第25話 隣室の記録
水曜日、午後二時三十一分。
澪は洗面所の鏡を見つめていた。
左腕の発疹は、肘の少し下まで広がっていた。
赤い膨らみの一つ一つは小さい。しかし、隣り合った部分がつながり、皮膚の表面を不規則に盛り上げている。
蛇口をひねると、冷たい水が細く流れた。
澪は右手を濡らし、左腕へそっと当てた。
皮膚が少し落ち着いたように感じられたのは、ほんの数秒だった。
水気を押さえるためにタオルを近づけると、その繊維が触れただけでまたかゆみが戻ってくる。
「もう……」
声にすると、少しだけ身体の力が抜けた。
洗面所には人がいなかった。
蛍光灯の白い光が鏡の縁を照らし、洗剤と石鹸の匂いが混ざっている。換気扇が低い音を立て続け、廊下で誰かが歩くたびに、その足音が扉の下からかすかに入り込んできた。
澪は水を止めた。
壁の時計は午後二時三十四分を示している。
発作が始まってから、十五分ほど経っていた。
いつもなら、この程度の時間で症状が消えるとは思っていない。
皮膚の反応は、原因となる人間から離れても残る。
場合によっては、翌日まで赤みが続くこともある。
だから、航が会議室を出た後も発疹が残っていたことに、それほど意味はなかった。
澪はタオルを畳んだ。
そのことを、何度も考えていた。
意味はない。
少なくとも、航が発作の原因だったという証明にはならない。
けれど、何も感じなかったことにもできない。
目の前で航が話していた。
自分へ隠していたことを打ち明けようとしていた。
そして、その途中で発作が始まった。
澪は鏡の中の自分を見た。
「違うでしょ」
小さく口にした。
何が違うのか。
そこまで言葉にしようとして、やめた。
自分が知っているのは、誰かの殺意が近くにあったということだけだ。
航が何かを隠していたことと、その殺意の持ち主が航であることは、別の話だった。
それを、今まで何度も確認してきたはずだった。
澪は袖を下ろした。
布が皮膚へ触れた瞬間、思わず肩が動く。
薬は飲んだ。
呼吸も落ち着いている。
ただ、今日は仕事を続けるのが難しそうだった。
澪はバッグからスマートフォンを取り出し、小森へ連絡を入れた。
『体調が悪いので、少し早く帰ります。急ぎの仕事があれば連絡してください』
返事はすぐに届いた。
『大丈夫ですか? 今、席に戻ります』
澪は画面を閉じた。
洗面所を出る前に、もう一度だけ鏡を見た。
目の下に薄い影ができている。
あの送別会の夜も、こんな顔をしていたのだろうか。
澪は扉を押した。
午後二時三十八分。
廊下へ出ると、第二書庫の前で足が止まった。
会議室Bの隣。
数日前に、小森が棚の移動をしていると教えてくれた場所だった。
扉は閉まっている。
廊下側からは、内部の様子がまったく見えない。
澪はその壁を見た。
会議室の中では、航が向かいに座っていた。
自分の左側には、窓と壁があった。
その壁の向こうに、第二書庫がある。
もし、あの時間に誰かが中にいたとしたら。
澪は扉の前へ近づいた。
社員証をかざすための読み取り機があり、その横には小さな掲示板が設置されていた。
『保全対象資料の移管作業に伴い、書庫利用者は入退室を記録すること』
下には紙の確認簿が挟まれている。
澪は少し身を屈めた。
日付。
氏名。
利用目的。
入室時刻。
退出時刻。
以前から使われていた電子的な入退室管理とは別に、今回の資料整理のために設けられた確認簿らしい。
澪は今日の日付を探した。
午前中には、施設管理の担当者が何人か利用していた。
棚の移動。
保管箱の確認。
備品の整理。
記入されている理由は、どれも普通の業務だった。
澪は下へ視線を移した。
午後の欄。
そこに、一つの名前があった。
久我千晴。
入室時刻、午後二時十四分。
退出時刻、午後二時三十五分。
澪の指が止まった。
二時十四分。
自分は、その頃、航と話していた。
会議室の中で、資料の申請方法を確認していた。
航が、三宅について話し始める少し前だ。
そして、午後二時十八分。
左腕に発作が出た。
澪はもう一度、確認簿を見た。
久我千晴。
午後二時十四分から二時三十五分まで。
書かれているのは、それだけだった。
利用目的は『保全対象資料確認』。
そこには、何か不自然な言葉があるわけでもない。
総務課長が書庫へ入り、保管資料を確認する。
いつもなら、気にも留めない行動だった。
けれど、あの時間には、すぐ隣の会議室で自分が発作を起こしている。
澪は扉から少し離れた。
壁を見上げる。
薄い灰色のパネル。
天井まで続く継ぎ目。
この向こうに人がいたとしても、会議室からは何も見えなかった。
子どもの頃、ショッピングモールの通路で倒れたことを思い出す。
あのときも、目の前には壁しかなかった。
後になって、同じ建物で事件が起きていたことを知った。
それが本当に発作と関係していたのかは確かめられていない。
ただ、見えない場所にいる人間へ身体が反応しないという決まりはない。
澪は深く息を吸った。
今朝まで、久我があの時間に第二書庫へ入る予定だったことなど知らなかった。
航との打ち合わせを予約したのは、自分だった。
久我の書庫利用は、偶然重なったのだろう。
そう考えて、また手が止まった。
偶然。
その言葉で、今分からない部分を埋めようとしている。
澪は確認簿を見た。
久我が書庫にいたことは、記録に残っている。
しかし、書庫の中で何を考えていたのかまでは書かれていない。
航についても同じだ。
向かいに座っていたからといって、心の中が見えていたわけではない。
澪は名前と時刻を覚えようとした。
二時十四分。
二時三十五分。
そして、自分が症状に気づいた二時十八分。
それ以上のことは、まだ分からなかった。
「篠宮さん!」
背後から声がした。
振り向くと、小森が早足で近づいてきた。
「大丈夫ですか。顔色、悪いですよ」
「ごめん。ちょっと発作が出ちゃって」
「またですか」
小森は澪の腕へ視線を向けた。
袖の端から赤みが見えていたのだろう。
「病院に行ったほうがいいんじゃないですか」
「今は呼吸も大丈夫。薬も飲んだから、いったん帰って休む」
「それなら、私、途中まで一緒に行きましょうか」
「ありがとう。でも大丈夫」
小森は納得していない顔をした。
澪は少し笑った。
「そんな顔しないで。症状が強くなったら、ちゃんと連絡するから」
「絶対ですよ」
「はい」
「本当に」
「二回言わなくても聞こえてる」
ようやく、小森が少しだけ笑った。
「仕事は私が見ておきますから。今日は帰ってください」
「助かる」
澪は頷いた。
二人で廊下を歩き始める。
総務部へ戻る途中、澪はもう一度だけ第二書庫のほうを見た。
扉は閉まっていた。
今、中に誰かがいる様子はない。
小森はその視線に気づかなかった。
「篠宮さん、また朝から何も食べてなかったんじゃないですか」
「食べたよ」
「何を?」
「今日はヨーグルトとパン」
「ちゃんとしたやつですか」
「ちゃんとしたヨーグルトです」
「そういうことじゃないです」
小森の声が廊下に響く。
いつもと変わらない会話だった。
澪は笑い返した。
けれど、廊下の角を曲がっても、頭の中には二つの時刻が残っていた。
午後二時四十一分。
澪は自分の席で、早退の手続きを済ませた。
小森が業務の引き継ぎを確認している。
「今日の勤怠修正は、ここまでで大丈夫ですよね」
「うん。残りは明日確認する」
「分かりました」
澪はパソコンを閉じかけ、最後に社内の施設管理画面を開いた。
会議室Bの予約履歴。
自分と航の打ち合わせ。
午後二時から二時三十分まで。
その予約の隣にある建物の案内図では、第二書庫が同じ壁を挟んで並んでいた。
澪は画面を見つめた。
距離にすれば、数メートルもない。
何度も使ったことのある会議室だった。
けれど、隣室に誰かが入れば、すぐ近くに人がいることになる。
それなのに、打ち合わせ中は航の顔ばかりを見ていた。
三宅のことを隠していた恋人。
話していなかったことが、まだあると言った人。
その言葉と発作を、結びつけかけていた。
澪はマウスを動かし、画面を閉じた。
久我が入室したのは、二時十四分。
自分が発作に気づいたのは、二時十八分。
時間は近い。
けれど、それだけで誰の殺意だったかが分かるわけではない。
症状の始まりには、感じ取るまでのわずかな遅れがあることも知っていた。
だから、何時何分に誰かが殺そうと決めたのかまで、身体から逆算することはできない。
澪は社員証を鞄へしまった。
午後二時四十五分。
退勤処理を終え、通用口を出た。
外の空気は思ったより冷たかった。
曇った空の下を風が吹き抜け、舗道に落ちた葉が低く転がっていく。近くの飲食店から揚げ物の匂いが漂い、その奥に車の排気ガスの乾いた匂いが混ざっていた。
澪はコートの襟を寄せた。
誰かが、誰かを殺そうとしていた。
それだけは、いつもの発作が知らせている。
しかし、何をすればいいのだろう。
航に聞けばいいのか。
久我に確認すればいいのか。
あるいは警察へ連絡すべきなのか。
何を根拠に。
どう説明して。
考えている間にも、横断歩道の信号が青へ変わった。
澪は一歩踏み出した。
八年前、紗江から停止要請を受け取ったときも、自分には危険の具体的な内容が分からなかった。
けれど、あのときには書類があった。
誰が何を求めているのか、そこには書かれていた。
今は違う。
自分の身体に症状が出たというだけで、誰が誰を殺そうとしているのか分からない。
誰かを疑うことはできても、その人に何をやめてほしいと伝えればいいのかさえ分からなかった。
澪は信号を渡り終えたところで、足を止めた。
それでも、何もしなくていいと思いたくはなかった。
午後五時二十六分。
自宅へ戻った澪は、机の引き出しから紺色のノートを取り出した。
左腕にはまだ赤みが残っている。
薬を飲んでから時間が経ち、最初の激しいかゆみは落ち着いてきたものの、袖が触れると皮膚がひりついた。
澪はノートの新しいページを開いた。
日付。
水曜日。
場所。
朝凪ロジスティクス本社、会議室B。
『14時18分頃、左手首に発疹を確認。首筋にもかゆみ。呼吸症状なし』
一行空ける。
『会議室内には高瀬航と自分の二人』
澪はそこでペンを止めた。
以前なら、その一文を書くだけで終わらせていたかもしれない。
目に見える範囲に誰がいたか。
誰と話していたか。
そのとき、どんな顔をしていたか。
しかし今日は、もう一つ確認できたことがある。
澪は次の行に書いた。
『隣接する第二書庫の利用確認簿に、久我千晴の入室14時14分、退出14時35分と記載あり』
ペン先が少し滑った。
澪は一度手を離し、文字を読み返した。
航。
久我。
二人の名前が、一枚の紙に並んでいる。
どちらかが殺意を抱いていたのだろうか。
それとも、ほかにも近くに人がいたのか。
澪はもう一行書いた。
『殺意を抱いていた人物、対象者ともに不明』
その下へ、さらに小さく書き足す。
『発作の時刻は症状に気づいた時刻であり、殺意が生じた正確な時刻とは限らない』
澪はペンを置いた。
少し前なら、こうして記録を残せば落ち着けた。
分からないことを分からないまま書くことで、自分が何を知っているのかを確かめられた。
今夜は違った。
ノートの中で二人の名前が並んでいる。
どちらも、よく知っている人間だった。
久我は、八年前から仕事を教えてくれた上司。
航は、何年も一緒に過ごしてきた恋人。
そのどちらかが、誰かを殺そうとしていたのかもしれない。
もちろん、二人のどちらでもない可能性もある。
そう考えたところで、スマートフォンが震えた。
航からだった。
『体調どう? 返事は急がなくていいから、落ち着いたら連絡して』
澪は画面を見つめた。
指が動かない。
少し前までなら、すぐに返事をしていただろう。
大丈夫。
いつものこと。
薬を飲んだから。
そう書けば、航は安心してくれる。
けれど、今はその言葉が出てこなかった。
澪はスマートフォンを伏せた。
机の上には、発作記録が開いたままになっている。
十四時十八分。
その時刻だけが、ほかの文字より濃く見えた。
三宅が亡くなる前にも、自分は殺意を感じていた。
そのときは、送別会の誰かが三宅を狙っていたのではないかと考えた。
今は、航を疑いかけている。
しかし、今回もまた自分が見たものは、殺意そのものではない。
腕に現れた発疹と、目の前にいた人間の顔だけだった。
澪はノートを閉じた。
そのとき、閉じかけたページの端に書いた二人の名前が、一瞬だけ見えた。
高瀬航。
久我千晴。
澪は手を止めた。
自分はこの二人について、どこまで知っているのだろう。
そして、知らないことを、どれだけ勝手に埋めてきたのだろう。
窓の外では、日が沈みかけていた。
隣の建物の壁が夕暮れの色へ変わり、遠くを走る車の音が少しずつ増えていく。
澪はノートを引き出しへしまった。
誰かが殺意を抱いていたという事実だけでは、誰も止められない。
それでも、何も分からなかったことにするつもりはなかった。
明日、真田へ連絡しよう。
そう決めた。
自分の体質についてどこまで話せるかは、まだ分からない。
けれど、今日確認した時刻と、会社の記録についてなら話せるかもしれない。
澪は手帳を開き、明日の予定の欄へ小さく書いた。
『真田さんに連絡』
その文字を見てから、ようやく机の明かりを消した。
まだ、この夜が何事もなく終わると決まったわけではなかった。
けれど、澪にはそのことを知る方法がなかった。




