第17話 知っていたこと
火曜日の午前九時三十二分。
澪は、安全管理室から届いた追加の確認書を開いた。
前日に提出した資料保全の依頼とは別のものだった。
『八年前の事故報告書について、以下の事項をご確認ください』
その下に質問が三つ並んでいる。
事故後に報告書の草案を見たことがあるか。
受付時刻の記載について、誰に確認したか。
説明を受けた後、追加の報告や確認を行ったか。
澪は三つ目の質問を見つめた。
答えは、すでに分かっている。
追加の確認はしていない。
八年前の会議室で説明を受け、それ以上は何も言わなかった。
けれど、その一文を正式な記録として残すことが、こんなにも難しいとは思わなかった。
朝の総務部は、普段どおりの忙しさだった。
電話を取る声。
コピー機の動く音。
誰かが引き出しを閉める乾いた響き。
窓の外はよく晴れていて、隣のビルのガラスが朝日を反射している。暖房の風は少し強く、机の上に置いた紙の端がときどき揺れていた。
澪はマウスを動かし、回答欄を開いた。
最初の質問。
『事故報告書の草案を閲覧したか』
はい。
次の質問。
『受付時刻の記載について、誰に確認したか』
久我千晴。
長峰省吾。
その二人の名前を入力したところで、澪は一度手を止めた。
八年前は、どちらも自分よりずっと経験のある社員だった。
久我は仕事を教えてくれる先輩で、長峰は現場を統括する責任者だった。
澪にとって、二人の説明を疑うということは、自分の仕事の理解そのものを疑うことに近かった。
けれど、だからといって何も確認できなかったわけではない。
受付台帳を見ることはできた。
担当部署へ、いつ伝達されたかを尋ねることもできた。
少なくとも、なぜ報告書には事故後の確認と書かれているのか、もう一度聞くことはできたはずだった。
澪は三番目の回答欄へカーソルを移した。
『説明を受けた後、追加の報告や確認を行ったか』
文字を入力する。
『行っていない』
それだけでは、あまりにも短かった。
澪は文章を続けようとして、何度か書き直した。
当時は新人だったため。
正式な手続きについて十分な知識がなかったため。
上司から説明を受けたため。
どれも事実だった。
ただ、その言葉を並べるほど、何かから距離を取ろうとしているように見えてきた。
澪は入力した文章を消した。
それから、改めて書き始めた。
『受付時刻と正式確認時刻の違いについて説明を受けた。受付記録に誤りはないと理解したが、停止要請の内容が事故前に担当部署へ伝わっていたかどうかについては、追加の確認を行わなかった』
書き終えて、しばらく画面を見つめた。
最後の一文が、ほかの文字よりも重く感じられた。
追加の確認を行わなかった。
そこには、誰の名前も書かれていない。
自分がしたことだけが残っていた。
午前十一時。
澪は、安全管理室の担当者を訪ねた。
会議室の隅に設けられた小さな応接スペースで、二人は向かい合って座った。
隣の部屋から紙を裁断する機械の音が聞こえる。室内には新しい印刷物の匂いが漂い、窓際の棚には安全標語の入った古いポスターが立てかけられていた。
「追加確認書について、少し聞いてもいいですか」
澪が言うと、担当者は頷いた。
「はい。どの部分でしょうか」
「私が書いた内容は、警察にも提出されるんでしょうか」
担当者は書類を確認した。
「必要な照会があれば、関係する記録として提供することになります。ただ、現段階では会社側の確認資料として扱っています」
「そうですか」
「何か気になる点がありますか」
澪は指先を重ねた。
「八年前のことなので、覚えている部分と、今の記録を見て確認した部分があるんです。それを混ぜてしまわないか心配で」
担当者は頷いた。
「そこは分けて記載してください。ご自身の記憶なのか、資料によって確認できた事実なのか、分かるようにしていただければ結構です」
「分かりました」
「それから」
担当者は一度、手元の資料へ目を落とした。
「今回の確認では、当時の責任を誰か一人に決めることが目的ではありません。事故前にどのような情報があり、それがどこまで伝わっていたのかを整理したいんです」
澪は頷いた。
「はい」
「ただ、当時何か疑問を持っていたのであれば、そのことも書いてください。結果として確認しなかったとしても、疑問を持ったこと自体は別の事実ですから」
澪は顔を上げた。
「疑問を持っていたことも、ですか」
「はい。後から資料を見て思ったことと、当時から気づいていたことは、区別する必要があります」
担当者は穏やかな声で続けた。
「どちらが正しいかという話ではありません。いつ、何を知っていたのかを確認したいんです」
澪はその言葉を聞きながら、自分の確認書を思い出した。
当時から気づいていたこと。
事故の前に書類を受け付けた。
報告書では、正式確認が事故の後になっていた。
その違いについて質問した。
説明を受けた。
そこで終わった。
一つずつ並べると、簡単な出来事のように見える。
けれど、最後の一つだけが、今も胸に引っかかっていた。
澪は膝の上の手を握り直した。
「もう一度、整理して書きます」
担当者は頷いた。
「お願いします」
昼休み。
澪は社員食堂で、ほとんど手をつけていない定食を前にしていた。
味噌汁は冷め、焼き魚の皮が少し硬くなっている。
箸を持ったまま窓の外を見る。
雲がゆっくり流れ、駐車場に並んだ車の屋根が淡く光っていた。
「ここ、いい?」
声がして振り向くと、航が立っていた。
片手にトレーを持ち、もう一方の手にはスマートフォンを握っている。
「どうぞ」
澪が言うと、航は向かいに座った。
「珍しいな。まだ食べてないの?」
「食べてます」
「その魚、ほぼ無傷だけど」
「今から本気出すところ」
航は箸を割った。
「無理して食べなくてもいいけど、朝もちゃんと食べた?」
「食べました」
「何を?」
「また尋問?」
「答えが怪しいから」
「トーストとヨーグルト」
「合格」
澪は小さく笑った。
航も笑い、自分の定食に手をつけた。
しばらくは、仕事の話をしなかった。
最近できた店のこと。
週末の予定。
航が買った本をまだ読み終えていないこと。
どれも、三宅の事件とは関係のない話だった。
澪は箸を動かしながら、少しずつ食事を進めた。
向かいに航がいるだけで、何も考えなくていい時間ができる。
少なくとも、そう思えることがありがたかった。
「そういえば」
航が味噌汁を置いた。
「旧センターの資料、閲覧制限がかかったって聞いたけど」
澪は顔を上げた。
「うん。私も担当から外れた」
「そうか」
「情報管理も関わってるんでしょ」
「アクセス権の切り替えはね」
「大変だった?」
「それなりに。古いシステムと新しい保管先が混ざってるから」
航は箸を置いた。
「でも、必要な措置だと思うよ」
「そうだね」
「今は関係者が勝手に資料を触れないようにしたほうがいい」
澪は頷いた。
正しいことを言われている。
それなのに、少しだけ胸の奥が固くなった。
「私が勝手に何かすると思う?」
航は顔を上げた。
「そういう意味じゃない」
「分かってる」
「澪」
航の声が少し低くなった。
「俺は、何かを隠すために制限したほうがいいって言ってるわけじゃない。誰が見ても、記録が変わってないと分かる状態にしておくほうがいいだろ」
澪は箸を置いた。
「うん」
航は少し息を吐いた。
「それに、今は警察も調べてるんだ。自分一人で全部確かめようとしなくていい」
「自分一人でやろうとしてるわけじゃないよ」
「分かってる。でも、最近ずっとそのことばかり考えてるだろ」
澪は返事をしなかった。
航は、少し言葉を探すように続けた。
「八年前の事故に関わってたからって、今の澪が全部背負わなきゃいけないわけじゃない」
澪は顔を上げた。
「全部、背負ってるつもりはないよ」
「そういう意味じゃなくて」
「じゃあ、どういう意味?」
思ったより強い声が出た。
航の箸が止まる。
周囲では食器を置く音が続いていた。隣のテーブルの社員が笑い、遠くの券売機が短い電子音を鳴らす。
二人の間だけが、少し静かになった。
澪は視線を落とした。
「ごめん」
航は首を振った。
「いや、俺も言い方が悪かった」
しばらく、どちらも食事に手をつけなかった。
澪は湯呑みに残った茶を飲んだ。
ぬるくなっていた。
「航」
「ん?」
「もし、自分が昔した仕事で、誰かが困ってたかもしれないって分かったら、どうする?」
航はすぐには答えなかった。
少し考えてから、言った。
「自分にできたことが何だったのか、まず確かめると思う」
澪は頷いた。
「それで、できたことをしてなかったら?」
「そのときは、何でしなかったのか考えるかな」
「……そっか」
航は澪を見た。
「ただ、後から分かったことまで、当時の自分が全部知ってたみたいに考えるのは違うと思う」
澪は箸を持ち直した。
その言葉は、ありがたかった。
同時に、少し苦しかった。
自分は当時、何も知らなかったわけではない。
事故の前に書類を受け取っていたこと。
その記録と、事故報告書の説明が食い違って見えたこと。
そして、その違いについて質問したこと。
そこまでは、当時から知っていた。
けれど、航にどこまで話せばいいのか分からなかった。
「ありがとう」
澪は言った。
航は少し困ったように笑った。
「礼を言われるようなこと、言ってないけど」
「そうだね」
「ひどいな」
澪も笑った。
ただ、さっきより少しだけ、笑うまでに時間がかかった。
午後三時。
澪は確認書の回答を修正していた。
最初の質問への回答は変わらない。
事故報告書の草案を見た。
二番目も同じだ。
久我と長峰から説明を受けた。
三番目については、午前中に書いた文章へ一文を加えた。
『当時、受付時刻と報告書の記載の違いについて疑問を持ち、確認の場で質問した。しかし説明を受けた後、停止要請の実際の伝達経路については確認を求めなかった』
澪は入力した文字を読み返した。
思い出したことを、そのまま書いた。
自分が何を知っていたのか。
そのとき何をしたのか。
そして、何をしなかったのか。
最後の部分だけ、何度読んでも目が止まった。
確認を求めなかった。
八年前、自分はそこで質問をやめた。
久我の説明を聞き、長峰の言葉に頷いた。
二人は落ち着いていて、話に迷いがなかった。
自分の身体も、何の異常も示していなかった。
あのとき、腕に赤い発疹が出ていたら。
澪はふと、そんなことを考えた。
もし何かが起きていたら、説明を疑ったのだろうか。
あるいは、もっと早く確認していたのだろうか。
けれど、それは今になって考えたことだ。
現実には、何も起きなかった。
二人が明確な殺意を抱いていなかったとしても、事故報告書の説明が正しいとは限らない。
そこまで分かっていたはずなのに、当時の自分は何を信じたのだろう。
澪は画面から目を離した。
午後の光が机の上に差し込み、キーボードの隙間へ細い影を落としていた。
今さら八年前の自分を責めても、紗江が戻ってくるわけではない。
そんなことは分かっている。
それでも、当時の自分が何もできなかった理由を、誰かの説明だけで済ませることはできなくなっていた。
澪は送信ボタンを押した。
確認書の提出完了画面が表示される。
受付番号が、新しく一つ増えた。
午後五時四十七分。
総務部の社員が少しずつ帰り支度を始めた頃、澪のもとに内線が入った。
安全管理室からだった。
「篠宮さん、追加確認書を受け取りました」
「はい」
「詳しく書いていただいて、ありがとうございます」
「いえ」
担当者は少し間を置いた。
「今回の内容について、警察からも確認が入っています。事故前の受付状況だけでなく、事故後の報告書についても話を伺いたいとのことです」
澪は机の端を掴んだ。
「警察から、ですか」
「はい。真田という刑事の方からです」
その名前には覚えがあった。
三宅が亡くなった後、自分の話を聞いた女性刑事。
落ち着いた声で質問を重ね、最後まで急かすことなく話を聞いてくれた人だった。
「私に、また話を聞きたいということでしょうか」
「そうです。連絡先はすでにお伝えしているので、改めて直接連絡があると思います」
「分かりました」
通話が終わった。
澪は受話器を置き、椅子に深く座った。
八年前のことを説明する。
それだけのはずだった。
受付した書類の時刻。
事故報告書の記載。
自分が受けた説明。
けれど、そこから先へ進むたび、質問は少しずつ変わってきている。
何を知っていたのか。
なぜ確認しなかったのか。
そして、今になってどうして調べているのか。
澪は机の上のスマートフォンを見た。
画面には航から届いたメッセージが表示されていた。
『今日は早く帰れそう?』
澪は指を滑らせた。
『たぶん』
すぐに返事が来た。
『そのたぶんは信用できない』
澪は小さく笑った。
けれど、次の文章を打とうとしたところで、また電話が鳴った。
今度はスマートフォンだった。
知らない番号。
澪は画面を見つめた。
一度、深く息を吸う。
そして、通話ボタンを押した。
「はい、篠宮です」
『警察の真田です。先日はご協力ありがとうございました』
「こちらこそ」
『お仕事中に申し訳ありません。八年前の事故について、もう少し詳しくお話を伺いたいのですが』
澪は目を閉じた。
自分が何を聞かれるのか、すでに分かっている気がした。
けれど、逃げたくなかった。
八年前も、同じように質問を受けた。
あのときは説明を聞いて、それ以上何も言わなかった。
今は、違う。
少なくとも、そうしたいと思っていた。
「分かりました」
澪は答えた。
『ありがとうございます。ご都合を伺って、改めてお時間をいただければと思います』
「はい」
真田の声は、以前と変わらず落ち着いていた。
澪は手帳を開き、面談の予定を書き込んだ。
電話を切った後、机の上には静けさが戻った。
ほかの社員たちはいつもどおり仕事をしている。
誰かが電話に出て、誰かが書類を運び、誰かが明日の予定を確認している。
その中で澪は、自分の名前が書かれた新しい記録を見つめていた。
八年前、あの事故報告書を前にして、自分が何を考えていたのか。
どこまで覚えているのか。
本当に覚えていないことと、思い出したくないことを、自分の中で区別できているのか。
澪は手帳を閉じた。
窓の外では、夕暮れの光がビルの隙間へ沈み始めていた。
三宅尚人が亡くなった夜、自分は誰かの殺意を感じていた。
その事実を、ずっと事件の中心に置いて考えてきた。
しかし今、警察が聞こうとしているのは、その夜の発作ではなかった。
八年前の事故の後、自分が知っていたこと。
そして、知っていながら何もしなかったこと。
澪は立ち上がり、コートを手に取った。
明日、何を話せばいいのか。
まだ、すべて整理できたわけではない。
それでも、今度は自分の言葉で答えなければならなかった。
事故報告書を前にした八年前の自分が、最後まで言えなかったことを。




