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殺意アレルギー  作者: asnt2026


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22/30

第22話 先に知っていた人

月曜日の午後六時四十二分。

航は、駅前の書店の横に立っていた。

いつも待ち合わせに使っている場所だった。

ガラス越しに新刊の表紙が並び、その上に店内の照明が反射している。通りには仕事帰りの人が増え始め、近くの飲食店から焼いた肉と甘いタレの匂いが流れていた。

澪が近づくと、航は顔を上げた。

「お疲れ」

「お疲れ。待った?」

「そんなに」

航は笑った。

けれど、その笑い方が少し不自然だった。

普段なら、澪が来るとすぐに何か言う。

今日の夕飯はどうするだの、またパンを買っただの、仕事の帰りに見つけた変な看板の話だの。

今夜は、そういう言葉が出てこなかった。

「どこか入る?」

澪が訊いた。

「そうしよう」

航は頷き、駅前の通りへ歩き出した。

二人は少し離れた喫茶店に入った。

窓際の席が一つ空いている。

航はコーヒーを、澪は温かい紅茶を注文した。

店内には食器が触れ合う小さな音と、低く流れる音楽があった。窓の外では車のヘッドライトが濡れた路面に伸び、ガラスに映る二人の姿を何度も横切っていった。

「話したいことって?」

飲み物が届いてから、澪は尋ねた。

航はカップに手を伸ばした。

しかし、飲まずに戻した。

「三宅さんのことなんだ」

澪は顔を上げた。

「三宅さん?」

「うん」

航は視線を落とした。

「俺、三宅さんと連絡を取ってた」

しばらく、澪は何を言われたのか分からなかった。

言葉は聞こえた。

意味も分かる。

けれど、それが今までの航の言葉と、すぐにはつながらなかった。

「いつ?」

ようやく尋ねた。

「亡くなる前から」

「……どのくらい前?」

「夏前から、何度か」

澪はカップの取っ手に触れた。

まだ熱かった。

指を離しても、取っ手の形がしばらく残っているように感じた。

「どういう関係で?」

「旧配送センターの資料について、問い合わせがあったんだ。昔の記録がどこに保存されているか、システム上で確認できるかって」

「それで?」

「分かる範囲で案内した」

航は一度、澪の顔を見た。

「正式に閲覧できる資料の内容を勝手に渡したわけじゃない。古い保管先の索引とか、どの部署へ照会すればいいかとか。そういう話だよ」

澪は頷かなかった。

「でも、三宅さんが何を調べてるかは知ってたんだよね」

航は口を閉じた。

「八年前の事故のことを調べてるって、知ってた?」

「……知ってた」

「私の名前が出てくることも?」

航は少し息を吐いた。

「受付担当だったことは、記録に残ってたから」

澪はカップを見つめた。

紅茶の表面に、照明が細く映っている。

その光が少し揺れた。

自分の手が、テーブルへ触れていた。

「じゃあ、金曜日に私が三宅さんからメールをもらったって話したとき」

航は顔を上げた。

「うん」

「三宅さんが何を調べてるのか、もう知ってたんだ」

「……そうだよ」

澪は唇を閉じた。

あの朝、電話で話したことを思い出した。

三宅が亡くなったと知って、航へ連絡した。

前日にメールが届いていたと話した。

八年前の書類について聞かれたと、隠さず伝えた。

航はそれを聞いていた。

自分より前から、三宅の調査を知っていたまま。

「どうして言わなかったの?」

澪は尋ねた。

声は、思ったより静かだった。

航は答えを探すように、カップの縁を指でなぞった。

「澪が、あの事故のことをずっと気にしてたのは知ってたから」

「それで?」

「三宅さんが調べてると聞いたら、また一人で抱え込むと思った」

澪は顔を上げた。

航は続けた。

「だから、ある程度はっきりしてから話したほうがいいんじゃないかって」

「誰にとって?」

航の指が止まった。

「え?」

「はっきりしてから話したほうがいいって、誰が決めたの?」

航はすぐには答えなかった。

店員が隣のテーブルへ飲み物を運び、グラスを置く音がした。

澪はその音を聞きながら、航を見ていた。

「私が聞いたら困るから?」

「違う」

「それとも、何か余計なことをすると思った?」

「そういう意味じゃない」

「じゃあ、何?」

言葉が強くなった。

澪は自分の声に気づき、いったん口を閉じた。

航は俯いていた。

しばらくして、ゆっくり顔を上げる。

「俺が勝手に決めた」

澪は息を吸った。

「……そう」

「澪に話すかどうか、俺が決めていいことじゃなかった」

航は続けた。

「それは分かってる」

澪は窓の外へ視線を向けた。

車が信号で止まり、赤い尾灯がガラスに映っている。

それまで二人で過ごした時間が、急に別の形に見え始めた。

航はいつも気遣ってくれた。

体調が悪いときは食事を持ってきてくれた。

仕事で遅くなると、先に帰って休めと言った。

三宅が亡くなった後も、何度も声をかけてくれた。

その全部が嘘だったとは思わない。

むしろ、そうではないことを知っているから、どう受け止めればいいのか分からなかった。

「航」

澪は顔を戻した。

「私、三宅さんが何を調べてたのか、本当に分からなかったんだよ」

航は頷いた。

「うん」

「八年前の事故について、何を知ろうとしてたのか。どうして今になって調べてたのか。何度も考えた」

「知ってる」

その返事に、澪は指を握り込んだ。

「知ってたんだね」

航は何も言わなかった。

澪はカップに手を伸ばした。

取っ手は、もうそれほど熱くなかった。

けれど、持ち上げる気にはなれなかった。


「一つ聞いてもいい?」

澪が言った。

航は頷いた。

「三宅さんとは、どこまで一緒に調べてたの?」

航は少し考えた。

「一緒に調べたというより、システムのことで頼まれてたんだ。昔の資料の保管場所が何度か変わってるだろ。古い索引をどう辿ればいいかとか、更新された管理番号をどう確認するかとか」

「それだけ?」

航は口を閉じた。

その短い間が、澪には長く感じられた。

「三宅さんは、受付時刻を確認したかった」

航が言った。

「今の事故報告書と、昔の受付記録で、時間の扱いが違うように見えるって」

「それも知ってたんだ」

「うん」

「私には、何も言わなかったのに」

航は顔を上げた。

「澪」

「責めたいわけじゃないよ」

澪は途中で言葉を止めた。

本当にそうだろうか。

責めたい気持ちがないと言えば、嘘になる。

ただ、目の前の航を責めたところで、何かがはっきりするわけでもなかった。

「私、ずっと考えてたんだよ」

澪は言った。

「三宅さんは、なぜ私にメールを送ってきたんだろうって。八年前のことを、どうして今になって聞こうとしたんだろうって」

航は黙っていた。

「航は、少なくとも私より前から、その理由を知ってたんだよね」

「全部じゃない」

「うん。全部じゃなくても」

澪は息を吐いた。

「知ってることがあったんだよね」

航は頷いた。

「そうだ」

澪はカップを持ち上げた。

紅茶は、もうぬるくなっていた。

一口飲む。

甘くも苦くもない味が、喉を通った。

「警察には話したの?」

航は少し目を伏せた。

「今日、連絡があった。俺にも確認したいことがあるって」

澪は顔を上げた。

「そう」

「だから、その前に澪へ話しておきたかった」

その言葉を聞いた瞬間、澪は何かを言おうとした。

しかし、うまく声にならなかった。

警察から連絡が来た。

だから話す。

もし連絡がなかったら。

そう考えてしまった。

航の顔を見る。

三年以上、隣で笑ってきた相手だった。

何も言わずに一緒に歩けるようになった相手。

それでも、今は何を考えているのか分からなかった。

「もし警察から連絡がなかったら、私には言わなかった?」

澪は尋ねた。

航は、すぐには答えなかった。

その沈黙が答えのように感じられて、澪は視線を落とした。

「ごめん」

航が言った。

澪は首を振った。

「今は、その言葉をどう受け取ったらいいか分からない」

航は口を閉じた。

澪はバッグを手に取った。

「今日は帰るね」

「送っていく」

「大丈夫。一人で帰れる」

航は立ち上がりかけたが、澪が首を振ると座り直した。

「分かった」

澪は席を立った。

出口へ向かう途中、振り返りそうになった。

けれど、振り返らなかった。

ガラス扉を押して外へ出ると、夜の冷たい空気が頬に触れた。

店内に漂っていたコーヒーの匂いが、少しずつ遠ざかっていく。


火曜日の午前八時五十五分。

澪は、いつもどおり会社へ向かった。

電車の中で航からメッセージが届いていた。

『昨日はごめん。ちゃんと話す時間を作りたい』

澪は読んだ。

返信はしなかった。

会社へ着くと、小森が机の横で待っていた。

「篠宮さん、おはようございます」

「おはよう」

「昨日の受領記録、ちゃんと確認してもらえました」

「よかった」

「それと、午後に資料管理から追加の連絡があるそうです」

「分かった。ありがとう」

小森は自分の席へ戻っていった。

澪はパソコンを起動した。

いつもと同じ画面。

いつもと同じ仕事。

ただ、そこに表示された情報管理部門の名前を見るたび、航の顔が浮かんだ。

三宅と連絡を取っていた。

八年前の事故について調べるのを手伝っていた。

自分の名前が受付記録に残っていることも知っていた。

それを、何も言わなかった。

澪は社内メッセージを開いた。

明日の午後二時。

会議室B。

航との打ち合わせが予約されている。

閲覧制限について、正式な申請経路を確認するための時間だった。

昨日までは、ただの仕事の予定だった。

今は、その三十分が少し違うものに見える。

澪は航へ短いメッセージを送った。

『明日の打ち合わせは予定どおりお願いします。旧センターの資料について、業務上確認できることを整理したいです』

少しして、返事が届いた。

『分かった。必要な資料を準備しておく』

澪は画面を閉じた。

私的な話と、仕事として確認すべきこと。

それを分けたほうがいいと思った。

航が何を知っていたのか。

どこまで三宅の調査に関わっていたのか。

自分へ話さなかった理由は、本当にそれだけだったのか。

今はまだ、答えがない。

けれど、曖昧なままにしておけば、また自分が勝手に理由を作ってしまいそうだった。


午後四時過ぎ。

澪は安全管理室から届いた連絡を確認した。

八年前の事故に関する資料照合は、引き続き進められている。

原本と控えの保全は継続。

受付後の伝達経路については、まだ確認中。

そこには、誰かを責める言葉も、庇う言葉も書かれていなかった。

澪はその文面を最後まで読んだ。

三宅が調べていたこと。

航が知っていたこと。

自分が知らなかったこと。

それぞれが少しずつ重なり始めている。

しかし、同じ出来事を見ていたからといって、同じことを知っていたとは限らない。

昨日、航の話を聞いて初めて分かった。

自分が一番近くにいたと思っていた相手にも、まだ知らない部分がある。

澪はスマートフォンを取り出した。

発作記録をつけているノートのことが頭に浮かんだ。

あの送別会で感じた殺意。

翌朝の三宅の死。

そして、何も知らせなかった自分の身体。

航についても、三宅についても、分からないことが増えていた。

澪は画面を見つめ、やがてスマートフォンをしまった。

今日は記録するような発作は起きていない。

何も感じなかった。

それは、航が嘘をついていなかったという証明にはならない。

彼が誰かを殺そうとしていたという証拠にもならない。

ただ、今、自分には何も分からないというだけだった。

澪はパソコンを閉じた。

明日、もう一度航と話す。

今度は、曖昧なまま話を終わらせたくなかった。

そのために、聞きたいことを一つずつメモへ書き出した。

三宅とはいつから連絡を取っていたのか。

どの資料について案内したのか。

正式な記録として残っているものはあるのか。

そして、最後に一つ。

『私に話さなかったことは、ほかにもある?』

澪はその一文を見つめた。

仕事の確認事項とは違う。

けれど、今の自分には、それが一番聞きたいことだった。

メモを折り畳み、バッグへしまう。

窓の外は、もう薄暗くなっていた。

翌日の会議室では、どんな話になるのだろう。

航の返事を聞けば、少しは整理できるだろうか。

澪には分からなかった。

ただ、明日の午後二時には、もう一度彼と向かい合うことだけが決まっていた。

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