第11話 名前を残す
月曜日の午前八時四十七分。
篠宮澪は、出勤して最初に開いたメールを三度読み返した。
件名は『旧配送センター保管記録の照会について』。
金曜日に提出した調査依頼への返答だった。
文面は事務的で、冒頭には受付番号が記されている。外部保管先への照会は可能。ただし対象には八年前の死亡事故に関係する記録が含まれるため、通常の資料閲覧とは異なる手続きが必要になるという。
そこまでは理解できた。
問題は、その下だった。
『申請者が当時の受付担当者に該当するため、資料確認に先立ち、受付時の対応について書面での説明をお願いします』
澪はマウスから手を離した。
自分の名前が、画面の中で急に大きくなったような気がした。
総務部には朝の光が斜めに差し込み、窓際の机だけが妙に明るい。まだ温まりきっていない室内には乾いた空調の風が流れ、コピー機の周辺からトナーの匂いが漂っていた。
向かいの席では、小森が紙コップの蓋を外している。
「熱っ」
小さな声とともに、カップが机へ置かれた。
「大丈夫?」
澪が訊くと、小森は指先を振った。
「コーヒーが予想以上に熱くて。朝から油断しました」
「飲み物にまで警戒が必要な職場なんだね」
「篠宮さんも気をつけてください」
「私のはもう冷めてるから」
そう答えて、自分のマグカップを見た。
いつ淹れたのかも覚えていない。
小森は電話の着信に気づいて受話器を取り、澪も画面へ視線を戻した。
添付されていた説明書を開く。
受付日時。
提出者。
受付後に行った対応。
担当部署への伝達方法。
当時の認識。
どれも、書類を受け取った者なら答えられるはずの項目だった。
しかし澪は、三番目の欄から先へ進めなかった。
八年前、結城紗江から設備停止要請を受け取ったことは覚えている。
受付印を押した。
伝票の端が少し折れていて、女性は何度もその部分を伸ばしていた。
そこまでは、確かだった。
けれど、その後。
誰へ渡したのか。
内線で連絡したのか。
書類を回覧用のトレーへ入れたのか。
いくつかの記憶が、互いに重なっていた。
当時の仕事は忙しかった。
同じ日に何件も届く設備関係の申請を、内容ごとに仕分けていた。停止要請だからといって、総務の窓口で設備を止められるわけではない。
それでも紗江は、急いでほしいと言っていた。
澪はもう一度、説明書の三番目の欄を見た。
『受付後に行った対応』
そこにはまだ、何も書かれていなかった。
午前十時。
資料管理担当から電話があった。
澪は周囲の声が入りにくい席へ移り、受話器を持ち直した。
『先日の照会の件ですが、確認書はご覧いただけましたか』
「はい。今、内容を確認しています」
『ありがとうございます。少し手続きが複雑で申し訳ありません』
「いえ」
担当者は資料をめくりながら続けた。
『今回の照会は、過去の記録の所在を調べるだけでなく、事故当時の伝達経路を確認することになります。篠宮さんご自身が受付担当だったので、資料を扱う方とは別に、当時の対応を確認させていただきたいんです』
「分かりました」
『受付履歴には篠宮さんのお名前が残っています。ただ、その後の処理については、現時点でこちらに揃っている記録だけでは確認できません』
澪は手元のメモ用紙に線を引いた。
「それで、私の説明が必要なんですね」
『はい。覚えていらっしゃる範囲で結構です。曖昧なところは、そのように書いていただければ』
「提出した後は、どうなるんでしょうか」
受話器の向こうで、短くキーボードが鳴った。
『管理部門で照合し、必要に応じて当時の関係部署にも確認します。責任者の方にも記録を共有することになると思います』
「当時の責任者、ですか」
『ええ。八年前の担当部署になりますので』
澪は窓の外へ目を向けた。
向かいのビルでは、清掃員が長い柄の道具で窓を拭いている。白い泡が一筋の線になり、ガラスの下へ落ちていった。
長峰省吾。
数日前、花束を抱えて笑っていた顔が浮かんだ。
送別会で、荷物を止めないことが仕事の基本だと話していた。
現場の責任者だった長峰にも、照会が届くのだろう。
「分かりました。確認して提出します」
『よろしくお願いします』
通話が終わった。
澪は受話器を置いたまま、しばらく指を離せなかった。
自分で依頼した調査だった。
資料を探したいと言ったのも、自分だ。
その結果、八年前の自分が何をしたのか説明するよう求められた。
予想していなかったわけではない。
ただ、予想していたことが実際に起きると、こんなにも別のものに感じられるのだと、初めて知った。
「篠宮さん。ちょっと来てもらえる?」
久我千晴に呼ばれたのは、昼休みの少し前だった。
課長席へ向かうと、久我はパソコンの画面を閉じ、机の上に置いていた書類を一枚差し出した。
「資料管理から、今回の照会について連絡が来たの」
「はい」
「確認書も届いてる?」
「届いています」
「そう。じゃあ、先に伝えておくね」
久我は腕を組まず、机に両手を置いた。
「古い記録を確認すること自体は問題ない。ただ、総務部の通常業務と個人的な確認が混ざると困るから、閲覧の申請や資料の持ち出しは必ず所定の手続きを通して」
「分かりました」
「金曜日の夜に確認した受付履歴も、今後は照会対象に含めて管理することになると思う。勝手に修正したり、個人の端末に保存したりはしないでね」
「していません」
「それならいい」
久我は淡々と答えた。
責めているわけではなかった。
普段、備品の管理や個人情報の扱いについて注意するときと同じ口調だった。
澪は書類を受け取った。
「すみません。余計な仕事を増やしてしまって」
「仕事が増えるのは仕方ないよ。必要な確認なら、ちゃんとやるしかないから」
久我は時計を見て、次の予定を確かめた。
「それより、確認書は書けそう?」
「受付したことは覚えてるんですけど、その後の細かい手順が曖昧で」
「八年も経ってるからね」
「はい」
「だったら、曖昧なところは曖昧なまま書いたほうがいい。思い出そうとして、ほかの日の仕事と混ざることもあるから」
澪は顔を上げた。
久我は書類の端を指で揃えている。
「確実に覚えていることだけ書けばいい。記録で確認した事実とは分けて」
「……はい」
「それと、篠宮さんが受付担当だったことは、社内の確認担当にも伝わるから。もし何か問い合わせがあったら、こちらへ共有してね」
「分かりました」
久我は頷いた。
「じゃあ、午後の会議資料を先に片づけちゃおうか。こっちも締め切りがあるから」
澪は思わず笑った。
「事故の調査より、今日の会議が優先ですか」
「会議に出る人は、八年前の事故があっても資料なしじゃ困るでしょ」
もっともな話だった。
澪は書類を持って自席へ戻った。
久我の言葉を聞いて、少し肩の力が抜けた。
覚えていることと、記録で確認したことを分ける。
それは、自分がずっと発作記録につけてきた書き方と同じだった。
ただ、その考えを安心材料にしようとしたところで、別のことに気づいた。
久我も八年前、事故報告の作成に関わっていた。
その人から、今こうして書類の書き方について助言を受けている。
昔も似たようなことがあった。
あのときも、自分より仕事を知っている先輩の説明を聞いて、分からない部分をそのままにした。
澪は足を止めかけ、後ろから来た社員を避けて通路の端へ寄った。
今回は、何を書けばいいのかを自分で決めなければならない。
午後二時二十分。
澪は確認書を開いた。
受付日時の欄には、保存されていた電子記録の時刻を転記した。
提出者。
結城紗江。
設備停止要請。
一文字ずつ入力する。
事故が起きた日のことを思い出そうとすると、決まって窓口の光景が浮かんだ。
その日は、雨が降っていなかったと思う。
窓の向こうが明るく、紗江の作業着の袖に薄い影ができていた。
女性は受付票を差し出し、少し早口で言った。
「搬送のほう、止める申請なんです。できれば早めに確認してもらえませんか」
声に強い調子はなかった。
ただ、仕事を頼み慣れていない人のように、最後の言葉だけが少し低くなった。
澪は受付印を押した。
書類の端を揃え、いつものように答えた。
「担当へ回します」
そこまでは覚えている。
その次の場面が、うまく続かなかった。
窓口を離れた紗江の背中。
受け取った書類。
電話の受話器。
しかし、受話器を取った場面が本当に同じ日の記憶なのか、はっきりしない。
澪は入力しかけた文章を消した。
『担当部署へ速やかに連絡した』
そう書こうとしていた。
昔から、そうしたつもりだった。
けれど、その言葉を証明するものは今の手元にない。
澪はキーボードから指を離した。
やがて、新しく入力する。
『停止要請票を事故発生前に受け付けたことは記憶しており、電子受付履歴にも記録が残っている』
次の行。
『受付後の具体的な伝達時刻、連絡手段、相手方については、現時点では記憶だけで特定できない』
最後に、もう一文を書いた。
『事故後、受付時刻と正式確認時刻の違いについて説明を受けたが、当時それ以上の確認はしていない』
文字を打ち終えたとき、右肩がひどく重かった。
澪は椅子から少し身体を離し、背中を伸ばした。
これでいいのだろうか。
もっと何かを書けたはずではないか。
自分が受付した書類について、説明できることがこれだけしかない。
その事実が、今さら胸の奥へ沈んでいく。
送信ボタンへ指を近づけた。
押せば、八年前の自分の対応について正式な確認が始まる。
社内の関係者も、この内容を読むことになる。
今までと同じように仕事を続けられるのだろうか。
誰かに、なぜ当時確認しなかったのかと聞かれるかもしれない。
聞かれたら、どう答えるのだろう。
澪は手を下ろした。
窓の向こうで、雲が太陽を隠した。
机の上が少し暗くなる。
数秒後、澪はマウスを握り直した。
送信。
画面が切り替わり、受付番号と提出日時が表示された。
それだけだった。
警告音も鳴らない。
誰かが振り返ることもない。
たった一枚の確認書を送っただけだ。
それなのに澪は、もう取り消せないところまで来たような気がした。
午後四時過ぎ、小森が澪の席へやってきた。
いつものように気軽な調子で声をかけようとして、途中で口を閉じる。
「篠宮さん、ちょっといいですか」
「うん。どうしたの?」
小森は一度、周囲を見た。
「資料管理の人から、私にも確認が来たんです。旧センターの資料を誰が受け取ったかって」
「今朝までに届いた分なら、受領履歴に残ってるよ」
「それは答えたんですけど」
小森は持っていた付箋を折った。
「八年前の事故についても調べてるんですか」
澪は一瞬、答えに迷った。
「うん。停止要請の記録を確認してる」
「そうなんですね」
「どうして?」
「いや、篠宮さんの名前が当時の受付担当者として出てきたから。ちょっと驚いて」
小森はそこで言葉を切った。
澪は彼女を見上げた。
「私が受け取った書類だからね」
「そうだったんですか」
小森の目が、机の上の確認書へ向いた。
それから、澪へ戻る。
「事故の前に、ですか」
「うん」
小森は口を開きかけたが、何も言わなかった。
いつもなら次々と質問が出てくる。
今朝のコーヒーの話も、昼に買った弁当の話も、思いついた順に口にする後輩だった。
その小森が、黙っている。
澪はその沈黙の中に、言葉にならなかった質問を見つけた気がした。
事故の前に受け取っていたのなら、どうして設備は止まらなかったんですか。
そう聞かれても、今の自分には答えられない。
「まだ確認できてないことがあるから、調査をお願いしてるの」
澪が言うと、小森は頷いた。
「分かりました。私が受領した資料についても、必要なら確認します」
「ありがとう」
「はい」
小森は少しぎこちなく笑い、自分の席へ戻っていった。
澪はその背中を見送った。
たぶん、今の会話は明日になれば普通のこととして処理される。
仕事で古い資料を確認している先輩。
その資料について質問した後輩。
それだけのはずだった。
けれど、小森が何も言わずに飲み込んだ言葉は、机の上に残されたままのように感じられた。
午後五時四十八分。
澪が帰り支度を始めていると、社内電話が鳴った。
資料管理担当からだった。
『確認書、受け取りました。ありがとうございます』
「こちらこそ、お願いします」
『当時の関係部署にも照会を進めています。それで、一件ご相談がありまして』
澪は椅子に座り直した。
「はい」
『当時、現場で働いていた社員から、確認したいことがあると連絡が入っているんです』
「現場の方から?」
『はい。今回の照会が安全管理部門にも共有されまして。現在は配送品質の担当をしている方なんですが、結城紗江さんと一緒に働いていたそうです』
澪はペンを取った。
『片桐さんという方です。篠宮さんが事故前の受付担当だったと聞いて、直接確認したいことがあるそうで』
「私に、ですか」
『お仕事の都合もありますので、ご都合が合えば、こちらで面談の場を設けます』
澪は窓を見た。
外はもう暗く、向かいのビルの窓に明かりが灯り始めている。
八年前の事故。
その現場で働いていた人。
紗江と一緒にいた人。
今まで、書類に残された名前としてしか考えていなかった相手が、急にこちらへ歩いてくるような感覚があった。
「お願いします」
澪は答えた。
『では、明日の午後で調整します』
電話が切れた。
澪はメモ用紙へ名前を書いた。
片桐。
その下に、小さく『結城紗江さんの同僚』と書き加える。
八年前のことを、自分よりよく覚えている人かもしれない。
澪はペンを置いた。
あのとき、窓口に来た女性は何を考えていたのだろう。
それを知っている人が、まだ会社にいる。
明日、その人に会う。
澪は机の上の確認書をもう一度見た。
自分で送信した文章が、まだ画面に残っている。
『当時それ以上の確認はしていない』
その一文を読んでから、澪はパソコンを閉じた。




