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殺意アレルギー  作者: asnt2026


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第29話 来なかった証人

木曜日、午前八時十九分。


真田亜紀は、買ってきたばかりのおにぎりの包装を破ったところで電話に呼ばれた。


「真田さん。ちょっとよろしいですか」


佐伯だった。


声がいつもより硬い。


真田はおにぎりを机へ置き、受話器を取った。


「どうしたの」


『長峰省吾さんの住所って、こちらで把握していますよね』


真田の視線が、机の端に置かれた手帳へ動いた。


今日の午前十時。


長峰省吾。


八年前の事故について、本人から話を聞く予定だった。


「把握してるわ。何かあった?」


『その住所で、男性が倒れているという通報がありました。現場に向かっている警察官から、身元が長峰省吾さんらしいと』


真田は立ち上がった。


椅子が床を擦り、後ろへ滑る。


「容体は?」


『頭部に重い傷があるそうです。救急隊が到着していますが、詳しい状況はまだ』


「通報は誰から?」


『隣の部屋の住人です。玄関の扉が少し開いていたので、声をかけたところ、室内に倒れている人が見えたそうです』


真田は机の上のおにぎりを見た。


白い米が、破れた包装から少し覗いている。


長峰は昨日、自分から電話をかけてきた。


事故のことを説明したい。


当時の判断について話しておきたい。


電話ではうまく話せないから、直接会いたい。


それが、ほんの十四時間ほど前だった。


「佐伯くん。現場の住所をもう一度確認して」


真田は手帳を開いた。


読み上げられた住所は、長峰の自宅と一致していた。


「すぐ行く。現場には、室内のものを必要以上に動かさないよう伝えて」


『分かりました』


受話器を置いた。


真田は上着を掴み、机の上の資料を一冊だけ鞄へ入れた。


おにぎりには手をつけなかった。


署内の空調はまだ温まりきっておらず、廊下には冷たい空気が残っている。階段の窓から差し込む朝の光が踊り場の壁を白く照らし、清掃したばかりの床からは薄い消毒液の匂いがした。


真田は足を速めた。


八年前の事故について、長峰は何を話すつもりだったのか。


今は、それを考えている場合ではなかった。


まず、生きているのか。


その答えを確かめなければならなかった。


     ◇


午前八時五十六分。


長峰の住むマンションには、すでに警察車両が停まっていた。


六階建ての建物だった。


外壁にはところどころ雨筋が残り、エントランスの植え込みでは低い木が風に揺れている。昨夜の雨がまだ地面に残っていて、アスファルトから湿った冷気が上がっていた。


真田は建物へ入った。


共用廊下は狭く、外よりも少し暖かかった。


エレベーターを降りると、廊下の奥に制服姿の警察官が立っている。


その向こうに、長峰の部屋があった。


「真田です」


警察官が頷き、現場の状況を説明した。


死亡が確認されていること。


室内で頭部に強い損傷を負った状態で発見されたこと。


外から玄関を壊して入った形跡は、今のところ確認されていないこと。


真田は最後の説明を聞き終える前に、長峰の部屋を見た。


扉が開いている。


玄関のたたきには、黒い革靴が揃えて置かれていた。


その脇に、使い込まれた折り畳み傘がある。


何でもない生活の入口だった。


「発見した方は?」


「隣室の住人です。別室で待機していただいています」


「分かったわ」


真田は現場の記録を確認し、必要な準備をして玄関へ入った。


室内には暖房の熱がわずかに残っていた。


古い紙と家具の木材、それから昨夜淹れたままらしいコーヒーの匂いが混ざっている。


玄関から短い廊下が伸び、その先にリビングが見えた。


扉は開いている。


室内の窓には厚いカーテンが掛かっていたが、端が少しずれていて、朝の光が細い帯になって床へ差し込んでいた。


長峰は、その光から外れた場所に倒れていた。


真田は足を止めた。


昨日、受話器越しに聞いた声が浮かんだ。


『電話では、うまく話せないと思います』


その声と、目の前の姿がつながらなかった。


ほんの一瞬だけだった。


真田は息を整え、現場の担当者へ顔を向けた。


「状況を教えてください」


「発見時、被害者はこの位置に倒れていました。救急隊が確認した後、必要な処置以外は触れていません」


真田は頷いた。


長峰はリビングの床に横向きに倒れていた。


頭部の近くには血が広がり、その一部が床板の継ぎ目へ入り込んでいる。


右手は身体の前へ伸び、指が少し曲がっていた。


倒れたときに何かを掴もうとしたのだろうか。


あるいは、偶然そういう姿勢になっただけなのか。


真田は決めつけず、位置を確認した。


低いテーブルの脚が少し斜めになっている。


その脇には、倒れた椅子が一脚。


床には紙が数枚散らばっていた。


争った跡なのか。


倒れる際に触れたのか。


それも、まだ分からない。


「頭部の損傷については?」


真田が尋ねると、現場の担当者は声を落とした。


「鈍いものによる強い衝撃が疑われます。詳しくは検視と解剖で確認しますが、単純な転倒によるものかどうかも含めて慎重に調べています」


真田は頷いた。


そのとき、テーブルの向こうに置かれた書棚が目に入った。


下段には古い業務資料が並び、上段には退職祝いらしい小さな記念品が置かれている。


金色の文字が入った置物。


写真立て。


花瓶。


花は少し萎れかけていた。


数日前まで、長峰は送別会で笑っていた。


退職後は、ようやく時間ができると言っていたという。


今、その時間はもう残っていなかった。


真田は視線を戻した。


「室内で凶器になり得るものは見つかっていますか」


「重量のある置物や文具類を確認しています。血液のような付着物があるものもありますが、今の段階で断定はできません」


「分かりました。採取位置を正確に残してください」


真田は室内を見渡した。


窓は閉まっている。


玄関に明らかな破壊の跡はない。


それでも、訪問者がいたのかどうかは分からない。


鍵を開けて誰かを迎え入れた可能性もある。


本人が施錠し忘れた可能性もある。


現場の状態だけから、そこにいた人数を決めることはできなかった。


真田はもう一度、長峰の姿を見た。


事故であってほしいと思ったわけではない。


ただ、昨日まで自分へ話しかけていた人間が、もう何も答えられなくなっている。


その事実に、まだ身体が追いついていなかった。


     ◇


午前九時二十七分。


真田はマンションの管理人から話を聞いていた。


小柄な六十代の男性で、手には鍵を何本も付けた金属の輪を持っている。椅子へ座ってもそれを離さず、指先で何度も鍵の位置を確かめていた。


「朝、隣の方から連絡をいただきまして」


管理人は言った。


「長峰さんの玄関が少し開いているようだと」


「普段から、開けたままにする方でしたか」


「いえ。そんなことはなかったと思います」


管理人は首を横に振った。


「ただ、私は毎日全部のお部屋を見ているわけではありませんので」


「分かりました」


真田は頷いた。


「昨日の夜、何か変わったことはありませんでしたか」


「私は夕方には帰ってしまうので」


「夜間の出入りについて、記録は残っていますか」


管理人は少し考えた。


「エントランスに防犯カメラがあります。あと、オートロックの設備にも履歴が残っているはずですが、詳しいことは管理会社でないと」


「確認させていただきたいので、管理会社の担当者を教えてください」


「はい」


管理人は名刺を取り出した。


真田は受け取り、佐伯へ渡した。


「映像と入館関連の記録について、保存を依頼して」


「分かりました」


佐伯はすぐに電話をかけ始めた。


真田は管理人へ向き直った。


「長峰さんは、最近引っ越しを予定されていましたか」


「引っ越しですか?」


「退職の時期だったので、生活に変化があったのかと思いまして」


「そこまでは聞いておりません。でも、荷物を整理されていたようです」


「そうですか」


「数日前、段ボールを何枚か持って帰られましたよ。会社の書類だっておっしゃってました」


真田はペンを動かした。


会社の書類。


長峰は昨夜、事故当時の記録について話したいと言っていた。


手元にも資料があると、篠宮澪へ話していたらしい。


その可能性を考えると、段ボールの中身は確認しておく必要があった。


ただし、それを見つけただけで今回の死と結びつけることはできない。


「ほかに、何か気づかれたことはありませんか」


管理人はしばらく考えた。


「そういえば、昨日の夕方、長峰さんを見かけました」


「何時頃でしょう」


「六時前だったと思います。郵便受けを確認していらして」


「様子は?」


「いつもどおりでしたよ。挨拶もしましたし」


真田は頷いた。


昨日の夕方には、長峰は普通に生活していた。


午後六時過ぎには、警察へ電話してきた。


午後七時過ぎには、澪とも話している。


少しずつ、その日の行動がつながってきた。


しかし、最後の部分だけがまだ空白だった。


     ◇


午前九時五十二分。


発見者の女性は、両手を膝の上で重ねていた。


長峰の隣に住む会社員で、今朝出勤しようとしたときに扉が少し開いていることへ気づいたという。


「最初は、ゴミ出しでもしているのかと思ったんです」


女性は言った。


「でも、靴はあるのに返事がなくて」


「中を覗かれましたか」


「いえ。最初は声をかけただけです」


女性はそこで言葉を止めた。


指先が、膝の上の布地を強く掴んでいる。


真田は急かさなかった。


「それで、もう一度声をかけたら、扉が少し動いたんです」


「風で?」


「たぶん。廊下に風が入ってきていたので」


女性は目を伏せた。


「少し開いたところから、奥に倒れている人の足が見えて」


真田は手帳を持ったまま待った。


「呼んでも返事がなくて。どうしていいか分からなくなって、管理人さんへ電話しました」


「その後、警察へ通報されたんですね」


女性は頷いた。


「はい」


真田は時刻を確認した。


女性が最初に扉を見たのは午前七時五十分頃。


通報はその数分後だった。


「昨夜、何か音は聞こえませんでしたか」


女性はしばらく考えた。


「何かが落ちるような音は、した気がします」


「何時頃でしょう」


「夕飯を片づけていたときです。七時半を過ぎていたと思いますけど、時計は見ていません」


真田のペンが止まった。


「どんな音でしたか」


「重いものが床へ当たったみたいな。ごとん、という感じです」


女性は掌を少し持ち上げ、何かが落ちる動きを示した。


「一度だけでした?」


「はっきり覚えているのは、一度です」


「悲鳴や言い争う声は?」


「それは聞いていません」


女性は首を横に振った。


「でも、テレビをつけていたので。小さい音なら分からなかったと思います」


真田は頷いた。


聞こえなかったことを、何もなかった証拠にはできない。


「ほかに、気になることはありましたか」


女性は少し迷った。


「誰かと話しているような声がしたかもしれません」


「何人くらいですか」


「そこまでは分かりません。長峰さんはテレビの音が大きいこともあったので、テレビだったのかもしれないです」


「声の内容は?」


「聞き取れませんでした」


真田は、女性の表情を見た。


自信のない記憶を、無理に確かな話へ変えようとしていない。


それは助かった。


「ありがとうございます。思い出せないことは、そのままで大丈夫です」


女性は頷いた。


「長峰さん、亡くなったんですよね」


真田は少しだけ間を置いた。


「はい」


女性は唇を噛んだ。


「昨日まで普通に挨拶してたのに」


真田は返す言葉を探したが、何も付け加えなかった。


女性が見た長峰と、自分が昨日電話で話した長峰は、同じ人間だった。


その二つの時間の間に、何があったのか。


それを確かめるのが、今の仕事だった。


     ◇


午前十時十二分。


真田は長峰のリビングへ戻った。


予定していた面談の時刻を、十二分過ぎていた。


本来なら今頃、警察署の面談室で向かい合っていたはずだった。


事故当時の判断を聞く。


停止要請の扱いを確かめる。


長峰が持っているという資料について説明してもらう。


真田はそのために、昨夜から質問を用意していた。


しかし長峰は、もう答えられない。


室内では鑑識の作業が進んでいた。


散らばった紙の位置を記録し、一枚ずつ写真を撮っている。


真田は書棚の前に立った。


退職祝いの記念品の横に、小さな額が置かれていた。


古い写真だった。


配送センターの建物を背景に、十数人の社員が並んでいる。


その中に、若い頃の長峰がいた。


今より髪が黒く、肩を張って立っている。


顔つきはずいぶん違う。


それでも、笑うときの口元だけは覚えのある形だった。


真田は額から目を離した。


「机の上の資料は?」


近くにいた担当者へ尋ねる。


「事故当時の報告書の写しと、本人が書いたと思われるメモがあります。これから内容を確認します」


「分かりました」


真田はテーブルを見た。


紙の端には、手書きの文字が見える。


『停止の判断』


その下に、もう一行。


『現場からの報告』


さらに下には、書きかけの文章があった。


『責任者として』


そこで途切れている。


長峰は、明日の警察への説明を準備していたのだろうか。


それとも、以前から自分の判断について考えていたのか。


分からない。


ただ、彼が何かを書こうとしていたことだけは確かだった。


真田は指先を伸ばしかけ、途中で止めた。


証拠品に触れてはいけない。


見つけた位置のまま、記録してから調べる必要がある。


何年も捜査をしてきた。


それでも、こういう瞬間には同じことを思う。


ほんの少し前まで、誰かがここへ手を置いていた。


この紙を広げ、ペンを持ち、言葉を選んでいた。


今、その続きを本人に尋ねることはできない。


「真田さん」


佐伯が近づいてきた。


「どうしたの」


「長峰さんの携帯電話は確保しました。通信記録の確認を進めます」


「お願い」


「それと、昨夜の篠宮さんからのメールです」


佐伯は印刷した紙を渡した。


真田は目を通した。


『本日19時20分過ぎ、長峰省吾さんから電話がありました』


続いて、事故前から設備の不具合を認識していたこと、稼働継続を自ら判断したことを長峰から聞いたと書かれている。


そして、翌朝十時に直接説明する予定だと。


真田は紙を読み終えた。


「これ、何時に届いていた?」


「昨夜の七時半過ぎです。受付経由で今朝こちらに回されました」


真田は頷いた。


長峰は、警察だけではなく澪にも話していた。


八年前の事故で、自分が何を判断したのか。


明日、説明するつもりだと。


その予定が、ほかの人間にも共有されていた。


「篠宮さんと、もう一度話す必要があるわね」


真田は言った。


佐伯が頷いた。


     ◇


午前十一時三分。


澪は、真田からの電話に出た。


『篠宮さん。警察の真田です』


「はい。お疲れさまです」


澪の声は少し掠れていた。


真田は言葉を選んだ。


「昨夜、長峰さんからお電話があったそうですね」


『はい。メールにも書いたんですけど』


「確認しています。そのことで、もう少し伺いたいことがありまして」


『分かりました』


真田は手元のメモを見た。


「通話が始まった時刻を覚えていますか」


『七時二十一分頃です。着信履歴が残っています』


「終わったのは?」


『七時二十六分です』


「どんなお話でしたか」


澪は一度息を吸った。


それから、ゆっくり答えた。


八年前の事故について。


設備の不具合を知っていたこと。


長峰が稼働を続ける判断をしたこと。


その判断を、明日警察へ話すつもりだということ。


真田は途中で遮らず、一つずつ記録した。


「長峰さんの声や様子に、変わったところはありませんでしたか」


『いつもより落ち着いていたと思います』


「落ち着いていた?」


『はい。以前は、現場には事情があったという説明が多かったんですけど、昨日は自分が判断したって』


澪はそこで少し言葉を切った。


『今まで聞いたことのない話でした』


真田は頷いた。


「通話は、なぜ終わったんでしょう」


電話の向こうが静かになった。


澪はしばらく答えなかった。


『あの』


「はい」


『そのことなんですけど』


澪の声が、少し変わった。


『長峰さんの家に、誰か来たみたいだったんです』


真田はペンを止めた。


「誰かが?」


『はい。電話の途中で、呼び鈴が鳴って』


真田は椅子へ座り直した。


「何時頃でしょう」


『通話が終わる直前です。七時二十五分くらいだったと思います』


「長峰さんは、何とおっしゃいましたか」


『ああ、来たか、って』


真田の指が、ペンを握り直した。


「そう言ったんですね」


『はい。それから、書類の件で誰かが来たようなことを』


「お名前は聞かれましたか」


『いいえ』


返事が早かった。


そして、すぐに澪が続けた。


『すみません。聞いていませんでした』


「謝る必要はありません。覚えていることだけで結構です」


電話の向こうで、小さく息を吐く音がした。


『私、昨日のメールには、そのことを書かなかったんです』


真田は黙って聞いた。


『ただ仕事の資料を確認するだけだと思って。夜だったから少し気にはなったんですけど、事件と関係するなんて』


そこで声が途切れた。


真田は一度目を閉じた。


まだ、長峰の死を伝えていない。


警察がこうして電話している理由を、澪は知らない。


「篠宮さん」


真田は言った。


「落ち着いて聞いてください」


『はい』


「長峰さんが、今朝、ご自宅で亡くなっているのが見つかりました」


受話器の向こうで、何かが落ちる音がした。


小さな物だった。


ペンか、スマートフォンの近くに置いていたものか。


真田には分からなかった。


『……え?』


澪の声が聞こえた。


真田は繰り返した。


「今朝、長峰さんの死亡が確認されました。現在、亡くなられた経緯を調べています」


しばらく、何も聞こえなかった。


通話は続いている。


真田は受話器を耳に当てたまま待った。


やがて、澪が小さく言った。


『昨日、話したばかりなんです』


「はい」


『明日、警察へ行くって』


「その予定は、私も聞いていました」


澪の呼吸が少し速くなった。


『誰か来たんです。呼び鈴が鳴って、長峰さんが出るって』


「分かりました」


『私、誰が来たのか聞けばよかった』


真田はペンを置いた。


「篠宮さん」


『はい』


「今のお話は、とても重要です。ですが、そのときに何を質問するべきだったか、後から分かるものではありません」


澪は返事をしなかった。


真田は続けた。


「長峰さんが来客を待っていたようだということ。その人が書類の件で訪ねてきたらしいこと。今、伺った内容を正確に記録します」


『……はい』


「通話履歴についても、後ほど確認させてください」


『分かりました』


真田は一度、手元の資料を見た。


「最後にもう一つ。長峰さんは、その方を迎えることについて、嫌がっている様子でしたか」


『いえ』


澪はすぐに答えた。


『ああ、来たか、って。待っていたみたいでした』


真田は頷いた。


「ありがとうございます」


通話を終えると、佐伯が顔を上げた。


「何か分かりましたか」


真田は手帳を開いた。


午後七時二十五分頃。


呼び鈴。


予定していたらしい来客。


書類の確認。


訪問者の名前は不明。


「長峰さんは、昨夜誰かを待っていたみたい」


真田は言った。


佐伯が椅子を寄せた。


「誰ですか」


「まだ分からない」


「仕事関係の人間でしょうか」


「その可能性はある。少なくとも、長峰さんは書類の件だと話していたそうよ」


佐伯はメモを取った。


真田は時計を見た。


午前十一時二十六分。


本来なら、長峰との面談は終わりかけている時間だった。


彼は今頃、事故前から設備の不具合を知っていたと話していたはずだった。


稼働を続ける判断をしたと。


その判断について、責任を認めるつもりだった。


しかし、今、その声を聞くことはできない。


真田は手帳の予定欄を開いた。


木曜日、午前十時。


長峰省吾。


その名前の横には、昨夜書いた小さな印がある。


真田はそれを消さなかった。


かわりに、余白へ一行加えた。


『前夜19時25分頃、来客を迎えようとしていた』


しばらく、その文字を見つめた。


そして、もう一つ書き足す。


『訪問者の身元、未確認』


     ◇


午後零時過ぎ。


真田は再び、長峰の部屋に立っていた。


リビングの窓から差し込む光は、朝よりも強くなっている。


カーテンの隙間にできた白い帯が床を横切り、その端が書棚の下へ伸びていた。


真田は机の上の書類を見た。


八年前の事故報告書。


現場からの不具合報告について書かれたメモ。


そして、書きかけの一文。


『責任者として』


その言葉の後には、何も続いていない。


三宅尚人は、事故の記録を確かめようとして亡くなった。


長峰省吾は、当時の判断について話すつもりで亡くなった。


二人の死に関係があるとすれば、何が共通していたのだろう。


過去の事故に関わっていたことか。


古い書類を調べていたことか。


それとも、誰かに何かを伝えようとしていたことか。


真田は窓へ近づいた。


マンションの駐車場が見える。


車が一台出ていき、空いた場所へ隣の建物の影が落ちていた。


昨夜、この建物を訪ねた人物がいた。


長峰はその相手を待っていたらしい。


その訪問が死と関係しているのか、今はまだ確定できない。


けれど、調べるべき時刻は分かった。


午後七時二十五分。


そして、少なくともその直後までの人の出入り。


真田は振り返った。


「佐伯くん」


「はい」


「マンションの出入りについて、昨夜の七時から九時までを重点的に確認して」


「分かりました」


「カメラの映像だけじゃなく、オートロックの記録や周辺の車の動きも。映像が残っていない場合は、代わりに確認できるものを探しましょう」


佐伯が頷いた。


真田はもう一度、書きかけのメモを見た。


長峰は、何かを話すつもりだった。


その約束は、守られなかった。


誰が来たのか。


何を話したのか。


そして、長峰が警察へ説明しようとしていた内容を、その訪問者は知っていたのか。


真田は手帳を閉じた。


昨日まで、八年前の事故は過去の出来事だった。


今は違う。


その事故について話そうとした人間が、二人続けて亡くなっている。


それでも、真田はまだ二つの死を同じ人物の犯行だとは決めなかった。


結びつけるための証拠が必要だった。


誰かがそう考えたというだけでは、足りない。


ただ、二人とも言葉を残そうとしていた。


その言葉が誰に向けられていたのか。


何を明らかにしようとしていたのか。


そこから先は、必ず確かめなければならなかった。


真田は部屋を出た。


廊下には冷たい風が流れ、遠くでエレベーターの到着音が鳴った。


もう一度、時計を見る。


午後零時二十一分。


長峰が警察へ来るはずだった時間は、とうに過ぎていた。


それでも真田は、手帳に書かれた午前十時の予定を消さなかった。


消してしまえば、彼がそこへ来ようとしていたことまで、なくなってしまうような気がした。


そんなことはないと、分かっていた。


記録を消しても、起きたことは変わらない。


だからこそ、残さなければならない。


長峰が話そうとしていたことも。


その前夜に、誰かが訪ねてきたことも。


まだ名前の分からない、その人物の存在も。


真田は手帳を鞄へしまい、現場を後にした。

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