第18話 残された証言
水曜日、午前十時二十二分。
真田亜紀は、澪が差し出した書類をすぐには受け取らなかった。
「お手元に置いていただいて大丈夫ですよ。必要になったら確認させてください」
澪は膝の上に広げかけていたファイルを閉じた。
前に案内された部屋と同じだった。クリーム色の壁に小さな観葉植物。隅には電気ポットが置かれていて、テーブルの表面には細い傷がいくつも走っている。
窓の外は晴れていた。
低い位置から差し込む光がブラインドの隙間を抜け、机の端へ白い線を落としている。廊下から人の足音が聞こえるたび、換気口を通して冷えた空気とコーヒーの匂いが流れ込んだ。
「先日、会社に提出された確認書を拝見しました」
真田が言った。
「ずいぶん詳しく書いてくださったんですね」
「覚えている範囲ですけど」
「助かります。ただ、今日は書面だけでは分からなかったところを伺いたくて」
澪は頷いた。
真田は手元の資料を開いた。
「八年前、結城紗江さんから設備停止要請票を受け取った。これは間違いありませんか」
「はい」
「その日のうちに、事故が起きた」
「そうです」
「事故後に報告書の草案を確認したところ、停止要請の正式確認が事故後となっていた。篠宮さんは、その記載について久我さんと長峰さんへ質問した」
「はい」
真田はペンを置いた。
「では、ここからは書類に書かれていないことを聞きます」
澪の指がファイルの角を押さえた。
「その説明を受けたとき、篠宮さんは何が気になっていたんでしょう」
澪は顔を上げた。
「何が、ですか」
「受付と正式確認は別の手続きだと説明された。それでも疑問が残ったから質問されたんですよね」
「はい」
「具体的に、何が納得できなかったんでしょうか」
澪はすぐには答えられなかった。
自分では何度も考えてきたことだった。
受付は事故の前。
正式確認は事故の後。
その違いを何度も思い返した。
けれど、なぜ引っかかるのかと聞かれると、うまく一つの文章にならなかった。
「報告書だけを読んだ人には」
そこまで言って、澪は口を閉じた。
真田は黙って待っている。
「事故の前に書類が届いていたことが、分かりにくいと思ったんです」
ようやく言葉にした。
「正式な確認が後だったという説明は、手続きとしてはそうなのかもしれません。でも、結城さんが事故の前に停止を求めていたことまで、後から分かったように読める気がして」
真田のペンが動いた。
「当時から、そう感じていましたか」
澪は頷きかけた。
しかし、途中で止めた。
八年前の自分がそこまで明確に考えていたかどうかは分からない。
「今ほどはっきり言葉にできていたわけではありません」
「はい」
「ただ、事故の前に受け取ったのに、どうして報告書では後になっているんだろうとは思いました。だから聞いたんです」
「説明を聞いて、その疑問はなくなりましたか」
澪は膝の上へ視線を落とした。
ファイルの角に、親指の跡がついている。
少し力を抜くと、白くなっていた指先にゆっくり色が戻った。
「なくなったことにしたんだと思います」
自分の声が、思ったより静かだった。
真田はペンを止めなかった。
「なくなったことにした?」
「仕事の手続きについて、私よりずっと詳しい人たちが説明してくれました。書類の扱いとしては間違っていないんだって」
澪は息を吸った。
「それで、もういいんだと思おうとしたんです」
真田は顔を上げた。
「その説明が間違っていると、分かっていたわけではないんですね」
「はい。今も、どの部分が間違っていたのかまでは分かりません」
「では、当時の篠宮さんが分かっていたのは?」
澪はしばらく考えた。
「事故の前に書類を受け取ったことです。それから、報告書の書き方に疑問を持ったこと」
窓の外で車が通り過ぎた。
タイヤが濡れた路面を踏むような音がして、すぐ遠ざかっていく。
「その後、私は確認しませんでした」
澪は続けた。
「本当に担当部署へ伝わっていたのか。誰が書類を見たのか。そういうことを、ちゃんと確かめなかったんです」
真田は一度頷いた。
「分かりました」
その返事はあまりに普通だった。
責められることを覚悟していた澪は、かえって顔を上げられなかった。
「もう一つ、確認させてください」
真田が別の資料を取り出した。
古い事故報告書の写しだった。
「結城紗江さんのご主人や、当時の同僚の方にもお話を伺っています」
澪は顔を上げた。
片桐の顔が浮かんだ。
結城が見せてくれた、小さな娘の写真も。
「現場では事故前から設備の不具合が報告されていたそうです。篠宮さんは、停止要請を受け取ったとき、その内容をどこまで理解していましたか」
「設備を止めてほしいという書類だということは分かりました。ただ、具体的にどう危ないのかまでは」
「提出した方から、説明はありませんでしたか」
「急いで確認してほしいと言われました」
澪は目を閉じかけた。
窓口に立っていた女性。
紙の端を押さえる指。
あの日、自分は急いでいた。
午後の処理を終わらせなければならず、ほかにも受付待ちの書類があった。
「結城さんは、何か困っているようでしたか」
真田が尋ねた。
「困っていた、というより」
澪は言葉を探した。
「ちゃんと受け取ってもらいたいという感じでした」
「ちゃんと?」
「すみません。私の印象です」
「構いません。印象として伺います」
澪は頷いた。
「書類の端を何度も押さえていたんです。急いでいるようでしたけど、声を荒らげたりはしませんでした」
「そうですか」
真田は記録を取り、少し間を置いた。
「篠宮さんは、結城さんに何と答えましたか」
「担当へ回します、と」
「その後、実際に誰へ回したかは?」
「まだ、記録で確認できていません」
澪は続けようとして、口を閉じた。
真田が顔を上げる。
「何か思い出しましたか」
「いいえ」
澪は首を振った。
「思い出した気になることはあるんです。でも、本当にあの日のことか自信がなくて」
真田は頷いた。
「それなら、今はそのままにしましょう」
「はい」
「思い出せないことを埋める必要はありません」
澪は手元のファイルを見た。
昨日の確認書にも同じように書いた。
覚えていない。
特定できない。
確認していない。
八年前なら、そんな回答をしたら仕事ができないと思われる気がしていただろう。
今も気にならないわけではない。
それでも、覚えていないことを覚えていると言うほうが、ずっと怖かった。
面談の終わりに、真田は澪の書面をもう一度確認した。
「篠宮さん。今のご説明を記録に残します」
「はい」
「事故報告書の記載について、当時から疑問があった。ただし内容が虚偽だと断定できたわけではなく、正式確認という手続き上の説明を受けた後、追加の確認はしなかった。そういう理解でよろしいですか」
澪は頷いた。
「はい」
真田は記録を整理し、澪へ差し出した。
「内容を確認してください。違っている部分があれば、遠慮なく言ってください」
澪は一行ずつ読んだ。
最初の行から、最後まで。
自分の話した内容が、ほかの誰かの文章になっている。
それは当然のことなのに、読み進めるうちに指先が冷えていった。
八年前、疑問を持った。
説明を受けた。
確認しなかった。
その三つが、並んでいる。
「この部分なんですけど」
澪は一行を指差した。
真田が身を乗り出した。
「どこでしょう」
「『報告書の内容に納得した』とありますけど、そこは少し違います」
真田は記録を見た。
「どのように直しましょうか」
澪は考えた。
「納得したというより、それ以上確認することをやめた、です」
真田は頷いた。
「分かりました。そのように訂正します」
紙の上で、文字が一つの線によって消される。
その横へ新しい言葉が書き足された。
澪はその様子を見つめた。
八年前にも、書類の言葉が少し変わった。
自分はその理由を聞き、頷いた。
今は違う。
自分が話したことと違う部分を、自分の言葉で直してもらった。
ほんの小さなことだった。
けれど、澪は訂正された一行を確かめてから、ようやく署名した。
警察署を出たのは正午を少し過ぎた頃だった。
昼の光が強くなり、建物の正面に植えられた木の葉が白く光っている。歩道を通る人々は上着の襟を緩め、近くの飲食店から漂う出汁の匂いに足を向けていた。
澪は鞄からスマートフォンを取り出した。
航から、短いメッセージが届いている。
『終わった?』
澪は『終わった』と返信した。
すぐに電話がかかってきた。
「お疲れ」
航の声が聞こえた。
「もう会社戻る?」
「うん。午後から仕事」
「昼、食べてからにしなよ」
「時間あるかな」
「一時間くらい遅れても会社は潰れないだろ」
「総務の仕事を軽く見すぎです」
「怖い部署なんだな」
澪は少し笑った。
「どうだった?」
航が尋ねた。
澪は信号の前で足を止めた。
「昔の事故のことを、いろいろ聞かれた」
「そうか」
「私が何を覚えてるか、何をしてなかったか」
航はすぐには返事をしなかった。
向こうで椅子の軋む音がする。
「ちゃんと話せた?」
「うん」
澪は信号を見た。
赤い灯りが、なかなか変わらない。
「思い出せないことは、思い出せないって言った」
「それでいいと思う」
「でも、当時から疑問があったのに、確認しなかったことも話した」
「……そうか」
澪は息を吐いた。
「自分で言ったことなのに、記録に残ると変な感じがするね」
航は少し黙っていた。
それから、いつもより低い声で言った。
「言わなかったことを、後から言うのは難しいからな」
澪は顔を上げた。
「航?」
「いや。ちゃんと話せてよかったなって」
信号が青へ変わった。
澪は横断歩道へ足を踏み出した。
車の排気音に混じって、航が何かを言いかける気配がした。
「何?」
「……なんでもない。今夜、何か食べたいものある?」
いつもの質問だった。
澪は少し考えた。
「餃子」
「昨日も食べたって言ってなかった?」
「今日は別の餃子」
「何が違うんだよ」
「店が違う」
航が笑った。
澪も笑い返し、電話を切った。
しかし、歩き始めてからも、航の声が耳に残っていた。
言わなかったことを、後から言うのは難しい。
澪はそれを、今朝の面談で知ったばかりだった。
航がその言葉を口にした理由を、深く考える余裕はなかった。
ただ、いつもより少し疲れた足を動かして、午後の仕事へ戻った。




