第14話 渡すはずだったもの
木曜日の午前八時二十六分。
真田亜紀が捜査本部へ入ると、佐伯が机の上に二冊のファイルを並べていた。
「おはようございます。朝凪ロジスティクスから、追加の資料が届きました」
「早いわね」
「昨日、社内で昔の事故について確認をしたそうです。その内容も含まれています」
真田は上着を脱ぎ、椅子へ掛けた。
窓際では古いブラインドがわずかに揺れている。朝の日差しはまだ弱く、向かいのビルの窓ガラスだけが白く光っていた。室内には淹れたてのコーヒーとコピー用紙の匂いが漂い、電話の着信音が離れた席で何度か鳴っている。
「例の停止要請?」
「はい。事故前に受け付けられていたことは、会社側も確認しています」
真田はファイルを開いた。
最初のページに記されていたのは、八年前の死亡事故に関する社内確認の概要だった。
事故前に設備停止要請が提出されていた。
受付担当者は篠宮澪。
一方、事故報告書では、停止要請の正式確認が事故後だったとされている。
ここまでは、すでに把握していた。
真田は次のページをめくった。
昨日の社内確認で、澪が当時の説明について改めて質問していた。
『受付後、担当部署へいつ伝達されたのか確認したい』
さらに、現場責任者だった長峰省吾が、事故前から設備の不具合報告を受けていたことを認めている。
真田はそこで指を止めた。
「この説明は、事故の直後にもしていたのかしら」
佐伯が顔を上げる。
「長峰さんのですか」
「ええ。設備の不具合について以前から知っていたという話」
佐伯は資料を確認した。
「当時の報告書には、そこまではっきり書かれていませんね」
「そう」
真田は事故報告書の写しを開いた。
そこには、作業手順の不徹底や設備周辺の確認不足が原因として記載されている。
しかし、現場では事故前から設備に問題があると分かっていた可能性がある。
その問題を認識していながら稼働を続けたのなら、事故の評価は変わってくる。
ただし、それだけでは現在の殺人事件の証拠にならない。
「八年前の事故を調べ直す必要はある。でも、私たちがまず確かめるべきなのは、三宅さんがなぜ殺された可能性があるのかということね」
真田は資料を閉じた。
「彼が最後に何をしようとしていたのか、そこをもう少し具体的に調べたい」
三宅尚人が暮らしていたのは、駅から十分ほど離れたマンションだった。
真田と佐伯が到着したのは午前十時前。
建物は築二十年ほどで、共用廊下の手すりにはところどころ塗装の剥がれがあった。入口の植え込みでは小さな白い花が咲き、湿った土の匂いが漂っている。
三宅の部屋は三階にあった。
捜査のための現場確認はすでに済んでいるが、今回は遺族から追加で話を聞き、本人が残した記録について確認する予定だった。
玄関を開けたのは、三宅の姉だという女性だった。
「どうぞ。まだ片づいていなくて、すみません」
「こちらこそ、お時間をいただいてありがとうございます」
真田が頭を下げると、女性は小さく頷いた。
部屋には生活の匂いが残っていた。
玄関には男性用の靴が二足。棚の上には鍵を置くための小皿があり、その横に使いかけのハンドクリームが置かれている。
リビングへ入ると、窓際に小さな観葉植物があった。
葉の先が少し茶色くなっている。
姉はその植物を見て、かすかに笑った。
「弟、こういうの苦手だったんです」
真田は視線を向けた。
「植物ですか」
「ええ。買っては枯らして。もうやめればいいのに、また買ってくるんですよ」
女性は鉢の縁を指で触った。
「これも、前に私が水をやりすぎじゃないかって言ったんですけど、本人は足りないんだと思ってたみたいで」
佐伯が部屋の奥に目を向ける。
本棚には仕事関係の書籍が並び、その隣に旅行雑誌が数冊置かれていた。
机の上には筆記具とメモ帳。
冷蔵庫には、スーパーの割引券が磁石で留められている。
真田はその光景を、しばらく見ていた。
事件の資料では、三宅尚人は四十六歳の元監査担当者だった。
旧配送センターの外階段で死亡した人物。
八年前の事故を調べていた人物。
けれど、この部屋で暮らしていたのは、植物の水やりを間違え、スーパーの割引券を冷蔵庫に貼る男だった。
机の端には、読みかけの文庫本が伏せられている。
栞を挟まずに置いてあるせいで、ページが少し波打っていた。
三宅は、もうその続きを読むことができない。
「弟は、何でも時間がかかる人でした」
姉はテーブルを挟んで座った。
真田は手帳を開いた。
「仕事でも、そうだったんでしょうか」
「そうだったと思います。昔から、何かを決める前に調べるんです」
女性は少し笑った。
「この前なんか、掃除機を買うのに二か月も悩んでました。値段も性能も全部比べて、結局、最初に気に入ってたのを買って」
佐伯が小さく笑った。
真田も口元を緩めた。
「慎重な方だったんですね」
「慎重というか、決めてから後悔するのが嫌だったんでしょうね」
姉はそこで言葉を切った。
指先で湯呑みを回し、少し冷めた茶を一口飲む。
「でも、最近は違いました」
真田は顔を上げた。
「どう違ったんですか」
「何かを急いでいるみたいで」
「八年前の事故について、何か話していましたか」
女性は頷いた。
「詳しいことは分かりません。ただ、昔の会社で亡くなった人のことを調べてるって」
「結城紗江さんのことですね」
「ええ。名前も聞きました」
女性は手元の湯呑みを見つめた。
「弟は、あまり仕事の話を家族にしない人だったんです。でも、その事故については何度か話していました」
「どんなことを?」
「ちゃんと調べれば分かるはずだったのに、当時はそこまでできなかったって」
真田はペンを止めた。
「三宅さんは、事故の調査に関わっていたんですか」
「監査の仕事をしていましたから、資料を確認する立場ではあったみたいです。ただ、直接の担当だったかどうかまでは」
女性は首を横に振った。
「弟、前にこんなことを言ってました。書類が揃っていると、それだけで安心してしまうことがあるって」
真田は顔を上げた。
「安心、ですか」
「ええ。必要な欄が埋まっていて、責任者の確認印があって、提出期限も守られている。それを見ると、ちゃんと処理されていると思ってしまうって」
女性は少し考えた。
「でも、本当に確認しなきゃいけないことが、そこに書いてあるとは限らないんだそうです」
真田はゆっくり頷いた。
昨日届いた事故報告書が、頭に浮かぶ。
受付と正式確認。
二つの記録は、それぞれ異なる事実を示している。
しかし、どちらも形式上は正しいというだけで、事故が起きた理由まで説明できるわけではない。
「弟は、そのことをずっと気にしていたんだと思います」
女性は続けた。
「何か見つかったのかもしれません。亡くなる少し前から、資料を見直しているって言ってましたから」
「どのような資料か、ご存じですか」
「そこまでは。ただ、今度こそ人に説明できる形にしたいって」
「人に?」
女性は頷いた。
「事故で亡くなった方のご家族です」
三宅の机には、書類を分類するための小さな引き出しがいくつもついていた。
真田は、すでに確認を終えている資料の写しを取り出した。
仕事用のメモ。
保管記録の一覧。
旧配送センターの図面。
その中に、一枚の下書きがあった。
『結城様』
冒頭だけが書かれ、その下には何度も修正した跡が残っている。
文章は最後まで完成していなかった。
事故当時の確認について、説明したいことがある。
資料を整理したうえで、改めて連絡したい。
そのような内容だった。
ただし、そこに書かれていることだけでは、三宅が具体的に何を発見したのかまでは分からない。
「これ、弟が書いたんでしょうか」
姉が尋ねた。
「その可能性は高いと思います。筆跡もほかの記録と一致する部分がありますが、正式な確認はこれからです」
「そうですか」
女性は下書きを見つめた。
「何度も書き直してるんですね」
真田は頷いた。
文章の途中には、消した跡があった。
『当時の報告内容について』
そこまで書いて、次の言葉を消している。
別の行には、『確認できた事実を』という言葉が残っていた。
何をどう伝えるべきか。
相手にどこまで話せるのか。
三宅はそれを考えていたのだろう。
真田は資料を元の位置へ戻した。
「三宅さんは、結城さんのご家族へ実際に連絡していたのでしょうか」
姉は首を傾げた。
「電話で話すつもりだとは言ってました。でも、連絡したかどうかまでは分かりません」
「ありがとうございます」
真田は手帳へ書き込んだ。
三宅は資料を調べ、遺族へ説明しようとしていた。
そして、その前に旧配送センターで亡くなった。
偶然かもしれない。
しかし、その可能性だけで調査を止めるわけにはいかなかった。
「これだけ調べていたのに、誰にも話さなかったんでしょうか」
部屋を出た後、佐伯が言った。
マンションの共用廊下には冷たい風が流れていた。
外階段の手すりがわずかに湿っていて、遠くから電車の走る音が聞こえる。
真田は歩きながら答えた。
「話していたと思うわ。牧野さんにも相談していたし、会社の人にも問い合わせてる」
「でも、誰に何を伝えたのかは、まだ全部分かってない」
「そうね」
佐伯は手帳をめくった。
「亡くなる前の金曜日も、何人かに連絡していましたよね」
「ええ」
「篠宮さんにも。総務の担当者にも」
「そう」
真田は足を止めた。
三宅は、自分の死が近いと知っていたわけではない。
翌日に牧野と資料を確認する約束をしていた。
遺族へ渡す説明を、何度も書き直していた。
その人間が、金曜日の夜に旧配送センターへ行った。
何かを確かめるためだったのか。
誰かに呼ばれたのか。
それとも、自分から会おうとしたのか。
まだ分からない。
ただ一つ、以前よりはっきりしたことがあった。
三宅は八年前の事故について、会社の内部だけで話を終えるつもりではなかったらしい。
「佐伯くん」
真田が言った。
「三宅さんが最後に連絡を取った会社関係者を、もう一度整理して」
「分かりました」
「それと、結城紗江さんのご家族へ連絡があったか確認したい」
佐伯は頷いた。
「ご主人は、今も朝凪ロジスティクスに勤務しているそうです」
「そうなの?」
「はい。結城晴臣さん、四十一歳です」
真田はその名前を手帳に書いた。
結城晴臣。
事故で妻を亡くした男性。
八年前の死亡事故について、今も何かを知ろうとしているのだろうか。
真田は歩き始めた。
午後三時四十分。
捜査本部へ戻ると、三宅の通信記録に関する追加の照会結果が届いていた。
佐伯が資料を広げる。
「牧野さんへの連絡以外にも、事故関係者への問い合わせが複数あります。ただ、内容が確認できていないものもあります」
「相手方への確認は?」
「順番に進めています」
真田は一覧を見た。
金曜日の夕方。
篠宮澪へのメール。
その後も、社内関係者との連絡が続いている。
夜になってからの通信もあった。
そして、午後十時四十一分。
牧野へ送られたメッセージ。
『担当者との確認がまだ終わらない。明日の件は予定どおりで』
真田はそこを指で押さえた。
「この担当者が誰か、まだ分からないのね」
「はい。相手を特定できる直接の記載はありません」
「会社の資料整理に関わっていた人間の誰かかもしれないし、別の関係者かもしれない」
「そうですね」
真田は頷いた。
「ここは推測で埋めないでおきましょう」
佐伯はメモを取った。
そのとき、机の電話が鳴った。
佐伯が受話器を取り、名乗る。
少し話してから、真田へ顔を向けた。
「結城晴臣さんと連絡が取れました」
真田は受話器を受け取った。
「お電話代わりました。警察の真田と申します」
電話の向こうでは、低い機械音が続いていた。
作業場か、車の近くにいるのかもしれない。
『結城です』
男の声は落ち着いていた。
「突然のお電話、申し訳ありません。八年前の事故と、最近亡くなられた三宅尚人さんについて、お話を伺いたいのですが」
少し間があった。
『三宅さんのことですか』
「はい。ご存じでしたか」
『知っています』
短い返事だった。
「最近、三宅さんと連絡を取られましたか」
電話の向こうで、何か金属のぶつかる音がした。
それから、男が息を吐く音が聞こえた。
『電話がありました』
真田はペンを持ち直した。
「いつ頃でしょうか」
『亡くなる少し前です』
「どのようなお話でしたか」
結城はすぐには答えなかった。
機械音が遠ざかり、周囲が少し静かになる。
どこかへ移動したのかもしれない。
『妻の事故について、確認したいことがあるって』
「三宅さんから、具体的な資料は見せられましたか」
『いいえ』
「では、何を確認したかったのかは」
『詳しくは聞いていません。ただ、今までの説明と違うところがあるかもしれないって』
真田は手帳へ書き込んだ。
今までの説明と違うところ。
その言葉を、心の中で繰り返した。
「結城さん」
真田が言った。
「差し支えなければ、直接お話を伺えませんか」
しばらく返事がなかった。
真田は急かさず待った。
やがて、結城が口を開いた。
『分かりました』
「ありがとうございます。ご都合のよい日時を」
『その前に、一つ聞いてもいいですか』
声の調子が少し変わった。
「はい」
『三宅さんは、事故だったんですか』
真田は目を閉じかけた。
答えを選ぶ。
「現在、事件と事故の両面から調べています。現時点では、まだ結論は出ていません」
受話器の向こうで、短い息が漏れた。
『そうですか』
「ご心配をおかけしますが、分かっている事実から確認を進めています」
結城は黙っていた。
真田は次の言葉を待った。
やがて、男は低い声で言った。
『八年前も、同じことを言われました』
真田のペンが止まった。
『分かっていることから確認するって。まだ結論は出ていないって』
「結城さん」
『すみません。あなたを責めているわけじゃありません』
声は荒れていなかった。
むしろ、言葉を選びながら話しているように聞こえた。
『ただ、三宅さんもそう言っていたんです。ちゃんと確認してから話したいって』
真田は受話器を握り直した。
『それで、あの人が亡くなった』
電話の向こうで、また機械の音が近づいてきた。
「結城さん。三宅さんと最後に話したときのことを、詳しく教えていただけますか」
『会って話したほうがいいと思います』
「分かりました」
『明日の午後なら、時間を取れます』
真田は予定を確認した。
「では、こちらから場所をご案内します」
『お願いします』
通話が終わった。
真田は受話器を置いた。
佐伯が顔を上げる。
「どうでした?」
「三宅さんから連絡があったそうよ。亡くなる少し前に」
「内容は?」
「八年前の事故について、今までの説明と違うところがあるかもしれないと」
佐伯は手帳を開いた。
「それって、受付時刻のことですかね」
「そうかもしれない。でも、そこだけとは限らないわ」
真田は机に置かれた事故報告書を見た。
八年前に作成された書類。
関係者の確認印。
整った文章。
そこには、一人の女性が亡くなった経緯が記されている。
けれど、三宅が調べようとしていたのは、その書類に書かれていないことだったのかもしれない。
真田は新しいページを開いた。
『結城晴臣 明日面談』
その下に、一行加える。
『三宅が何を伝えようとしていたか』
ペンを置いたところで、佐伯が訊いた。
「真田さん。三宅さんが誰かに殺されたとしたら、やっぱり八年前の事故が理由なんでしょうか」
真田はすぐには答えなかった。
窓の外では、夕方の光がビルの壁を赤く染め始めている。
誰かが事故の真相を調べていた。
その人物が亡くなった。
調べていた内容に、知られたくないことがあったのかもしれない。
けれど、今分かっているのはそこまでだった。
「理由を決めるのは、まだ早いわ」
真田は言った。
「ただ、三宅さんが亡くなる前に何をしようとしていたのかは、少しずつ見えてきた」
佐伯は頷いた。
真田は手帳を閉じた。
八年前に亡くなった女性。
その死を調べ続けていた男。
そして、妻の死について、今も説明を待っている夫。
三人の名前が、同じ資料の上に並んでいた。
明日、その最後の一人と会う。
真田は机の上の時計を見た。
午後四時十二分。
三宅のメッセージに残されていた午後十時四十一分まで、まだ六時間以上ある。
何かを確かめようとしていた男が、その夜に何を見つけたのか。
今のところ、その答えを知っている人物は見つかっていなかった。




