第10話 届いた時刻
金曜日の午前十時。
総務部の会議室には、古い段ボール箱が並んでいた。
窓際に置かれた長机の上には、受領伝票と管理台帳の写しが広げられている。箱を開けるたびに乾いた紙と段ボールの匂いが立ち、暖房の風がそれを部屋の奥へ運んでいた。
澪は一番上の箱から、厚いファイルを取り出した。
「これ、施設管理の記録ですね」
小森がラベルを読み上げた。
「そうだね。移管一覧だと、次の箱も同じ分類かな」
「でも、こっちは年代が違います」
「ほんとだ」
澪はファイルを戻し、伝票を確認した。
旧配送センターの資料は、長い年月の間に何度も保管場所が変わっていたらしい。
設備の点検履歴。
工事の契約書。
備品の交換記録。
入退室に関する帳票。
同じ施設の書類でも、保管先が統一されていない。
小森が箱の底から薄い冊子を取り出した。
「これ、番号が見えません」
「ちょっと貸して」
澪が受け取ると、表紙の左下に小さなシールが貼られていた。
角が擦れて数字の一部が読みにくくなっている。
「これ、現物のラベルと伝票を照合しないと駄目だね」
「写真撮っておきます?」
「うん。あとで担当に確認しよう」
小森はスマートフォンを取り出し、冊子の表紙を撮影した。
シャッター音が小さく響く。
「篠宮さん、こういう整理って好きですよね」
「好きっていうか、放っておくと後で困るから」
「私は見てるだけで頭が痛くなります」
「大丈夫。小森さんはまだ若いから」
「それ、どういう意味ですか」
「そのうち慣れるってこと」
「慣れたくないです」
澪は笑った。
小森は冊子を別のトレーへ置き、次の箱を開ける。
その手元を見ながら、澪はふと三宅のことを思い出した。
彼も、こんなふうに一つずつ資料を確認していたのだろうか。
古い書類を広げ、数字や日付を照らし合わせながら、八年前の事故に何があったのか確かめようとしていた。
自分が見ているものと、三宅が探していたものは同じなのか。
そう考えたところで、澪は小森に声をかけた。
「この箱、先に受領した施設関係のものと分けておこうか」
「はい」
仕事を進めなければならない。
今はまだ、個人的な疑問で資料を開くわけにはいかなかった。
午前十一時過ぎ、澪は資料管理担当の社員へ電話をかけた。
旧配送センターの移管一覧に、保管先が分からない冊子があるためだった。
「すみません。総務部の篠宮です。今朝届いた資料について確認したいんですが」
電話の向こうでは、紙をめくる音がした。
『はい。管理番号をお願いします』
澪は数字を読み上げた。
相手が確認している間、窓の外へ目を向ける。
隣のビルの屋上では、作業員が何かを運んでいた。秋の空は雲が薄く、遠くの建物の輪郭が少し白く霞んでいる。
『ああ、それですね』
担当者が言った。
『旧センターの設備関係の控えだと思います。途中で保管分類が変わってるんですよ』
「分類が?」
『はい。昔は現場でまとめて保管していたものを、数年前に一部だけ本社へ移したんです。ただ、原本と控えが別々になっているものもあるので』
澪はペンを持ち直した。
「原本と控えが、別の場所に?」
『そうです。全部ではありませんけどね。現場で使った確認簿なんかは、まだ外部保管先に残っているはずです』
「そうなんですね」
『今回の移管作業で、ようやく整理できるかと思ってるんですけど、古い記録はなかなか大変で』
相手は少し笑った。
澪も口元を緩めたが、すぐに別のことが気になった。
「すみません。設備の停止要請についても、そういう記録が残っているんでしょうか」
電話の向こうが少し静かになった。
『停止要請ですか?』
「はい。昔の受付記録を確認していて、現場への伝達状況を調べたいものがあるんです」
『受付記録なら、本社のほうにあると思いますよ』
「それは確認できています」
『じゃあ、現場側の確認簿ですね。設備管理の記録と一緒になってる可能性があります』
澪はメモを取った。
現場側の確認簿。
『ただ、八年前の分となると、全部残っているかどうかは分かりません。保管期間の問題もありますし』
「確認することはできますか」
『できますけど、今は警察からの照会も入っているので、まず担当部署を通してください。外部保管のものは、こちらから勝手に出せないんです』
「分かりました。必要な手続きを確認します」
電話を切った後、澪はしばらく受話器を置いた手を動かさなかった。
受付記録と、現場側の確認簿。
同じ書類について、違う場所に記録が残っている。
それなら、八年前の停止要請がどこまで伝わっていたのか、確認できるかもしれない。
昼休み。
澪は自分の席で、金曜日の夜に確認した受付一覧を開いた。
今回は業務上の資料整理の範囲で閲覧できる記録だけを確認する。
画面には、古いデータが表形式で並んでいた。
受付番号。
提出日。
提出部署。
件名。
受付担当者。
澪は事故が起きた日の記録を探した。
一覧の中に、見覚えのある文字があった。
『搬送設備停止要請』
その横には、受付担当者として自分の名前が残っている。
篠宮澪。
澪は画面をスクロールした。
当時の記憶が、少しずつ戻ってくる。
窓口に来た女性。
仕事着の袖をまくり、書類の端を指で押さえていた。
手には薄い黒い汚れがついていた。
彼女は、受付を急いでほしいと言っていた。
そのとき、自分は何と答えたのだろう。
少し考えてから、澪は口元を押さえた。
たしか、こう言った。
「担当へ回しますので、少しお待ちください」
いつもの返事だった。
窓口では、毎日のように似た言葉を使っていた。
設備の修理。
備品の交換。
休暇の申請。
契約書の確認。
提出された書類を受け取り、必要な部署へ渡す。
その仕事に、特別な意味を感じることは少なかった。
しかし、あの日の女性は違った。
「急ぎなんです」
そう言っていた。
声は大きくなかった。
ただ、紙を押さえる指に力が入っていた。
澪は画面を見つめた。
当時、女性の名前を覚えたのは、事故が起きた後だった。
結城紗江。
三十歳。
搬送設備の担当者。
事故報告書に書かれたその名前を見て、澪は受付へ来た女性の顔を思い出した。
そこから先の記憶は、妙にはっきりしている。
自分が押した受付印。
書類の端についた黒い汚れ。
女性が立ち去る前に、何度か振り返ったこと。
そして、事故が起きたという連絡。
澪は目を閉じた。
あのとき、何か違う対応ができたのだろうか。
すぐに担当者へ連絡したはずだった。
少なくとも、そうしたつもりだった。
けれど、そのことを証明する記録が今の画面には見当たらない。
受付したという事実だけが残っている。
その後、書類がどう扱われたのかは分からなかった。
澪は椅子の背へ身体を預けた。
天井の蛍光灯が、まぶしく感じられた。
午後二時。
久我が澪の席へ来た。
「資料整理、どう?」
「届いた分はだいたい終わりました。ただ、保管先が分かれているものがあって」
「そうだね。全部一度に揃えるのは難しいと思う」
澪は画面を示した。
「受付記録と現場の確認簿って、別の場所に残っていることがあるんですね」
「あるよ。特に古い設備関係は、現場で使う記録と本社で処理する書類が分かれてるから」
「八年前のものも、そうだったんでしょうか」
久我は椅子の背へ手を置いた。
「どの書類?」
「結城紗江さんの事故の前に提出された停止要請です」
澪は名前を口にしてから、久我の顔を見た。
久我は少しだけ視線を落とし、画面に表示された一覧を確認した。
「その件か」
声は普段と変わらなかった。
「三宅さんも調べていたみたいだし、私も気になっていて」
澪は続けた。
「受付したことは分かるんです。でも、その後どうなったのか、今の記録だけだと分からなくて」
久我は画面から目を離した。
「現場の確認簿を調べれば、分かるかもしれないね」
「はい。ただ、外部保管になってるみたいです」
「だったら、資料管理の担当に正式に確認しよう。警察からの照会もあるから、必要なものはまとめて提出できるようにしたほうがいい」
「分かりました」
「篠宮さん」
久我は少し声を落とした。
「昔のことを調べるのは大事だけど、無理はしないでね」
澪は目を上げた。
「はい」
「三宅さんのこともあったし、気になるのは分かる。でも、当時の記録が全部残っているとは限らないから」
「そうですね」
久我は頷き、席を離れた。
澪は画面を見つめたまま、しばらく動かなかった。
久我の言うとおりだ。
八年前の書類が、すべて残っているとは限らない。
それでも、残っているものがあるなら確認したかった。
自分が受け付けた書類が、あの後どうなったのか。
それを知らないまま、また何年も過ごすことはできない気がした。
夕方。
小森が受領伝票の整理を終えた頃、資料管理担当からメールが届いた。
『お問い合わせの設備関係記録について、外部保管先での確認が必要なため、調査依頼を受け付けました』
その下に、対象となる記録の分類が記されていた。
受付台帳。
設備点検記録。
現場確認簿。
そして、もう一つ。
『停止要請伝達記録』
澪はその文字を見つめた。
伝達記録。
書類を受け取った後、誰に、いつ、どのように伝えたのか。
それが残っていれば、少なくとも自分が担当へ回したのかどうかは確認できるかもしれない。
小森が隣から画面を覗き込んだ。
「篠宮さん、何か見つかったんですか」
「まだ。これから確認してもらうところ」
「そうなんですね」
小森は受領伝票を揃えた。
「古い書類って、いっぱいあるんですね。こんなの全部残してたら、保管場所がいくらあっても足りないですよ」
「本当にね」
澪は笑った。
小森は次の書類へ手を伸ばしたが、途中でふと顔を上げた。
「でも、残っててよかったって思うこともあるんでしょうね」
「え?」
「昔のことでも、記録があれば分かるじゃないですか。誰が何をしたとか、何時に確認したとか」
澪は小森を見た。
小森は何気ない様子で続けた。
「私なんか、先週のことでも結構忘れますから」
「それは困るな」
「ひどいです」
二人は笑った。
澪はもう一度、画面に目を戻した。
記録が残っていれば分かる。
本当に、そうだろうか。
同じ出来事について書かれた記録が二つあり、それぞれ違うことを示していたら、どちらを信じればいいのだろう。
八年前。
事故の後に作られた報告書と、自分が受付した記録。
あのときは、説明されたことを信じた。
それでいいと思っていた。
けれど、今は少し違う。
澪は資料管理担当へ返信した。
『確認をお願いいたします。必要な承認手続きがあればご連絡ください』
送信すると、画面が受信箱へ戻った。
夕方の光が窓の端から差し込み、机に置かれた書類の角を淡く照らしていた。
澪は左腕を見た。
発疹は出ていない。
かゆみもない。
何も起きていない。
それでも、八年前の書類に不自然なことがなかったと決まったわけではない。
澪は袖を下ろし、残っていた仕事へ戻った。
画面の隅には、資料管理担当からの受付番号が表示されていた。
新しい調査依頼の番号。
その数字を、澪は手帳に書き写した。
いつか確認するときのために。
そして今回は、途中で分からなくなっても、そこで終わりにしないために。




