第26話 十五分前の記録
水曜日、午後四時十二分。
真田亜紀は、佐伯が差し出した一覧表の二行目で目を止めた。
「これは、今日の記録?」
「はい。朝凪ロジスティクスから追加で届いたものです」
第二書庫。
入室、十四時十四分。
退出、十四時三十五分。
利用者、久我千晴。
真田は用紙を持ち上げた。
窓際に置かれた古い空調が低い音を立て、コピー用紙の角をわずかに震わせている。室内には冷めたコーヒーと温められたトナーの匂いが残り、西日が机の上に積まれた事件資料の側面を橙色に染めていた。
「今日の分まで提出してくれたのね」
「保全対象の資料を扱う書庫について、入退室記録をまとめて照会していたんです。今日の午後に抽出したものも含まれています」
佐伯は別の紙を広げた。
「こちらが社員証の認証履歴で、もう一つが現場で記入している利用確認簿の写しです」
二枚を並べる。
どちらにも、久我の名前があった。
真田は時刻を見比べた。
「一致してる」
「はい。社員証で入室したのが十四時十四分。退出側の読み取り機を通ったのが十四時三十五分です」
「書庫の中で何をしていたかは?」
「保全対象資料の確認、となっています」
真田は頷いた。
久我は総務課長で、旧配送センターの資料管理にも関わっている。書庫へ入ったこと自体は不自然ではない。
しかし、今日の記録を求めたのには理由があった。
三宅尚人が亡くなる前に調べていた資料は、複数の保管先に分かれていた。
その一部が現在、第二書庫へ移されている。
八年前の事故報告書に不備があったとしても、それだけで三宅の死亡事件の犯人が分かるわけではない。だが、過去の記録を誰が扱える状態にあったのかは、確かめておく必要があった。
「ほかの利用者は?」
「午前中に三人。午後は久我さんのほかに、保管箱の移動を担当した社員が一人です。時間は重なっていません」
「内容の確認をした人間は?」
「実際にどの箱を開けたかまでは、まだ照合できていません」
佐伯は申し訳なさそうに言った。
真田は紙を置いた。
「そこは分けておきましょう。部屋に入った記録と、特定の書類を見た記録は違うから」
「はい」
「ただ、どの棚が保全対象だったかは確認しておいて」
佐伯が頷く。
真田は別の用紙を手に取った。
そこには、十四時から十四時三十分までの会議室Bの予約も載っていた。
予約者は篠宮澪。
利用目的は情報管理部門との打ち合わせ。
相手は高瀬航。
「この二人も、今日の午後に会っていたのね」
真田が言うと、佐伯は顔を上げた。
「高瀬さんが旧センターの閲覧手続きについて説明する予定だったそうです」
「なるほど」
真田は会議室の配置図を開いた。
会議室Bと第二書庫は、同じ廊下に面している。
二つの部屋の間には壁が一枚あるだけだった。
ただし、それ以上の意味はなかった。
会議室で話をしていた人間と、隣の書庫に入った人間。
偶然、時間が重なった。
記録が示しているのは、今のところそれだけだった。
「会議室で何を話したかも、いずれ確認が必要かもしれないわね」
佐伯は頷いた。
「高瀬さんが三宅さんの調査を手伝っていたことと関係しますか」
「関係するかもしれない。ただ、今ある記録だけでは分からない」
真田は予約表を戻した。
「それより、先に確認したいことがある」
手帳を開く。
二十二時三十五分。
二十二時四十一分。
数字を並べたページだった。
午後四時四十七分。
真田と佐伯は、朝凪ロジスティクスの施設管理を担当する男性と電話で話していた。
旧配送センターの屋外搬入口について確認するためだった。
「当時、あの場所には夜間照明がありましたよね」
真田が尋ねると、男性は少し考えた。
『ありました。ただ、建物の閉鎖が決まってからは一部を止めています』
「三宅さんが亡くなった夜も?」
『照明の制御自体は変えていなかったはずですが、全部点灯していたかは確認が必要です』
「分かりました。ところで、外階段へ出るために社員証は必要ですか」
『外から回れば不要です。あそこは敷地の裏手から入れますので』
真田は現場図を見た。
道路。
搬入口。
七段の階段。
その上の踊り場。
敷地への車両入口には一部記録が残っているが、裏側の通路を歩いて入れば、入館履歴には出てこない。
「では、施設の建物に入った記録がないからといって、階段には行けなかったとは言えませんね」
『そうなります』
「ありがとうございました」
通話を終えると、佐伯が椅子を寄せた。
「久我さんは車で行ったと言っていましたね」
「ええ」
「短時間駐車用の場所に停めたと」
「そう説明していたわ」
「周辺の映像はまだ揃っていません。古いカメラは一部が運用停止になっていて、残っている映像も確認中です」
真田は頷いた。
「なら、移動経路の証拠が届くまでは断定しない」
佐伯は一度手帳を閉じかけた。
「でも、久我さんが三宅さんと会ったのは事実ですよね」
「本人も認めている」
「それで十時三十五分頃に別れた」
「そう説明している」
「六分後に三宅さんは、まだ確認が終わらないと送信している」
真田は佐伯を見た。
「そこまで」
佐伯の手が止まった。
「え?」
「そこまでは、事実と証言を区別できてる。でも、この後に『だから久我さんは嘘をついている』と続けたら、まだ早い」
佐伯は少し困った顔をした。
「そうですね」
「三宅さんが別の担当者と確認を続けていた可能性はある。メッセージを送った時点では、相手が戻ってくるのを待っていたのかもしれない」
「でも、あの場所で夜遅くまで?」
「不自然に見えるわね。ただ、不自然なことと不可能なことは違う」
真田は資料の端を揃えた。
佐伯はしばらく黙っていたが、やがて手帳を開いた。
「久我さんの説明、もう一度確認したいですね」
「ええ。ただ同じ質問を繰り返すより、先に客観的な記録を集めましょう」
真田は一枚の写真を取り出した。
旧配送センターの搬入口。
濡れたコンクリート。
階段の下に、三宅が倒れていた場所を示す目印が置かれている。
写真の隅には、壁の一部が擦れたような跡が写っていた。
「三宅さんは、翌日に資料を渡す約束をしていた」
真田は言った。
「その前夜、誰かと確認していた。持っていたファイルは空だった」
佐伯が頷く。
「もし資料を持っていたなら、どこへ行ったのか」
「そう。そこが分からない」
真田は写真へ目を落とした。
三宅は自分から旧センターへ向かったのかもしれない。
誰かに呼ばれたのかもしれない。
あるいは、何かを見せるつもりだったのか。
今はその一つさえ確定できていない。
「三宅さんが持っていた書類について、牧野さんにもう一度聞いてみましょう。翌日に見る予定だった資料の種類だけでも分かればいい」
「はい」
佐伯がメモを取った。
真田は机の端へ置いた別の資料を見た。
八年前の事故報告書。
提出日。
作成部署。
確認者。
印影が並んでいる。
今なら、この一枚がどうやって完成したのかを尋ねることができる。
当時の担当者が、まだ会社にいるからだ。
ただし、その人間が正直に答えるかどうかは別の問題だった。
午後五時二十六分。
安全管理室から、事故報告書の作成手順について追加の説明が届いた。
真田は送られてきた資料を読み始めた。
『事故報告書の作成に当たっては、関係部署から提出された確認事項をもとに、総務担当が文書を取りまとめる』
その下には、当時使用されていた処理手順が図で示されていた。
現場からの報告。
総務での受付。
担当部署での確認。
報告書への反映。
最終確認。
真田は図の中央を指で押さえた。
「ここね」
佐伯が顔を寄せる。
「総務での受付と、担当部署での確認の間ですか」
「ええ」
「記録は別々なんですよね」
「そう。しかも、この手順書によれば、受付された書類は後で処理状況を追えるようになっている」
真田は次のページを開いた。
ただし、八年前のすべての処理履歴が現時点で残っているわけではないという注記がある。
事故当時のシステムはすでに更新され、一部の記録は紙で保管されていた。
「この履歴が見つかれば、事故前に誰が何を確認していたか分かるかもしれませんね」
佐伯が言った。
「少なくとも、確認できる範囲は広がるでしょうね」
「三宅さんも、これを探していた」
「その可能性は高いと思う」
真田は一度資料を閉じた。
三宅が事故報告書を疑った理由は、以前より分かってきた。
しかし、彼が死んだ理由については、まだ決定的な説明がない。
八年前の事故に何か問題があったとしても、それを三宅が調べていたから殺されたと決めることはできない。
彼が最後に会った人物。
持参した資料。
その夜の行動。
それらを一つずつ確かめるしかなかった。
真田は手帳を開いた。
八年前の事故に関係した人物の名前が並んでいる。
結城紗江。
長峰省吾。
久我千晴。
篠宮澪。
そして、その記録を調べていた三宅尚人。
最近になって協力した高瀬航。
真田は名前の横に、それぞれ確認できた事実を書き足した。
事故前の不具合報告を知っていた人物。
報告書の作成に関わった人物。
受付記録を扱った人物。
資料の所在を調べた人物。
ここに書かれていないことまで、勝手に付け加えてはいけない。
そう思いながらも、真田は一つ気になることがあった。
三宅の死によって、困る人物は誰だったのか。
逆に、三宅が生きていたら何が起きたのか。
それをまだ、誰にも十分に聞けていなかった。
午後六時十八分。
捜査本部の電話が鳴った。
佐伯が受話器を取り、相手の名前を確認してから真田へ顔を向ける。
「真田さん。長峰省吾さんからです」
真田は手帳を閉じた。
「代わって」
受話器を受け取る。
「警察の真田です」
電話の向こうで、男性が咳払いした。
『長峰です。朝凪ロジスティクスの』
以前、何度か話を聞いた声だった。
送別会で退職を祝われた男性。
八年前、旧配送センターの現場責任者だった人物。
「お電話ありがとうございます。どうされましたか」
『少し、話しておいたほうがいいことがあって』
真田はペンを持った。
「八年前の事故についてでしょうか」
『そうです』
長峰の声はいつもより低かった。
背景で、何かを置く鈍い音がした。
『書類のことを調べてるんでしょう』
「現在、関係資料を確認しています」
『私にも何度か問い合わせが来ています』
「はい」
短い沈黙があった。
真田は急かさなかった。
長峰は、ようやく口を開いた。
『明日、時間を取れますか』
「明日ですか」
『直接話したいことがあります』
真田は手帳を開いた。
木曜日。
午前中には一つ予定があるが、時間を調整することはできる。
「午前十時でしたら、いかがでしょう」
『それで結構です』
「場所はこちらでよろしいですか」
『はい。そちらへ伺います』
真田は長峰の名前を書き込んだ。
その横に、午前十時。
「差し支えなければ、今のうちに内容を少し伺えますか」
長峰はすぐには答えなかった。
受話器の向こうで、テレビらしい音が一瞬聞こえた。
誰かの笑い声。
それから、音が小さくなる。
『事故のときのことです』
「はい」
『当時の判断について、説明しておきたい』
真田はペンを止めた。
「設備の稼働を続けた判断ですか」
『それも含めて』
その返事の後に、小さく息を吐く音が続いた。
『電話では、うまく話せないと思います』
「分かりました。では、明日直接お聞きします」
『お願いします』
電話はそこで終わった。
真田は受話器を置いた。
佐伯が顔を上げる。
「どうでした?」
「長峰さんが明日の午前十時に来るそうよ」
「何の話ですか」
「八年前の事故について。当時の判断を説明したいって」
佐伯は少し眉を上げた。
「急ですね」
「そうね」
真田は手帳の予定を見た。
長峰省吾。
木曜日、午前十時。
その名前の下には、まだ何も書いていない。
明日、何を話すのか。
どんな資料を持ってくるのか。
あるいは、ただ以前と同じ説明を繰り返すだけなのか。
今は分からなかった。
ただ、本人から話したいと言ってきたのは初めてだった。
真田はペンを置いた。
「佐伯くん。明日の面談に備えて、長峰さんに関する事故当時の資料を揃えておいて」
「はい」
佐伯が頷いた。
真田は窓の外を見た。
街はすっかり暗くなっていた。
遠くの交差点では、信号が赤から青へ変わり、止まっていた車がゆっくり動き出す。
明日の午前十時。
ようやく、事故当時の責任者から詳しい話が聞けるかもしれない。
真田はその予定を、手帳の中でもう一度確かめた。




