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殺意アレルギー  作者: asnt2026


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13/30

第13話 発作のなかった会議

水曜日の午前九時十八分。

篠宮澪が出勤すると、机の上に茶封筒が置かれていた。

差出人は安全管理室。中には一枚の通知書と、古い事故報告書の写しが入っている。

『旧配送センター事故に関する受付記録の確認について』

その下に、午後一時から関係者への確認を行うと書かれていた。

出席予定者の欄には澪と久我千晴、それから長峰省吾の名前があった。

澪は封筒を裏返した。

誰かが先に開けた形跡はない。封の端はまっすぐ切られており、取り出した書類にも折れ目はなかった。

それなのに、三人の名前が並んでいるだけで、何かを見られてしまったような気がした。

「篠宮さん、これ見てもらっていいですか」

小森が声をかけてきた。

振り向くと、勤怠修正の申請書を二枚持っている。

「昨日の退勤時刻なんですけど、片方だけ承認が反映されなくて」

「どれ?」

澪は通知書を封筒へ戻し、申請画面を開いた。

小森が説明する内容を聞きながら、承認履歴を一つずつ確認する。

間違っていたのは申請ではなく、承認者の設定だった。

「これ、部署異動の前の上司が残ってるね」

「えっ、まだですか」

「人事情報は更新されてるけど、こっちの設定が変わってない」

「そういうこともあるんですね」

「ある。困ったことに」

澪が設定の修正を依頼すると、小森は大げさに頭を下げた。

「助かりました。私、また何かやらかしたのかと思って」

「今回は小森さんじゃなかったね」

「今回はって言いました?」

「気のせいじゃない?」

小森は不満そうな顔をしてから笑った。

澪も笑い返したが、会話が終わると視線は机の上の封筒へ戻った。

受付したという記録があっても、その先の処理が正しいとは限らない。

ついさっき、小森の申請で確かめたばかりだった。

ただし勤怠の承認なら、設定を直せば済む。

八年前の設備停止要請には、そういうやり直しができなかった。


午後零時四十分。

澪は社員食堂で買った小さなパンを、一口だけ食べて包み直した。

食欲がないというより、何かを噛んで飲み込む作業がひどく面倒だった。

窓の外では雲が低く垂れ込め、向かいの建物の非常階段が灰色に沈んでいる。食堂には揚げ油と味噌汁の匂いが残り、食器を戻す音が遠くから続いていた。

「食べないの?」

声をかけられて顔を上げると、久我が立っていた。

手には温かいお茶の紙コップを持っている。

「あとで食べます」

「そう。午後の確認が気になってる?」

澪は返事を迷った。

久我は向かいの椅子を引いた。

「十五分くらいなら話せるけど」

「課長も出席されるんですよね」

「うん。当時の事故報告の処理に関わってたから」

久我はお茶を一口飲んだ。

「最初に言っておくけど、今日は誰かの責任を決める場ではないよ。受付と報告書の内容を照らし合わせるための確認だから」

「分かっています」

「それならいい」

久我は紙コップをテーブルへ置いた。

「ただ、篠宮さんも覚えていないことは無理に答えないで。八年前の業務を、今の感覚だけで思い出そうとすると間違えるから」

その言い方に、澪は少しだけ顔を上げた。

「課長は、覚えていらっしゃいますか」

「何を?」

「事故の後、私が受付時刻について聞いたときのことです」

久我は目を細めた。

すぐには答えず、紙コップの縁へ指を添える。

「覚えてるよ。報告書の確認で、話したことは」

「私、あのとき納得していたんでしょうか」

言ってから、変な質問だと思った。

自分が何を考えていたのかを、他人に尋ねている。

久我も少し困ったように眉を上げた。

「そこまでは分からないな」

「ですよね」

「でも、質問はしてたよ。受付したのが事故の前だったのに、どうして報告書では後になってるのかって」

澪はパンの袋を押さえた。

「そうでしたね」

「ただ、受付と正式確認は違う。そこは今も変わらないよ」

「はい」

久我は一度時計を見た。

「あと、今日はあくまで確認だから。分からないことまで推測で話す必要はないし、逆に覚えてることを隠す必要もない。それでいい?」

「はい」

久我は立ち上がり、椅子を戻した。

「食べられるなら、少し食べておきなさい。午後、長くなるかもしれないから」

「課長はもう食べたんですか」

「さっき立ったまま」

「人にはちゃんと食べろって言うのに」

「管理職には例外が多いの」

澪は小さく笑った。

久我は軽く手を振り、食堂を出ていった。

澪は残ったパンを見つめた。

一度、包みを開く。

けれど手を伸ばしかけたところで、また閉じた。

八年前も久我は、落ち着いて説明してくれた。

そのことだけは間違いなかった。


会議室に入ると、長峰省吾はすでに席についていた。

送別会のときとは違い、濃い色のスーツを着ている。退職に向けた引継ぎのため、今週も何度か本社へ来ているらしかった。

「篠宮さんか」

澪を見ると、長峰は軽く頷いた。

「ご無沙汰しています」

「この間会ったばかりだろう」

「あ、そうでした」

長峰は口元を緩めたが、机の上の資料へすぐ視線を戻した。

午後一時。

安全管理室の担当者が会議を始めた。

目的は、八年前の事故に関する資料の照合だった。

設備停止要請票が事故前に受付されていたこと。

一方、正式な事故報告書では、停止要請の内容が事故後に確認されたと記されていること。

その経緯を、関係者の記憶と残された記録から確認する。

担当者がそう説明すると、長峰は椅子へ深く座り直した。

「当時の話を今さら確認するのはいいが、現場の事情はちゃんと理解してもらわないと困るな」

声が少し大きくなった。

担当者が頷く。

「もちろんです。まずは事実関係からお願いします」

長峰はテーブルを指で叩いた。

「書類が窓口へ届いたからといって、その瞬間に設備を止められるわけじゃない。現場には現場の判断がある」

澪は膝の上で指を組んだ。

その言葉には、覚えがあった。

八年前にも聞いた。

ほとんど同じ調子で。

「停止するには担当部門で内容を確認しないといけない。それに、稼働中のラインを止めるなら代替の手配も必要になる」

長峰は続けた。

「簡単に止めろと言うが、荷物が何千個も流れてるんだ。手順を飛ばしたら、それはそれで事故になる」

「では、要請が提出された時点で、不具合の報告自体は認識されていたのでしょうか」

担当者が尋ねた。

長峰は口を閉じた。

「何をもって認識と言うかだな」

「少なくとも、現場から停止の必要性が伝えられていたかどうかです」

「現場からの不具合報告は、以前からあった。古い設備だったからな」

「その中に、事故につながった不具合が含まれていた可能性は?」

「それは後からなら何とでも言える」

長峰の声は落ち着いていた。

ただ、さっきまで机を叩いていた指が止まっていた。

澪はその手元を見た。

八年前も、同じように資料を前にしたことがある。

そのときの長峰は、もう少し若かった。

黒い髪に白いものが混じり始めた頃で、現場の責任者として常に時間を気にしていた。

今は髪の半分ほどが白くなり、指の節も太く見える。

それでも、説明の仕方はほとんど変わらなかった。

*** 

八年前。

事故が起きた翌々日、澪は会議室へ呼ばれた。

まだ入社して日が浅く、会議室の席順を決めるだけでも上司の顔色をうかがっていた頃だった。

机の上には事故報告書の草案が置かれていた。

資料の角がきれいに揃えられ、表紙には赤い文字で『確認用』と印刷されている。

澪はその二枚目を開いて、手を止めた。

『設備停止要請については、事故発生後に正式確認』

最初は読み間違えたのだと思った。

事故の前に書類を受け取っている。

自分で受付印を押した。

それなのに、ここには事故の後と書かれている。

澪は隣にいた久我へ顔を向けた。

「すみません。ここなんですけど」

久我は書類を覗き込んだ。

「どこ?」

「停止要請の確認が事故の後になっています。でも、受付したのは事故の前だったと思うんです」

「うん。受付は前だったね」

澪は少し肩の力を抜いた。

覚え違いではなかった。

ところが久我は、そのまま次の行を指で押さえた。

「ただ、これは正式に内容を確認した時点の話だから。総務で受付したこととは別なんだよ」

「別、ですか」

「受付は、書類が会社へ届いたという記録。正式確認は、担当部署が内容を確認して処理できる状態になったこと。似てるけど違うでしょう」

久我は、いつものようにゆっくり説明した。

澪にも分かるよう、書類の欄を一つずつ示してくれた。

「事故の前に受け取ったことは、受付台帳にも残ってる。だからそこを変える必要はないの」

澪は頷きかけた。

確かに、受付台帳には自分の名前が残っている。

嘘の時刻を書かされたわけではない。

それでも、報告書を読む人はどう受け取るのだろう。

事故の前に停止を求める書類が届いていたことを、これだけで分かるのだろうか。

「でも、結城さんは急いでいるって言ってました」

思い切って口にすると、長峰が顔を上げた。

「現場の申請は、みんな急いでるんだ」

澪は背筋を伸ばした。

長峰は続けた。

「故障も、人員不足も、荷物の遅れも。現場からすれば、どれもすぐに対応してほしい話だ。それを全部、窓口で止めるかどうか判断するわけにはいかない」

「はい」

「正式に確認できたのが事故の後だったということと、書類が前に届いていたということは、別の話なんだよ」

久我がその横で頷いた。

「篠宮さんがやるべき受付はできてる。あとは担当部署の手続きの問題だから」

澪は自分の手元を見た。

指先が冷えていた。

事故が起きた日、窓口へ来た女性の顔が浮かぶ。

書類の端を押さえていた黒く汚れた指。

「急ぎなんです」

あの声を思い出すと、何かを言い足さなければいけない気がした。

けれど、どんな言葉が必要なのか分からなかった。

久我も長峰も、嘘をついているようには見えなかった。

落ち着いている。

説明に迷いがない。

澪の腕には、何の変化も起きていなかった。

かゆみも、熱もない。

あの体質が何を感じ取るのか、澪はすでに何度も経験していた。

だからこそ、身体が静かなことにほっとしていた。

少なくとも、この二人が紗江を殺そうとしていたわけではない。

そう思った。

そこから先を、当時の澪は考えなかった。

「分かりました」

口に出した自分の声が、少し遠く聞こえた。

久我は小さく頷き、次の書類をめくった。

会議はそのまま進んだ。

澪はもう質問しなかった。


「篠宮さん」

呼ばれて、澪は顔を上げた。

現在の会議室。

安全管理室の担当者がこちらを見ていた。

「事故後、受付時刻について確認したことがあるそうですね」

「はい」

「そのとき、どのような説明を受けましたか」

澪は一度、久我を見た。

久我は手元の資料を確認しており、視線は合わなかった。

「受付と正式確認は別の手続きだと説明されました」

「それで納得されたんでしょうか」

簡単な質問だった。

澪はすぐに答えようとして、口を閉じた。

納得した。

そう言えば、当時の経緯はすっきりする。

実際、説明を聞いた後はそれ以上追及しなかった。

しかし、あれを納得と呼んでいいのだろうか。

当時の自分は、何も問題がなかったと理解したのではない。

問題があるかどうかを、もう考えたくなくなったのかもしれない。

「説明を受けて、それ以上の確認はしませんでした」

澪は答えた。

担当者が顔を上げる。

「納得したということでしょうか」

「……そういうことになるのかもしれません。でも、当時から少し引っかかってはいました」

「どの部分ですか」

「受付したのが事故の前だったということです。正式な確認が後だったとしても、その前に書類が届いていたことは変わらないので」

長峰が椅子を動かした。

「だから、それは手続きの違いだと説明しただろう」

「はい」

澪は顔を上げた。

「その説明を受けたことは覚えています」

長峰は何か言いかけたが、澪が続けたため口を閉じた。

「ただ、私が知りたいのは、その手続きの間に何があったのかということです。停止要請が受付された後、担当部署へいつ伝わったのか。事故の前に誰かが内容を確認したのか。それがまだ分かっていません」

会議室が静かになった。

久我が資料を一枚めくる。

長峰は澪を見ていた。

担当者がペンを持ち直した。

「その点は、現在、現場の伝達記録を確認しています。今日の段階では未確認として残します」

澪は頷いた。

未確認。

以前なら、その言葉を聞いたところで質問を終えていただろう。

今も答えが出たわけではない。

ただ、記録に残る。

誰かが、まだ分かっていないことを確認しようとしている。

その事実だけは。


会議が終わると、長峰が澪を呼び止めた。

廊下には西日が差し込み、窓際の床だけが暖かくなっていた。給湯室から流れてくるコーヒーの匂いに、清掃用の洗剤の匂いが混ざっている。

「篠宮さん」

澪は足を止めた。

「はい」

長峰は会議室の扉が閉まるのを待った。

「君が資料を調べてることは聞いてる」

「はい」

「気になることがあるのは分かる。ただ、八年前の出来事を、今の資料だけで判断しないでほしい」

澪は答えなかった。

「現場には現場の事情があった。何も知らないまま仕事を続けてたわけじゃない」

「では、停止要請が出ていたことも、事故の前にご存じだったんですか」

長峰は目を細めた。

通路の向こうで台車が止まり、社員が二人、段ボール箱を運び始める。

その音が収まるまで、長峰は黙っていた。

「不具合の報告は受けていた」

「停止要請そのものは?」

「正式に確認したのは後だ」

また、同じ言葉だった。

澪は長峰の顔を見た。

怒っているようにも見える。

困っているようにも。

けれど、そのどちらなのかを確かめる方法はない。

「分かりました」

澪は答えた。

長峰は少し肩の力を抜いた。

「なら、いい」

「ただ、もう一つだけ」

澪が言うと、長峰は足を止めた。

「事故の前に不具合の報告を受けていたのなら、どうして設備を止めなかったんですか」

長峰は口を開いた。

しかし、すぐには答えなかった。

遠くでエレベーターの到着音が鳴る。

澪はその間も、長峰を見ていた。

以前なら、相手が困った顔をすれば、自分の質問が悪かったのだと思っていた。

上司を困らせることが、仕事の失敗のように感じられた。

今も、そう思わないわけではない。

それでも今回は、先に目を逸らさなかった。

「設備を止めるかどうかは、要請一枚で決まるものじゃない」

長峰はようやく言った。

「そのときの状況を見て判断するんだ」

「その判断について、当時の記録は残っているんでしょうか」

長峰の眉が動いた。

「そこまで調べるつもりか」

澪は頷いた。

「はい」

短い返事だった。

長峰はしばらく澪を見つめた。

やがて、何か言いかけた口を閉じ、上着の裾を直した。

「分かった。必要なことがあれば、正式に聞いてくれ」

そう言って、エレベーターのほうへ歩き出した。

澪はその背中を見送った。

自分の腕を確かめる。

発疹は出ていなかった。

かゆみもない。

長峰は、今も誰かを殺そうとしているわけではないのだろう。

少なくとも、自分の身体は何も知らせていない。

けれど、あの事故が起きた理由まで分かったわけではなかった。

澪は袖口を下ろした。

八年前、同じように反応のなかった腕を見て、安心した。

今は、それだけで安心することができなかった。


午後六時。

澪が帰り支度を始めていると、メールが届いた。

資料管理担当からだった。

『外部保管先より、旧配送センターの現場確認簿の一部について所在確認が取れました。閲覧手続きの詳細は追ってご案内します』

澪は画面を見た。

まだ中身が見つかったわけではない。

ただ、資料の所在が確認できた。

八年前の事故について、当時の現場が残した記録。

その中に、何が書かれているのだろう。

澪は返信を開きかけ、少し考えてから手を止めた。

今日はもう遅い。

確認するなら、明日の業務時間に正式な手続きを進めればいい。

金曜日の夜のように、一人で会社へ戻る必要はない。

澪はパソコンを閉じ、バッグを肩へ掛けた。

そのとき、スマートフォンが震えた。

航からだった。

『今日、帰り遅い?』

澪は画面を見つめた。

しばらくして、短く返信する。

『もう帰る。今日はちゃんと食べたい』

すぐに返事が届いた。

『珍しく素直』

『取り消します』

『もう予約した』

澪は笑った。

会議室で長峰に質問したとき、声が震えていなかったかどうかは分からない。

久我に、余計なことを言ったと思われていないだろうか。

明日から、仕事がやりにくくなるかもしれない。

そんなことばかり考えていた。

けれど、今夜は航と夕飯を食べる。

その予定があるだけで、少しだけ帰り道が短く感じられた。

澪はスマートフォンをしまい、オフィスの明かりを背にして廊下へ出た。

八年前の会議室で、自分は質問をやめた。

今日は、やめなかった。

まだ、答えは見つかっていない。

それでも、その違いだけは確かだった。

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