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殺意アレルギー  作者: asnt2026


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19/30

第19話 正しい言い方

木曜日の午後一時五十分。

小森は、澪の机の前で立ったまま、書類を握りしめていた。

「篠宮さん。これ、確認してもいいですか」

声がいつもと違っていた。

澪は開いていた勤怠画面を閉じ、椅子を少し回した。

「どうしたの?」

小森は書類を差し出した。

旧配送センターの資料移管に関する受領確認票だった。

「今、私が担当してる分なんですけど。安全管理から差し戻しが来て」

「どこ?」

「この備考欄です」

澪は紙を受け取った。

『事故関連記録について、当時の受付後の処理が未確認のため、受領済みと確認済みを区別すること』

その下には、管理担当者の押印欄が二つ並んでいた。

小森は唇を結んだ。

「私、受け取ったから、もう確認済みだと思ってたんです」

「うん」

「でも違うんですね」

澪は頷いた。

「受け取ったことと、中身を確認して処理したことは別だから」

言い終えた瞬間、自分の声が少し遠く聞こえた。

小森も、何かに気づいたように顔を上げた。

「八年前の事故の書類も、同じことなんですか」

澪は受領票を机へ置いた。

「手続きとしては、同じ区別だと思う」

「じゃあ、篠宮さんはちゃんと受け取ってたけど、ほかの人が確認してなかったってことですか」

「そこは、まだ分かってない」

小森の眉が寄った。

「でも、記録はあるんですよね」

「受付した記録はある。誰がその後に見たのかは、まだ確認してるところ」

小森は書類を見下ろした。

「すみません。変なこと聞いて」

「変じゃないよ」

澪は言った。

小森は少し迷ってから、声を落とした。

「ほかの部署の人が言ってたんです」

澪の指が止まった。

「何を?」

「八年前、停止要請を受け付けた人が、今も総務にいるって」

小森は澪の顔を見ないまま続けた。

「それで、その人がちゃんと伝えてなかったから事故になったんじゃないかって」

澪は返事をしなかった。

小森は慌てたように顔を上げた。

「私がそう思ってるわけじゃないです。本当に」

「うん」

「ちゃんと確認できてないことを、勝手に言うのはよくないと思うんですけど」

澪は受領票へ視線を落とした。

二つの押印欄。

受付。

確認。

一見すると、ほんのわずかな違いだった。

けれど、どちらか一つが空白になっているだけで、何が終わり、何が終わっていないのかが変わる。

「小森さん」

澪は顔を上げた。

「その人が聞いた話も、今はまだ確認できてないことだから」

小森は頷いた。

「はい」

「私が事故の前に書類を受け取ったのは本当。それから、事故の後に報告書のことで質問したのも本当。でも、誰へいつ伝わったかについては、まだ記録が揃っていない」

澪は少しだけ息を整えた。

「だから、今の段階で私のところで止まっていたとも、ちゃんと伝わっていたとも言えない」

小森は黙って聞いていた。

「もし聞かれたら、そのように伝えてもらっていい?」

「はい」

小森は頷いた。

「分かりました」

書類を受け取りかけて、手を止める。

「篠宮さん」

「うん?」

「嫌じゃないんですか。そんなこと言われて」

澪は小さく笑おうとした。

けれど、うまく口角が上がらなかった。

「嫌だよ」

思ったより、簡単に言葉が出た。

小森は目を丸くした。

「そりゃ、嫌に決まってる」

澪は続けた。

「でも、間違ってるって言うためには、何が正しいのか分からないと困るから」

小森はしばらく黙っていた。

それから、受領票を両手で持ち直した。

「私、受け取ったことと確認したこと、ちゃんと分けて記録します」

「うん。お願い」

「それと、分からないことがあったら聞きます。今度は遠慮しないで」

澪はようやく笑った。

「それは助かる」

小森は頭を下げ、自分の席へ戻っていった。

澪は画面を開き直した。

勤怠修正の一覧が、何事もなかったように表示される。

数字も、名前も、昨日と変わらない。

変わったのは、少し前に小森が言ったことだけだった。

ほかの部署の人が、八年前の事故について話している。

そして、その話の中には、自分の名前がある。

澪はマウスを動かそうとして、手を止めた。

事故の前に書類を受け取った人。

その説明は間違っていない。

けれど、それだけを聞いた人は、どんな出来事を想像するのだろう。


午後四時。

澪は安全管理室へ、確認記録の訂正依頼を送った。

内容は短かった。

『現時点では、停止要請票の受付後の伝達状況について調査中であり、受付担当者による伝達漏れが確認されたわけではないことを、関係者向けの記録にも明記していただきたい』

文章を入力する間、澪は何度か手を止めた。

自分を守るための依頼だった。

それは間違いない。

しかし、だからといって事実ではないことを書いてほしいわけではなかった。

確認されていないことを、確認されたように扱わないでほしい。

それだけだった。

送信してから、澪は椅子へ深く座った。

自分の名前を守るために、今まで知らなかった書類の扱いを必死で考えている。

八年前、紗江が提出した書類のことも、同じくらい真剣に考えていたら。

そう思いかけて、澪は目を閉じた。

今さら、比べても仕方がない。

ただ、比べずにはいられなかった。


午後七時十五分。

航が澪の部屋へ来たとき、キッチンには焦げた醤油の匂いが漂っていた。

「何作ってるの?」

玄関から声がした。

「親子丼」

「焦げた匂いするけど」

「香ばしいと言って」

「香ばしさの限界超えてない?」

航は靴を脱ぎ、キッチンを覗き込んだ。

澪は鍋の蓋を開けた。

卵は固まりすぎていて、鶏肉の一部が鍋底に貼りついている。

「失敗ではないです」

「何て呼べばいいの」

「親子丼の別解」

航が笑った。

「じゃあ、俺は別解を食べます」

澪は冷蔵庫からサラダを取り出した。

買ってきたままの透明な容器だった。

「そっちは正解だと思う」

「切るだけなのに?」

「切る工程を省くという高度な判断です」

航は箸を並べながら肩をすくめた。

こういう会話ができる相手だった。

焦がした夕飯を見ても、疲れているのかと大げさに心配したりしない。

仕事のことで頭がいっぱいになっているときも、テレビのくだらない話題を持ち出してくる。

澪が黙っていても、必ずしも理由を聞いてこない。

それが楽な日もあった。

今夜も、最初はそうだった。


食事を半分ほど終えたところで、航が箸を置いた。

「会社で何かあった?」

澪は顔を上げた。

「どうして?」

「いつもなら、焦がした鍋の言い訳がもっと長いから」

「失礼だな」

「今日は三つくらいで終わった」

澪は少し笑った。

航は急かさず、麦茶を飲んだ。

澪は器の底を箸で軽くつついた。

「八年前の事故のこと、会社でも少し話になってるみたい」

「噂?」

「うん」

「何て?」

「停止要請を受け取った人が、ちゃんと伝えてなかったんじゃないかって」

航の手が止まった。

「誰が言ってた?」

「小森さんが聞いたって。本人は、私を責めてたわけじゃないけど」

航は椅子へ背中を預けた。

「確認できてないのに、そんなこと言う人がいるんだな」

「いるよ。会社だもん」

澪は器を置いた。

「私だって、何か起きたら理由を知りたくなるし。誰が悪かったのか、考えちゃうこともある」

「でも、澪のところで止まってたって決まったわけじゃないだろ」

「うん」

「だったら、今はそこまで気にしなくていい」

澪は顔を上げた。

「気にしなくていいって、簡単に言うね」

航は口を閉じた。

澪は視線を落とした。

また、同じような言い方をしてしまった。

航は自分を責めているわけではない。

それなのに、庇われるほど居場所がなくなるような気がした。

「ごめん」

澪は言った。

航は首を振った。

「俺も、簡単に言いすぎた」

しばらく、二人は黙っていた。

窓の外からバイクの走る音が聞こえた。

エンジン音が建物の角を曲がると急に小さくなり、部屋には換気扇の低い音だけが残った。

「今日、訂正の依頼を出したんだ」

澪が言った。

航は顔を上げた。

「何の?」

「事故の前に書類を受け取ってたことは本当。でも、その後にちゃんと伝えなかったって確認されたわけじゃないから、そこは分けてほしいって」

「そうか」

「自分のことだから、余計に気になったんだと思う」

澪は箸を置いた。

「でも、八年前に結城さんの書類について同じように確認してたら、何か違ったのかなって」

航はしばらく答えなかった。

そして、ようやく口を開いた。

「澪が全部悪かったわけじゃない」

「分かってる」

「本当に?」

その言い方に、澪は顔を上げた。

航は続けなかった。

二人の間に、短い沈黙が落ちた。

「全部じゃないよ」

澪は言った。

「でも、何もなかったことにはできないと思う」

航は目を伏せた。

「そうだな」

その声が、いつもより少し低かった。


食器を片づけた後、二人はソファへ並んで座った。

テレビでは旅行番組が流れている。

知らない街の食堂で、出演者が湯気の上がる料理を食べていた。

航がリモコンを持ち、音量を少し下げる。

「週末、どこか行く?」

「急だね」

「最近、仕事の話ばっかりだから」

澪は画面を見た。

「どこがいい?」

「澪が決めて」

「それ、一番困るやつ」

「じゃあ、俺が決めると文句言わない?」

「内容による」

「結局、文句言うんじゃん」

二人は笑った。

しばらくして、航が澪の左手に触れた。

袖口を少しずらし、腕の内側を見ている。

「もう、ほとんど消えたな」

「うん」

「かゆみは?」

「今はない」

航は指を離した。

「また出たら、ちゃんと言えよ」

澪は頷いた。

この体質について、航はまだ詳しいことを知らない。

誰かが本気で人を殺そうとすると、皮膚に症状が現れる。

そんな話を聞かされたら、どんな顔をするのだろう。

澪は航の横顔を見た。

今なら、話せるかもしれない。

三宅の事件を調べる中で、何度も考えたことだった。

いつまでも隠しておけるわけではない。

けれど、何から話せばいいのだろう。

子どもの頃のことか。

ショッピングモールで倒れた日のことか。

それとも、あの送別会の夜から。

「航」

澪は声をかけた。

「ん?」

「もし、私が変なこと言ったらどうする?」

航はテレビから視線を外した。

「普段から言ってるだろ」

「そういうことじゃなくて」

「どのくらい変?」

澪は少し考えた。

「信じられないようなこと」

航は眉を上げた。

「内容によるけど、まず話は聞くよ」

「本当に?」

「聞くくらいならできる」

澪は小さく頷いた。

航は続きを待っていた。

澪は口を開いた。

しかし、出てきたのは別の言葉だった。

「……今日はやめとく」

航はしばらく澪を見ていた。

それから、軽く頷いた。

「分かった」

理由は聞かなかった。

澪はそのことにほっとした。

同時に、少しだけ寂しかった。

何も言わなくても待ってくれる相手なのに、自分はまだ何も話せていない。

テレビの中で、出演者が料理を褒めていた。

航がリモコンを手に取る。

「じゃあ、週末の予定だけ決めようか」

「うん」

「親子丼がおいしい店はどう?」

澪は顔を向けた。

「まだ言う?」

「比較研究として」

「今日のも研究対象なんだ」

「失敗例は貴重だから」

澪はクッションを持ち上げ、航の腕へ軽く押しつけた。

航は笑いながらそれを受け止めた。

その笑い声を聞いていると、さっき話そうとしたことが、また少し遠くなった。

けれど、澪は知らなかった。

航にもまた、話さなければならないことがあった。

そしてそれは、彼女が今夜言えなかった秘密とは別のものだった。

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