第22話 先に知っていた人
月曜日の午後六時四十二分。
航は、駅前の書店の横に立っていた。
いつも待ち合わせに使っている場所だった。
ガラス越しに新刊の表紙が並び、その上に店内の照明が反射している。通りには仕事帰りの人が増え始め、近くの飲食店から焼いた肉と甘いタレの匂いが流れていた。
澪が近づくと、航は顔を上げた。
「お疲れ」
「お疲れ。待った?」
「そんなに」
航は笑った。
けれど、その笑い方が少し不自然だった。
普段なら、澪が来るとすぐに何か言う。
今日の夕飯はどうするだの、またパンを買っただの、仕事の帰りに見つけた変な看板の話だの。
今夜は、そういう言葉が出てこなかった。
「どこか入る?」
澪が訊いた。
「そうしよう」
航は頷き、駅前の通りへ歩き出した。
二人は少し離れた喫茶店に入った。
窓際の席が一つ空いている。
航はコーヒーを、澪は温かい紅茶を注文した。
店内には食器が触れ合う小さな音と、低く流れる音楽があった。窓の外では車のヘッドライトが濡れた路面に伸び、ガラスに映る二人の姿を何度も横切っていった。
「話したいことって?」
飲み物が届いてから、澪は尋ねた。
航はカップに手を伸ばした。
しかし、飲まずに戻した。
「三宅さんのことなんだ」
澪は顔を上げた。
「三宅さん?」
「うん」
航は視線を落とした。
「俺、三宅さんと連絡を取ってた」
しばらく、澪は何を言われたのか分からなかった。
言葉は聞こえた。
意味も分かる。
けれど、それが今までの航の言葉と、すぐにはつながらなかった。
「いつ?」
ようやく尋ねた。
「亡くなる前から」
「……どのくらい前?」
「夏前から、何度か」
澪はカップの取っ手に触れた。
まだ熱かった。
指を離しても、取っ手の形がしばらく残っているように感じた。
「どういう関係で?」
「旧配送センターの資料について、問い合わせがあったんだ。昔の記録がどこに保存されているか、システム上で確認できるかって」
「それで?」
「分かる範囲で案内した」
航は一度、澪の顔を見た。
「正式に閲覧できる資料の内容を勝手に渡したわけじゃない。古い保管先の索引とか、どの部署へ照会すればいいかとか。そういう話だよ」
澪は頷かなかった。
「でも、三宅さんが何を調べてるかは知ってたんだよね」
航は口を閉じた。
「八年前の事故のことを調べてるって、知ってた?」
「……知ってた」
「私の名前が出てくることも?」
航は少し息を吐いた。
「受付担当だったことは、記録に残ってたから」
澪はカップを見つめた。
紅茶の表面に、照明が細く映っている。
その光が少し揺れた。
自分の手が、テーブルへ触れていた。
「じゃあ、金曜日に私が三宅さんからメールをもらったって話したとき」
航は顔を上げた。
「うん」
「三宅さんが何を調べてるのか、もう知ってたんだ」
「……そうだよ」
澪は唇を閉じた。
あの朝、電話で話したことを思い出した。
三宅が亡くなったと知って、航へ連絡した。
前日にメールが届いていたと話した。
八年前の書類について聞かれたと、隠さず伝えた。
航はそれを聞いていた。
自分より前から、三宅の調査を知っていたまま。
「どうして言わなかったの?」
澪は尋ねた。
声は、思ったより静かだった。
航は答えを探すように、カップの縁を指でなぞった。
「澪が、あの事故のことをずっと気にしてたのは知ってたから」
「それで?」
「三宅さんが調べてると聞いたら、また一人で抱え込むと思った」
澪は顔を上げた。
航は続けた。
「だから、ある程度はっきりしてから話したほうがいいんじゃないかって」
「誰にとって?」
航の指が止まった。
「え?」
「はっきりしてから話したほうがいいって、誰が決めたの?」
航はすぐには答えなかった。
店員が隣のテーブルへ飲み物を運び、グラスを置く音がした。
澪はその音を聞きながら、航を見ていた。
「私が聞いたら困るから?」
「違う」
「それとも、何か余計なことをすると思った?」
「そういう意味じゃない」
「じゃあ、何?」
言葉が強くなった。
澪は自分の声に気づき、いったん口を閉じた。
航は俯いていた。
しばらくして、ゆっくり顔を上げる。
「俺が勝手に決めた」
澪は息を吸った。
「……そう」
「澪に話すかどうか、俺が決めていいことじゃなかった」
航は続けた。
「それは分かってる」
澪は窓の外へ視線を向けた。
車が信号で止まり、赤い尾灯がガラスに映っている。
それまで二人で過ごした時間が、急に別の形に見え始めた。
航はいつも気遣ってくれた。
体調が悪いときは食事を持ってきてくれた。
仕事で遅くなると、先に帰って休めと言った。
三宅が亡くなった後も、何度も声をかけてくれた。
その全部が嘘だったとは思わない。
むしろ、そうではないことを知っているから、どう受け止めればいいのか分からなかった。
「航」
澪は顔を戻した。
「私、三宅さんが何を調べてたのか、本当に分からなかったんだよ」
航は頷いた。
「うん」
「八年前の事故について、何を知ろうとしてたのか。どうして今になって調べてたのか。何度も考えた」
「知ってる」
その返事に、澪は指を握り込んだ。
「知ってたんだね」
航は何も言わなかった。
澪はカップに手を伸ばした。
取っ手は、もうそれほど熱くなかった。
けれど、持ち上げる気にはなれなかった。
「一つ聞いてもいい?」
澪が言った。
航は頷いた。
「三宅さんとは、どこまで一緒に調べてたの?」
航は少し考えた。
「一緒に調べたというより、システムのことで頼まれてたんだ。昔の資料の保管場所が何度か変わってるだろ。古い索引をどう辿ればいいかとか、更新された管理番号をどう確認するかとか」
「それだけ?」
航は口を閉じた。
その短い間が、澪には長く感じられた。
「三宅さんは、受付時刻を確認したかった」
航が言った。
「今の事故報告書と、昔の受付記録で、時間の扱いが違うように見えるって」
「それも知ってたんだ」
「うん」
「私には、何も言わなかったのに」
航は顔を上げた。
「澪」
「責めたいわけじゃないよ」
澪は途中で言葉を止めた。
本当にそうだろうか。
責めたい気持ちがないと言えば、嘘になる。
ただ、目の前の航を責めたところで、何かがはっきりするわけでもなかった。
「私、ずっと考えてたんだよ」
澪は言った。
「三宅さんは、なぜ私にメールを送ってきたんだろうって。八年前のことを、どうして今になって聞こうとしたんだろうって」
航は黙っていた。
「航は、少なくとも私より前から、その理由を知ってたんだよね」
「全部じゃない」
「うん。全部じゃなくても」
澪は息を吐いた。
「知ってることがあったんだよね」
航は頷いた。
「そうだ」
澪はカップを持ち上げた。
紅茶は、もうぬるくなっていた。
一口飲む。
甘くも苦くもない味が、喉を通った。
「警察には話したの?」
航は少し目を伏せた。
「今日、連絡があった。俺にも確認したいことがあるって」
澪は顔を上げた。
「そう」
「だから、その前に澪へ話しておきたかった」
その言葉を聞いた瞬間、澪は何かを言おうとした。
しかし、うまく声にならなかった。
警察から連絡が来た。
だから話す。
もし連絡がなかったら。
そう考えてしまった。
航の顔を見る。
三年以上、隣で笑ってきた相手だった。
何も言わずに一緒に歩けるようになった相手。
それでも、今は何を考えているのか分からなかった。
「もし警察から連絡がなかったら、私には言わなかった?」
澪は尋ねた。
航は、すぐには答えなかった。
その沈黙が答えのように感じられて、澪は視線を落とした。
「ごめん」
航が言った。
澪は首を振った。
「今は、その言葉をどう受け取ったらいいか分からない」
航は口を閉じた。
澪はバッグを手に取った。
「今日は帰るね」
「送っていく」
「大丈夫。一人で帰れる」
航は立ち上がりかけたが、澪が首を振ると座り直した。
「分かった」
澪は席を立った。
出口へ向かう途中、振り返りそうになった。
けれど、振り返らなかった。
ガラス扉を押して外へ出ると、夜の冷たい空気が頬に触れた。
店内に漂っていたコーヒーの匂いが、少しずつ遠ざかっていく。
火曜日の午前八時五十五分。
澪は、いつもどおり会社へ向かった。
電車の中で航からメッセージが届いていた。
『昨日はごめん。ちゃんと話す時間を作りたい』
澪は読んだ。
返信はしなかった。
会社へ着くと、小森が机の横で待っていた。
「篠宮さん、おはようございます」
「おはよう」
「昨日の受領記録、ちゃんと確認してもらえました」
「よかった」
「それと、午後に資料管理から追加の連絡があるそうです」
「分かった。ありがとう」
小森は自分の席へ戻っていった。
澪はパソコンを起動した。
いつもと同じ画面。
いつもと同じ仕事。
ただ、そこに表示された情報管理部門の名前を見るたび、航の顔が浮かんだ。
三宅と連絡を取っていた。
八年前の事故について調べるのを手伝っていた。
自分の名前が受付記録に残っていることも知っていた。
それを、何も言わなかった。
澪は社内メッセージを開いた。
明日の午後二時。
会議室B。
航との打ち合わせが予約されている。
閲覧制限について、正式な申請経路を確認するための時間だった。
昨日までは、ただの仕事の予定だった。
今は、その三十分が少し違うものに見える。
澪は航へ短いメッセージを送った。
『明日の打ち合わせは予定どおりお願いします。旧センターの資料について、業務上確認できることを整理したいです』
少しして、返事が届いた。
『分かった。必要な資料を準備しておく』
澪は画面を閉じた。
私的な話と、仕事として確認すべきこと。
それを分けたほうがいいと思った。
航が何を知っていたのか。
どこまで三宅の調査に関わっていたのか。
自分へ話さなかった理由は、本当にそれだけだったのか。
今はまだ、答えがない。
けれど、曖昧なままにしておけば、また自分が勝手に理由を作ってしまいそうだった。
午後四時過ぎ。
澪は安全管理室から届いた連絡を確認した。
八年前の事故に関する資料照合は、引き続き進められている。
原本と控えの保全は継続。
受付後の伝達経路については、まだ確認中。
そこには、誰かを責める言葉も、庇う言葉も書かれていなかった。
澪はその文面を最後まで読んだ。
三宅が調べていたこと。
航が知っていたこと。
自分が知らなかったこと。
それぞれが少しずつ重なり始めている。
しかし、同じ出来事を見ていたからといって、同じことを知っていたとは限らない。
昨日、航の話を聞いて初めて分かった。
自分が一番近くにいたと思っていた相手にも、まだ知らない部分がある。
澪はスマートフォンを取り出した。
発作記録をつけているノートのことが頭に浮かんだ。
あの送別会で感じた殺意。
翌朝の三宅の死。
そして、何も知らせなかった自分の身体。
航についても、三宅についても、分からないことが増えていた。
澪は画面を見つめ、やがてスマートフォンをしまった。
今日は記録するような発作は起きていない。
何も感じなかった。
それは、航が嘘をついていなかったという証明にはならない。
彼が誰かを殺そうとしていたという証拠にもならない。
ただ、今、自分には何も分からないというだけだった。
澪はパソコンを閉じた。
明日、もう一度航と話す。
今度は、曖昧なまま話を終わらせたくなかった。
そのために、聞きたいことを一つずつメモへ書き出した。
三宅とはいつから連絡を取っていたのか。
どの資料について案内したのか。
正式な記録として残っているものはあるのか。
そして、最後に一つ。
『私に話さなかったことは、ほかにもある?』
澪はその一文を見つめた。
仕事の確認事項とは違う。
けれど、今の自分には、それが一番聞きたいことだった。
メモを折り畳み、バッグへしまう。
窓の外は、もう薄暗くなっていた。
翌日の会議室では、どんな話になるのだろう。
航の返事を聞けば、少しは整理できるだろうか。
澪には分からなかった。
ただ、明日の午後二時には、もう一度彼と向かい合うことだけが決まっていた。




