第23話 守りたかったもの
火曜日、午後四時十二分。
真田亜紀が会議室へ入ると、高瀬航は窓際の椅子から立ち上がった。
「高瀬です。よろしくお願いします」
「警察の真田です。こちらこそ、お時間をいただいてありがとうございます」
二人が向かい合って座ると、航は足元へ置いていた鞄から薄いファイルを取り出した。
「必要になるかと思って、問い合わせの履歴を印刷してきました」
真田は差し出された紙を見た。
日付と時刻、依頼内容、対応した社員の名前が並んでいる。
旧配送センターに関するデータの保管先照会。
その依頼者欄には三宅尚人の名前があった。
「ありがとうございます。会社にも確認しているところですが、ご自身で対応された内容を先に伺いたくて」
「はい」
航は頷いた。
会議室には夕方の光が残っていた。窓の下を通る道路には配送車が何台か停まり、排気ガスの匂いが換気口からかすかに入り込んでくる。空調は少し強めで、机の上の書類の端が風を受けてめくれかけていた。
真田は一枚目の紙を押さえた。
「三宅さんから最初に相談されたのは、いつ頃ですか」
「夏前です。昔のシステムで登録された保管資料について、今の管理番号を調べられないかと」
「具体的には?」
「旧配送センターの資料が何度か移管されているんです。もともと紙の台帳で管理していたものを電子化して、途中で別のシステムに切り替えているので、番号だけでは同じ資料を探せないことがあって」
「その対応を、高瀬さんが?」
「はい。私の担当には、過去の管理番号と現在の保管先を照合する仕事も含まれていますから」
航は資料の一か所を示した。
古い番号。
新しい番号。
保管分類。
その横に、対応した日時が記されている。
真田は順番に確認した。
「これは三宅さんへ資料の中身を渡したという記録ではないんですね」
「違います。索引情報の確認です。実際の書類を閲覧するには、管理している部署の承認が必要です」
「三宅さんにも、そう説明した?」
「はい」
真田は頷いた。
航の言葉だけで判断するつもりはないが、持参した履歴の内容は会社から提供された申請記録とも大筋で一致していた。
「三宅さんは、なぜその資料を探していたのでしょう」
航は少し間を置いた。
「八年前の事故報告書について、どうしても確かめたいことがあると言っていました」
「何を?」
「設備停止要請が、いつ受け付けられていたのかです」
真田はペンを持ち直した。
「受付時刻ですね」
「はい。ただ、最初はその記録が今も残っているか分からなかったので、古い受付台帳の保管先から調べていました」
「事故報告書では、停止要請を正式に確認したのは事故後となっています」
「それも三宅さんから聞きました」
航はテーブルへ置いた紙を一枚ずらした。
「だから、最初に受け取った記録と、その後の処理記録を別々に探そうとしていたんです」
真田は顔を上げた。
「別々に?」
「はい。受付日時と正式確認日時が違っていても、それだけで不正とは言えません。でも、途中の記録が確認できれば、何が起きたかは分かるかもしれない」
「そういう話を三宅さんと?」
「しました」
航は短く答えた。
真田はメモを取りながら、八年前の事故報告書を思い出していた。
受付は事故前。
正式確認は事故後。
二つの時刻だけを見ていても、その間に何が起きたのかは分からない。
三宅はそこを確かめようとしていた。
そのことが、少しずつ具体的になってきた。
「篠宮澪さんとは、交際されているそうですね」
真田が尋ねると、航は一度だけ頷いた。
「はい」
「三宅さんが調べていた事故で、篠宮さんが受付担当だったこともご存じでしたか」
「知っていました」
「いつから?」
「古い受付記録の所在が確認できた頃です」
真田はペンを止めた。
「三宅さんから聞いたんですか」
「最初はそうです。その後、正式な資料照会の範囲で受付担当者の名前を確認しました」
航は指を組んだ。
「三宅さんが、篠宮の名前を出したんです。当時の受付担当だったはずだから、直接話を聞いたほうがいいかもしれないって」
「それに、高瀬さんは何と?」
航はすぐに答えなかった。
机の向こうで、佐伯が手帳をめくる音がする。
「先に記録を確認したほうがいいんじゃないかと言いました」
「理由は?」
「八年も前のことですから。記憶だけで話を進めるより、受付の記録が残っているか確かめたほうがいいと思ったんです」
「それだけですか」
航は顔を上げた。
真田は続きを待った。
航は、組んでいた指をほどいた。
「篠宮が、その事故のことを気にしているのは知っていました」
「どういう意味ですか」
「詳しく話すことは少なかったんですけど、昔の仕事で何か引っかかっていることがあるんだろうなとは思っていました」
「だから、三宅さんにはすぐ連絡しないよう勧めた?」
「……そうです」
真田はペンを置いた。
「篠宮さんには、三宅さんの調査について話していましたか」
「話していませんでした」
「なぜ?」
航は少しだけ眉を寄せた。
「確かなことが分かっていない段階で話せば、余計に負担をかけると思って」
「それは篠宮さん自身が判断されたことですか」
「いいえ」
答えは早かった。
航は自分の手元を見た。
「私が勝手に判断しました」
真田はその顔を眺めた。
ここまでの説明に大きな矛盾はない。
ただ、恋人へ情報を知らせなかった理由と、三宅に資料の確認を勧めた理由が、どこまで同じだったのかは別の話だった。
「三宅さんは、篠宮さんのことをどう見ていたのでしょう」
「どう、というと」
「事故の責任があると考えていたのか。それとも、事情を知る人物として話を聞きたかったのか」
航は少し考えた。
「少なくとも、最初から責任を追及するつもりだったとは聞いていません」
「では、何を確かめたかった?」
「事故の前に書類を受け取ったという記憶が、本人にも残っているかどうかだと思います」
航はそこで声を落とした。
「三宅さんは、会社の説明を間違いだと決めつけたくなかったんだと思います。だから、残っている記録と当時の人の話を、一つずつ照らし合わせようとしていたんじゃないでしょうか」
真田は頷いた。
推測としては自然だった。
しかし、三宅本人が何を考えていたかは、もう確認できない。
「高瀬さんは、その後も三宅さんと連絡を取っていましたか」
「何度か」
「亡くなる前の金曜日は?」
航は首を横に振った。
「その日は直接話していません」
「三宅さんが、旧配送センターで誰かと会う予定だったことは?」
「知りませんでした」
真田は航を見た。
「亡くなったことを知ったのは?」
「土曜日の朝です。会社から連絡が来ました」
「篠宮さんからも?」
「はい。電話で話しました」
航は少し間を置いた。
「前日に三宅さんからメールをもらっていたと聞きました。そのときも、私が調査に関わっていたことは話していません」
真田は、その一文を書き留めた。
「今は、篠宮さんへ話しましたか」
「昨日、話しました」
「どんな反応でした?」
航は顔を上げた。
「それも捜査に必要なことですか」
真田はすぐには答えなかった。
「高瀬さんが何を伝え、篠宮さんが何を知っていたかを確認する必要があります。ただ、お二人の個人的な会話をすべて伺いたいわけではありません」
航は視線を落とした。
「連絡を取っていたことと、資料の所在を調べるのを手伝ったことを話しました」
「その後は?」
「……怒っていました」
航は少しだけ笑った。
笑うというより、口元を動かしただけだった。
「当然だと思います」
面談が終わりかけたところで、真田はもう一つ質問した。
「高瀬さん。三宅さんが資料を調べ続けていた理由について、何か印象に残っている言葉はありますか」
航はしばらく考えていた。
「一度、こんなことを言われました」
「何でしょう」
「同じ数字が残っていても、書類によって意味が違うことがあるって」
真田は顔を上げた。
航は続けた。
「例えば、受付した時刻が残っていても、その時点で誰が内容を知っていたかは分からない。逆に、正式確認の時刻が後になっていても、それ以前に誰も知らなかったことにはならないって」
「三宅さんが、そう話したんですね」
「はい」
航は頷いた。
「一つの書類だけ見て、分かったことにしたくないって言っていました」
真田は手元の資料を見た。
三宅の鞄に入っていた空の透明ファイル。
翌日に牧野と会う約束。
遺族へ渡そうとしていた説明。
彼が何を持って旧センターへ向かったのかは、今も分からない。
ただ、事故の記録を調べていた理由が、少しずつ一本の線になってきた。
「分かりました。ありがとうございます」
真田が言うと、航は頭を下げた。
立ち上がり、ファイルを鞄へ戻す。
その途中で手が止まった。
「真田さん」
「はい」
「篠宮は、三宅さんの件と直接関係があるんでしょうか」
真田は航を見た。
「今は、分かっている事実を確認している段階です」
「そうですか」
航は頷いた。
しかし、まだ何か言いたそうだった。
「何か気になることがありますか」
真田が尋ねると、航は首を横に振った。
「いえ。ただ、自分がもっと早く話していたら、あんなふうにはならなかったのかなと思って」
「篠宮さんとのことですか」
航は答えなかった。
やがて小さく頭を下げ、会議室を出ていった。
午後五時三十八分。
真田が捜査本部へ戻ると、佐伯が別の資料を確認していた。
「高瀬さん、どうでした?」
「資料の所在を調べる作業には協力していたみたい。会社の記録とも大筋で一致している」
真田は椅子へ座った。
「ただ、三宅さんが何を見つけたかまでは知らなかったそうよ」
「それ、本当でしょうか」
佐伯が尋ねた。
真田は資料を開いた。
「確かめる必要はある。でも、知らなかったという説明を、最初から嘘と決める理由もないわ」
「篠宮さんには隠していたんですよね」
「そう」
「だったら、ほかにも隠していることがあるかもしれません」
「あるかもしれない。だから記録を調べる」
真田は短く答えた。
佐伯は頷き、通信履歴の照合結果を示した。
三宅が複数の部署へ問い合わせていた記録。
その中には、航が説明した資料管理番号の照会も含まれていた。
真田は一つずつ確認した。
記録は、すべて何かを証明している。
ただし、証明しているのは、その時刻にその操作や連絡が行われたという事実だけだ。
操作した人間の気持ちまでは書かれていない。
航が澪を守ろうとしたのか。
自分に都合の悪いことを隠そうとしたのか。
その両方だったのか。
今はまだ分からない。
真田は別の資料へ目を向けた。
旧配送センターの外階段。
三宅の死亡した場所。
そして、久我千晴が彼と会ったと説明した時刻。
午後十時三十五分頃。
三宅が牧野へ連絡したのは、その六分後だった。
午後十時四十一分。
担当者との確認が、まだ終わらない。
真田は二つの時刻を並べたメモを見た。
「佐伯くん。久我さんが当夜、旧センターを出た時刻について、何か分かった?」
「周辺の記録を照会中です。まだ確定できていません」
「そう」
「手の傷の件も、確認が必要ですね」
真田は顔を上げた。
「傷?」
「月曜日に会社の関係者から聞いたんです。久我さん、三宅さんが亡くなった週末に手を怪我していたらしいです」
真田はペンを取った。
「いつ、どうやってできた傷かは?」
「まだ分かりません」
「それなら、まずそこからね」
佐伯は頷いた。
真田は資料を閉じた。
三宅は誰かと会っていた。
何かを確認しようとしていた。
その夜に亡くなった。
近くにいた人物にも、説明されていない行動があるかもしれない。
ただ、それぞれを結びつけるには、まだ足りないものが多かった。
真田は机の端へ置かれた現場写真を見た。
七段のコンクリート階段。
雨で濡れた踊り場。
手すりの剥がれた塗装。
そこに倒れていた三宅尚人は、何を持ってきていたのだろう。
誰と最後まで話していたのだろう。
真田は写真を伏せた。
次に調べるべきことは、少しずつはっきりしてきていた。




