第24話 十四時十八分
水曜日、午後一時五十三分。
澪は会議室Bの前で、スマートフォンを見ていた。
航から届いたメッセージは一行だけだった。
『五分くらいで着く』
澪は『了解』と返し、扉を開けた。
室内は思ったより冷えていた。午前中に誰かが空調を強めたらしく、机の表面までひんやりしている。窓には薄い雲を通した光が差し込み、壁際に置かれたホワイトボードの縁を白く照らしていた。
隣の第二書庫からは、今日は大きな物音が聞こえない。
棚の移動が終わったのだろう。
澪は机の端へノートを置いた。
正式な閲覧申請の手続きについて、聞きたいことを箇条書きにしてある。
ただ、その一番下には、仕事とは関係のない質問も書かれていた。
『私に話していないことは、ほかにもある?』
澪はその行を見つめ、ページを折った。
今日は仕事の打ち合わせだ。
少なくとも、最初は。
午後二時五分。
航は薄いノートパソコンを抱えて入ってきた。
「ごめん。少し遅れた」
「まだ五分だよ」
「資料を印刷してたら、プリンターが反抗期で」
「うちのコピー機と親戚かな」
「たぶん仲いいと思う」
航は笑った。
けれど、澪が笑い返したところで、少しだけ表情を変えた。
「昨日は、ありがとう」
澪は椅子に座ったまま顔を上げた。
「何が?」
「今日、予定どおり話せること」
澪はノートの端を指で押さえた。
「仕事だから」
航は頷いた。
「そうだな」
それ以上は言わず、パソコンを開いた。
画面には資料の閲覧申請に関する説明が表示されている。
航は、旧配送センターの保全資料を例にしながら、申請経路と承認の流れを説明し始めた。
通常の資料。
保全対象の資料。
社内の事故調査に使うもの。
警察から照会を受けているもの。
扱いは同じではない。
「今回、澪が直接見られなくなったのは、申請者でもあって、当時の関係者でもあるからだと思う」
航は画面を指した。
「記録を保全する側と、内容について説明する側を分けたほうがいいという判断だろうね」
「分かってる」
澪は答えた。
「担当から外された理由は、説明してもらったから」
航は頷いた。
「じゃあ、今確認したいのは?」
「保管されている資料の所在と、実際に閲覧できる範囲が別になっていること。その手続きを、どこへ申請すればいいのか」
「それなら、この経路になる」
航は画面を切り替えた。
澪は説明を聞きながら、一つずつメモを取った。
仕事の話なら、普通にできる。
航の言葉も分かりやすい。
以前、社内システムについて何度も質問していた頃と変わらなかった。
分からないことがあれば、航は例を挙げて説明してくれる。
曖昧な返事をすると、もう一度別の言い方を探してくれる。
その丁寧さに、何度助けられただろう。
だからこそ、昨日聞いた話が頭から離れなかった。
航は三宅の調査を手伝っていた。
自分より前から、八年前の事故について調べられていることを知っていた。
それを、話さなかった。
説明が必要だと思えば何度でも言葉を選んでくれる人が、あのことだけは言わなかった。
澪はペンを止めた。
「航」
「ん?」
「三宅さんが最後に探していた資料って、何だったの?」
航は画面から顔を上げた。
「最後に?」
「亡くなる前、何を確認しようとしてたのか」
航は少し考えた。
「受付の後の処理記録だと思う。どこまで確認できていたかは、俺にも分からないけど」
「それを見つけられたら、何か変わるのかな」
「変わる可能性はあると思う」
航は慎重に答えた。
「ただ、正式確認が事故後だった理由までは、記録を見ないと分からない。途中の処理に問題があったのかもしれないし、手続きの扱いが違うだけかもしれない」
澪は頷いた。
「三宅さんも、そう考えてた?」
「たぶん」
「たぶん?」
「そこまでは直接聞いてない」
航はすぐに言い直した。
澪はノートへ視線を落とした。
その答え方に、少しだけ安心した。
分からないことを分からないと言っている。
以前から、そういう人だった。
けれど、その安心をそのまま信じていいのか、今は判断できなかった。
午後二時十三分。
航が紙の資料を一枚取り出した。
「これは今回の保全対象とは別なんだけど、申請の流れが分かると思う」
澪は受け取り、説明を読み始めた。
古いシステムの資料を確認する場合、現在の索引情報を管理している部署と、実物の書類を保管している部署は必ずしも一致しない。
資料を探すことと、内容を見ることには、それぞれ別の権限が必要だった。
「やっぱり複雑だね」
澪が言うと、航は肩をすくめた。
「古い仕組みを残したまま新しいのを足してるからな。整理しようとすると、誰かが昔の仕様を覚えてないと困る」
「航が覚えてればいいんじゃない?」
「俺が退職するまで?」
「その頃には私が偉くなってるから、大丈夫」
「何が大丈夫なんだよ」
澪は少し笑った。
航も口元を緩めたが、すぐに表情を戻した。
「澪」
「何?」
「昨日のこと、もう少し話してもいい?」
澪は顔を上げた。
航はパソコンの画面を閉じた。
「仕事の説明は、ひとまずここまでにして」
澪は時計を見た。
午後二時十六分。
予定の終了までは、まだ十分ほどある。
「うん」
航は腕を机へ載せた。
「三宅さんの件、隠してたのは悪かったと思ってる」
澪は黙っていた。
「俺は、澪が昔の事故のことをずっと気にしてるのを知ってたから、はっきりしたことが分かるまで話さないほうがいいと思った」
「それは昨日聞いた」
「そうだな」
航は目を伏せた。
「でも、もう一つある」
澪の指が止まった。
「何?」
「三宅さんから、澪に連絡したほうがいいかもしれないと言われたとき、俺は先に記録を確認するよう勧めたんだ」
澪は航を見た。
「どうして?」
「八年前のことだから、記憶だけで判断しないほうがいいと思った。それも本当だよ」
航はそこで言葉を切った。
「でも、それだけじゃなかった」
澪は息を吸った。
そのときだった。
左手首の内側に、小さな熱が生まれた。
最初は袖口が擦れたのだと思った。
澪は親指で布を持ち上げ、皮膚を確かめようとした。
航はまだ話している。
「もし三宅さんが澪に直接聞いて、それで昔のことを思い出させたらって考えたんだ。俺はそのとき、澪がどうなるのかばかり気にしてた」
かゆみが、手首から肘へ移った。
澪は息を止めた。
皮膚の下に何かが走るような感覚。
小さな赤い点が一つ浮かび、その隣にもう一つ現れる。
指先で触れるより先に、最初の膨らみがゆっくり盛り上がった。
見間違いではない。
澪は袖を下ろしかけた。
しかし、間に合わなかった。
航がこちらを見た。
「澪?」
壁の時計は、午後二時十八分を示していた。
「どうした?」
航の声が、少し遠く聞こえた。
澪は左腕を机の下へ隠そうとした。
その動きで袖が擦れ、かゆみが一気に強くなる。
首筋にも熱が広がった。
皮膚の表面を無数の細い針で引っかかれるような感覚が、襟の内側へ這い上がっていく。
「大丈夫」
澪は答えた。
声が少し硬かった。
航は椅子から身を乗り出した。
「大丈夫じゃないだろ。腕、見せて」
「いつものだから」
「だからって」
航は途中で口を閉じた。
澪が袖を押さえる手に、力が入っていたからだろう。
少し間を置いて、声を落とした。
「薬、持ってる?」
澪は頷いた。
バッグへ手を伸ばす。
ファスナーの金具がうまく掴めなかった。
指先が滑り、もう一度引こうとしたところで、航がバッグを押さえてくれた。
「ゆっくりでいい」
澪は薬の入ったケースを取り出した。
航が水のボトルを差し出す。
「飲める?」
「うん」
澪は薬を飲み、水を一口含んだ。
冷たい水が喉を通る。
呼吸はできている。
今のところ、息苦しさはない。
けれど、左腕の赤みは広がり続けていた。
澪は視線を上げた。
会議室には、自分と航しかいない。
窓は閉まっている。
扉も閉まっていた。
向かいの椅子に座った航が、眉を寄せてこちらを見ている。
「救急へ行く?」
「今は、呼吸は大丈夫」
澪は答えた。
「でも、悪くなったら連絡する」
「一人で判断しないで」
航は少し強い声で言った。
澪は頷いた。
その言葉は聞こえていた。
けれど、頭の中では別のことが動き始めていた。
誰かが、本気で人を殺そうとしている。
いつもの発作だった。
何度も経験してきた感覚。
食べ物でも、洗剤でも、疲労でもない。
少なくとも、これまで自分が記録してきた発作と同じ始まり方だった。
澪は航の顔を見た。
そのとき、航が何かを言った。
「ごめん」
澪は瞬きをした。
「何が?」
「話すタイミングが悪かった。こんな状態にさせるつもりじゃなかった」
航は自分の手を見ている。
澪は返事をしなかった。
違う。
航が秘密を話したから、身体がこうなったのではない。
発作の原因は、別にある。
澪はそう考えかけて、言葉を止めた。
別にある。
では、何が。
会議室にいるのは、航と自分だけだった。
航の言葉が、急に別の意味を持ち始める。
『でも、それだけじゃなかった』
『俺はそのとき、澪がどうなるのかばかり気にしてた』
そして、午後二時十八分。
発作が始まった。
澪は自分の手首を見た。
赤い膨らみがつながり、まだ消えない。
その形を見ていると、身体の内側から何かを知らせようとしているように感じられた。
ただし、その何かが誰のものなのかまでは分からない。
そこを間違えてはいけない。
澪は何度も、そう自分に言い聞かせてきた。
それでも今、航の顔から目を離せなかった。
午後二時二十七分。
打ち合わせは、そのまま終わった。
航はパソコンを閉じ、書類をまとめた。
「帰れる?」
「少し休んでから」
「一人で?」
澪は頷いた。
航は納得していない様子だったが、無理に連れていこうとはしなかった。
「体調が悪くなったら、すぐ連絡して」
「うん」
「あと、さっきの話」
航が言いかけた。
澪は顔を上げた。
「今日はもういい」
航は唇を閉じた。
「分かった」
椅子を戻し、鞄を肩へ掛ける。
扉の前で一度振り返った。
「澪」
「何?」
「俺が話してなかったことは、まだある。でも、もう隠さずに話したいと思ってる」
澪は息を止めた。
航は少しだけ視線を落とした。
「仕事のことも、三宅さんのことも」
澪は返事をしなかった。
航はしばらく待ったが、やがて小さく頷いた。
「また連絡する」
扉が閉まった。
会議室には澪だけが残った。
空調の風が、机の端に置かれた資料をわずかに揺らしている。
澪は左腕を見た。
発疹はまだ赤い。
首筋の熱も引いていない。
航がいなくなったからといって、すぐに症状が消えるわけではない。
それは、昔から分かっていることだった。
けれど、今はその当たり前のことさえ、うまく考えられなかった。
航が言った。
まだ話していないことがある。
そして、その言葉の少し前に、身体が反応した。
澪は机の上の時計を見た。
午後二時二十九分。
発作が始まったのは、二時十八分頃だった。
その時刻を、何度も頭の中で繰り返した。
誰かが殺意を抱いていた。
それだけは、間違いないと思った。
けれど、誰が。
そして、誰に向けて。
澪は左手で右の袖口を握った。
会議室の隣に、第二書庫があることを思い出したのは、そのときだった。
壁一枚の向こう。
誰かが出入りしていても、この部屋からは見えない。
澪は目を閉じた。
あの送別会でも、自分は十二人の顔ばかりを見ていた。
そこに原因があると決めつけていたわけではないつもりだった。
それでも、目に見える人間から疑ってしまう。
航も、そうなのだろうか。
壁の向こうに誰かがいた可能性もある。
しかし、それを確認しないまま、航を疑うことはできない。
澪は立ち上がった。
足元が少し頼りなかった。
水のボトルを持ち、バッグを肩へ掛ける。
扉へ向かう途中で、一度だけ振り返った。
向かいの椅子。
航が座っていた場所。
まだ温もりが残っているのではないかと思った。
けれど、確かめる気にはなれなかった。
澪は会議室を出た。
廊下の空気は、室内より少し暖かかった。
遠くから誰かの笑い声が聞こえてくる。
いつもと変わらない会社の午後だった。
その中で澪だけが、誰かの殺意を知ってしまった。
そして、今度はその相手が、自分の一番近くにいる人間なのかもしれないと考えていた。




