第15話 帰る場所
金曜日の午前十一時過ぎ。
篠宮澪は、本社一階の自動販売機の前で結城晴臣を見かけた。
その姿に気づいたのは、先に声をかけられたからだった。
「篠宮さん」
振り向くと、結城が少し離れた場所に立っていた。
紺色の作業用ジャケットに黒いスラックス。片手には薄い書類ケースを持ち、もう一方の手には社員証を握っている。
送別会の夜よりも、顔色が悪く見えた。
「結城さん。お疲れさまです」
「お疲れさまです。今、少しいいですか」
澪は持っていた財布をバッグへ戻した。
「はい。大丈夫です」
「仕事中ですよね」
「今は休憩なので」
結城は頷いたが、すぐには話し始めなかった。
自動販売機の冷却装置が低く唸っている。ガラス張りの正面玄関からは秋の弱い日差しが入り、床に落ちた光の中を社員が何人か通り過ぎていった。外で植え込みに水を撒いているらしく、開閉する扉から湿った土の匂いが流れ込んでくる。
結城は通路の奥を見た。
「ここだと、少し」
「向こうの休憩スペースに行きますか」
澪が尋ねると、彼は小さく頷いた。
休憩スペースには二人掛けのテーブルが三つ並んでいた。
昼にはまだ早いため、ほかに利用者はいない。
澪は窓際の席へ腰を下ろした。
結城は向かいに座ったものの、書類ケースを膝に載せたまま開こうとしなかった。
「片桐から聞きました」
最初にそう言った。
澪は顔を上げた。
「片桐さんから?」
「ええ。先日、篠宮さんと話したって」
「はい。事故の当時のことを、いろいろ教えていただきました」
結城は頷いた。
「紗江が停止要請を出してたこと、確認できたんですね」
澪は背筋を伸ばした。
「はい。事故の前に私が受け取った記録は残っています」
「そうですか」
結城は書類ケースの縁を親指で押した。
ケースの中には何枚か紙が入っているようだったが、何が書かれているのかは見えなかった。
「片桐から電話があったんです。昨日の夜」
「そうだったんですね」
「最初、何の話かと思いました。急に昔のことを聞いてほしいって言うから」
結城はそこで口を閉じた。
窓の外を走る配送車へ視線を向ける。
白い車体が建物の陰へ入り、すぐに見えなくなった。
「妻が亡くなった後、会社から説明を受けたんです」
澪は黙っていた。
「設備の異常については確認中だった。正式な停止要請が確認されたのは事故の後だった。だから、事故が起きる前に設備を止める判断はできなかったって」
結城は、文章を読み上げるように言った。
何度も頭の中で繰り返してきた言葉なのだろう。
途中で言い淀むことも、言い直すこともなかった。
「その説明は、間違っていたんでしょうか」
澪は指を組み直した。
「今の段階では、そこまでは分かりません」
結城の目がこちらへ向いた。
澪は続けた。
「正式な確認が事故の後だったという記録はあります。ただ、事故の前に停止要請が受け付けられていたことも確かです。その間に誰が何を確認したのか、まだ調べています」
結城はしばらく澪を見つめた。
そして、ようやく書類ケースをテーブルへ置いた。
「篠宮さんは、妻に会ったことがあるんですよね」
「はい」
「覚えていますか」
澪は頷いた。
「窓口へ来られたときのことを、少し」
「どんな様子でした?」
予想していなかった質問だった。
澪は目の前の紙コップを見た。
手をつけていない水が、照明を受けて静かに光っている。
「急いでいらっしゃいました」
結城は黙っている。
「作業着で、書類を持って来られて。手が少し汚れていて、紙の端にも黒いものがついていたのを覚えています」
「油ですかね」
「分かりません。でも、現場から直接来られたんだと思います」
澪は少し考えた。
「設備を止めてほしいという申請で、早めに確認してほしいとおっしゃっていました」
結城は目を伏せた。
「そうですか」
澪はその表情を見て、次の言葉を探した。
けれど、うまく見つからなかった。
何を言っても、受け取った書類の話にしかならない。
結城が聞きたいのは、きっとそれだけではない。
「妻は、仕事の話を家ではあまりしませんでした」
結城が言った。
「どうせ俺も似たような仕事をしてたんで、話し始めるとお互い文句ばかりになるから」
少しだけ口元が緩んだ。
「それでも、あの頃は何度か設備の話をしていました」
「不具合のことですか」
「ええ。止まったと思ったものが動くんじゃ、作業する人間はたまらないって」
結城は指先でテーブルの縁をなぞった。
「俺も、まず上司へ報告しろとしか言えませんでした。現場ごとに管理の仕方は違うし、外から何か言っても余計な口出しになるかと思って」
澪は結城の手元を見ていた。
「紗江さんは、何と?」
「言いましたよ。分かってるって」
結城は短く笑った。
「そういうことじゃないんだって、怒られました」
「そういうことじゃない?」
「報告するかしないかの話じゃないって。ちゃんと伝えても動いてもらえないなら、どうすればいいんだって」
窓際のブラインドが揺れた。
金属の薄い板が触れ合い、小さな音を立てる。
「妻は、自分が怪我をすることばかり心配してたわけじゃないんです」
結城は声を落とした。
「若い作業員が危ない目に遭ったことがあって、その子がまた同じところで作業するのを嫌がってました」
片桐が話していた出来事だった。
澪は頷いた。
「聞きました。紗江さんが作業員の方を引っ張って助けたって」
「ええ」
結城は一度、喉を鳴らした。
「帰ってきてからも、その話をしてました。あの子が怪我しなくてよかったって。それから、自分が見ていないときに同じことが起きたらどうするんだって」
澪は唇を閉じた。
結城は視線を上げなかった。
「だから、止めてもらうしかないって言ってたんです」
その声は静かだった。
「設備を一度止めて調べて、それで何もなければまた動かせばいい。そう言ってました」
澪は胸の前で組んでいた指をほどいた。
八年前、窓口に来た女性。
書類の端を押さえていた指。
急いでほしいと言った声。
あのとき紗江が求めていたものが、少しだけ形を持った。
自分の仕事を楽にするためではない。
誰かが危ない場所で働き続けなくても済むように。
そのために、紗江は書類を持って来た。
澪はその書類を受け取った。
そこから先が、まだ分からない。
結城は書類ケースを開き、一枚の写真を取り出した。
小さな女の子が、二つに結んだ髪を揺らして笑っている。
片方だけ、結び目が少し高い。
澪は思わず顔を近づけた。
「娘です。四歳の頃の」
「かわいいですね」
「今は、こういうこと言うと嫌がられます」
結城は写真を見た。
「妻が結んだんですよ」
澪は顔を上げた。
片桐が話していたことを思い出した。
髪を結ぶのが苦手だった紗江。
休憩時間に同僚の髪で練習していた女性。
「片方だけ高くなってますね」
澪が言うと、結城はようやく笑った。
「そうなんです。娘が怒って、もう一回やってって言うんですけど、やり直すと今度は反対側が高くなる」
「大変ですね」
「朝から何度もやってましたよ。最後は俺が代わっても、似たようなもんでしたけど」
結城は写真の角を押さえた。
「結局、その日はこのまま保育園へ行ったんです」
澪は写真を見つめた。
髪の高さが揃っていないことなど、気にしていないような笑顔だった。
「娘さん、今は十二歳なんですよね」
「ええ」
「もう自分で結べますよね」
「最近は俺が触ろうとすると怒ります」
結城は写真をケースへ戻した。
「ただ、たまに聞いてくるんです」
澪は顔を上げた。
「何をですか」
「これ、母さんなら何て言うと思うって」
結城はケースの留め具を閉じた。
乾いた音がした。
「学校のことだったり、友達のことだったり。俺に聞けばいいような話なのに、わざわざそんな言い方をするんです」
澪は何も言えなかった。
「分かりませんよね。俺だって、妻なら何て言ったかなんて全部は分からないんですから」
結城は窓の外へ目を向けた。
「でも、何か答えてやらないといけないでしょう」
澪は、膝の上で手を重ねた。
「長峰さんの送別会に、結城さんもいらっしゃいましたよね」
話題を変えるつもりはなかった。
ただ、そこまで聞いているうちに、澪はあの夜の結城を思い出していた。
ほとんど減らなかったビール。
長峰が現場の仕事について話していたときの表情。
そして、途中で席を離れたこと。
結城は顔を上げた。
「いましたね」
「どうして参加されたんですか」
尋ねてから、少し踏み込みすぎたと思った。
長峰は退職する上司で、結城も会社の社員なのだ。送別会に出ること自体は不自然ではない。
結城はすぐには答えなかった。
「退職すると、会う機会が減るでしょう」
「そうですね」
「だから、一度ちゃんと話したかったんです」
「事故のことですか」
結城は頷いた。
「ええ」
澪はあの夜の食卓を思い出した。
荷物を止めないことが大切だと語る長峰。
箸を置いた結城。
その頃、自分の左腕には発疹が広がっていた。
しかし、今の結城の前では何も起きていない。
テーブルを挟んだ距離は、手を伸ばせば届くほどだった。
「お話は、できたんですか」
澪が訊くと、結城は少しだけ眉を動かした。
「途中までは」
それ以上、続けなかった。
澪も、すぐには聞き返せなかった。
結城はスマートフォンを取り出し、画面を確認した。
「すみません。午後は警察の方と話す約束があって」
「あ、そうだったんですね」
「三宅さんのことです」
結城はケースを持ち上げた。
「三宅さんから、亡くなる前に連絡があったんです。妻の事故について、確認できたことがあるかもしれないって」
澪はその言葉を聞いて、背筋を伸ばした。
「何か見せてもらったんですか」
「いいえ。まだでした」
結城は首を横に振った。
「資料を揃えてから話したいって言ってました。確かなものがないうちは、期待させるようなことを言いたくないと」
三宅らしい言い方だった。
丁寧なメールを送ってきた男性の声を、澪はよく覚えていない。
けれど、あの文章を書いた人物なら、そう言ったのかもしれないと思った。
「俺も、待つつもりだったんです」
結城が言った。
「八年待ってたんだから、あと何日かくらい」
澪は唇を噛んだ。
三宅は、その何日かを迎えられなかった。
「結城さん」
声をかけると、彼は顔を上げた。
澪は言葉を探した。
謝るべきなのかもしれない。
自分が書類を受け取ったこと。
事故の後に説明を聞き、それ以上確かめなかったこと。
それが今になって、結城の前に別の疑問を生んでいる。
「私、八年前に」
そこまで言って、口が止まった。
結城は待っていた。
何も促さず、澪が続きを話すのを待っている。
「受付した後のことを、まだきちんと説明できなくて」
澪はようやく言った。
「今、確認を進めています。記録が見つかれば、分かることもあると思います」
結城の表情は変わらなかった。
「篠宮さん」
「はい」
「一つだけ、お願いしてもいいですか」
澪は頷いた。
「分かったことだけを教えてください」
その言い方が、胸の奥へ落ちた。
「まだ分からないことも、分からないままでいいです。無理に安心できる説明を作らなくていい」
澪は顔を上げられなかった。
結城は続けた。
「八年前は、みんな説明してくれたんです。事故の原因も、設備のことも、書類のことも」
声は穏やかだった。
「でも、何を聞いても、妻があの日に止めてほしいと言った理由だけが、どこかへ行ってしまう気がして」
澪は指先を握った。
「……はい」
結城は小さく頭を下げた。
「お願いします」
午後零時十五分。
結城が去った後も、澪はしばらく休憩スペースに残っていた。
テーブルには、二人が口をつけた紙コップが並んでいる。
結城のものは半分ほど残っていた。
澪の水は、ほとんど減っていなかった。
窓の外では清掃員が道具を片づけ、濡れた歩道を社員が足早に通り過ぎていく。
澪はスマートフォンを取り出した。
航から、昼休みに入ったという連絡が届いている。
『今日もちゃんと食べること』
澪は返事を打とうとして、指を止めた。
結城の言葉が残っていた。
分かったことだけを教えてください。
八年前、自分は説明を聞いた。
分からないところは、先輩や責任者が教えてくれた。
そうして仕事を続けてきた。
それが間違いだったと決まったわけではない。
けれど、説明されたからといって、すべてが分かったことにはならない。
澪は画面を閉じた。
社員食堂へ向かおうとして、立ち上がる。
歩き出してすぐ、結城が見せてくれた写真を思い出した。
高さの違う二つの結び目。
その下で笑っていた、小さな女の子。
結城紗江は、設備を止めてほしいと頼んだ。
その日の仕事を終えたら、また娘の髪を結ぶつもりだったのだろう。
澪は廊下の途中で足を止めた。
そして、昨日まで使っていたメモ帳を開いた。
『結城紗江 停止要請提出』
そこまでは、以前から書いてあった。
澪はその下へ、もう一行加えた。
『なぜ停止が必要だったのか、現場で何が起きていたかを確認する』
書き終えた文字を見つめる。
記録は、誰が何をしたかだけでは足りないのかもしれない。
少なくとも自分は、書類を受け取った理由を、八年もの間まともに考えたことがなかった。
澪は手帳を閉じた。
この日の午後、結城晴臣が警察でどんな話をするのか、彼女はまだ知らなかった。
ただ、彼が最後に見せた写真のことだけは、帰宅しても忘れないだろうと思った。




