったあの夜の反省。
胃袋に入る隙間はあるが、たくさんは入らない。
なら、その隙間にちょうど収まる濃さを選べばいい。
「硬め、濃いめ。油は普通」
メンちゃんが、少しだけ顔を上げた。
「……濃いめ普通」
「そうだ」
「雨の日の、濃いめ普通」
「語呂がいいな」
メンちゃんは笑わなかった。
でも、椀を包む指が、ほんの少しゆるんだのが見えた。
体調に合わせて、自分で量と濃さを決める。
あの夜の俺に、できなかったことだ。
外へ出ると、傘に雨音が当たった。
傘は二本、俺の黒と、メンちゃんの赤。
並んで歩いているのに、傘一本ぶんの距離があった。
一週間前の帰り道は、三歩だった。
今日は、一歩。
縮んではいるが、隣ではない。
店は、駅前の細い路地にあった。
横浜家系 雨乃屋。
雨の日だからこそ、行ってみたいと思っていた店だった。
赤い看板は少し古く、暖簾は雨を吸って、いつもより色が深く見える。
店先の傘立てに、ビニール傘が何本も並んでいた。
その光景を見た瞬間、鞄の中の暖簾の端が静かに温かくなった。
熱でも、風でも、紙音でも、米の湯気でもない。
雨に濡れた布を、手のひらで包んだ時のような温度だった。
「……反応してる?」
メンちゃんが小声で聞いた。
この一週間で、いちばん長い質問だった。
「してる」
「静か?」
「静かだ」
「静かな方が、ちょっと怖い」
それだけの数往復が、少しだけ胸を軽くした。
店内に入ると、湯気と雨の湿気で、眼鏡が少し曇った。
カウンター席は半分ほど埋まっていて、客はみんな、どこか疲れた顔をしている。
カウンターのいちばん隅に、小柄な人影がひとつ、置き物みたいに静かに佇んでいた。
誰も気に留めない。俺もその時は、雨宿りの客だと思った。
派手な限定メニューも無料ライスの圧もない、雨の日に逃げこむ場所だった。
券売機の前に立つ。静かで、ボタンはあるだけの数しかなかった。
メンちゃんが、俺の斜め後ろに立っている。
半券で止める構えでも、法度を数える構えでもなく、ただ、見ていてくれた。
俺はラーメンと、半ライスを押した。
多い方が偉いわけじゃない。今日の身体に合う量が、今日の正解だ。
好みを聞かれる。
「硬め、濃いめ。油は普通で」
店主はうなずいた。
「雨の日は、それくらいがいいですね」
メンちゃんが、俺の隣の席に座った。
傘一本ぶんの距離が、丸椅子一つぶんになった。
店主が麺をゆでる。
寸胴から上がる湯気が雨の湿気と混ざり、天井の蛍光灯をぼんやりにじませる。
丼が置かれた。
豚骨醤油、太麺、ほうれん草、チャーシュー、海苔の王道。
だが、スープの表面の光は控えめだった。
油普通。
それでも、雨の日の窓に映る街灯みたいに、ちゃんと光っている。
一口目は、スープ。
味を言おうとして、やめた。
聞こえているのは、屋根を叩く雨の音と、俺がスープをすする音だけだった。
それだけの一口だった。
音が途切れたあとで、雨で冷えた身体の内側に、熱がゆっくり広がっていった。
鶏油は、普通。
その普通が、今日の俺にはありがたかった。
油普通は、逃げでも妥協でもなく、今日の身体がいちばんうまく受け取れる濃さだからだ。
「……うまい」
一週間ぶりに、その言葉が喉を通った。
言った瞬間、店内の雨音が一拍だけ遠くなった。
ふと顔を上げると、カウンターの隅の人影と、目が合った。
入った時から、ずっとそこにいた少女だった。現れたのではない。最初から、静かに、そこにいたのだ。
灰色がかった青の髪に、雨粒のように透明な瞳。
服は深い赤のカーディガンに、濡れた暖簾を思わせる裾。
派手ではないのに、そこにいるだけで店内の温度が少し安定する。
「雨乃屋の家系妖精、雨乃です」
雨音の中でも聞こえるのに、雨音の邪魔をしない声だった。
メンちゃんが、隣で少しだけ背筋を伸ばした。
「あなたは、何をアピールするの?」
雨乃は、答えなかった。
代わりに手を伸ばして、俺の丼の位置を、レンゲが取りやすい角度へ指一本ぶんだけ直した。
それだけだった。
「……しないの? アピール」
「雨の音の、邪魔をしたくないので」
メンちゃんが何か言いかけて、やめた。向ける先が、なかったのだ。
そこから、カウンターはほとんど無言になった。
麺をすする。雨が屋根を叩く。
メンちゃんが、水のコップを音もなく、俺の手の届く位置へ置き直す。
俺は海苔をスープに沈めて、米を巻く。
メンちゃんの視線が一瞬だけ俺の丼に落ちて、戻る。
三杯目まで走った、あの夜の速さになっていないか、見ている。
なっていない。今日は、隙間にちょうどの量だ。
目が合いそうになって、二人とも丼に戻る。
謝る言葉は、まだ出ていない。でも、箸は隣で動いている。
雨乃は、そのあいだ、何もしなかった。
湯気が薄れかけると、寸胴の火がわずかに強くなって、丼の温度が戻る。
俺のレンゲが迷うと、丼の縁が数ミリだけ回っている。
そして、雨音を一度も遮らない。
峠子は影で、潮風子は声で、けん子は紙で、俺を動かそうとした。
雨乃だけが、何もしてこない。なのに、腰が丸椅子に根を張っていく。
アピールされないことが、いちばん沁みる。
ここにいれば、濡れない。誰にも言われていないのに、その言葉が胸の中に勝手に灯った。
湯気が、俺と外の雨のあいだで、やわらかい幕になる。
その幕は、謝らなきゃいけない言葉からも、俺を隠してくれた。
ここにいる限り、気まずさは保留になる。
それは、楽で、あたたかくて、危なかった。
「ご主人様」
メンちゃんの声がした。
「今、帰りたくないって思った?」
俺は黙った。少し思った。
雨の中へ戻れば、傘一本ぶんの距離と、声にしなきゃいけない言葉が待っている。
このカウンターに、スープの温度が消えるまでいたい。
それは「また来たい」ではなく、「ずっとここにいたい」に近い。
メンちゃんは、怒らなかった。責める声でもなかった。
代わりに、店に入る時に畳んだ俺の黒い傘を、足元から取った。
「帰り道までが休日だよ」
「……まだ食べ終わってない」
「うん。だから、食べ終わったら帰ろう」
雨乃が、傘を見た。何も言わなかった。
メンちゃんは、俺を見た。
「外は濡れるよ。でも、濡れる道を帰れるくらい温まるために、ここで食べるんでしょ?」
雨乃の瞳が少し揺れた。
店に閉じこめるための温度じゃない。
外へ出るための温度。
メンちゃんは誰を責めたのでもなく、俺に向かって、そっと呼びかけていた。
その声は、傘を差し出す手と同じ温度をしていた。
俺は、レンゲを置いた。
この温度が身体にあるうちに言わないと、言葉はまた沈む。
「メンちゃん」
「なに」
「あの一言は、券の声に押された」
メンちゃんの肩が、小さく動いた。
「でも、言ったのは俺だ」
雨音が、俺たちの声を包んでいた。
「腹の底で券が鳴ってたのは本当だ。でも、あの言葉を選んだのは、俺の口だ。券じゃない」
「茶碗を下げてくれた手に、いちばん言っちゃいけないことを言った」
「悪かった」
ごめん、より先に、悪かった、が出た。
やっと、声になった。
メンちゃんは、しばらく丼の湯気を見ていた。
睫毛の先が、少し揺れていた。
「……わたしも」
「わたしも、ずっと、謝らなきゃって思ってた」
「メンちゃんが謝ることじゃない」
「ある」
メンちゃんは、まだ少し薄い自分の指先を見た。
「あの時のわたし、正しかったけど、正しいだけだった」
「置いていかれるのが怖くて、止め方が、きつくなってた」
「怖くて?」
「うん」
メンちゃんは、胸元の半分の食券に、そっと手を当てた。
「ご主人様が、券の声とか、店の力とか、そういうものに連れていかれちゃう気がして」
「わたしの声より、そっちを選んじゃう気がして」
「怖い手で止めたから、あんなふうに、ぶつかったんだと思う」
俺は、何と言えばいいか分からなかったから、本当のことだけ言った。
「連れていかれそうになったのは、本当だ」
「でも、戻ってくる場所は決まってる」
「帰り道に隣にいるのは、お前がいい」
メンちゃんは、うつむいた。
うつむいて、それから、小さく笑った。
一週間ぶりの、ちゃんとした笑い方だった。
「……今の、ノートに書いておいて」
「書かない。恥ずかしいからだ」
「家系ヒロインとしては、記録に残したいのに」
カウンターの空気が、ふっと軽くなった。
大げさな理不尽ではなく、湯気がやさしく煙る、その程度の小さな変化だ。
雨乃は、カウンターの端で、静かにそれを見ていた。
何も言わず、二人ぶんの丼の湯気を、最後まで同じ温度に保っていた。
俺は残りの麺をすすり、半ライスの最後の一口を食べた。
うまい。
だが、ここに沈むためのうまさではない。
全部は飲み干さず、スープは少し残した。
けれど、丼の中の温度は、身体の中にちゃんと残っている。
「ごちそうさまでした」
雨乃はカウンターの端で頭を下げた。
「また、雨の日に」
「晴れの日は?」
メンちゃんが聞く。
雨乃は少し考える。
「晴れの日には、晴れの日の店へ」
メンちゃんが、少しだけ瞬きの回数を増やした。
「雨の日に、思い出してもらえれば十分です」
雨乃の姿が、雨音に溶けるように薄れていく。
最後に、カウンターの上に小さな水滴が一つ残った。
雨漏りでも、スープの湯気でもない。
傘の先から落ちた雨粒みたいに、木目の上で静かに光っていた。
店を出ると、雨はまだ降っていた。
傘を開こうとして、俺は上着のポケットに手を入れた。
指先に、紙が触れた。
券ノ助の食券だった。
今朝まで、机の端に置いてあったはずの一枚。
俺は持ってきていないし、触ってさえいない。
「……ご主人様、それ。机の上にあったよね、今朝」
「あった。俺も見た」
「入れてない?」
「入れてない」
机の上では白く冷めていた紙に、今は薄く赤みが戻っている。
濡れてもいないのに、内側から色が差している。
一週間前の俺なら、これを隠したと思う。
そうやって隠してきたものが、米乃家で全部まとめて鳴ったのだ。
もう、同じことはしない。
「メンちゃん。返しに行こう。今から」
「雨だよ」
「傘がある」
「濡れるよ」
「さっき温まった」
メンちゃんは一瞬だけ黙って、それから、深くうなずいた。
「うん。返しに行こう」
「二人で」
「二人で」
帰り道までが休日なら、この寄り道も、まだ休日のうちだ。
雨の中を歩き、電車に乗って、また歩いた。
傘は二本のままだったが、距離は一歩じゃなかった。
メンちゃんの赤い傘の端が、少しだけこっちへ寄っている。
「濡れるぞ」
「ご主人様も濡れる」
俺の歩幅の半歩ぶん小さい足音が、ずっと隣にあった。
派手な一杯より、この半歩の距離のほうが、よほど身体を温める気がした。
券ノ助に着く頃には、ズボンの裾が濡れていた。
寒いのに、腹の底の温度は消えていなかった。
雨乃の言った通りだ。
暖簾をくぐる前に、店の中で、券売機の取り出し口がぱっと光った。
「いらっしゃいませ! ……あれ?」
けん子が、券売機の横に立っていた。
今日は、一人だけだった。
「お客さん、今日は、買いに来た顔じゃないですね」
俺は、雨に濡れないよう手のひらで覆って、ポケットから食券を出した。
「これ、返しに来た」
けん子は、食券を見て、それから、俺の顔を見た。
「……それ、うちの子だ」
「いつの間にか、紛れ込んでた。先週、こいつの声に押されて、大事な相手にひどいことを言った」
「言ったのは俺だ。券のせいにはしない」
「でも、借りたつもりのないものを、持ったままにもしておけない」
俺は食券を差し出した。
「借りたものは返す。それが、虜にならない方法だ」
けん子は、食券一枚を壊れ物みたいに、両手で受け取った。
「……食券って、返ってこないんです。基本」
「使われるか、捨てられるか、財布の底で忘れられるか」
「返しに来てくれた人、初めてです」
「また買いに来る」
「今度は、俺の指で押す。押されるんじゃなくて」
けん子は、食券を胸に当てて、笑った。
券売機のランプが、祝福みたいに一回だけ瞬いた。
隣で、メンちゃんが小さく頭を下げ、けん子も下げ返した。
店の軒先を出ると、雨は少しだけ細くなっていた。
傘を開く。
二本、並んで。
巡礼ノートは、鞄の中で眠ったままだ。
今日のことを何と書くかは、明日の俺が考えればいい。
「帰れる?」
「帰れる」
「じゃあ、よし」
胃袋も、言葉も、紙も、今日は借りっぱなしにしなかった。
借りたものは、返した。
返し終えた手で傘を持ち直して、俺は、半歩ぶん小さい足音の隣を歩いた。
雨乃屋の家系妖精・雨乃を描きました。
雨乃の一杯は、濃さよりも温度。
ここにいれば濡れない、という安心感で、俺は謝る言葉ごと店に沈みかけました。
メンちゃんは傘を差し出して、「帰り道までが休日だよ」と言った。
温度のあるうちに出した言葉と、雨の中、返しに行った一枚の食券。
借りたものは返す。
それも、好きなものの虜にならずに長く付き合うためのやり方だと思います。
次は、店主たちの記憶。
店の一杯だけではなく、その一杯を作ってきた人たちの時間へ、暖簾の端が反応し始めます。




