↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
殺意アレルギー  作者: asnt2026


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
24/30

第24話 十四時十八分

水曜日、午後一時五十三分。

澪は会議室Bの前で、スマートフォンを見ていた。

航から届いたメッセージは一行だけだった。

『五分くらいで着く』

澪は『了解』と返し、扉を開けた。

室内は思ったより冷えていた。午前中に誰かが空調を強めたらしく、机の表面までひんやりしている。窓には薄い雲を通した光が差し込み、壁際に置かれたホワイトボードの縁を白く照らしていた。

隣の第二書庫からは、今日は大きな物音が聞こえない。

棚の移動が終わったのだろう。

澪は机の端へノートを置いた。

正式な閲覧申請の手続きについて、聞きたいことを箇条書きにしてある。

ただ、その一番下には、仕事とは関係のない質問も書かれていた。

『私に話していないことは、ほかにもある?』

澪はその行を見つめ、ページを折った。

今日は仕事の打ち合わせだ。

少なくとも、最初は。


午後二時五分。

航は薄いノートパソコンを抱えて入ってきた。

「ごめん。少し遅れた」

「まだ五分だよ」

「資料を印刷してたら、プリンターが反抗期で」

「うちのコピー機と親戚かな」

「たぶん仲いいと思う」

航は笑った。

けれど、澪が笑い返したところで、少しだけ表情を変えた。

「昨日は、ありがとう」

澪は椅子に座ったまま顔を上げた。

「何が?」

「今日、予定どおり話せること」

澪はノートの端を指で押さえた。

「仕事だから」

航は頷いた。

「そうだな」

それ以上は言わず、パソコンを開いた。

画面には資料の閲覧申請に関する説明が表示されている。

航は、旧配送センターの保全資料を例にしながら、申請経路と承認の流れを説明し始めた。

通常の資料。

保全対象の資料。

社内の事故調査に使うもの。

警察から照会を受けているもの。

扱いは同じではない。

「今回、澪が直接見られなくなったのは、申請者でもあって、当時の関係者でもあるからだと思う」

航は画面を指した。

「記録を保全する側と、内容について説明する側を分けたほうがいいという判断だろうね」

「分かってる」

澪は答えた。

「担当から外された理由は、説明してもらったから」

航は頷いた。

「じゃあ、今確認したいのは?」

「保管されている資料の所在と、実際に閲覧できる範囲が別になっていること。その手続きを、どこへ申請すればいいのか」

「それなら、この経路になる」

航は画面を切り替えた。

澪は説明を聞きながら、一つずつメモを取った。

仕事の話なら、普通にできる。

航の言葉も分かりやすい。

以前、社内システムについて何度も質問していた頃と変わらなかった。

分からないことがあれば、航は例を挙げて説明してくれる。

曖昧な返事をすると、もう一度別の言い方を探してくれる。

その丁寧さに、何度助けられただろう。

だからこそ、昨日聞いた話が頭から離れなかった。

航は三宅の調査を手伝っていた。

自分より前から、八年前の事故について調べられていることを知っていた。

それを、話さなかった。

説明が必要だと思えば何度でも言葉を選んでくれる人が、あのことだけは言わなかった。

澪はペンを止めた。

「航」

「ん?」

「三宅さんが最後に探していた資料って、何だったの?」

航は画面から顔を上げた。

「最後に?」

「亡くなる前、何を確認しようとしてたのか」

航は少し考えた。

「受付の後の処理記録だと思う。どこまで確認できていたかは、俺にも分からないけど」

「それを見つけられたら、何か変わるのかな」

「変わる可能性はあると思う」

航は慎重に答えた。

「ただ、正式確認が事故後だった理由までは、記録を見ないと分からない。途中の処理に問題があったのかもしれないし、手続きの扱いが違うだけかもしれない」

澪は頷いた。

「三宅さんも、そう考えてた?」

「たぶん」

「たぶん?」

「そこまでは直接聞いてない」

航はすぐに言い直した。

澪はノートへ視線を落とした。

その答え方に、少しだけ安心した。

分からないことを分からないと言っている。

以前から、そういう人だった。

けれど、その安心をそのまま信じていいのか、今は判断できなかった。


午後二時十三分。

航が紙の資料を一枚取り出した。

「これは今回の保全対象とは別なんだけど、申請の流れが分かると思う」

澪は受け取り、説明を読み始めた。

古いシステムの資料を確認する場合、現在の索引情報を管理している部署と、実物の書類を保管している部署は必ずしも一致しない。

資料を探すことと、内容を見ることには、それぞれ別の権限が必要だった。

「やっぱり複雑だね」

澪が言うと、航は肩をすくめた。

「古い仕組みを残したまま新しいのを足してるからな。整理しようとすると、誰かが昔の仕様を覚えてないと困る」

「航が覚えてればいいんじゃない?」

「俺が退職するまで?」

「その頃には私が偉くなってるから、大丈夫」

「何が大丈夫なんだよ」

澪は少し笑った。

航も口元を緩めたが、すぐに表情を戻した。

「澪」

「何?」

「昨日のこと、もう少し話してもいい?」

澪は顔を上げた。

航はパソコンの画面を閉じた。

「仕事の説明は、ひとまずここまでにして」

澪は時計を見た。

午後二時十六分。

予定の終了までは、まだ十分ほどある。

「うん」

航は腕を机へ載せた。

「三宅さんの件、隠してたのは悪かったと思ってる」

澪は黙っていた。

「俺は、澪が昔の事故のことをずっと気にしてるのを知ってたから、はっきりしたことが分かるまで話さないほうがいいと思った」

「それは昨日聞いた」

「そうだな」

航は目を伏せた。

「でも、もう一つある」

澪の指が止まった。

「何?」

「三宅さんから、澪に連絡したほうがいいかもしれないと言われたとき、俺は先に記録を確認するよう勧めたんだ」

澪は航を見た。

「どうして?」

「八年前のことだから、記憶だけで判断しないほうがいいと思った。それも本当だよ」

航はそこで言葉を切った。

「でも、それだけじゃなかった」

澪は息を吸った。

そのときだった。

左手首の内側に、小さな熱が生まれた。

最初は袖口が擦れたのだと思った。

澪は親指で布を持ち上げ、皮膚を確かめようとした。

航はまだ話している。

「もし三宅さんが澪に直接聞いて、それで昔のことを思い出させたらって考えたんだ。俺はそのとき、澪がどうなるのかばかり気にしてた」

かゆみが、手首から肘へ移った。

澪は息を止めた。

皮膚の下に何かが走るような感覚。

小さな赤い点が一つ浮かび、その隣にもう一つ現れる。

指先で触れるより先に、最初の膨らみがゆっくり盛り上がった。

見間違いではない。

澪は袖を下ろしかけた。

しかし、間に合わなかった。

航がこちらを見た。

「澪?」

壁の時計は、午後二時十八分を示していた。


「どうした?」

航の声が、少し遠く聞こえた。

澪は左腕を机の下へ隠そうとした。

その動きで袖が擦れ、かゆみが一気に強くなる。

首筋にも熱が広がった。

皮膚の表面を無数の細い針で引っかかれるような感覚が、襟の内側へ這い上がっていく。

「大丈夫」

澪は答えた。

声が少し硬かった。

航は椅子から身を乗り出した。

「大丈夫じゃないだろ。腕、見せて」

「いつものだから」

「だからって」

航は途中で口を閉じた。

澪が袖を押さえる手に、力が入っていたからだろう。

少し間を置いて、声を落とした。

「薬、持ってる?」

澪は頷いた。

バッグへ手を伸ばす。

ファスナーの金具がうまく掴めなかった。

指先が滑り、もう一度引こうとしたところで、航がバッグを押さえてくれた。

「ゆっくりでいい」

澪は薬の入ったケースを取り出した。

航が水のボトルを差し出す。

「飲める?」

「うん」

澪は薬を飲み、水を一口含んだ。

冷たい水が喉を通る。

呼吸はできている。

今のところ、息苦しさはない。

けれど、左腕の赤みは広がり続けていた。

澪は視線を上げた。

会議室には、自分と航しかいない。

窓は閉まっている。

扉も閉まっていた。

向かいの椅子に座った航が、眉を寄せてこちらを見ている。

「救急へ行く?」

「今は、呼吸は大丈夫」

澪は答えた。

「でも、悪くなったら連絡する」

「一人で判断しないで」

航は少し強い声で言った。

澪は頷いた。

その言葉は聞こえていた。

けれど、頭の中では別のことが動き始めていた。

誰かが、本気で人を殺そうとしている。

いつもの発作だった。

何度も経験してきた感覚。

食べ物でも、洗剤でも、疲労でもない。

少なくとも、これまで自分が記録してきた発作と同じ始まり方だった。

澪は航の顔を見た。

そのとき、航が何かを言った。

「ごめん」

澪は瞬きをした。

「何が?」

「話すタイミングが悪かった。こんな状態にさせるつもりじゃなかった」

航は自分の手を見ている。

澪は返事をしなかった。

違う。

航が秘密を話したから、身体がこうなったのではない。

発作の原因は、別にある。

澪はそう考えかけて、言葉を止めた。

別にある。

では、何が。

会議室にいるのは、航と自分だけだった。

航の言葉が、急に別の意味を持ち始める。

『でも、それだけじゃなかった』

『俺はそのとき、澪がどうなるのかばかり気にしてた』

そして、午後二時十八分。

発作が始まった。

澪は自分の手首を見た。

赤い膨らみがつながり、まだ消えない。

その形を見ていると、身体の内側から何かを知らせようとしているように感じられた。

ただし、その何かが誰のものなのかまでは分からない。

そこを間違えてはいけない。

澪は何度も、そう自分に言い聞かせてきた。

それでも今、航の顔から目を離せなかった。


午後二時二十七分。

打ち合わせは、そのまま終わった。

航はパソコンを閉じ、書類をまとめた。

「帰れる?」

「少し休んでから」

「一人で?」

澪は頷いた。

航は納得していない様子だったが、無理に連れていこうとはしなかった。

「体調が悪くなったら、すぐ連絡して」

「うん」

「あと、さっきの話」

航が言いかけた。

澪は顔を上げた。

「今日はもういい」

航は唇を閉じた。

「分かった」

椅子を戻し、鞄を肩へ掛ける。

扉の前で一度振り返った。

「澪」

「何?」

「俺が話してなかったことは、まだある。でも、もう隠さずに話したいと思ってる」

澪は息を止めた。

航は少しだけ視線を落とした。

「仕事のことも、三宅さんのことも」

澪は返事をしなかった。

航はしばらく待ったが、やがて小さく頷いた。

「また連絡する」

扉が閉まった。

会議室には澪だけが残った。

空調の風が、机の端に置かれた資料をわずかに揺らしている。

澪は左腕を見た。

発疹はまだ赤い。

首筋の熱も引いていない。

航がいなくなったからといって、すぐに症状が消えるわけではない。

それは、昔から分かっていることだった。

けれど、今はその当たり前のことさえ、うまく考えられなかった。

航が言った。

まだ話していないことがある。

そして、その言葉の少し前に、身体が反応した。

澪は机の上の時計を見た。

午後二時二十九分。

発作が始まったのは、二時十八分頃だった。

その時刻を、何度も頭の中で繰り返した。

誰かが殺意を抱いていた。

それだけは、間違いないと思った。

けれど、誰が。

そして、誰に向けて。

澪は左手で右の袖口を握った。

会議室の隣に、第二書庫があることを思い出したのは、そのときだった。

壁一枚の向こう。

誰かが出入りしていても、この部屋からは見えない。

澪は目を閉じた。

あの送別会でも、自分は十二人の顔ばかりを見ていた。

そこに原因があると決めつけていたわけではないつもりだった。

それでも、目に見える人間から疑ってしまう。

航も、そうなのだろうか。

壁の向こうに誰かがいた可能性もある。

しかし、それを確認しないまま、航を疑うことはできない。

澪は立ち上がった。

足元が少し頼りなかった。

水のボトルを持ち、バッグを肩へ掛ける。

扉へ向かう途中で、一度だけ振り返った。

向かいの椅子。

航が座っていた場所。

まだ温もりが残っているのではないかと思った。

けれど、確かめる気にはなれなかった。

澪は会議室を出た。

廊下の空気は、室内より少し暖かかった。

遠くから誰かの笑い声が聞こえてくる。

いつもと変わらない会社の午後だった。

その中で澪だけが、誰かの殺意を知ってしまった。

そして、今度はその相手が、自分の一番近くにいる人間なのかもしれないと考えていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。