第12話 止めてください
火曜日の午後一時十五分。
澪は会議室の前で、持っていたクリアファイルの角を指で押さえていた。
中には昨日提出した確認書の控えが入っている。
薄い紙が三枚。
それだけのはずなのに、何度持ち替えてもしっくりこなかった。
廊下の突き当たりにある窓から午後の日差しが差し込み、床に長い四角形を作っている。会議室の扉には古い会議名を消した跡があり、すぐ脇の給湯室からは洗剤と温め直したコーヒーの匂いが漂ってきた。
澪は扉の横に掲示された予定表を確認した。
『旧配送センター事故関連記録の確認』
午後一時三十分から。
出席者の欄には、自分の名前と資料管理担当者、それから片桐という名字が書かれている。
昨日の夕方から、その名前が気になっていた。
結城紗江と同じ現場で働いていた人。
八年前の出来事を、覚えている人。
澪はスマートフォンを取り出した。
航から昼に届いていたメッセージが表示されている。
『今日、夕飯どうする?』
返信しようとして、指を止めた。
何を食べるか。
そんなことを今決められる自分が、少し羨ましかった。
『今日は帰りが読めない。また連絡する』
送信して、スマートフォンをしまう。
そのとき、背後から声がした。
「篠宮さんですか」
振り向くと、見知らぬ女性が立っていた。
三十代後半くらいだろうか。
紺色の作業用ジャケットに黒いパンツ。髪は後ろで一つにまとめてあり、肩には使い込まれたトートバッグを掛けている。
「はい」
「片桐です。今日はお時間いただいて、すみません」
女性は軽く頭を下げた。
「こちらこそ。わざわざ来ていただいて」
「今は別の拠点にいるんですけど、午後なら時間が取れたので」
片桐は扉の予定表を確認した。
「ここで合ってますよね」
「はい。まだ時間がありますけど、先に入っていましょうか」
「そうですね」
澪が扉を開けると、片桐は少しだけ後ろへ下がった。
先に入ってください、という仕草だった。
澪はその小さな遠慮を、なぜか忘れたくないと思った。
会議室には長いテーブルが一つと、椅子が六脚並んでいた。
暖房が効きすぎているらしく、外気に冷えていた頬が少しずつ熱を帯びていく。窓のブラインドは半分だけ下ろされ、細い光がテーブルの上に並んだ水の入った紙コップを照らしていた。
資料管理の担当者が到着し、今日の目的を簡単に説明した。
八年前の事故に関する資料照会の一環として、当時の受付担当者と現場勤務者が覚えていることを整理する。
記録で確認できた内容と、本人の記憶による内容は分けて残す。
確認できないことは、無理に結論を出さない。
担当者がそう話す間、片桐は頷きながら手帳を開いていた。
澪はその手帳の端が、少し毛羽立っていることに気づいた。
何年も使っているものなのだろうか。
紙の間には小さな付箋が何枚も挟まれていた。
「では、まず片桐さんから、当時の現場についてお話しいただけますか」
担当者が促した。
片桐は手帳から顔を上げた。
「どこから話したらいいですか」
「結城紗江さんと一緒に働いていた頃のことからで結構です」
「そうですか」
片桐は少し考えた。
「紗江さん、仕事にはうるさい人でした」
澪は思わず顔を上げた。
予想していた言葉と違ったからだ。
片桐は口元をわずかに緩めた。
「悪い意味だけじゃないです。細かいんですよ。荷物の置き方とか、作業後の確認とか。私なんか、何回注意されたか分かりません」
「厳しい方だったんですね」
担当者が言う。
「ええ。ただ、自分も同じようにやる人だったので、文句を言いにくかったんです」
片桐は手帳を閉じた。
「忙しいときに、いちいち確認してたら間に合わないじゃないですか。でも紗江さんは、それで誰かが怪我をしたら余計に時間がかかるって」
澪は膝の上で指を組んだ。
三宅が調べていた事故の被害者。
正式な報告書には、作業中に設備へ巻き込まれた従業員として名前が記されていた。
今、目の前で片桐が話しているのは、その報告書からは分からない女性だった。
仕事に厳しく、細かい確認を怠らない人。
誰かに注意するときには、少し言い方がきつくなることもあったのかもしれない。
そんな当たり前の性格を持った人間が、そこにはいた。
「事故の少し前から、設備の調子が悪かったんです」
片桐が言った。
担当者はペンを持ち直した。
「どのような不具合ですか」
「搬送ラインが、変な動きをすることがあって」
「変な動き?」
「止まったと思ったら、急にまた動くんです。いつもじゃなかったですけど」
片桐は自分の手元に視線を落とした。
「普通は、表示を確認してから作業するんです。でも、あの頃は表示と実際の動きが合わないことがありました」
澪は息を止めかけた。
事故報告書では、作業手順や周囲の確認不足が原因として挙げられていた。
「それは、会社へ報告していたんでしょうか」
担当者が尋ねた。
「何度か。現場の責任者にも言いました」
「記録は残っていますか」
「私はその場で口頭で伝えたこともあります。記録は、今のところ確認できていません」
片桐は言い終えると、少し肩を動かした。
「ただ、私たちも最初から大騒ぎしてたわけじゃないんです。変な音がすることなんて、古い設備だと珍しくなかったので」
「そうですか」
「でも、紗江さんは気にしてました」
片桐の指が、手帳の表紙を一度なぞった。
「あの人、設備が止まると困ることも分かってたんです。現場は時間で動いてるし、遅れた荷物は誰かが残って片づけなきゃいけない。だからこそ、ちゃんと止めて調べないと駄目だって言ってました」
「当時の責任者にも?」
「はい」
「どなたに伝えたか、覚えていますか」
片桐は少し迷ってから、名前を答えた。
「現場の管理者を通して話しました。長峰さんにも設備の話は上がっていたと思います。ただ、私が直接説明したわけではないので、そこは確認が必要です」
担当者は頷き、記録した。
澪は膝の上のファイルを見つめた。
長峰。
送別会でグラスを掲げていた男性。
荷物を止めないことが大切だと、繰り返し話していた。
その言葉が、別の重みを持ち始めていた。
「一度、若い人が怪我をしかけたことがあったんです」
片桐はそう言って、水を一口飲んだ。
「搬送ラインの近くに落ちたものを拾おうとして。設備が止まったと思ったんでしょうね。手を伸ばしたら、また動き始めて」
担当者が顔を上げる。
「そのときは、怪我はなかったんですか」
「ええ。紗江さんが引っ張ったので」
片桐は、自分の左腕を軽く掴んだ。
「作業着の後ろのほうを、こうやって」
澪はその手元を見ていた。
片桐の指が布のない腕を握り、離れる。
ほんの短い動作だった。
けれど、その仕草によって、八年前の現場の様子が急に近づいてきた。
機械の音。
積み上がる荷物。
止まったはずの搬送ライン。
手を伸ばした若い作業員。
そして、その身体を引き戻した女性。
澪の頭の中に、見たことのない景色が浮かぶ。
その場にいたわけではない。
だから実際に何が起きたのかは、片桐の話から想像するしかなかった。
それでも、紗江がそこにいたことを、初めて実感した。
「紗江さん、怒ったんですよ」
片桐が言った。
「怪我をしかけた人に?」
担当者が尋ねる。
「最初は、その人に。止まってるか確認してから触れって」
片桐は少し笑った。
「でも、すぐに言い直してました。ちゃんと止まらない機械のほうがおかしいって」
澪は顔を上げた。
「そのあと、紗江さんはどうしたんですか」
自分でも、思ったより強い声が出た。
片桐は澪を見た。
「一度、作業を止めて確認してました。そのあと、正式に設備を止めてもらうように話すって」
「それが、停止要請に?」
「そうだと思います」
片桐は頷いた。
「現場の判断だけじゃ、設備を長く止められないことがあるんです。だから、書類を出してちゃんと確認してもらう必要があった」
澪はファイルを開いた。
受付履歴の写し。
そこには、八年前の日付が印字されている。
『搬送設備停止要請』
受付担当者、篠宮澪。
澪は指先で紙を押さえた。
あの女性が、窓口に来た。
少し急いでいる様子だった。
書類の角を何度も伸ばしていた。
なぜそんなに急いでいたのか。
今まで、深く考えたことはなかった。
ただ仕事の手続きが急ぎだったのだと思っていた。
けれど、書類の向こうには、止まるはずの設備が動き出す現場があった。
その近くで作業する人がいた。
誰かが怪我をしかけていた。
それらを知ったうえで、紗江は窓口へ来たのだ。
「紗江さんには、小さい娘さんがいたんですよね」
澪は尋ねた。
片桐は驚いたように顔を上げた。
「知ってるんですか」
「ご主人が今も会社にいらっしゃるので」
「ああ、晴臣さん」
片桐は頷いた。
「そうです。あの頃、まだ保育園だったと思います」
しばらく考えてから、口元を少し緩める。
「紗江さん、娘さんの髪を結ぶのが苦手で」
「髪を?」
「ええ。朝はご主人と交代で支度をしてたらしいんですけど、紗江さんが結ぶと左右の高さが違っちゃうって」
片桐は自分の髪を指差した。
「娘さんに文句を言われるんだって、よく話してました」
澪は小さく笑った。
「そうだったんですね」
「それで、休憩中に私に練習させてくれって」
「練習?」
「私の髪で。いい歳した女二人が休憩室で何やってるんだって、周りに笑われました」
片桐はそこで笑った。
けれど、その笑いは長く続かなかった。
テーブルの上に置かれた紙コップを持ち上げ、縁へ唇をつける。
少し飲んでから、ゆっくり置いた。
「紗江さん、手先が不器用だったんですよ。仕事だと細かいところまで気にするくせに、髪の毛を結ぶのだけは全然うまくならなくて」
澪は視線を落とした。
事故報告書に書かれた名前。
結城紗江。
三十歳。
搬送設備事故による死亡。
そこには、娘の髪を結ぶのが苦手だったことなど、一文字も書かれていない。
当然だ。
事故の記録は、そういうものを書くための書類ではない。
けれど、記録に書かれていないもののほうが、ずっと多かった。
紗江は仕事をし、娘の髪を結び、同僚に注意し、帰りに買い物をしていたのだろう。
明日も同じように暮らすつもりで。
澪は膝の上の指を握り直した。
八年前、自分が書類を受け取ったとき。
紗江はまだ、生きていた。
面談が終わりかけた頃、片桐が確認書の写しへ視線を向けた。
「篠宮さん」
「はい」
「一つだけ、聞いてもいいですか」
担当者が二人を見た。
「記録に関係する内容でしたら、こちらでも確認します」
片桐は頷き、澪のほうへ身体を向けた。
「紗江さんが出した停止要請って、事故の前に受け付けられてたんですよね」
澪は喉の奥が少し詰まるのを感じた。
「はい」
「間違いないですか」
「電子記録にも残っています。私も受け取ったことを覚えています」
片桐は返事をしなかった。
開いていた手帳の角を指で押さえ、しばらくそこを見つめている。
「そうですか」
ようやく、小さく言った。
澪は続けた。
「ただ、その後の伝達状況については、まだ確認できていません」
「それは、分かっています」
片桐は頷いた。
声は静かだった。
だからこそ澪は、次の言葉が出てくるまでの時間を長く感じた。
「私たち、事故の後に説明を受けたんです」
片桐はテーブルの上の資料へ視線を落とした。
「設備を止める正式な要請は、事故が起きるまで確認されていなかったって」
澪は息を止めた。
「だから、現場からの報告が間に合わなかったんだと思ってました。紗江さんも途中で何かあったのかなって」
片桐はそこで言葉を切った。
廊下から台車の音が近づき、扉の前を通り過ぎていく。
小さな車輪が床の継ぎ目を越えるたびに、規則的な振動が響いた。
澪は動けなかった。
受付と正式確認は違う。
八年前、そう説明された。
その説明は、手続きの上では間違っていないのかもしれない。
しかし、今の片桐の話を聞くと、その区別が別の意味を持ち始める。
現場の人たちは、事故の前に停止要請が受け付けられていたことを知らなかった。
少なくとも、片桐は知らされていなかった。
「篠宮さん」
片桐がもう一度、名前を呼んだ。
澪は顔を上げた。
「その書類、本当に事故の前に届いていたんですね」
「……はい」
「紗江さんが、ちゃんと持っていったんですね」
澪は頷いた。
片桐の唇が、わずかに動いた。
けれど、すぐには言葉にならなかった。
やがて彼女は手帳を閉じ、膝の上に置いた。
「だったら、あの人はやることをやってたんですね」
その声を聞いた瞬間、澪は何かを返そうとした。
しかし、うまく言葉が出てこなかった。
やることをやっていた。
結城紗江は、設備を止めてほしいと申し出た。
その書類を、自分が受け取った。
そこまでは分かっている。
では、その先は。
紗江が亡くなるまでの間に、あの書類はどこへ行ったのだろう。
「一つ、確認させてください」
澪はようやく口を開いた。
「片桐さんたちは、事故の後まで、停止要請が受付されていたことを知らなかったんですか」
片桐は頷いた。
「少なくとも私は知りませんでした。事故の後に報告書が出て、そこで初めて正式な確認が遅れたって聞きました」
「そうだったんですね」
澪はそれ以上、続けられなかった。
担当者が二人の発言を整理し、記録へ残すことを確認する。
澪は頷いた。
片桐も頷いた。
面談は、それで終わった。
廊下へ出ると、片桐が足を止めた。
窓の外では、午後の陽が少し傾き始めている。遠くの建物の壁が橙色に染まり、床に落ちた光の中を細かな埃が漂っていた。
「篠宮さん」
「はい」
「今日は話せてよかったです」
澪は片桐を見た。
「こちらこそ。知らなかったことが多かったので」
「私もです」
片桐はバッグの持ち手を握り直した。
「八年も経ってから、こんな話をするとは思ってませんでした」
「……そうですね」
「でも、調べてくださってるんですよね」
澪はすぐには答えられなかった。
最初は、三宅からのメールがきっかけだった。
八年前の書類について尋ねられ、当時の受付記録を確認した。
三宅が亡くなり、何かおかしいと思った。
それで、資料を探し始めた。
自分がやろうとしていることを、はっきり決めたわけではなかった。
けれど片桐は、その行動を調べていると言った。
澪は手元のファイルを見た。
「まだ、何も分かっていないんです」
「それでも」
片桐は小さく首を振った。
「八年前は、みんな忙しかったんです。事故の後も仕事があって、次の日も荷物が来て。私も、聞いておきたいことがあったのに、結局そのままになってしまって」
澪は片桐の横顔を見た。
「だから、今度はちゃんと知りたいです」
片桐はそう言った。
澪は頷いた。
「私も、確認します」
言い終えてから、自分の声が少し硬くなっていたことに気づいた。
片桐は小さく頭を下げ、エレベーターのほうへ歩いていった。
澪はその背中を見送った。
やがて、曲がり角の向こうへ姿が消える。
廊下には、また静けさが戻った。
自席へ戻った澪は、面談内容の確認記録を開いた。
片桐が話した設備の不具合。
停止要請を出す前の現場の状況。
事故の後に受けた説明。
その一つ一つが、記録として残されていた。
澪は自分が発言した部分も確認した。
『事故前に停止要請を受理した』
間違いない。
その下には、片桐の証言が続いている。
『事故後、正式な停止要請は事故前には確認されていなかったと説明を受けた』
澪は画面を見つめた。
どちらの文章も、それぞれの人物が経験したことを記している。
しかし、その二つを並べると、どうしても間に何かが抜けているように見えた。
受付した書類は、どこへ行ったのか。
誰が見たのか。
なぜ現場には伝わらなかったのか。
そして、事故の後。
自分はなぜ、その違いを追及しなかったのだろう。
澪は椅子の背へ身体を預けた。
目を閉じると、八年前の光景が浮かんだ。
事故の後、当時の報告書について説明を受けた会議室。
久我が書類を指し示していた。
長峰も、その説明に頷いていた。
二人とも落ち着いていた。
声を荒らげることもなく、澪の質問へ順番に答えていた。
あのとき、自分の身体には何も起きなかった。
腕も、首筋も。
いつものかゆみは、どこにもなかった。
そのことに、どれほど安心しただろう。
澪は目を開けた。
机の上にある確認書の文字が、少しぼやけて見える。
受付と正式確認は違う。
そう説明された。
そして、自分は頷いた。
今になって考えると、あのとき本当に分からなかったことは別にあった。
事故の前に受け取った書類について、なぜ事故の後になるまで誰も動かなかったのか。
澪はファイルを閉じた。
その答えを、今度こそ確かめなければならない。
窓の外では、夕方の雲がゆっくり流れていた。
明日になれば、また仕事が始まる。
八年前と同じように。
けれど今回は、分からないことを分からないままにしておくつもりはなかった。




