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殺意アレルギー  作者: asnt2026


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第27話 八時三十六分の電話

水曜日、午後六時三十九分。


澪のスマートフォンが震えた。


画面には、結城晴臣の名前が表示されている。


澪はソファから身を起こした。


帰宅してから一時間ほど経っていたが、左腕の赤みはまだ引いていない。薬の影響なのか少し眠気があり、テーブルには半分ほど残った水のボトルが置かれていた。


窓の外では街灯が灯り始めている。


隣の建物の壁には夕方の光がわずかに残り、遠くの車道からタイヤの音が聞こえていた。部屋には洗濯物の柔軟剤と、夕飯用に温めかけたスープの匂いが漂っている。


澪は通話ボタンを押した。


「はい、篠宮です」


『結城です。突然すみません。今、お時間大丈夫ですか』


「はい。大丈夫です」


『会社ではなく、直接連絡してしまって』


「いえ。何かありましたか」


電話の向こうで、食器が触れ合う音がした。


続いて、小さな足音。


結城は誰かに「すぐ行く」と声をかけてから、澪へ話しかけた。


『先日、確認してもらっている事故の資料について、少しお聞きしたいことがあって』


澪は姿勢を正した。


「はい」


『現場の記録は、まだ調べている途中なんですよね』


「そうです。受付記録は確認できていますが、その後の伝達状況については、まだ照合が終わっていません」


『分かりました』


結城は短く答えた。


澪はその声を聞きながら、何かほかにも用件があるのだろうと思った。


以前、結城と本社で話したときもそうだった。


彼は聞きたいことをすぐに口にしない。


一度、相手が答えやすいところから話し始める。


それは遠慮なのかもしれないし、長い間、自分が知りたいことを後回しにしてきた習慣なのかもしれなかった。


「結城さん。何か気になることがありましたか」


澪が尋ねると、電話の向こうで小さく息を吐く音がした。


『今日、長峰さんから連絡があったんです』


澪は左手でスマートフォンを持ち直した。


「長峰さんから?」


『ええ。八年前のことについて、もう一度話したいと』


「そうだったんですか」


『今まで、そんなことはなかったんです』


結城の声が低くなった。


『退職する前に、一度話しておきたいと言われました』


澪は窓の外へ目を向けた。


長峰の送別会。


あの夜、結城はほとんど酒を飲まずに座っていた。


長峰が現場の仕事について話していたとき、箸を止めた。


何度もスマートフォンを確認していた。


その顔を、澪は覚えている。


「お会いする予定なんですか」


『まだ、時間までは決まっていません。明日にはもう少し詳しく話せると思う、と』


結城はそこで口を閉じた。


電話の向こうから、鍋の蓋を動かすような音が聞こえた。


『すみません。火を止めてきます』


「はい。どうぞ」


結城が電話から離れる。


遠くで水道の音がした。


誰かが「お父さん」と呼んだ。


結城は何かを答えたようだったが、言葉までは聞き取れなかった。


澪はスマートフォンを耳へ当てたまま待った。


そのわずかな時間に、送別会の結城の顔を思い浮かべた。


怒っていたのだろうか。


少なくとも、長峰の話を聞いて楽しそうには見えなかった。


しかし、そこから先は分からない。


妻を亡くした事故の責任者が、目の前で仕事の苦労を語っていた。


それだけで表情が変わっても不思議ではなかった。


『お待たせしました』


結城の声が戻った。


「いえ。夕飯の支度中だったんですね」


『ええ。娘が今日は早く帰ってきたので』


「そうでしたか」


『最近は、自分で何でもできるみたいな顔をするんですけど、腹が減ると急に頼ってきます』


澪は少し笑った。


「そういう年頃なんでしょうね」


『そうなんでしょうね』


結城も小さく笑った。


その声を聞いて、澪は以前見せてもらった写真を思い出した。


左右で高さの違う髪の結び目。


その下で笑う、小さな女の子。


今は十二歳になっている。


写真の中の子どもが、自分で夕飯の支度を手伝ったり、父親へ文句を言ったりするようになっている。


八年という時間は、そういう長さだった。


『篠宮さん』


結城の声が、少し改まった。


「はい」


『この間、紗江が提出した書類について話してくれましたよね』


「はい」


『あれを聞いてから、昔のことを考えてたんです』


澪は黙っていた。


『事故の後、会社から何度も説明を受けました。設備の不具合はあったが、作業手順にも問題があった。正式な停止要請が確認されたのは事故の後だった。そういう話でした』


結城は一度、言葉を切った。


『それで、俺もどこかで納得しようとしてたんだと思います』


澪は膝の上へ視線を落とした。


「納得、ですか」


『はい。納得したというより、そうしないと生活が続かなかったんでしょうね』


結城はゆっくり続けた。


『娘は朝になれば起きるし、腹も減る。学校へ行く準備もしないといけない。俺が会社の説明に納得できないからって、あの子の生活を止めるわけにはいかないでしょう』


澪は何も言えなかった。


受話器の向こうには、日常の音があった。


皿を動かす音。


湯を流す音。


小さな足音。


その一つ一つが、結城の話の続きをしているようだった。


『会社を辞めようと思ったこともありました』


結城が言った。


「そうだったんですか」


『ええ。事故のことを思い出す場所で、ずっと働いてるわけですから』


澪は指先を握った。


『でも、辞めたからって忘れられるものでもない。それに、娘もいましたから』


「はい」


『別の会社へ行ったところで、事故のことを誰かが調べてくれるわけじゃないと思ってたんです』


澪は息を吸った。


「三宅さんは、調べていらしたんですよね」


『そうです』


結城は短く答えた。


『だから、あの人から連絡があったときは驚きました』


しばらく、沈黙が続いた。


『八年前のことを、今になって確認したいって』


澪は目を閉じかけた。


三宅から届いたメールを思い出す。


丁寧で、少し遠慮がちな文章。


受付時刻を確認したいという短い依頼。


そのメールが、すべての始まりだった。


『三宅さんが何を見つけたのか、結局まだ分かっていません』


結城が言った。


『でも、今は少なくとも、紗江が事故の前に停止要請を出していたことは分かりました』


「はい」


『片桐も、その話を聞いてから、少し顔つきが変わった気がします』


澪は片桐のことを思い出した。


会議室で、紗江の髪結びの話をしてくれた女性。


停止要請が事故前に受け付けられていたと知って、しばらく言葉を失っていた。


「片桐さんは、紗江さんのことをよく覚えていらっしゃいました」


『そうでしょうね』


結城の声が少し柔らかくなった。


『あの二人、よく仕事のことで言い合ってましたから』


「そうなんですか」


『片桐は少し大雑把で、紗江は細かい。何度も注意されてたみたいです』


澪は笑った。


「私も似たような話を聞きました」


『そうですか』


結城は少し間を置いた。


『でも、紗江は片桐のこと、頼りにしてましたよ』


「そうだったんですね」


『仕事が早いし、人に気を遣えるって。自分は言い方がきついから、あの子が間に入ってくれると助かるって』


澪はその言葉を、しばらく考えていた。


紗江はただ厳しい人ではなかった。


自分の欠点も分かっていた。


同僚の良いところも、きちんと見ていた。


その人が、事故の前に書類を持ってきた。


「結城さん」


澪は言った。


「紗江さんが提出した停止要請について、片桐さんや長峰さんから聞いたことと、受付記録の内容を照らし合わせています」


『はい』


「まだ、正式な結論は出ていません。でも、事故の前に書類が届いていたことは、記録として残っています」


『分かっています』


「その事実は、これからも変わりません」


結城は黙っていた。


澪は続けた。


「ただ、今はそれ以上のことを約束できません。誰がいつ確認したのか、なぜ設備が止まらなかったのか、まだ分からないことがあるので」


『それでいいです』


結城はすぐに答えた。


澪は顔を上げた。


『前にも言いましたけど、分かったことだけ教えてください』


「はい」


『分からないことを、無理に埋めなくていいんです』


澪は左腕を見た。


袖の内側では、まだ皮膚が熱を持っていた。


今日の午後、自分はまた発作を起こした。


誰かが人を殺そうとしていた。


そのことだけは、自分の身体が知らせていた。


けれど、誰が誰を狙っていたのかは分からない。


結城の言葉を聞いていると、その違いが以前より重く感じられた。


午後六時五十八分。


電話の向こうで、少女の声が聞こえた。


『お父さん、これどこにしまうの?』


結城が受話器から少し離れた。


『そこじゃない。下の引き出し』


『前は上だったよ』


『変えたんだよ』


『また?』


澪は思わず笑った。


結城が戻ってくる。


『すみません』


「いえ。仲がいいですね」


『どうでしょう。向こうは、口うるさい父親だと思ってるんじゃないですか』


「そんなことないと思いますよ」


言ってから、澪は少し迷った。


自分に分かることではなかった。


結城は小さく笑った。


『八年前は、もっと簡単だったんですけどね』


「何がですか」


『娘と話すことです』


結城は続けた。


『小さい頃は、帰ったら抱きついてきました。今は、何か頼みたいときしか近づいてこない』


「成長したんですね」


『そうでしょうね』


短い沈黙。


『でも、あの日だけは、昔と変わらなかったんです』


澪は顔を上げた。


「あの日?」


『長峰さんの送別会です』


左腕に、かすかなかゆみが戻った。


澪は袖の上から軽く押さえた。


『八時半を過ぎたら一度連絡するって、娘と約束していたんです。帰りが遅くなるかもしれなかったので』


澪は息を止めかけた。


金曜日。


午後八時三十六分。


結城のスマートフォンが鳴った。


彼は画面を見てから席を立ち、襖の向こうへ消えていった。


「その電話、娘さんからだったんですね」


澪が言うと、結城は少し驚いたようだった。


『覚えていたんですか』


「はい。席を立たれたので」


『そうでしたか』


結城は短く息を吐いた。


『あの日、娘は家で待ってたんです。遅くなるなら連絡してくれって、朝から何度も言われて』


澪は送別会の光景を思い出した。


長峰の長い挨拶。


賑やかなテーブル。


結城がほとんど手をつけていなかったビール。


そして、電話の後に少し変わった表情。


「電話で、何かあったんですか」


澪が尋ねると、結城はしばらく黙った。


『いえ。大したことじゃありません』


声が少し柔らかくなった。


『帰りに牛乳を買ってきてって。それから、明日の朝は何時に起きるのかって』


澪は小さく笑った。


「そうだったんですね」


『そんな話ですよ』


結城も笑った。


しかし、その後に続いた声は静かだった。


『あの子には、俺が何を考えてたかなんて分からないでしょうね』


澪は息を止めた。


結城は続けなかった。


遠くで少女がまた何かを呼んでいる。


『すみません。夕飯ができたので、そろそろ』


「はい。お忙しいところ、ありがとうございました」


『こちらこそ』


電話を切る前に、結城がもう一度口を開いた。


『篠宮さん』


「はい」


『長峰さんと、今度こそちゃんと話せるといいと思ってます』


澪は少し考えてから答えた。


「そうですね」


『あの人が何を知っていたのか、聞いておきたいんです』


「はい」


『それでは』


電話が切れた。


澪はしばらくスマートフォンを耳に当てたまま動かなかった。


午後七時七分。


澪は紺色のノートを開いていた。


今日の発作については、すでに記録してある。


午後二時十八分。


会議室B。


高瀬航と二人で打ち合わせ中。


隣の第二書庫には久我千晴が入っていた。


そこまでは、確認できた事実だった。


澪は別のページを開いた。


金曜日の送別会。


午後八時十二分、発作。


午後八時三十六分、結城が娘からの電話で席を立った。


その二つの時刻を見比べる。


結城の電話は、最初から約束されていたものだった。


少なくとも、娘から連絡が来る予定はあった。


電話の内容は、夕飯でも仕事でも事件でもない。


帰りに買う牛乳と、翌朝の予定。


そんな何でもない話だった。


澪はペンを持った。


『結城さんの電話は娘から。事前に連絡の約束あり』


一行空ける。


『発作との関連は不明』


そこまで書いて、手を止めた。


今まで自分は、結城の行動を何度も思い返していた。


長峰の話を聞いていたときに箸を止めたこと。


電話の後に少し表情が変わったこと。


酒をほとんど飲まなかったこと。


そのどれも、何か特別な理由がありそうに見えた。


けれど、娘から牛乳を頼まれて席を離れただけかもしれない。


少なくとも、電話をした理由については、そう説明されている。


澪はノートを閉じかけた。


しかし、最後の一文が気になった。


『あの子には、俺が何を考えてたかなんて分からないでしょうね』


結城はそう言った。


何を考えていたのだろう。


長峰への恨みだろうか。


妻の事故のことだろうか。


それとも、娘を待たせていることを気にしていただけなのだろうか。


澪には分からない。


ただ、あの電話の後、結城の顔が少し違って見えたことだけは覚えていた。


彼の気持ちが変わったのか。


それとも、自分がそう見ただけなのか。


そこも確かめようがなかった。


午後七時十八分。


澪はようやく立ち上がり、キッチンへ向かった。


スープはすっかり冷めていた。


鍋に火をつける。


小さな泡が底から上がり始め、やがて表面がゆっくり動き出した。温められた野菜の匂いが広がり、窓の外からは帰宅する人たちの足音が聞こえてきた。


スマートフォンが震えた。


航からだった。


『体調、大丈夫?』


澪は画面を見つめた。


少し考えてから返信する。


『発疹はまだあるけど、呼吸は大丈夫。薬を飲んで休んでる』


送信すると、すぐに返事が来た。


『何か必要だったら持っていくよ』


澪は鍋の火を弱めた。


『ありがとう。今日は大丈夫』


しばらくして、もう一通。


『昨日の話の続きも、落ち着いたらちゃんとしたい』


澪は指を止めた。


航がまだ話していないこと。


今日の会議室で、続きを聞くつもりだった。


けれど、発作が始まって話は途中で終わった。


航は何かを隠している。


それは本人も認めている。


しかし、だからといって殺意を抱いていたとは限らない。


澪はその二つを、何度も頭の中で分けようとしていた。


『分かった。体調が落ち着いたら連絡する』


返信した。


航からは『了解』とだけ返ってきた。


澪はスマートフォンを置き、火を止めた。


スープを器へ移す。


小さな湯気が上がった。


食事を終えた澪は、ノートと手帳を机に並べた。


明日、真田へ連絡する。


その予定は変わらなかった。


何をどう話すのか、少し整理しておきたかった。


発作について、真田はまだ詳しく知らない。


以前、皮膚の症状があることは話したが、それが誰かの殺意に反応するという説明まではしていない。


話したとして、信じてもらえるかどうかは分からなかった。


それでも、会社の記録として確認できることがある。


会議室Bで航と打ち合わせをしていたこと。


同じ時間帯に、久我が第二書庫へ入っていたこと。


その時刻が、今日自分が発作に気づいた時間と重なっていること。


ただし、真田が知りたいのは、なぜその時刻が重要なのかという理由だろう。


そこを説明しなければ、ただの偶然にしか見えない。


澪はペンを持った。


何度か書きかけて、消した。


そして、最後に短い文章を残した。


『自分には説明できない症状がある。その症状と事件を結びつけて考えている理由について、事実と推測を分けて話す』


澪は書いた文字を読んだ。


上手な説明ではない。


それでも、今の自分が言えることに一番近い気がした。


ノートを閉じる。


窓の外では夜の風が強くなり、遠くの街路樹が揺れていた。


長峰は、明日になれば事故について話してくれるのだろうか。


結城も、その言葉を待っている。


澪は机の上の二冊を見た。


八年前の事故。


三宅の死。


そして今日、また感じた殺意。


それぞれを結びつけるものがあるのかどうか、まだ分からない。


けれど、少なくとも明日には、長峰自身が何を知っていたのかを聞けるかもしれない。


澪は明日の予定欄を開き、真田への連絡の文字をもう一度確認した。


その下へ、もう一行だけ書き加える。


『長峰さんの説明について、確認する』


ペンを置いた。


今夜は、これ以上考えても答えが出そうになかった。


澪は明かりを消し、寝室へ向かった。


廊下に残った薄い光の中で、机の上の手帳だけが白く浮かんでいた。

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