第16話 閲覧できません
月曜日、午前九時六分。
澪のパソコンに、見慣れない表示が現れた。
『この資料を閲覧する権限がありません』
画面を更新しても、結果は変わらない。
もう一度、資料番号を入力する。
八年前の受付履歴が保存されているフォルダだった。
金曜日までは開けたはずなのに、今はファイルの名前さえ表示されなかった。
「おかしいな」
澪は小さく呟いた。
週明けの総務部は、いつもより騒がしかった。
月末に向けた勤怠確認と備品の発注が重なり、電話が鳴るたびに誰かが席を立つ。窓の外は薄い曇り空で、まだ冷えの残る室内にはコピー機の熱と、隣の部署から流れてくるコーヒーの香りが混ざっていた。
澪はログインし直した。
変化はない。
旧配送センター関連資料。
アクセス制限中。
その下に、小さな文字で担当部署への問い合わせ先が書かれている。
「篠宮さん」
久我の声がした。
顔を上げると、彼女が机の横に立っていた。
「今、ちょうどその件を説明しようと思ってた」
久我は澪の画面へ視線を向けた。
「安全管理と情報管理で、旧センターの記録を一時的に保全することになったの。警察からも資料の確認が続いてるから、閲覧できる担当者を限定してる」
「そうだったんですね」
「今朝から順番に権限を切り替えてる。連絡が後になってごめん」
「いえ」
澪は画面を閉じた。
「では、外部保管先の確認結果も、直接は見られないんでしょうか」
「今はそうなるね。資料管理の担当を通して確認してもらう形になる」
「分かりました」
久我は書類を一枚差し出した。
「それと、篠宮さんには当面、旧センター関係の資料整理から外れてもらうことになった」
澪は受け取ろうとした手を止めた。
「外れる、ですか」
「正式な事故確認の対象者になっているでしょう。自分が関わった記録を、自分で整理するのは避けたほうがいいという判断」
「……そうですね」
「別に処分じゃないから。そこは誤解しないで」
久我の口調が、少しだけ硬くなった。
「ほかの関係者についても同じ扱いよ。記録を保全するための手続きだから」
澪は書類を受け取った。
担当変更のお知らせ。
旧配送センターの移管資料に関する受領、閲覧、照合の業務を、当面は別の担当者へ移す。
自分の名前には、細い取り消し線が引かれていた。
その隣に、新しい担当者の欄がある。
「小森さんが担当するんですか」
「受領作業の一部だけね。事故関係の照合は安全管理と資料管理でやる。小森さんに内容を判断させるわけじゃない」
「分かりました」
久我は腕時計を確認した。
「篠宮さんは通常業務をお願い。今、勤怠の修正がかなり溜まってるから」
「はい」
「あと、資料について聞きたいことがあれば、私か資料管理を通して。ほかの部署へ直接、確認の電話をするのは控えてね」
澪は顔を上げた。
「どうしてですか」
久我の眉が動いた。
「確認先が増えると、同じことを何度も聞くことになるし、相手も誰に答えたらいいのか分からなくなる。警察からの照会も入ってるから、窓口をまとめる必要があるの」
説明は筋が通っていた。
以前から社内の資料管理では、似たようなことが行われている。
しかし、自分で調べ始めたことに、自分が関われなくなった。
その事実だけが、少し遅れて澪の中へ入ってきた。
「分かりました。必要な確認は正式に依頼します」
久我は頷いた。
「そうして」
そして、小森の席へ向かっていった。
澪は変更通知を机の上に置いた。
アクセス制限中。
画面には、まだその文字が残っていた。
午前十時半。
小森が空の段ボール箱を抱えてきた。
「篠宮さん、すみません。旧センターの受領伝票を引き継ぎたいんですけど」
「あ、うん。今出すね」
澪は引き出しを開けた。
受領済みの伝票と、まだ処理が終わっていないものを分けていたファイルを取り出す。
「青い付箋がついてるのが受領済み。黄色は保管先の確認待ち。事故関係の書類は、安全管理の担当へ直接回すようになってるから」
「はい」
小森はメモを取った。
普段なら途中で冗談の一つも挟むのに、今日は黙っている。
「何か分かりにくい?」
澪が尋ねると、小森は首を振った。
「いえ。大丈夫です」
「じゃあ、これもお願い」
ファイルを渡そうとすると、小森は両手で受け取った。
紙の重みで、少し手首が下がる。
「篠宮さん」
「うん?」
小森はファイルを胸の前で抱え直した。
「私が担当になって、大丈夫なんでしょうか」
「大丈夫だよ。普段の受領作業と同じだから」
「それは分かってるんですけど」
小森は声を落とした。
「もし何か間違えたらって思うと」
澪は彼女を見た。
八年前、自分も同じようなことを考えていた。
受け取った書類を間違った部署へ回してしまったら。
確認印を押し忘れたら。
上司へ余計な質問をして、仕事を増やしてしまったら。
何かあったとき、責任を取れるのだろうか。
それでも毎日の仕事を続けるうちに、分からないことがあれば先輩に聞き、そのとおりにすればいいと思うようになった。
「分からないことは、自分で決めなくていいよ」
澪は言った。
「受付したら記録を残して、必要な担当へ回す。判断が必要な内容なら、そのままにしないで確認する。それだけ」
小森は頷いた。
「はい」
「あと、何か変だと思ったら言って。私じゃなくても、担当者に」
「分かりました」
小森は少し笑った。
「篠宮さん、今日はいつもより真面目ですね」
「いつも真面目です」
「そうでしたっけ」
「それ、上司に報告していい?」
「やめてください」
ようやくいつもの声が戻った。
小森はファイルを抱えて歩き出した。
澪はその背中を見送った。
自分が担当していた仕事が、別の人へ引き継がれていく。
不思議なことではない。
異動も、休暇も、退職もある。
誰かがいなくなっても仕事が続くように、会社の仕組みは作られている。
ただ、八年前のあの日も、事故が起きた翌朝には仕事が始まった。
それを思い出すと、澪は椅子へ座るまでに少し時間がかかった。
昼休み。
澪は食堂へ向かう途中で、廊下の掲示板に目を止めた。
『旧配送センター保管資料の移管に関するお知らせ』
資料の分類と、今後の保管先が記されている。
すでに本社へ届いた資料。
外部保管先に残る資料。
確認後に廃棄予定となっている古い控え。
澪は最後の項目を見つめた。
廃棄予定。
それ自体は珍しくなかった。
会社には保管期間の決まっている書類が多く、期限を過ぎたものは所定の手続きで処分される。
しかし、今調べている八年前の事故については、どの記録が必要になるか、まだ分かっていない。
正式な事故報告書だけでは、停止要請がどう伝わったかを確認できなかった。
受付台帳には受付の事実が残っている。
現場には、別の確認簿があるかもしれない。
もし、そのどちらかだけを残し、ほかの控えを処分してしまったら。
澪は掲示板を離れた。
廊下の奥にある窓から白い光が差し込み、床の細かな傷を浮かび上がらせている。清掃を終えたばかりなのか、湿った布と洗剤の匂いが残っていた。
澪は立ち止まった。
今、自分には閲覧権限がない。
勝手に資料を開くこともできない。
けれど、必要な記録を残してほしいと申し出ることまで、禁止されたわけではなかった。
スマートフォンを取り出し、資料管理担当の連絡先を確認する。
電話をかけようとして、指を止めた。
久我に言われたばかりだった。
確認は窓口を通して。
澪は電話をやめ、正式な照会フォームを開いた。
件名を入力する。
『旧配送センター事故関連記録の保全範囲について』
本文に、今まで確認できたことを書いた。
事故前の受付履歴が存在すること。
事故報告書では正式確認が事故後と記されていること。
現場側の伝達記録の所在が確認されつつあること。
そして、その経緯を照合するために必要な原本や控え、関連する処理履歴について、廃棄や上書きの対象になっていないか確認してほしいという依頼。
澪は最後に一文を加えた。
『私自身が当時の受付担当者であるため、資料の選別や内容確認は行わず、保全の必要性について担当部署で判断していただきたいと考えています』
送信先を確認する。
安全管理室。
資料管理担当。
総務課長。
久我の名前も、そこにあった。
澪は送信ボタンを押した。
午後二時十五分。
久我から内線が入った。
「篠宮さん、さっきの保全依頼だけど」
澪は受話器を持ち直した。
「はい」
「内容は見た。必要な記録を残すという考え方は分かるけど、対象が広いね」
「すみません。どれが必要か、私には判断できなかったので」
「全部を保全するとなると、外部保管の費用も手続きも増えるのよ」
「はい」
「それに、現場の控えには事故と直接関係のないものもあるはずだから」
澪は机の端を指で押さえた。
「事故と関係があるかどうか、まだ確認できていない記録もあると思います」
受話器の向こうが静かになった。
言い方が強かっただろうか。
澪は少しだけ息を整えた。
「もちろん、全部を残してほしいという意味ではありません。どれを確認対象にするか、担当部署で判断していただければと思っています」
久我が息を吐く音が聞こえた。
「うん。そこは分かった」
しばらく紙をめくる音がする。
「ただ、今後こういう依頼を出す前には、一度相談してほしい。会社の正式な手続きに関わるから」
「分かりました」
「今回は受け付けてもらえるように調整する。必要な記録が失われないようにすること自体は、会社としても大事だから」
「ありがとうございます」
「お礼はいいから、まず自分の仕事を片づけて」
その声には、少し疲れが混じっていた。
「勤怠の修正、今日中に確認してほしいものがまだ残ってるでしょう」
「はい。今やっています」
「よろしく」
電話が切れた。
澪は受話器を置いた。
久我の言うことは正しい。
記録を残すには手続きが必要で、費用もかかる。
自分が調べたいからといって、何でも保存できるわけではない。
それでも、何も言わずに処分されてからでは遅い。
澪は勤怠の修正画面を開いた。
ひとつの申請に、承認印が二つ並んでいる。
数字を確かめ、必要な部署へ回す。
目の前の仕事を続けながら、頭のどこかでは、さっき送ったメールの行き先を考えていた。
午後五時四十分。
資料管理担当から返信が届いた。
『ご依頼の趣旨を確認しました。事故関連資料については、現在進めている警察への資料提供および社内確認が完了するまで、関係する原本・控え・処理履歴の保全対象を確認します』
続けて、保全対象の具体的な範囲は安全管理室と協議のうえ決定すると書かれていた。
正式な判断は、まだ終わっていない。
けれど、確認することにはなった。
澪はそのメールを読み終え、椅子の背へ身体を預けた。
記録の中身は分からない。
自分には閲覧権限もない。
それでも、できることが一つあった。
その日の仕事を終え、帰り支度をしていると、小森が机へやってきた。
「篠宮さん」
「どうしたの?」
「旧センターの受領伝票、全部整理できました」
「ありがとう。助かった」
「あと、資料管理の方から、事故関係のものは別に保全するって連絡が来ました」
「そう」
小森は少しだけ声を落とした。
「篠宮さんがお願いしたんですか」
澪は頷いた。
「必要なものが残っているか、確認してもらいたくて」
小森は何か言いたそうにしていた。
けれど、すぐには言葉が出てこない。
「どうしたの?」
澪が訊くと、小森は視線を落とした。
「私、こういう仕事って、言われたとおりにやればいいものだと思ってました」
澪は彼女を見た。
「でも、ちゃんと確認しないと駄目なこともあるんですね」
小森はそう言って、小さく笑った。
澪は何と返せばいいのか分からなかった。
八年前、自分も同じように思っていた。
言われたとおりに書類を受け取り、決められた手順で回せば、それで仕事は終わる。
そう信じていた。
「そうだね」
澪はようやく答えた。
「たぶん、思ってるより難しいことなんだと思う」
小森は頷き、自分の席へ戻っていった。
澪は机の上を片づけた。
古い資料のファイルは、もうここにはない。
引き出しには、通常業務の書類だけが残っている。
窓の外では、暮れかけた空を一機の飛行機が横切っていた。
澪はバッグを肩へ掛けた。
自分が仕事から外されたことを、まだうまく受け止められない。
けれど、記録を調べることと、記録を変えずに残すことは別なのだと、今日になって少し分かった気がした。
そして、もう一つ。
自分が八年前に何をしたのかについては、どれだけ資料の担当者が変わっても、誰かに代わって説明してもらうことはできない。
そのことだけが、帰り道にも残り続けた。




