第20話 最後に会った人
金曜日の午後二時十分。
久我千晴は、真田亜紀の向かいに座ると、膝の上へ鞄を置いた。
「今日は三宅さんの件と伺っていますが」
「はい。以前もお話を聞かせていただきましたが、通信記録などを確認したうえで、改めてお尋ねしたいことがありまして」
真田が答えると、久我は頷いた。
会社の小会議室だった。
窓には薄いブラインドが掛けられ、午後の日差しが斜めに差し込んでいる。少し前まで人が使っていたらしく、室内には温かいコーヒーとホワイトボード用のインクの匂いが残っていた。
佐伯が録音について説明し、久我の了承を得て機器を置いた。
真田は資料を開いた。
「三宅さんとは、亡くなる前の金曜日に連絡を取っていらっしゃいましたね」
「はい」
「午後九時二十六分に、三宅さんから連絡が入っています」
久我は静かに頷いた。
「覚えています」
「どのような内容でしたか」
「旧センターの資料についてです。三宅さんは事故当時の記録を調べていらしたので」
「具体的に、何を確認したかったのでしょう」
久我は少し考えた。
「当時の受付記録と、事故報告書の扱いですね。保管されている原本を確認したいという話だったと思います」
真田は資料の一枚を抜いた。
三宅の端末に残されていた連絡の写しだった。
『明日、確認できた原本を社外へ渡す予定です。その前に、最後に確認したいことがあります』
午後九時二十六分。
短い文章だった。
真田はそれを久我の前へ置いた。
「社外へ渡すということについて、何か聞いていましたか」
久我は写しを読んだ。
「遺族の方や、必要な相談先へ見せるつもりだとは聞いていました」
「止めようとはされなかった?」
久我は顔を上げた。
「止める理由はありません。ただ、会社の原本を勝手に持ち出すとなると話が違いますので、どういう資料なのか確認する必要はあると思いました」
「そのために、会うことになった?」
「そうです」
真田はペンを持ち直した。
「どこでお会いしましたか」
「旧配送センターです」
「施設の中ですか」
「いえ。外の搬入口のところで」
佐伯のペンが動く音がした。
久我はそれを気にした様子もなく、続けた。
「三宅さんから、今日中に少し確認できないかと連絡をいただいたんです。翌日には資料を渡すつもりだということでしたので」
「ずいぶん遅い時間ですね」
「送別会がありましたから。終わってからのほうが都合がよかったんです」
「長峰さんの送別会ですね」
「はい」
真田は久我の顔を見た。
答え方は落ち着いている。
必要なことを考えてから話し、分からないところは曖昧なままにしている。
それ自体に不自然な点はなかった。
しかし、三宅の遺体が見つかった場所で、死亡した夜に会っていた。
その事実は、軽く扱えない。
「何時頃、旧センターへ着きましたか」
「十時半頃だったと思います」
「三宅さんはすでに?」
「ええ。先にいらっしゃいました」
「お二人で、どんな話を?」
久我は鞄の持ち手から手を離した。
「受付記録の控えがどこにあるかという話です。事故報告書との違いも聞かれました」
「書類を見せられましたか」
「いくつか資料をお持ちでした。ただ、暗い場所でしたし、細かい内容までは確認できませんでした」
真田は頷いた。
「三宅さんは、その場で何か結論を出されましたか」
「いいえ。私は手続き上の説明をしましたが、三宅さんは別の記録とも照らしたいとおっしゃっていました」
「その後は?」
「私は先に帰りました」
「何時頃でしょう」
久我は少し考えた。
「十時三十五分頃だったと思います。正確に時計を見たわけではないんですが」
真田は時刻を書き込んだ。
二十二時三十五分頃。
「三宅さんは、その場に残っていたんですか」
「そうだったと思います」
「その後、連絡は?」
「ありませんでした。亡くなったと聞いたのは翌朝です」
久我はそこで、初めて膝の上の手を組み直した。
「まさか、あんなことになるとは思いませんでした」
真田は返事を急がなかった。
机に置かれた資料の中には、もう一つの時刻がある。
午後十時四十一分。
三宅が牧野へ送ったメッセージ。
『担当者との確認がまだ終わらない』
その六分前に久我が別れたのだとすれば、三宅は別の確認を続けていたのかもしれない。
一方、久我が実際にはまだその場にいた可能性もある。
現段階では、どちらとも決められない。
「三宅さんは、その後も担当者との確認が終わっていないと知人へ連絡しているんです」
真田は言った。
久我は目を上げた。
「そうなんですか」
「そのことについて、何か思い当たることはありますか」
久我は少し首を傾けた。
「三宅さんはいろいろな部署へ問い合わせをしていたようですから。私の後にも、何か確認したいことがあったのかもしれません」
「そうですか」
「私には分かりません」
真田は頷いた。
それ以上、この場で答えを求めても意味はなかった。
確認すべきものは、ほかにある。
久我が実際に何時まで旧センターにいたのか。
三宅がほかの誰かと会う予定だったのか。
そして、久我が言う資料の確認が、どんな内容だったのか。
「お車で行かれたんですか」
「はい」
「駐車した場所は?」
久我は建物の裏手にある短時間駐車用の場所を説明した。
真田は図面へ印をつけた。
「今後、移動経路の確認をお願いすることがあるかもしれません」
「分かりました」
久我は頷いた。
「必要なことがあれば協力します」
その返事は、最初から最後まで変わらなかった。
午後三時三十五分。
久我が会議室を出た後、佐伯は手帳を開いたまま真田を見た。
「三宅さんと最後に会った人物の一人にはなりますね」
「本人の説明では、そうね」
「しかも、現場で」
「ええ」
佐伯は資料へ目を落とした。
「でも、久我さんが帰った後に事故が起きた可能性もあります」
「あるわ」
「三宅さんのメッセージも、久我さんのこととは限らない」
「それもそう」
真田は椅子から立ち上がり、ブラインドの隙間から外を見た。
駐車場には社員の車が並んでいる。
その向こうを配送車が一台、ゆっくり走っていった。
「だから、ここから先は言葉だけで決めない」
佐伯が顔を上げる。
「移動記録ですか」
「それも。施設の出入り、周辺の映像、ほかの人との連絡。それから、三宅さんが当夜何を持っていたか」
「空の透明ファイルですね」
「そう」
真田は振り返った。
「書類が抜かれたのか、最初から空だったのか。それさえ分かっていないもの」
佐伯は頷いた。
「爪の付着物の件も、鑑定を進めています」
「照合できる材料がなければ、付着物だけでは相手を特定できないこともある。ほかの証拠と合わせましょう」
真田は机へ戻った。
三宅は旧配送センターで久我と会っていた。
それは、これまで分からなかった具体的な事実だった。
ただ、誰かと会っていたことと、その相手が殺したことは違う。
捜査でその二つを混同した瞬間、後から出てくる事実の見え方が変わってしまう。
「長峰さんと結城さんについても、引き続き確認して」
真田が言った。
佐伯は手帳をめくった。
「結城さんは先週の面談で、長峰さんに事故の件を直接聞きたいと思って送別会へ参加したと話しています」
「ええ」
「ただ、詳しい話はできなかったそうです」
「途中で娘さんから電話があったと」
「はい。電話を受けてから、帰るつもりになったと説明しています」
真田は頷いた。
結城には、長峰を恨む理由がある。
妻を亡くした事故の責任者だったからだ。
しかし、その恨みが三宅の死と関係しているかどうかは別の問題だった。
「送別会の後、結城さんがどこへ行ったかも確認しましょう」
「分かりました」
真田は手帳を閉じた。
調べることが増えた。
それは捜査が進んだということでもあるが、答えが近づいたという意味ではなかった。
午後五時二十分。
真田は朝凪ロジスティクスの安全管理室で、八年前の事故報告書の作成経緯について説明を受けていた。
机には複数の書類が並んでいる。
事故直後の聞き取り記録。
報告書の草案。
提出された正式版。
澪が最近提出した確認書。
担当者が一冊ずつ説明していく。
「報告書の草案は何度か確認されています。最終的な提出までは、当時の総務と現場責任者が関わっていました」
真田は草案を開いた。
「作成者の履歴は残っていますか」
「一部は残っていますが、当時のシステムと現在のものが違うため、すべてをそのまま確認できるわけではありません」
「では、原本と控えをそれぞれ確認したいです」
「現在、資料管理で照合しています」
担当者はそう答えた。
真田は頷き、紙をめくった。
事故の概要。
設備の不具合。
作業手順。
停止要請の確認時刻。
そこに記された言葉を読んでいると、何度も同じ箇所へ視線が戻った。
『事故発生後に正式確認』
篠宮澪は、この表現に当時から疑問を持っていた。
そして、納得したからではなく、それ以上の確認をやめた。
真田は澪の証言を思い出した。
若い社員が、事故の後に作られた報告書を前にしている。
上司と現場責任者が、手続きの違いを説明する。
その場で疑問を持ったとしても、相手の説明を押し返すのは簡単ではなかっただろう。
ただし、それで事実の確認が終わってよかったことにはならない。
「この報告書を提出する前に、受付時刻を明記することは検討されなかったのでしょうか」
真田が尋ねた。
担当者は資料を確認した。
「現時点では、その協議がどのように行われたかまでは分かっていません」
「そうですか」
真田は頷いた。
今、確かめたいのは、誰がどんな言葉を選んだかということだった。
書類に書かれた事実。
書かれなかった事実。
そして、それを判断した人物。
八年前の出来事を調べようとしていた三宅は、その違いに気づいていたのかもしれない。
しかし、まだ確かなことは言えなかった。
午後六時過ぎ。
署へ戻った真田のもとへ、佐伯が一枚のメモを持ってきた。
「旧センターの周辺について、追加で確認できたことがあります」
「何?」
「搬入口の近くに、以前は監視用のカメラがあったそうです。ただ、施設縮小の際に運用が変わっていて、事件当夜の映像が残っているかはまだ確認できていません」
真田はメモを受け取った。
「管理担当は?」
「外部の業者です。記録の保存状況を照会しています」
「お願い」
佐伯は頷いた。
「久我さんの車の移動についても、確認を進めています」
「ええ。ほかの関係者も同じように」
真田は席へ座った。
机の上には、三宅の最後のメッセージが印刷されていた。
午後十時四十一分。
担当者との確認がまだ終わらない。
その六分前。
久我は、三宅と別れたと説明した。
真田は二つの時刻を手帳へ並べた。
間に線は引かなかった。
どちらか一方を間違いだと決めるためには、まだ足りないものがある。
ただ、この六分間については、必ず確かめなければならない。
真田はメモを閉じ、次に確認する資料の一覧へ手を伸ばした。




