第9話 何も起きなかった日
木曜日の夕方、澪は駅のホームで電車を一本見送った。
帰宅時間の混雑が始まっていて、到着した車両はどこも人でいっぱいだった。ドアが開くと温まった衣服と整髪料の匂いが押し寄せ、降りる人と乗る人が狭い場所ですれ違う。
無理に乗れば、どうにか帰れる。
けれど澪は一歩下がった。
ホームの端に並ぶ人たちが、次々と車内へ吸い込まれていく。
ドアが閉まり、電車が走り出した。
線路から吹き上がる風に髪が揺れた。
澪はバッグの持ち手を握り直し、ベンチへ向かった。
今日は特別なことがあったわけではない。
朝から勤怠の修正依頼が続き、昼過ぎには会議室の予約が重なっていることが分かった。小森と二人で担当者へ連絡し、何とか調整したものの、午後のほとんどをその作業に使ってしまった。
夕方には久我から頼まれた備品費の確認を終えた。
三千円の差額は、同じ請求書が別の部門にも計上されていたことが原因だった。
見つけてしまえば、どうということもない。
正しい数字を入力し直すと、合計はぴたりと一致した。
その瞬間、澪は少しだけ気分が軽くなった。
しかし、パソコンを閉じる頃には、また三宅のことを考えていた。
八年前の事故を調べていた人。
金曜日の夜、何かを確かめようとしていた人。
そして、そのまま亡くなってしまった人。
自分が感じた殺意と、その死を結びつける証拠は何もない。
それなのに、何かを見落としているような気がしていた。
ホームの向こう側で、学生らしい二人が笑っている。
その隣では、スーツ姿の男性が眉間に皺を寄せ、誰かと電話をしていた。
「だから、それはそっちの都合でしょう」
男性の声が少し大きくなる。
「何回同じこと言わせるんですか」
澪は視線を落とした。
怒っている人間は、世の中にいくらでもいる。
職場でも、街でも、電車の中でも。
誰かを嫌っている人間だって珍しくない。
けれど、そんな感情にいちいち身体が反応するわけではなかった。
澪は左腕を確かめた。
何も起きていない。
男性は電話を切ると、深く息を吐いた。
そして何事もなかったように、スマートフォンで動画を見始めた。
澪はその横顔を見つめた。
怒っていたことは分かる。
しかし、相手を殺そうと考えたのかどうかは分からない。
自分の身体が何も反応しなかったとしても、それは今、この近くに明確な殺意が存在しなかったというだけのことだ。
電話の相手がどんな人なのかも知らない。
二人の間で何が起きたのかも。
次の電車が来るまで、あと五分。
澪はバッグから文庫本を取り出しかけて、やめた。
今日は文字を追っても、きっと頭に入らない。
自宅へ着いた頃には、外はすっかり暗くなっていた。
部屋の明かりをつけ、上着を脱ぐ。
冷蔵庫には卵と豆腐、それから昨日買った小松菜が残っている。
澪はしばらく中を覗き込み、結局、卵とじを作ることにした。
フライパンに油を引くと、熱で小さな音が立った。
刻んだ小松菜を入れた途端、緑色の葉が縮み、台所に青い匂いが広がる。窓の外からは遠くを走る車の音が聞こえ、換気扇の低い唸りがそれをかき消していた。
卵を割る。
黄身が崩れずに落ちる。
澪は箸で混ぜながら、また金曜日のことを考えていた。
三宅が亡くなった。
そして、その前夜に自分は発作を起こした。
たった二つの事実が、どうしてこんなにも離れなくなってしまったのだろう。
卵を流し入れたところで、スマートフォンが鳴った。
小森からだった。
『明日の資料整理、十時からで大丈夫ですか?』
澪は火を弱めて返信した。
『大丈夫。段ボールは勝手に開けないでね』
『分かってます!』
すぐに、もう一通届く。
『でも中身、ちょっと気になります』
『分かるけど我慢』
『頑張ります』
澪は笑い、スマートフォンを伏せた。
フライパンの縁で卵が固まり始めていた。
慌てて火を止める。
「危ない危ない」
独り言を言ってから、皿を取り出した。
普通の夕食だった。
誰も死なない。
誰も何かを隠していない。
少なくとも、今この台所には自分しかいない。
澪は皿をテーブルへ運んだ。
食事を終えると、澪は棚から発作記録のノートを取り出した。
古いものから順番に机へ並べる。
学生時代の薄い手帳が二冊。
社会人になってから使っているノートが数冊。
日付の抜けた月もあれば、毎日のように症状を書いていた時期もある。
澪は最初の手帳を開いた。
紙が少し黄ばんでいて、表紙をめくると古いインクの匂いがした。
高校生の頃の字は、今より丸い。
『駅前、午後六時頃。左手首に発疹。周囲に十人以上』
次の行には、少し小さな字で書かれていた。
『原因不明』
別の日。
『学校帰り、バス車内。首と腕がかゆい。乗客は少ない。誰が原因か分からない』
さらに次。
『病院の待合室。急に症状が出た。前後の席にいた人は確認できず』
澪はページをめくった。
当時は、まだ自分の身体について何も分かっていなかった。
食べ物の記録をつけ、服の素材を変え、使っている洗剤の名前まで書き出したことがある。
けれど、どれも原因にはならなかった。
やがて澪は、発作が出た場所で後から事件の報道を知ることがあると気づいた。
それがいつからだったのか、正確には覚えていない。
ただ、気づいてしまうと、それまで何とも思わなかった記録まで違って見えるようになった。
澪は社会人になってからのノートを開いた。
四年前の秋。
『駅構内で発作。軽度。夕方の混雑時間』
その下に、数日後の追記があった。
『周辺で該当する事件報道は確認できず』
さらに別の記録。
『飲食店で発作。隣席に三人。ほかにも客あり』
後日の追記はなかった。
何も起きなかったのか。
それとも、自分が知らなかっただけなのか。
澪には分からない。
手帳の中には、こうした記録が何十件も残っていた。
発作が起きても、殺人事件が報じられなかったことは珍しくない。
それなのに、三宅の死を知った瞬間、澪は金曜日の発作と結びつけてしまった。
どうしてだろう。
ページをめくる手が止まった。
答えは、考えるまでもないのかもしれない。
三宅が死んだからだ。
人が一人亡くなったという事実は、それまで曖昧だったものを、急に確かな形へ変えてしまう。
自分があの夜に感じた殺意が、何のためのものだったのか。
誰が抱いていたのか。
何も分からないままだったはずなのに、三宅の名前が浮かぶと、それ以外の可能性が少しずつ薄れていく。
澪はノートを閉じかけて、また開いた。
金曜日の記録があるページまで戻る。
時刻。
場所。
症状。
参加者十二人。
翌朝の三宅の死。
そして、最後に書いた四文字。
『関連は不明』
澪は、その下に新しい一文を書き加えた。
『発作の原因となった殺意と、三宅さんの死亡が同じ出来事に関係しているとは限らない』
書き終えると、少しだけ肩の力が抜けた。
当たり前のことを書いただけだった。
けれど、こうして文字にしなければ、すぐに忘れてしまいそうだった。
午後九時半。
航から電話が来た。
「何してた?」
「昔のノートを見てた」
「学生時代の?」
「ううん。病院に持っていってたやつ」
「症状の記録?」
「そう」
航は少し黙った。
「金曜日のこと、まだ気になってる?」
「まあね」
「ひどかったもんな」
「見てないくせに」
「小森さんから聞いた。かなり顔色悪かったって」
「小森さん、いつの間に」
「社内で会ったときに少し」
澪は机の上のノートを見た。
「大げさなんだから」
「大げさなくらいでちょうどいいときもあるだろ」
航はそう言った。
澪は返事をしなかった。
窓の外では、どこかの部屋の洗濯機が低く回っている。時折、水道管を流れる音が壁の向こうから聞こえ、静かな部屋に小さな振動が伝わってきた。
「航」
「ん?」
「人が何かを考えてるかどうかって、どうしたら分かるんだろうね」
「急に難しいこと聞くな」
「仕事でちょっと」
「そうだな。言葉だけじゃ分からないこともあるし、行動だけ見ても間違えることはあるだろうし」
「じゃあ、何を信じればいいの?」
「何かあった?」
澪は唇を噛んだ。
言おうと思えば、言える。
誰かが殺意を抱くと、自分の身体に発疹が出る。
そのことを、航に打ち明ける。
三年以上付き合っている相手なのだから、信じてくれるかもしれない。
けれど、信じてもらえたとしても、その後はどうなるのだろう。
航が誰かと会っているときに、自分が発作を起こしたら。
何も知らないままの今より、もっと面倒なことになるのではないか。
澪はノートを閉じた。
「なんでもない。ちょっと考えすぎた」
「仕事のことなら、休みの日くらい忘れろよ」
「航こそ、仕事の本買ってたじゃない」
「読んでない」
「え?」
「買って満足した」
「それ、一番駄目なやつ」
航が笑った。
澪も小さく笑う。
電話を切った後、机の上には静けさが残った。
澪はもう一度ノートを開き、金曜日の記録を見た。
自分が知っていることは、確かにここへ書かれている。
それ以上のことは、まだ何も分からない。
澪は別の紙を取り出した。
送別会の集合写真を見ながら、参加者の名前を書き出す。
長峰。
久我。
小森。
結城。
ほかの社員たち。
自分の名前も最後に加える。
十二人。
誰が何を話したか。
どこに座っていたか。
覚えている範囲で、事実だけを整理する。
だが途中で、澪は手を止めた。
並んだ名前を見ていると、まるで自分が誰かを選ぼうとしているような気がした。
誰が怪しかったのか。
誰が殺意を持っていたのか。
その答えを見つけるために、名前を書き並べている。
けれど、そもそも発作の原因が送別会の参加者だったと断定できるわけでもない。
近くにいた店員や、壁の向こうの客だった可能性だってある。
澪は紙の上端に、小さく書いた。
『確認できた同席者』
殺意の持ち主、とは書かなかった。
それから、記憶に残っていることを少しずつ追加していった。
誰が何時に席を離れたか。
誰が誰と話していたか。
どんな表情だったか。
ただし、表情については自分の印象にすぎないことも分かるようにした。
結城の名前の横で、ペンが止まった。
金曜日の夜。
長峰が配送センターの仕事について話していたとき、結城は箸を止めた。
あの仕草が気になっていた。
だが、何を考えていたのかは分からない。
澪はその下に書いた。
『20時36分頃、携帯を見て席を離れる』
それだけだった。
写真を閉じると、机の上には十二人の名前と短い行動の記録が残った。
誰かに見せるつもりはなかった。
自分が見聞きしたものを忘れないための、ただのメモだった。
それでも、澪はその紙を発作記録のノートに挟んでから、少し迷った。
こんなものを残して、何になるのだろう。
答えは出なかった。
澪はノートを閉じ、机の引き出しへしまった。
金曜日の夜を何度思い返しても、まだ分からないことばかりだった。
けれど、少なくとも自分が何を知っていて、何を知らないのかだけは、少しずつ見えてきた気がした。




