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殺意アレルギー  作者: asnt2026


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第28話 止めなかった人

水曜日、午後七時二十一分。


篠宮澪は寝室の明かりを消しかけて、スマートフォンの振動に手を止めた。


画面には長峰省吾の名前が表示されていた。


送別会の連絡を取りまとめたとき、仕事用の連絡先として登録していた番号だった。退職を控えた長峰から、こんな時間に直接電話が来るのは初めてだった。


澪は一度、左腕へ目を向けた。


午後の発作でできた赤い膨らみは、ようやく輪郭が薄くなり始めている。薬のせいか頭の奥が重く、さっきまで横になるつもりでいた。


振動が止まった。


折り返すべきか迷っていると、すぐにもう一度着信があった。


澪は通話ボタンを押した。


「はい、篠宮です」


『長峰だ。夜分に悪いな』


いつもの声だった。


少し低く、語尾がはっきりしている。


ただ、送別会で聞いたときのような勢いはなかった。


「お疲れさまです。どうされましたか」


『今、少し話せるか』


「はい。大丈夫です」


澪は寝室を出て、リビングの明かりをつけた。


カーテンの隙間から街灯の淡い光が差し込んでいる。昼間から降ったりやんだりしていた雨は上がったらしく、窓を閉めていても外を走る車のタイヤが湿った路面を踏む音が聞こえた。


キッチンには、夕飯のスープに使った生姜の匂いが残っていた。


澪は椅子を引いた。


『今日、警察に電話をした』


長峰が言った。


「警察に?」


『ああ。明日の朝、話を聞いてもらうことになった』


澪は背筋を伸ばした。


先ほど結城から聞いた話が浮かぶ。


長峰は、八年前の事故について話したいと言っていた。


結城にも連絡していた。


その相手は、警察にも及んでいたらしい。


「事故のことですか」


『そうだ』


長峰は短く答えた。


『三宅さんが亡くなってから、昔の書類を調べ直しているだろう』


「はい」


『君もいろいろ確認していると聞いた』


「事故の前に受け付けた停止要請について、まだ分からないことがあるので」


『その件だ』


受話器の向こうで、椅子が軋む音がした。


長峰は座り直したのかもしれない。


『この前、君に聞かれたな』


「何をでしょう」


『なぜ設備を止めなかったのか、だ』


澪は言葉を失った。


本社会議室を出た後、廊下で長峰を呼び止めた。


事故の前から不具合を知っていたのなら、なぜ稼働を続けたのかと尋ねた。


長峰は、現場の判断にはいろいろな事情があると答えた。


必要なら正式に聞いてくれ、と。


そこで会話は終わっていた。


『あのとき、ちゃんと答えなかった』


長峰は言った。


澪は黙っていた。


『理由はある。だが、理由があることと、答えなくていいことは別だからな』


「長峰さん」


『先に言っておく。君が聞きたいような話じゃないと思う』


澪はスマートフォンを持ち直した。


手のひらに汗が滲んでいた。


「それでも、お聞きしたいです」


しばらく、何も聞こえなかった。


電話が切れたのかと思い、画面を確認する。


通話は続いている。


やがて、長峰が口を開いた。


『事故の前から、あの設備に問題があることは知っていた』


澪は息を止めた。


『止めたほうがいいという意見も上がっていた。紗江さんからだけじゃない。現場の何人かが、稼働を続けて大丈夫なのかと言っていた』


「はい」


『そのことは、当時の責任者だった私にも伝わっていた』


澪は机の端を掴んだ。


長峰は以前の会議でも、不具合について報告を受けていたこと自体は認めていた。


だが、今の言い方は違った。


問題があったことを知っていた。


止めるべきだという意見も届いていた。


そこまで認めたうえで、長峰は次の言葉を続けた。


『それでも私は、稼働を続ける判断をした』


澪は顔を上げた。


窓には、室内の明かりを背にした自分の姿が映っていた。


「長峰さんが、判断されたんですか」


『そうだ』


「停止要請が正式に確認される前に?」


『正式にどの書類が回っていたか、それはまだ調べないと分からん。だが、現場から不具合の話が来ていたことは確かだ』


長峰は少し声を強めた。


『書類がどうなっていたとしても、私はあの設備に問題があると知っていた。それを言っておかないといけない』


澪は唇を閉じた。


八年前、何度も聞いた説明が頭に浮かんだ。


停止要請は正式に確認されていなかった。


書類が窓口へ届いただけでは、設備を止める判断はできない。


現場には現場の事情がある。


それらの言葉が、今の長峰の声によって少しずつ別の形へ変わっていく。


「どうして、止めなかったんですか」


澪は尋ねた。


長峰はすぐには答えなかった。


『止めたら、予定していた出荷に間に合わなかった』


ようやく、そう言った。


『あの頃は、旧センターの稼働率が落ちていてな。何とか持ち直そうとしていた。あの日も、遅らせられない荷物があった』


「それで、止めなかったんですか」


『それだけじゃない。設備の状態から、すぐに重大な事故が起きるとは考えていなかった。点検を続けながら使えると思った』


澪は黙って聞いていた。


『結果から言えば、見込みが甘かった。それで済ませていい話じゃないことも分かっている』


長峰の声は低かった。


『でも、当時の私が何を考えていたのかと聞かれたら、そう答えるしかない』


澪は窓の外を見た。


向かいの建物の一室で、誰かがカーテンを閉めた。


黄色い明かりが細い線になり、やがて消えた。


結城紗江は、止めてほしいと頼んでいた。


危険な設備のそばで働く人がいた。


それなのに、長峰は稼働を続ける判断をした。


「紗江さんは、危ないと分かっていたんですよね」


澪が言うと、長峰は小さく息を吐いた。


『そうだろうな』


「そのことは、長峰さんにも伝わっていた」


『不具合の報告は受けていた』


「では、紗江さんが何を心配していたかも」


『篠宮君』


長峰の声が、少し強くなった。


澪は口を閉じた。


『私も、何も考えずに動かしていたわけじゃない』


一瞬、以前の長峰が戻ってきたようだった。


現場には現場の事情がある。


知らない人間が簡単に口を出すものではない。


あの会議室でも、長峰は同じ調子で説明していた。


しかし、今夜はそこで話が終わらなかった。


『いや』


長峰が言った。


『違うな』


澪は息を止めた。


『考えていたからこそ、私が決めたんだ』


受話器の向こうで、何かを机に置く音がした。


『誰かが勝手に設備を動かしていたわけじゃない。私が、まだ止めなくていいと判断した』


澪はスマートフォンを握る手に力を込めた。


その答えを聞きたかった。


ずっと。


けれど実際に聞くと、何を返せばいいのか分からなかった。


「長峰さん」


澪はようやく声を出した。


「そのことを、八年前の報告書には書かれなかったんですか」


『私が稼働を続ける判断をしたことか』


「はい」


長峰は黙った。


澪は受話器を耳に押し当てた。


小さな雑音が続いている。


『現場としての判断は、報告した』


長峰はゆっくり答えた。


『ただ、あの事故報告書を読めば、私が何を知っていて、なぜ動かし続けたのかまで分かるかと言われると、そうではない』


「では、どうしてそのままにしたんですか」


長峰は息を吐いた。


『事故の後は、いろいろな説明が必要になった。安全管理にも、会社にも、関係者にも』


そこで声が途切れた。


『私は、設備の不具合を知っていたことを隠したかったんだと思う』


澪は目を閉じた。


『何も知らなかったわけじゃない。止めるべきかもしれないと思っていた。それでも続けた。そこをはっきりさせたら、自分が責められると分かっていた』


「それで、確認時刻の説明を」


『そうだ』


返事は短かった。


『正式確認が事故後だったという説明は、私にとって都合がよかった』


澪は椅子へ深く座り直した。


八年前、報告書の記載について尋ねたとき、長峰は言った。


現場の申請は、どれも急ぎなのだと。


正式に確認しなければ、設備を止めることはできないのだと。


その説明に納得できない部分はあった。


けれど澪は、二人が落ち着いて話していることに安心し、それ以上は尋ねなかった。


あのとき、もう一度聞いていれば。


そんな考えが浮かんだ。


澪はそれを振り払わなかった。


ただ、今ここで長峰を責めても、八年前の自分が何をしなかったかは変わらない。


「私も、確認しませんでした」


澪は言った。


長峰が黙る。


「報告書の内容がおかしいと思ったのに、説明を受けて、それ以上は聞きませんでした」


『篠宮君』


「受付した書類がどうなったのか。誰がいつ見たのか。それを確かめることもしなかったんです」


長峰は少し間を置いた。


『君は、当時まだ若かった』


澪は机の上の手を見た。


「はい」


『仕事のことも、十分には分かっていなかっただろう』


「そうです」


『だったら』


「でも、それだけじゃありません」


声が少し大きくなった。


長峰は続きを言わなかった。


澪は息を整えた。


「自分の仕事が間違っていたかもしれないと思うのが、嫌だったんです」


口に出すと、喉の奥が痛くなった。


「もし確かめて、何か問題が見つかったら、自分にも責任があるかもしれない。そう考えたら、もう聞かないほうがいいと思いました」


長峰は黙っていた。


澪は続けた。


「だから、若かったから仕方がなかったと言われると、少し困ります」


受話器の向こうで、長峰が椅子を動かす音がした。


『……そうか』


それだけだった。


怒るでもなく、慰めるでもない。


澪はその返事を聞いて、少しだけ肩の力を抜いた。


「すみません。偉そうなことを言って」


『いや』


長峰は言った。


『今、君にそう言われるとは思わなかった』


声の端に、わずかな苦笑が混じっていた。


『私も昔なら、もっと違うことを言っていたと思う』


「そうですね」


澪も小さく笑った。


笑ってしまってから、少し驚いた。


こんな話をしているのに。


けれど長峰は、いつものように声を荒らげていなかった。


そのことが、今は少し不思議だった。


「長峰さん」


『何だ』


「明日、警察にはどこまで話されるんですか」


長峰はすぐに答えた。


『今話したことは、全部だ』


澪は顔を上げた。


『事故の前から不具合を知っていたこと。稼働を続ける判断をしたこと。それから、事故の後にどんな説明をしたか』


「記録は残っているんでしょうか」


『残っているものもあるはずだ』


長峰はそこで少し声を落とした。


『事故の後に作られた資料だけじゃない。現場で当時使っていた記録も、確認しなければならん』


「それは、もう見つかっているんですか」


『全部ではない。私の手元にあるものと、会社で保管しているものを照らし合わせる必要がある』


澪はペンを取りかけた。


けれど、机にはノートが置いていない。


「真田さんには、そのことも?」


『明日、説明するつもりだ』


「そうですか」


『それと、結城君にも』


澪は結城の顔を思い浮かべた。


娘の写真を見せてくれたときの笑い方。


分かったことだけを教えてください、と言った声。


「結城さんから、連絡があったと聞きました」


『私から連絡した』


長峰は訂正した。


『今度こそ、直接話そうと思ってな』


「はい」


『あの人には、私が説明しなければならない』


それを聞いて、澪はようやく一つだけ訊きたかったことを思い出した。


「長峰さん。三宅さんも、同じことを調べていたんでしょうか」


受話器の向こうで、長峰が息を吸った。


『そうだ』


「三宅さんから、何か聞かれていたんですか」


『何度もな』


長峰は答えた。


『事故の前に、誰が停止の必要性を知っていたのか。稼働を続ける判断は誰がしたのか。そういうことを聞かれていた』


澪は机の端へ視線を落とした。


三宅は、八年前の受付時刻を調べていた。


それだけではなかった。


事故の前に何が知られていて、誰が何を決めたのか。


そこまで確かめようとしていた。


「三宅さんには、答えたんですか」


『全部は答えていない』


長峰の声が低くなった。


『あの人が亡くなる前に、もう一度話すつもりだった』


澪は唇を閉じた。


『結局、間に合わなかった』


時計の秒針が一つ進んだ。


それまで気にならなかった音が、急に耳に入ってきた。


『三宅さんが死んだと聞いたとき、事故のことまで考えるのはおかしいと思ったよ』


長峰は続けた。


『別の出来事かもしれない。たまたま事故を調べていた人が亡くなっただけかもしれない。それなのに、私はまず、あの人が何を調べていたかを考えた』


澪は何も言わなかった。


『そういう自分が嫌になった』


長峰の声は、そこで一度途切れた。


澪はスマートフォンを握り直した。


今まで何度も長峰へ質問してきた。


しかし、彼がこんなふうに自分のことを話すのを聞いたのは初めてだった。


『だから、明日は話す』


長峰が言った。


『これ以上、書類の言葉の陰に隠れるのはやめる』


澪は頷いた。


電話の相手には見えないことに気づき、小さく返事をした。


「はい」


そのときだった。


受話器の向こうで、短い電子音が鳴った。


玄関の呼び鈴に似た音だった。


長峰の言葉が途切れる。


『ああ、来たか』


澪は時計を見た。


午後七時二十五分。


「どなたか、いらっしゃったんですか」


『ああ。ちょっと書類の件でな』


長峰は少し急いだ調子になった。


『悪いが、そろそろ切らせてもらう』


「今からお仕事ですか」


『仕事と言えば仕事だな。昔の資料について、確認したいという話があって』


再び、遠くで呼び鈴が鳴った。


今度は先ほどより短かった。


『待たせてるようだ』


長峰が言った。


澪は何となく気になった。


夜の七時を過ぎている。


明日の朝には警察と会う予定がある。


そんな時間に、わざわざ資料の確認に来る人がいるのだろうか。


けれど、旧配送センターの移管作業が続いていることは知っていた。


資料の関係者なら、退職を控えた長峰へ最後の確認をしたいこともあるのかもしれない。


「長峰さん」


澪が呼ぶと、長峰は足を止めたようだった。


『何だ』


「明日、真田さんには、今お話ししてくださったことをそのまま伝えてください」


受話器の向こうが静かになった。


『ああ』


短い返事だった。


『そうする』


「私も、必要なことがあればお話しします」


『助かる』


長峰は少しだけ笑った。


『では、また』


「はい。お疲れさまです」


通話が切れた。


澪はスマートフォンを耳から離した。


画面には、通話終了の文字が表示されている。


七時二十六分。


たった数分の電話だった。


それなのに、八年間聞けなかった答えを、いくつも聞いた気がした。


午後七時三十二分。


澪は机の引き出しから手帳を取り出した。


長峰が話したことを、忘れないうちに書き留める。


『事故前から設備の不具合報告を受けていた』


『稼働を続ける判断をしたのは長峰本人』


『事故後の報告書では、その判断が十分に伝わらないことを認めた』


そこまで書き、澪はペンを止めた。


電話で聞いた言葉を、そのまま事実として記してよいのだろうか。


長峰がそう話したことは確かだった。


しかし、その内容が記録によって裏づけられているわけではない。


澪は三つの行の上に、小さく書き足した。


『長峰さん本人の説明。資料による確認は未了』


もう一度読み返す。


今度は、少し落ち着いて見えた。


次に、真田との面談予定を確認した。


明日、午前十時。


長峰が警察署へ行くという。


澪はスマートフォンを手に取り、以前の面談で教えられた連絡先を開いた。


今夜聞いた内容を、明日の面談前に伝えておいたほうがいいだろうか。


長峰本人が説明する予定なのだから、急ぐ必要はないかもしれない。


けれど、三宅も翌日に資料を確認する約束をしていた。


そのことが、頭を離れなかった。


澪は短いメールを作成した。


『本日19時20分過ぎ、長峰省吾さんから電話がありました。八年前の事故について、設備の不具合を事前に認識していたこと、稼働継続を自身が判断したことをお話しされました。明日10時に直接説明すると伺っています。私が聞いた内容について確認が必要であれば、お話しします』


送信先を確かめ、ボタンを押した。


受付を知らせる自動返信が届いた。


澪は画面を閉じた。


これで、明日になれば真田にも伝わる。


そう思った。


ただ、一つだけ書かなかったことがあった。


電話の最後に、長峰の家を誰かが訪ねてきたことだ。


仕事の資料を確認するためだと説明されていた。


それが事件と関係するなど、この時点では考えもしなかった。


澪は手帳へ目を戻した。


七時二十五分。


電話が途中で終わった時刻を、念のため書き加える。


今夜の会話を思い返して、もう一度だけ長峰の声が耳に蘇った。


『私が、まだ止めなくていいと判断した』


あの言葉には、八年前の会議室で聞いたような勢いがなかった。


責任者として部下を納得させようとする声でもなかった。


自分のしたことを、ようやく口にした人の声だった。


澪は手帳を閉じた。


明日、長峰は警察へ行く。


そこで何を話し、どんな記録を見せるのか。


その後、結城晴臣とどんな話をするのか。


今はまだ分からない。


けれど、八年前の事故について何かが進み始めたことだけは感じられた。


澪は立ち上がり、キッチンの流しへ向かった。


洗い残したコップを一つ手に取る。


水を流すと、蛇口の下で透明な泡が膨らみ、すぐに消えた。


左腕には、午後の発作の跡がまだ残っていた。


澪はそれを濡らさないよう、右手だけでコップを洗った。


今夜、長峰が誰と会っているのかは知らない。


ただ、明日になれば話の続きを聞けると思っていた。


そう考えることに、疑問を持つ理由はまだなかった。

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