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殺意アレルギー  作者: asnt2026


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21/30

第21話 隣の部屋

月曜日の午前九時四十五分。

篠宮澪は、会議室の扉を開けたところで足を止めた。

中に人はいなかった。

それなのに、壁の向こうから低い物音が聞こえていた。

ごとん、と何かを置く音。

続いて、重いものを引きずるような短い響き。

澪が室内へ一歩入ると、奥の壁からまた同じ音がした。

「すみません、うるさいですよね」

背後から声をかけられた。

振り向くと、小森がファイルを抱えて立っている。

「何の音?」

澪が尋ねると、小森は隣の壁を指差した。

「書庫です。今朝から棚の配置を変えてるらしくて」

「そうなんだ」

「旧センターの資料も増えたから、置き場所を作ってるそうです」

澪は部屋の奥を見た。

壁には何もない。

薄い灰色のパネルが天井まで続いていて、隣の部屋の様子は分からなかった。

けれど、棚を動かす音だけは、はっきり聞こえてくる。

会議室の机には細い傷がいくつもあり、椅子の脚には床を擦らないためのフェルトが貼られていた。窓の外は曇り空で、白っぽい光が机の端を照らしている。廊下から漂うコピー用紙の匂いに、どこか古い段ボールの乾いた匂いが混じっていた。

「ここの隣って、書庫だったんだね」

澪は言った。

「そうですよ。扉は廊下の反対側ですけど」

小森は部屋の外を指差した。

「中で移動するとき、音が響くみたいです」

「知らなかった」

「篠宮さん、ここの会議室あんまり使わないですもんね」

「狭いからね。四人で使うと、誰かが壁と仲良くなる」

小森は笑った。

「今日は何か会議ですか」

「午後の資料確認に使えるか見に来たの」

「棚の移動、午前中で終わるって聞きました」

「それなら大丈夫かな」

澪は机の上に置かれていた予約表を確認した。

会議室B。

定員四人。

隣は第二書庫。

その文字を見て、ようやく部屋の位置関係が頭に入った。

廊下側からは別々の扉になっているが、壁一枚を挟んでつながっているらしい。

澪は窓へ近づいた。

外には駐車場の白線が見え、植え込みの枝が風に揺れている。

何でもない会社の一角だった。

こうして使っていても、隣の部屋に誰かがいることさえ気づかない日があるのだろう。

「篠宮さん?」

小森が呼んだ。

「どうしました?」

「ううん。思ったより音が聞こえるなって」

「棚の移動だからじゃないですか。普段は静かですよ」

澪は頷いた。

そのとき、壁の向こうでまた何かがぶつかる音がした。

小森が肩をすくめる。

「今日は例外ですね」


午後一時十分。

澪は資料管理担当から届いた連絡を確認していた。

旧配送センターに関する保管記録のうち、事故当時の受付履歴と現場側の確認簿について、原本や控えの所在確認が進んでいるという。

まだ内容の照合は終わっていない。

しかし、保全対象として扱うことは正式に決まった。

澪は画面を見つめた。

少し前まで、古い記録がいつ廃棄されるのか気になっていた。

今は少なくとも、調査が終わる前に処分されることは避けられそうだった。

そのことに、ようやく息がつけた。

ただ、自分で資料を閲覧できるようになったわけではない。

旧センターの記録には、引き続きアクセス制限がかかっている。

画面を開こうとすると、今でも同じ表示が出る。

『権限がありません』

澪はその文字を一度見てから、画面を閉じた。

分かっている。

保全と閲覧は別の話だ。

自分が当時の受付担当者である以上、記録の扱いには慎重でなければならない。

けれど、確認したい内容は増えるばかりだった。

そのとき、内線が鳴った。

情報管理部門からだった。

「旧資料の閲覧手続きについて、問い合わせをいただいていましたよね」

若い男性の声がした。

「はい」

「資料の内容ではなく、申請方法についてなら説明できます。申請経路が少し複雑なので」

「ありがとうございます」

「通常の閲覧申請とは別に、保全対象の資料については安全管理の承認が必要になります」

澪はメモを取った。

いくつか質問をすると、相手は丁寧に答えてくれた。

しかし、途中で一つ分からないことが出てきた。

「すみません。保全対象になった時点で、以前の閲覧履歴まで変更されるんでしょうか」

「いいえ。履歴はそのまま残ります」

「では、事故後に作成された記録と、事故前の受付記録を照合する場合は?」

「そこは資料ごとに管理方法が違うので、担当者と確認したほうがいいですね」

澪は頷いた。

「分かりました」

電話を切った後、彼女は少し考えた。

情報管理の担当者に聞けば分かることと、安全管理の判断が必要なことがある。

航は、その両方の仕組みをよく知っているはずだった。

ただ、恋人だからという理由で特別な情報を聞くつもりはない。

資料の中身ではなく、正式な手続きのことだけを確認したい。

澪は社内メッセージを開いた。

『旧センターの閲覧制限について、申請経路を確認したいです。業務上の相談として少し時間をもらえますか』

送信先は高瀬航。

数分後、返信が届いた。

『いいよ。内容によっては安全管理へ回すことになるけど、それでもよければ』

『もちろん』

『水曜の午後は?』

澪は予定表を開いた。

午後二時から三十分ほど、空いている。

『14時からなら大丈夫』

『了解。場所は?』

『会議室B』

航から、少し間を置いて返事が来た。

『あそこ、狭いぞ』

澪は笑った。

『一対一なら大丈夫』

『壁と仲良くしなくて済む?』

澪は指を止めた。

以前、似たような冗談を小森に言ったばかりだった。

航もあの会議室を使ったことがあるのだろう。

『大丈夫。壁側は私が座る』

『譲り合いの精神がすごい』

澪は短く返信し、予約を確定した。

水曜日、午後二時。

会議室B。

それだけの予定だった。


午後四時半。

澪が総務部へ戻ると、久我が資料の束を抱えて立っていた。

「篠宮さん、ちょうどよかった」

「はい」

「旧センターの保全対象が決まったって、連絡が来てたよ」

「私も確認しました」

「うん。資料が増えたから、第二書庫も整理することになってて。しばらく人の出入りが多くなると思う」

澪は午前中の物音を思い出した。

「会議室Bの隣ですよね」

「そう。あそこ、もともと保管棚がぎっしりだったから」

久我は少し疲れたように肩を回した。

「古い書類って、必要なときは見つからないのに、片づけるときだけ大量に出てくるのよね」

「分かります」

「篠宮さんは今、事故関係の資料を直接扱わないようになってるから、書庫には入らないでね。必要なものがあれば担当へ」

「はい」

澪は頷いた。

「入退室の記録も管理されているんですよね」

「されてるよ。保全対象になってからは、社員証での出入りを確認してる」

久我は資料を抱え直した。

「何かあった?」

「いえ。小森さんから棚の移動の話を聞いて」

「ああ。あれね」

久我は少し苦笑した。

「午後には終わったはずなんだけど。まだ音がする?」

「今は静かです」

「それならよかった」

久我は次の会議へ向かった。

澪はその背中を見送り、自分の席へ戻った。

書庫の中に何があるのか。

誰が、いつ出入りするのか。

自分には詳しいことが分からない。

それでも、記録は残る。

今まで何度もその言葉を聞いてきた。

ただ、記録が残っているからといって、それだけで中で起きたことの意味まで分かるわけではない。

澪はパソコンを開き、午後の仕事へ戻った。


午後六時過ぎ。

退勤しようとしたところで、航から電話がかかってきた。

「お疲れ。まだ会社?」

「今出るところ」

「じゃあ、駅前で会える?」

「うん。どうしたの?」

「ちょっと話したいことがある」

澪は足を止めた。

航の声はいつもどおりだった。

ただ、その言い方が少し気になった。

「今?」

「急ぎってほどじゃないけど。できれば、ちゃんと顔を見て話したい」

澪は廊下の窓を見た。

外はもう暗く、向かいの建物の窓には明かりが点いている。

「分かった」

「じゃあ、いつものところで」

電話が切れた。

澪はスマートフォンを鞄へしまった。

ちゃんと顔を見て話したい。

航がそんな言い方をするのは珍しかった。

仕事のことだろうか。

それとも、週末の予定について何かあるのだろうか。

澪は社員証をかざし、通用口を出た。

夜の冷たい空気が頬に触れる。

歩きながら、ふと金曜日の送別会を思い出した。

あの夜も、何かが始まる前は、ただの仕事帰りだった。

特別なことが起きるとは思っていなかった。

澪はその考えを振り払った。

すべてを事件へ結びつける必要はない。

航が話したいことがあると言った。

今は、それだけだった。

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