第21話 隣の部屋
月曜日の午前九時四十五分。
篠宮澪は、会議室の扉を開けたところで足を止めた。
中に人はいなかった。
それなのに、壁の向こうから低い物音が聞こえていた。
ごとん、と何かを置く音。
続いて、重いものを引きずるような短い響き。
澪が室内へ一歩入ると、奥の壁からまた同じ音がした。
「すみません、うるさいですよね」
背後から声をかけられた。
振り向くと、小森がファイルを抱えて立っている。
「何の音?」
澪が尋ねると、小森は隣の壁を指差した。
「書庫です。今朝から棚の配置を変えてるらしくて」
「そうなんだ」
「旧センターの資料も増えたから、置き場所を作ってるそうです」
澪は部屋の奥を見た。
壁には何もない。
薄い灰色のパネルが天井まで続いていて、隣の部屋の様子は分からなかった。
けれど、棚を動かす音だけは、はっきり聞こえてくる。
会議室の机には細い傷がいくつもあり、椅子の脚には床を擦らないためのフェルトが貼られていた。窓の外は曇り空で、白っぽい光が机の端を照らしている。廊下から漂うコピー用紙の匂いに、どこか古い段ボールの乾いた匂いが混じっていた。
「ここの隣って、書庫だったんだね」
澪は言った。
「そうですよ。扉は廊下の反対側ですけど」
小森は部屋の外を指差した。
「中で移動するとき、音が響くみたいです」
「知らなかった」
「篠宮さん、ここの会議室あんまり使わないですもんね」
「狭いからね。四人で使うと、誰かが壁と仲良くなる」
小森は笑った。
「今日は何か会議ですか」
「午後の資料確認に使えるか見に来たの」
「棚の移動、午前中で終わるって聞きました」
「それなら大丈夫かな」
澪は机の上に置かれていた予約表を確認した。
会議室B。
定員四人。
隣は第二書庫。
その文字を見て、ようやく部屋の位置関係が頭に入った。
廊下側からは別々の扉になっているが、壁一枚を挟んでつながっているらしい。
澪は窓へ近づいた。
外には駐車場の白線が見え、植え込みの枝が風に揺れている。
何でもない会社の一角だった。
こうして使っていても、隣の部屋に誰かがいることさえ気づかない日があるのだろう。
「篠宮さん?」
小森が呼んだ。
「どうしました?」
「ううん。思ったより音が聞こえるなって」
「棚の移動だからじゃないですか。普段は静かですよ」
澪は頷いた。
そのとき、壁の向こうでまた何かがぶつかる音がした。
小森が肩をすくめる。
「今日は例外ですね」
午後一時十分。
澪は資料管理担当から届いた連絡を確認していた。
旧配送センターに関する保管記録のうち、事故当時の受付履歴と現場側の確認簿について、原本や控えの所在確認が進んでいるという。
まだ内容の照合は終わっていない。
しかし、保全対象として扱うことは正式に決まった。
澪は画面を見つめた。
少し前まで、古い記録がいつ廃棄されるのか気になっていた。
今は少なくとも、調査が終わる前に処分されることは避けられそうだった。
そのことに、ようやく息がつけた。
ただ、自分で資料を閲覧できるようになったわけではない。
旧センターの記録には、引き続きアクセス制限がかかっている。
画面を開こうとすると、今でも同じ表示が出る。
『権限がありません』
澪はその文字を一度見てから、画面を閉じた。
分かっている。
保全と閲覧は別の話だ。
自分が当時の受付担当者である以上、記録の扱いには慎重でなければならない。
けれど、確認したい内容は増えるばかりだった。
そのとき、内線が鳴った。
情報管理部門からだった。
「旧資料の閲覧手続きについて、問い合わせをいただいていましたよね」
若い男性の声がした。
「はい」
「資料の内容ではなく、申請方法についてなら説明できます。申請経路が少し複雑なので」
「ありがとうございます」
「通常の閲覧申請とは別に、保全対象の資料については安全管理の承認が必要になります」
澪はメモを取った。
いくつか質問をすると、相手は丁寧に答えてくれた。
しかし、途中で一つ分からないことが出てきた。
「すみません。保全対象になった時点で、以前の閲覧履歴まで変更されるんでしょうか」
「いいえ。履歴はそのまま残ります」
「では、事故後に作成された記録と、事故前の受付記録を照合する場合は?」
「そこは資料ごとに管理方法が違うので、担当者と確認したほうがいいですね」
澪は頷いた。
「分かりました」
電話を切った後、彼女は少し考えた。
情報管理の担当者に聞けば分かることと、安全管理の判断が必要なことがある。
航は、その両方の仕組みをよく知っているはずだった。
ただ、恋人だからという理由で特別な情報を聞くつもりはない。
資料の中身ではなく、正式な手続きのことだけを確認したい。
澪は社内メッセージを開いた。
『旧センターの閲覧制限について、申請経路を確認したいです。業務上の相談として少し時間をもらえますか』
送信先は高瀬航。
数分後、返信が届いた。
『いいよ。内容によっては安全管理へ回すことになるけど、それでもよければ』
『もちろん』
『水曜の午後は?』
澪は予定表を開いた。
午後二時から三十分ほど、空いている。
『14時からなら大丈夫』
『了解。場所は?』
『会議室B』
航から、少し間を置いて返事が来た。
『あそこ、狭いぞ』
澪は笑った。
『一対一なら大丈夫』
『壁と仲良くしなくて済む?』
澪は指を止めた。
以前、似たような冗談を小森に言ったばかりだった。
航もあの会議室を使ったことがあるのだろう。
『大丈夫。壁側は私が座る』
『譲り合いの精神がすごい』
澪は短く返信し、予約を確定した。
水曜日、午後二時。
会議室B。
それだけの予定だった。
午後四時半。
澪が総務部へ戻ると、久我が資料の束を抱えて立っていた。
「篠宮さん、ちょうどよかった」
「はい」
「旧センターの保全対象が決まったって、連絡が来てたよ」
「私も確認しました」
「うん。資料が増えたから、第二書庫も整理することになってて。しばらく人の出入りが多くなると思う」
澪は午前中の物音を思い出した。
「会議室Bの隣ですよね」
「そう。あそこ、もともと保管棚がぎっしりだったから」
久我は少し疲れたように肩を回した。
「古い書類って、必要なときは見つからないのに、片づけるときだけ大量に出てくるのよね」
「分かります」
「篠宮さんは今、事故関係の資料を直接扱わないようになってるから、書庫には入らないでね。必要なものがあれば担当へ」
「はい」
澪は頷いた。
「入退室の記録も管理されているんですよね」
「されてるよ。保全対象になってからは、社員証での出入りを確認してる」
久我は資料を抱え直した。
「何かあった?」
「いえ。小森さんから棚の移動の話を聞いて」
「ああ。あれね」
久我は少し苦笑した。
「午後には終わったはずなんだけど。まだ音がする?」
「今は静かです」
「それならよかった」
久我は次の会議へ向かった。
澪はその背中を見送り、自分の席へ戻った。
書庫の中に何があるのか。
誰が、いつ出入りするのか。
自分には詳しいことが分からない。
それでも、記録は残る。
今まで何度もその言葉を聞いてきた。
ただ、記録が残っているからといって、それだけで中で起きたことの意味まで分かるわけではない。
澪はパソコンを開き、午後の仕事へ戻った。
午後六時過ぎ。
退勤しようとしたところで、航から電話がかかってきた。
「お疲れ。まだ会社?」
「今出るところ」
「じゃあ、駅前で会える?」
「うん。どうしたの?」
「ちょっと話したいことがある」
澪は足を止めた。
航の声はいつもどおりだった。
ただ、その言い方が少し気になった。
「今?」
「急ぎってほどじゃないけど。できれば、ちゃんと顔を見て話したい」
澪は廊下の窓を見た。
外はもう暗く、向かいの建物の窓には明かりが点いている。
「分かった」
「じゃあ、いつものところで」
電話が切れた。
澪はスマートフォンを鞄へしまった。
ちゃんと顔を見て話したい。
航がそんな言い方をするのは珍しかった。
仕事のことだろうか。
それとも、週末の予定について何かあるのだろうか。
澪は社員証をかざし、通用口を出た。
夜の冷たい空気が頬に触れる。
歩きながら、ふと金曜日の送別会を思い出した。
あの夜も、何かが始まる前は、ただの仕事帰りだった。
特別なことが起きるとは思っていなかった。
澪はその考えを振り払った。
すべてを事件へ結びつける必要はない。
航が話したいことがあると言った。
今は、それだけだった。




