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殺意アレルギー  作者: asnt2026


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30/30

第30話 知っていたはずのこと

木曜日、午前十一時三十二分。


篠宮澪は、電話を切った後もスマートフォンを握りしめていた。


真田から聞いた言葉が、頭の中で何度も繰り返される。


長峰省吾が亡くなった。


今朝、自宅で発見された。


昨夜、自分と話したばかりだった。


事故の前から設備の不具合を知っていたことも、それでも稼働を続ける判断をしたことも、長峰は自分の言葉で説明してくれた。


明日は警察で話すと約束していた。


その明日が、今日だった。


澪は机の上の時計を見た。


午前十一時三十二分。


何度確かめても、昨日へ戻ることはできなかった。


総務部では、普段どおり仕事が続いている。


電話を取る声やコピー機の動く音、誰かが小森に伝票の場所を尋ねる声が聞こえてくる。窓の外には雲の切れ間から薄い日差しが落ち、隣のビルの壁を不規則に照らしていた。室内には紙とトナーの匂いが漂い、空調の乾いた風が頬の横を通り過ぎていく。


澪は右手を開いた。


掌には、スマートフォンの縁を押しつけていた跡が残っている。


昨夜、長峰から電話があった。


七時二十一分。


話が終わったのは七時二十六分。


途中で呼び鈴が鳴った。


一度目の音がして、長峰が「ああ、来たか」と言った。


その後、もう一度短い音が聞こえた。


誰かが訪ねてきた。


仕事の書類について確認したいことがあると、長峰は話していた。


澪は何も疑わなかった。


夜に仕事の関係者が訪ねてくることは、少し変わっていると思った。それでも事故の調査が進み、退職を控えた長峰には確認したいことがいくつもあるのだろうと考えた。


だから、誰が来たのか聞かなかった。


長峰が電話を切った後、その相手と何を話すのかも考えなかった。


真田に伝えたのは今朝になってからだ。


澪は自分の左腕へ目を向けた。


昨日の発作でできた赤みは、まだ薄く残っている。


午後二時十八分。


その時刻が浮かんだ。


会議室Bで航と向かい合っていた。


彼は三宅尚人との関係について、自分へ話していなかったことを打ち明けようとしていた。


その途中で、発作が起きた。


左手首が熱くなり、首筋へかゆみが広がった。


誰かの殺意を感じた。


そう思った。


そして、その日の夜に長峰が亡くなった。


澪は机の端を掴んだ。


二つの出来事を結びつけようとする考えが、何度も浮かんでくる。


けれど、それが正しいのかは分からない。


自分が感じたのは、誰かが誰かを殺そうとする意思だったはずだ。


その相手が長峰だったのかどうかは、身体の反応からは分からない。


それに、長峰が亡くなった経緯も、まだ明らかになっていない。


それでも澪は、昨日の午後に感じた皮膚の熱を思い出さずにはいられなかった。


あのとき、何かできたのだろうか。


誰かに声をかけていれば。


警察へ連絡していれば。


そこまで考えて、澪は目を閉じた。


誰に何を伝えるつもりだったのか。


自分でも分からない。


ただ、今朝まで生きていると思っていた人が亡くなり、その前日に自分の身体が異常を知らせていた。


その二つを別々のこととして受け止めるには、まだ時間が必要だった。


「篠宮さん」


小森の声がした。


澪は顔を上げた。


「はい」


「大丈夫ですか。さっきから、ずっと画面が変わってないので」


小森は机の横へ立ち、澪の顔を覗き込んだ。


「また体調、悪いですか」


澪はすぐに答えられなかった。


小森の視線が左腕へ移る。


「昨日の発作、まだ治ってないんですね」


「それもあるんだけど」


澪はスマートフォンを机へ置いた。


何をどこまで話していいのか分からなかった。


真田から聞いたことを、勝手に社内へ広めてよいとは思えない。


一方で、長峰が亡くなったことは、いずれ会社にも伝わるだろう。


「ちょっと、警察から連絡があって」


澪は言った。


小森の表情が変わった。


「三宅さんの事件ですか」


「八年前の事故に関係することで、確認したいことがあるみたい」


嘘ではなかった。


ただ、すべてを話したわけでもない。


小森は少し考えた後、頷いた。


「何か仕事、代わりましょうか」


澪は顔を上げた。


「いいの?」


「はい。今日の勤怠の確認なら、私でもできますし」


「助かる」


「じゃあ、急ぎの分は私が見ておきますね」


小森は軽く頭を下げた。


いつもなら、ここで何か余計なことを言う。


今日はコーヒーをこぼさなかったとか、自分はやればできる人間なのだとか。


けれど、何も言わずに自分の席へ戻っていった。


澪はその背中を見送った。


一緒に働いている人間は、相手が何を考えているのかをすべて知っているわけではない。


それでも、何も聞かずに仕事を引き受けてくれることがある。


澪は自分の指先を見た。


八年前、紗江が停止要請を持ってきたとき。


自分も、あの人が何を考えていたのかまでは知らなかった。


ただ、急いでいることは分かっていた。


だから本当は、もう少し聞くことができたのかもしれない。


澪は椅子を引いた。


これ以上、同じことを繰り返したくなかった。


今度は、確認できることを自分から伝えよう。


そう決めた。


     ◇


午後零時五十八分。


総務部の空気が変わったのは、久我千晴が戻ってきたときだった。


会議室から出てきた久我は、自席へ戻る前に何人かの社員を呼んだ。


「少しだけ、手を止めてもらっていい?」


いつもより低い声だった。


近くの席から人が集まる。


澪も椅子から立ち上がった。


久我は手元の紙を一度確認してから、顔を上げた。


「長峰さんが、今朝ご自宅で亡くなられたそうです」


誰かが短く息を呑んだ。


小森が、持っていたボールペンを落とした。


床を転がったペンが机の脚へ当たり、乾いた音を立てる。


誰も拾わなかった。


久我は続けた。


「詳しい状況については警察が確認されています。会社としても必要な協力を行いますので、問い合わせがあった場合は総務課の窓口へ連絡してください」


「事故ですか?」


男性社員が尋ねた。


久我は首を横に振った。


「まだ分かりません。確認されていない話を社内外へ広めることは控えてください」


「でも、三宅さんも亡くなったばかりですよね」


別の社員が言った。


久我はその人へ顔を向けた。


「その二つに関係があるかどうかも分かっていません」


口調は穏やかだったが、はっきりしていた。


「憶測で誰かの名前を出すことはしないでください。長峰さんのご家族にも関わることです」


社員たちは頷いた。


久我は全員を見渡した。


「業務の引き継ぎについては、今日中に別途連絡します。急なことで申し訳ないけど、必要な対応をお願いします」


短い説明だった。


それだけで終わった。


社員たちは少しずつ自席へ戻っていった。


澪はその場に残った。


久我が机の上へ紙を置き、深く息を吐く。


いつもきれいに揃えている書類が、今日は少しだけずれていた。


「課長」


澪が声をかけると、久我は顔を上げた。


「篠宮さん。大丈夫?」


「はい」


「体調のこともあるし、無理はしないで」


澪は頷いた。


「実は、長峰さんから昨夜電話があったんです」


久我の手が止まった。


「昨夜?」


「はい。事故について、明日警察で話すとおっしゃっていました」


久我は少し眉を寄せた。


「そうだったの」


「事故の前から設備に問題があることを知っていたと。稼働を続ける判断をしたことも、説明すると」


久我は答えなかった。


澪は続きを待った。


「その話は、警察にも伝えた?」


しばらくして、久我が尋ねた。


「はい。昨夜メールを送って、今朝も電話で確認していただきました」


「そう」


久我は頷いた。


そのまま机の上の書類へ目を戻す。


澪は少し迷った。


今ここで、久我へ何を聞くべきなのだろう。


八年前の事故報告書について。


長峰が昨日話したことについて。


久我も当時、何を知っていたのだろう。


けれど今は、長峰の死について会社の対応を進めなければならない時間だった。


澪が口を開きかけると、久我の内線が鳴った。


久我は画面を確認した。


「ごめん。先にこれだけ出るね」


「はい」


澪は一歩下がった。


久我は受話器を取り、いつものように名乗った。


「総務の久我です」


その声は落ち着いていた。


澪は自席へ戻りながら、背後の会話を聞かないようにした。


久我は仕事を続けている。


長峰が亡くなったことを社員へ説明し、必要な対応を指示している。


誰かが亡くなっても、会社の仕事は止まらない。


八年前もそうだった。


紗江が亡くなった後、総務部はいつものように動いていた。


申請が届き、電話が鳴り、書類が回された。


そのことを思い出し、澪は足を止めた。


止まらないことと、止めなくていいことは違う。


長峰は昨日、そういう話をしていたのではなかったか。


     ◇


午後三時十七分。


澪は警察署の面談室で、紺色のノートを膝に載せていた。


真田はテーブルの向こうに座り、佐伯が少し離れた席で記録を取っている。


澪から改めて話したいことがあると伝えたところ、当日の面談を調整してもらえた。


「お仕事を抜けていただいて、すみません」


真田が言った。


「いえ。私からお願いしたので」


澪は首を横に振った。


室内は少し寒かった。


窓の外は曇り空で、隣の建物の壁に反射した光が机の端をぼんやり照らしている。空調から乾いた風が流れ、テーブルの上には古い紙と消毒液の匂いが残っていた。


真田は澪が持っているノートへ目を向けた。


「それが、以前お話しされていた体調の記録ですか」


「はい」


澪は頷いた。


「病院へ行くときに、いつどんな症状が出たのか説明できるように書いています」


「拝見しても?」


「はい。ただ、その前に一つお話ししたいことがあって」


真田は手を止めた。


「どうぞ」


澪はノートを開いた。


一番新しいページ。


昨日の日付が書かれている。


水曜日。


十四時十八分。


左手首に発疹。


首筋にかゆみ。


呼吸症状なし。


その下に、会議室Bと第二書庫の記録が並んでいた。


澪はそのページを見せた。


真田は一度目を通した後、顔を上げた。


「昨日の午後に発作があったんですね」


「はい」


「病院へは?」


「以前処方された薬を飲みました。呼吸は問題なかったので、昨日は受診していません」


「その後の経過は記録されていますか」


「はい。今朝の状態も書いてあります」


真田は頷いた。


「それで、この発作についてお話ししたいことがあると」


澪は指を組み直した。


「変な話だと思われるかもしれません」


「まずは聞かせてください」


真田の声は、以前と変わらなかった。


澪はノートの端を押さえた。


何度も考えたことだった。


航へ話そうとして、やめた。


昔、医師へ説明しようとして、うまく言えなかったこともある。


自分自身でさえ確かめられないことを、他人にどう話せばいいのか分からなかった。


それでも、今日はここへ来た。


長峰が亡くなったからだ。


そして、昨日の自分が何を感じたのかを、もう隠したくなかった。


「私、昔から原因の分からない発作があるんです」


澪は言った。


「蕁麻疹のような症状が急に出ることがあって。ひどいときは腫れたり、息苦しくなったりもします」


「はい」


「病院でも、はっきりした原因は分かっていません」


真田は黙って聞いている。


澪は息を吸った。


「ただ、私には、ある条件で起きるように思えるんです」


「どのような条件でしょう」


澪は真田の顔を見た。


「近くに、誰かを殺そうとしている人がいるときです」


佐伯のペンが止まった。


真田は表情を変えなかった。


澪は続けた。


「私がそう思っているというだけです。医学的に証明されたわけではありません」


真田は頷いた。


「どうして、そう考えるようになったんでしょう」


澪は少しだけ肩の力を抜いた。


笑われなかった。


それだけで、次の言葉が出やすくなった。


「子どもの頃から、何度かそういう経験があって。後になって近くで事件があったと知ったこともあります」


「その事件と症状の関係は、確認できていますか」


「いいえ」


澪は首を横に振った。


「偶然だったかもしれません。ただ、怒っている人の近くにいるだけでは起きないんです。逆に、何も起きていないような場所で突然症状が出ることがあります」


真田はノートへ視線を落とした。


「篠宮さんは、今までの経験から、殺意のようなものと関係があると考えているんですね」


「はい」


「では、その症状が出ると、誰が誰を殺そうとしているのか分かるんですか」


「分かりません」


澪は答えた。


「近くにいるという感覚だけです。壁の向こうに誰かがいても、反応する可能性があると思っています」


「実際に、壁の向こうにいる人物が原因だと確認できたことは?」


「ありません」


澪はノートを見た。


「自分の経験から、そういう可能性もあると考えているだけです」


真田は少し考えた。


「分かりました」


佐伯が顔を上げた。


真田は澪へ向き直った。


「今のお話について、警察がそのまま殺意を感知できる能力として扱うことはできません」


「はい」


「ただ、篠宮さんが実際に症状を経験したことや、その時刻を記録していたことは別です。そこは確認できます」


澪は頷いた。


「分かっています」


「そのうえで、昨日の発作が気になっているんですね」


「はい」


澪はノートの新しいページを開いた。


十四時十八分。


その数字を指で押さえる。


「昨日、会議室で高瀬航さんと打ち合わせをしていました」


真田の視線が動いた。


「高瀬さんと?」


「はい。旧配送センターの資料について、正式な閲覧手続きを確認するためです」


「どなたが予約を?」


「私です」


澪は続けた。


「午後二時五分頃から話していて、二時十八分頃に発作が出ました」


真田は記録を取った。


「そのとき、室内には?」


「航と私だけでした」


「ほかに人が入ったり、出たりは?」


「ありません」


真田は頷いた。


「ただ」


澪は言った。


「会議室の隣に第二書庫があるんです」


真田は顔を上げた。


「第二書庫?」


「はい。壁一枚を挟んでいて、会議室から中は見えません」


「そこに、誰かいたんですか」


澪は頷いた。


「利用確認簿に、久我課長の名前がありました」


真田のペンが止まった。


澪は続けた。


「入室が十四時十四分。退出が十四時三十五分です」


真田は一度、佐伯へ目を向けた。


佐伯が頷いた。


「その記録は、会社から提出されています」


澪は少し驚いた。


「もう確認されていたんですか」


「はい。旧センターの保全資料について、誰がいつ扱っていたかを確認しています」


真田は澪へ向き直った。


「その記録と発作の時刻が重なっていることを、気にされているんですね」


「はい」


澪は答えた。


「会議室にいた航が原因だったかもしれません。でも、隣の書庫にいた久我課長だった可能性もあると思ったんです」


言い終えた途端、自分の声が少し大きかったように感じた。


真田は何も言わなかった。


澪は慌てて続けた。


「もちろん、どちらかが殺意を抱いていたと決めつけているわけではありません。近くにほかの人がいた可能性もありますし、そもそも発作と事件が関係しているかどうかも」


「分かりました」


真田は静かに言った。


「今、篠宮さんが確認できているのは、発作が起きたことと、その時間帯に高瀬さんと会議室にいたこと。それから、久我さんの書庫利用記録があることですね」


「はい」


「その三つを、現時点では別々の事実として記録します」


澪は頷いた。


胸の奥にあった何かが、少しだけ緩んだ気がした。


真田はノートへ視線を落とした。


「それにしても、ずいぶん細かく記録されていますね」


「病院で説明するとき、いつも曖昧になってしまうので」


「なるほど」


「あと、後になって事件のことを知ると、記憶が変わってしまう気がして」


真田は顔を上げた。


「どういうことでしょう」


澪は少し迷った。


「例えば、ある日に発作が出たとします。その後で近くに事件があったと知ると、最初から事件に関係していたように思えてしまうことがあるんです」


真田は黙っていた。


「だから、症状が出た時点で分かっていたことと、後から知ったことを分けて書いています」


真田はノートの欄を見た。


日付。


時刻。


症状。


その場で確認した事実。


後から判明した情報。


推測。


それぞれが別の場所に書かれていた。


「よく整理されていますね」


真田は言った。


澪は首を横に振った。


「整理していないと、何が本当だったのか分からなくなるので」


真田は一度、ペンを置いた。


「篠宮さん。このノートには、ほかの日の記録もあるんですね」


「はい」


「三宅さんが亡くなった金曜日の記録も?」


澪は息を止めた。


送別会。


午後八時十二分。


突然始まった発作。


その後、三宅尚人が亡くなったと知った。


「あります」


澪は答えた。


真田は少し間を置いた。


「その部分も、確認させていただけますか」


澪はノートの表紙を見た。


古い紺色の布が、指で触れるうちに少し擦れている。


自分だけが知っていたこと。


何年も、誰にも見せなかった記録。


そこには、身体に起きたことだけでなく、自分が誰を疑ったかも書かれている。


送別会の出席者。


三宅の死亡時刻。


会社へ戻った時間。


そして、何も確かめられなかった夜のこと。


澪はノートを開いた。


金曜日のページを探す。


指先が少し震えていた。


「はい」


澪は答えた。


「ただ、私の推測も書いてあります。そこは事実とは分けて見てください」


真田は頷いた。


「もちろんです」


澪はノートをテーブルの中央へ置いた。


     ◇


午後四時五十二分。


警察署を出ると、外はもう夕方の色になっていた。


澪は建物の前で足を止めた。


面談は、予定より長くなった。


真田はノートの必要な部分を確認し、澪の同意を得て写しを取った。


元のノートは返された。


紺色の表紙は、今も澪のバッグに入っている。


ただ、自分だけのものではなくなった。


書いた言葉が、警察の記録として残った。


送別会の午後八時十二分。


会議室の午後二時十八分。


二つの時刻が、別々の事件の資料と並ぶことになる。


澪はそれを考えながら歩き始めた。


今まで、このノートは自分を守るためのものだった。


何が起きたのか分からなくなったとき、そこに書かれた時刻を確かめる。


自分が見たことと、後から知ったことを分ける。


そうすれば、少なくとも何を思い込んでいるのかは分かると思っていた。


けれど、ほかの人間が同じ記録を読んだら、どう受け取るのだろう。


真田は、二つの発作の時刻を何度か確認していた。


三宅が亡くなった夜。


長峰が亡くなる前日。


澪は、その両方で皮膚に異常が起きたと記録している。


偶然かもしれない。


本人には、特別な理由があるように思えているだけかもしれない。


それでも、知らない人が読めば、なぜそんな時刻を残していたのかと考えるだろう。


澪はバッグの持ち手を握り直した。


記録を渡さなければよかったとは思わない。


少なくとも今は。


ただ、これからどんな質問をされるのかは分からなくなった。


そのとき、スマートフォンが震えた。


航からだった。


『体調、大丈夫? 会社で長峰さんのこと聞いた』


澪は歩道の端で足を止めた。


しばらく画面を見つめる。


航にも、昨日の発作を見られている。


彼は自分を心配してくれた。


薬を取り出すのを手伝い、水を差し出し、帰れるかどうか何度も確認した。


その行動が、嘘だったとは思わない。


けれど、三宅の調査について隠していたことも事実だった。


そして、昨日の打ち合わせでは、まだ話していないことがあると言った。


澪はメッセージを開いた。


『発作は落ち着いてきた。ありがとう』


少し考えて、続きを入力する。


『昨日、途中で終わった話の続きを聞きたい』


送信した。


返事はすぐには来なかった。


澪はスマートフォンをしまい、駅へ向かった。


交差点の信号が赤に変わり、歩行者が足を止める。


隣に立った高校生が、友達と笑いながらスマートフォンの画面を見せ合っていた。


少し先では、買い物袋を持った女性が子どもの手を引いている。


誰も、澪の左腕を気にしていなかった。


誰も、今朝亡くなった長峰が何を話そうとしていたか知らない。


そんな当たり前のことが、今日は不思議に感じられた。


     ◇


午後七時八分。


澪は自宅のテーブルへ紺色のノートを置いた。


夕飯は帰りに買ってきた弁当だった。


蓋を開けると、まだ少し温かい湯気が上がる。


電子レンジで温め直そうか迷ったが、そのまま食べることにした。


窓の外では細い雨が降り始めている。


街灯に照らされた雨粒が、暗い道路へ斜めに落ちていく。室内には弁当の甘辛い醤油の匂いと、洗濯物から残った柔軟剤の香りが混ざっていた。


澪は箸を持った。


けれど、すぐに置いた。


机の上のノートが気になった。


警察で確認してもらったとき、真田はそこに書かれた内容を否定しなかった。


信じたとも言わなかった。


ただ、何が確認できていて、何が本人の解釈なのかを分けていた。


それは、澪がずっと自分に言い聞かせてきたことと同じだった。


しかし、同じように区別していても、今夜の自分には一つだけ整理できないことがあった。


もし昨日の発作が、長峰を殺そうとする誰かの意思に反応したものだったなら。


その人間は、午後二時十八分頃には、もう長峰を殺そうと考えていたことになる。


長峰が亡くなったのは、その日の夜だった。


昼間から夜までの間に、何があったのだろう。


その考えが正しければ、誰かが長峰を殺そうと決めた後、実際に会いに行ったのかもしれない。


けれど、そうだったと確認できたわけではない。


午後二時十八分の殺意が、そもそも長峰へ向けられていたのかどうかさえ分からない。


澪は箸を持ち直した。


一口食べる。


味は分かった。


少し濃い醤油と、冷めかけたご飯。


それでも、何を食べているのか考える余裕がなかった。


スマートフォンが震えた。


航からの返信だった。


『分かった。明日、時間を作る』


澪は画面を見つめた。


すぐにもう一通届く。


『今度は、途中で終わらせたくない』


澪は箸を置いた。


何を話すつもりなのだろう。


三宅が残した資料について、まだ知らないことがあるのか。


八年前の事故について、何か別の記録を見ていたのか。


それとも、もっと個人的な理由があるのだろうか。


澪には分からなかった。


ただ、明日こそ話を聞こうと思った。


航が何を言うのか。


自分がそれを聞いて、どう思うのか。


そこまでは予測できない。


それでも、知らないままにしておくことは、もうできなかった。


澪は『分かった』と返信した。


それからスマートフォンを伏せ、ノートへ目を向けた。


紺色の表紙の下には、自分が何年も書き続けてきた記録がある。


誰かの殺意に反応していると信じてきた身体。


その反応から、何度も間違った結論を出しかけた自分。


そして、今まで言えなかったこと。


澪はノートを開いた。


最後のページに、今日の日付を書いた。


『長峰省吾さんが死亡』


一度ペンを止める。


その下へ、もう一行加えた。


『昨日の発作との関連は不明』


書き終えた文字を見つめた。


二つの出来事を結びつけたい気持ちは、消えなかった。


結びつけなければ、何も分からない気がした。


けれど、無理に結びつければ、また誰かを間違って疑うかもしれない。


澪はノートを閉じた。


明日、航と話す。


その前に、もう一つ確かめたいことがあった。


三宅が亡くなった夜、自分が感じた殺意について。


あの送別会にいた十二人のことを、まだ十分に考えたわけではない。


結城晴臣。


長峰省吾。


久我千晴。


そして、自分。


澪は机の上に置いたスマートフォンを見た。


長峰が亡くなったことで、八年前の事故について答えられる人間が一人減った。


三宅も、もういない。


残された記録だけで、どこまで分かるのだろう。


澪は立ち上がり、弁当の蓋を閉じた。


窓の外では雨が少し強くなり、街灯の光が道路の上で滲んでいた。


明日になれば、何かが分かるかもしれない。


けれど、何も分からないまま、また一日が過ぎるかもしれない。


それでも、今度は確かめることをやめたくなかった。


そう思いながら、澪は紺色のノートを引き出しへしまった。


机の上には、まだ温かさの残る弁当だけが置かれていた。

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