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殺意アレルギー  作者: asnt2026


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15/30

第15話 帰る場所

金曜日の午前十一時過ぎ。

篠宮澪は、本社一階の自動販売機の前で結城晴臣を見かけた。

その姿に気づいたのは、先に声をかけられたからだった。

「篠宮さん」

振り向くと、結城が少し離れた場所に立っていた。

紺色の作業用ジャケットに黒いスラックス。片手には薄い書類ケースを持ち、もう一方の手には社員証を握っている。

送別会の夜よりも、顔色が悪く見えた。

「結城さん。お疲れさまです」

「お疲れさまです。今、少しいいですか」

澪は持っていた財布をバッグへ戻した。

「はい。大丈夫です」

「仕事中ですよね」

「今は休憩なので」

結城は頷いたが、すぐには話し始めなかった。

自動販売機の冷却装置が低く唸っている。ガラス張りの正面玄関からは秋の弱い日差しが入り、床に落ちた光の中を社員が何人か通り過ぎていった。外で植え込みに水を撒いているらしく、開閉する扉から湿った土の匂いが流れ込んでくる。

結城は通路の奥を見た。

「ここだと、少し」

「向こうの休憩スペースに行きますか」

澪が尋ねると、彼は小さく頷いた。


休憩スペースには二人掛けのテーブルが三つ並んでいた。

昼にはまだ早いため、ほかに利用者はいない。

澪は窓際の席へ腰を下ろした。

結城は向かいに座ったものの、書類ケースを膝に載せたまま開こうとしなかった。

「片桐から聞きました」

最初にそう言った。

澪は顔を上げた。

「片桐さんから?」

「ええ。先日、篠宮さんと話したって」

「はい。事故の当時のことを、いろいろ教えていただきました」

結城は頷いた。

「紗江が停止要請を出してたこと、確認できたんですね」

澪は背筋を伸ばした。

「はい。事故の前に私が受け取った記録は残っています」

「そうですか」

結城は書類ケースの縁を親指で押した。

ケースの中には何枚か紙が入っているようだったが、何が書かれているのかは見えなかった。

「片桐から電話があったんです。昨日の夜」

「そうだったんですね」

「最初、何の話かと思いました。急に昔のことを聞いてほしいって言うから」

結城はそこで口を閉じた。

窓の外を走る配送車へ視線を向ける。

白い車体が建物の陰へ入り、すぐに見えなくなった。

「妻が亡くなった後、会社から説明を受けたんです」

澪は黙っていた。

「設備の異常については確認中だった。正式な停止要請が確認されたのは事故の後だった。だから、事故が起きる前に設備を止める判断はできなかったって」

結城は、文章を読み上げるように言った。

何度も頭の中で繰り返してきた言葉なのだろう。

途中で言い淀むことも、言い直すこともなかった。

「その説明は、間違っていたんでしょうか」

澪は指を組み直した。

「今の段階では、そこまでは分かりません」

結城の目がこちらへ向いた。

澪は続けた。

「正式な確認が事故の後だったという記録はあります。ただ、事故の前に停止要請が受け付けられていたことも確かです。その間に誰が何を確認したのか、まだ調べています」

結城はしばらく澪を見つめた。

そして、ようやく書類ケースをテーブルへ置いた。

「篠宮さんは、妻に会ったことがあるんですよね」

「はい」

「覚えていますか」

澪は頷いた。

「窓口へ来られたときのことを、少し」

「どんな様子でした?」

予想していなかった質問だった。

澪は目の前の紙コップを見た。

手をつけていない水が、照明を受けて静かに光っている。

「急いでいらっしゃいました」

結城は黙っている。

「作業着で、書類を持って来られて。手が少し汚れていて、紙の端にも黒いものがついていたのを覚えています」

「油ですかね」

「分かりません。でも、現場から直接来られたんだと思います」

澪は少し考えた。

「設備を止めてほしいという申請で、早めに確認してほしいとおっしゃっていました」

結城は目を伏せた。

「そうですか」

澪はその表情を見て、次の言葉を探した。

けれど、うまく見つからなかった。

何を言っても、受け取った書類の話にしかならない。

結城が聞きたいのは、きっとそれだけではない。


「妻は、仕事の話を家ではあまりしませんでした」

結城が言った。

「どうせ俺も似たような仕事をしてたんで、話し始めるとお互い文句ばかりになるから」

少しだけ口元が緩んだ。

「それでも、あの頃は何度か設備の話をしていました」

「不具合のことですか」

「ええ。止まったと思ったものが動くんじゃ、作業する人間はたまらないって」

結城は指先でテーブルの縁をなぞった。

「俺も、まず上司へ報告しろとしか言えませんでした。現場ごとに管理の仕方は違うし、外から何か言っても余計な口出しになるかと思って」

澪は結城の手元を見ていた。

「紗江さんは、何と?」

「言いましたよ。分かってるって」

結城は短く笑った。

「そういうことじゃないんだって、怒られました」

「そういうことじゃない?」

「報告するかしないかの話じゃないって。ちゃんと伝えても動いてもらえないなら、どうすればいいんだって」

窓際のブラインドが揺れた。

金属の薄い板が触れ合い、小さな音を立てる。

「妻は、自分が怪我をすることばかり心配してたわけじゃないんです」

結城は声を落とした。

「若い作業員が危ない目に遭ったことがあって、その子がまた同じところで作業するのを嫌がってました」

片桐が話していた出来事だった。

澪は頷いた。

「聞きました。紗江さんが作業員の方を引っ張って助けたって」

「ええ」

結城は一度、喉を鳴らした。

「帰ってきてからも、その話をしてました。あの子が怪我しなくてよかったって。それから、自分が見ていないときに同じことが起きたらどうするんだって」

澪は唇を閉じた。

結城は視線を上げなかった。

「だから、止めてもらうしかないって言ってたんです」

その声は静かだった。

「設備を一度止めて調べて、それで何もなければまた動かせばいい。そう言ってました」

澪は胸の前で組んでいた指をほどいた。

八年前、窓口に来た女性。

書類の端を押さえていた指。

急いでほしいと言った声。

あのとき紗江が求めていたものが、少しだけ形を持った。

自分の仕事を楽にするためではない。

誰かが危ない場所で働き続けなくても済むように。

そのために、紗江は書類を持って来た。

澪はその書類を受け取った。

そこから先が、まだ分からない。


結城は書類ケースを開き、一枚の写真を取り出した。

小さな女の子が、二つに結んだ髪を揺らして笑っている。

片方だけ、結び目が少し高い。

澪は思わず顔を近づけた。

「娘です。四歳の頃の」

「かわいいですね」

「今は、こういうこと言うと嫌がられます」

結城は写真を見た。

「妻が結んだんですよ」

澪は顔を上げた。

片桐が話していたことを思い出した。

髪を結ぶのが苦手だった紗江。

休憩時間に同僚の髪で練習していた女性。

「片方だけ高くなってますね」

澪が言うと、結城はようやく笑った。

「そうなんです。娘が怒って、もう一回やってって言うんですけど、やり直すと今度は反対側が高くなる」

「大変ですね」

「朝から何度もやってましたよ。最後は俺が代わっても、似たようなもんでしたけど」

結城は写真の角を押さえた。

「結局、その日はこのまま保育園へ行ったんです」

澪は写真を見つめた。

髪の高さが揃っていないことなど、気にしていないような笑顔だった。

「娘さん、今は十二歳なんですよね」

「ええ」

「もう自分で結べますよね」

「最近は俺が触ろうとすると怒ります」

結城は写真をケースへ戻した。

「ただ、たまに聞いてくるんです」

澪は顔を上げた。

「何をですか」

「これ、母さんなら何て言うと思うって」

結城はケースの留め具を閉じた。

乾いた音がした。

「学校のことだったり、友達のことだったり。俺に聞けばいいような話なのに、わざわざそんな言い方をするんです」

澪は何も言えなかった。

「分かりませんよね。俺だって、妻なら何て言ったかなんて全部は分からないんですから」

結城は窓の外へ目を向けた。

「でも、何か答えてやらないといけないでしょう」

澪は、膝の上で手を重ねた。


「長峰さんの送別会に、結城さんもいらっしゃいましたよね」

話題を変えるつもりはなかった。

ただ、そこまで聞いているうちに、澪はあの夜の結城を思い出していた。

ほとんど減らなかったビール。

長峰が現場の仕事について話していたときの表情。

そして、途中で席を離れたこと。

結城は顔を上げた。

「いましたね」

「どうして参加されたんですか」

尋ねてから、少し踏み込みすぎたと思った。

長峰は退職する上司で、結城も会社の社員なのだ。送別会に出ること自体は不自然ではない。

結城はすぐには答えなかった。

「退職すると、会う機会が減るでしょう」

「そうですね」

「だから、一度ちゃんと話したかったんです」

「事故のことですか」

結城は頷いた。

「ええ」

澪はあの夜の食卓を思い出した。

荷物を止めないことが大切だと語る長峰。

箸を置いた結城。

その頃、自分の左腕には発疹が広がっていた。

しかし、今の結城の前では何も起きていない。

テーブルを挟んだ距離は、手を伸ばせば届くほどだった。

「お話は、できたんですか」

澪が訊くと、結城は少しだけ眉を動かした。

「途中までは」

それ以上、続けなかった。

澪も、すぐには聞き返せなかった。

結城はスマートフォンを取り出し、画面を確認した。

「すみません。午後は警察の方と話す約束があって」

「あ、そうだったんですね」

「三宅さんのことです」

結城はケースを持ち上げた。

「三宅さんから、亡くなる前に連絡があったんです。妻の事故について、確認できたことがあるかもしれないって」

澪はその言葉を聞いて、背筋を伸ばした。

「何か見せてもらったんですか」

「いいえ。まだでした」

結城は首を横に振った。

「資料を揃えてから話したいって言ってました。確かなものがないうちは、期待させるようなことを言いたくないと」

三宅らしい言い方だった。

丁寧なメールを送ってきた男性の声を、澪はよく覚えていない。

けれど、あの文章を書いた人物なら、そう言ったのかもしれないと思った。

「俺も、待つつもりだったんです」

結城が言った。

「八年待ってたんだから、あと何日かくらい」

澪は唇を噛んだ。

三宅は、その何日かを迎えられなかった。

「結城さん」

声をかけると、彼は顔を上げた。

澪は言葉を探した。

謝るべきなのかもしれない。

自分が書類を受け取ったこと。

事故の後に説明を聞き、それ以上確かめなかったこと。

それが今になって、結城の前に別の疑問を生んでいる。

「私、八年前に」

そこまで言って、口が止まった。

結城は待っていた。

何も促さず、澪が続きを話すのを待っている。

「受付した後のことを、まだきちんと説明できなくて」

澪はようやく言った。

「今、確認を進めています。記録が見つかれば、分かることもあると思います」

結城の表情は変わらなかった。

「篠宮さん」

「はい」

「一つだけ、お願いしてもいいですか」

澪は頷いた。

「分かったことだけを教えてください」

その言い方が、胸の奥へ落ちた。

「まだ分からないことも、分からないままでいいです。無理に安心できる説明を作らなくていい」

澪は顔を上げられなかった。

結城は続けた。

「八年前は、みんな説明してくれたんです。事故の原因も、設備のことも、書類のことも」

声は穏やかだった。

「でも、何を聞いても、妻があの日に止めてほしいと言った理由だけが、どこかへ行ってしまう気がして」

澪は指先を握った。

「……はい」

結城は小さく頭を下げた。

「お願いします」


午後零時十五分。

結城が去った後も、澪はしばらく休憩スペースに残っていた。

テーブルには、二人が口をつけた紙コップが並んでいる。

結城のものは半分ほど残っていた。

澪の水は、ほとんど減っていなかった。

窓の外では清掃員が道具を片づけ、濡れた歩道を社員が足早に通り過ぎていく。

澪はスマートフォンを取り出した。

航から、昼休みに入ったという連絡が届いている。

『今日もちゃんと食べること』

澪は返事を打とうとして、指を止めた。

結城の言葉が残っていた。

分かったことだけを教えてください。

八年前、自分は説明を聞いた。

分からないところは、先輩や責任者が教えてくれた。

そうして仕事を続けてきた。

それが間違いだったと決まったわけではない。

けれど、説明されたからといって、すべてが分かったことにはならない。

澪は画面を閉じた。

社員食堂へ向かおうとして、立ち上がる。

歩き出してすぐ、結城が見せてくれた写真を思い出した。

高さの違う二つの結び目。

その下で笑っていた、小さな女の子。

結城紗江は、設備を止めてほしいと頼んだ。

その日の仕事を終えたら、また娘の髪を結ぶつもりだったのだろう。

澪は廊下の途中で足を止めた。

そして、昨日まで使っていたメモ帳を開いた。

『結城紗江 停止要請提出』

そこまでは、以前から書いてあった。

澪はその下へ、もう一行加えた。

『なぜ停止が必要だったのか、現場で何が起きていたかを確認する』

書き終えた文字を見つめる。

記録は、誰が何をしたかだけでは足りないのかもしれない。

少なくとも自分は、書類を受け取った理由を、八年もの間まともに考えたことがなかった。

澪は手帳を閉じた。

この日の午後、結城晴臣が警察でどんな話をするのか、彼女はまだ知らなかった。

ただ、彼が最後に見せた写真のことだけは、帰宅しても忘れないだろうと思った。

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