第8話 二十二時四十一分
「この時間に間違いありませんか」
真田亜紀が訊くと、向かいの男性はスマートフォンを持ち直した。
「はい。金曜日の夜です。仕事が終わって、家でテレビを見ていましたから」
画面には短いメッセージが表示されていた。
午後十時四十一分。
差出人は三宅尚人。
『担当者との確認がまだ終わらない。明日の件は予定どおりで』
それだけだった。
真田は画面から目を離し、男性を見た。
「三宅さんからは、普段もこういう連絡が来ていたんですか」
「いや、そんなに頻繁じゃありません。昔の同僚ですけど、今は別の仕事をしていますし」
男性は牧野修司と名乗った。
四十八歳。
三宅が内部監査を担当していた頃、同じ部署で働いていたという。
以前、三宅が古い死亡事故の記録を気にしていたと話してくれた人物だった。
水曜日の午後。
警察署の面談室には、曇り空から薄い光が差し込んでいた。窓枠の近くに置かれた観葉植物の葉が黄色くなりかけていて、古い空調から流れる乾いた風に微かに揺れている。
机の上には紙コップの茶が二つ。
牧野はまだ一口も飲んでいなかった。
「明日の件というのは?」
真田が尋ねた。
「土曜日に、昔の事故資料のことを少し話す約束をしていたんです」
「お二人だけで?」
「最初はそのつもりでした。ただ、三宅は資料を確認してからにしたいと言っていました」
「その資料を、牧野さんも見る予定だったんですか」
「ええ。私が覚えていることと照らしたいからって」
牧野はスマートフォンを机に置いた。
画面が暗くなり、天井の照明がそこへ白い四角形を映した。
「三宅は、昔から仕事が丁寧な男でした。何でもすぐに結論を出すタイプじゃない。こちらが『もういいんじゃないか』と言っても、資料をもう一度見てからにしようって」
「今回も、そうだったんでしょうか」
「たぶん」
牧野は少し声を落とした。
「でも、あの日はいつもより急いでいる感じがしました」
真田はペンを止めた。
「どういうところが?」
「確認できたら、翌日には動きたいと言っていたんです。事故の遺族へ資料を見せることも考えているようでした」
「遺族へ?」
「はい。ただ、まだ確かじゃないものを見せるわけにはいかないからって」
牧野は膝の上で指を組んだ。
「今思えば、あれが最後の連絡だったんですね」
真田は頷いた。
三宅は八年前の事故を調べていた。
そのこと自体は、すでに複数の証言から確認できている。
しかし、このメッセージは少し違う。
金曜日の午後十時四十一分。
死の直前に近い時間帯まで、三宅が何かを確認しようとしていたことを示している。
ただし、メッセージにある担当者が誰なのかは分からない。
三宅がその人物と一緒にいたとも限らない。
電話で話していた可能性もある。
真田は手帳に時刻を書いた。
二十二時四十一分。
数字の下に、細い線を一本引く。
「この連絡には返信されたんですか」
「ええ。『分かった。無理するなよ』と」
「三宅さんから、その後何か?」
「ありません」
牧野は俯いた。
「土曜日になっても連絡がなくて、変だなとは思ったんです。でも、資料の整理で遅くなったのかもしれないし、あいつ、集中すると周りが見えなくなるところがあったんで」
真田は次の質問を急がなかった。
牧野の親指が、スマートフォンの角を何度も撫でている。
爪の先が保護ケースに当たり、小さな音を立てていた。
しばらくして、牧野が顔を上げた。
「事故じゃないんでしょうか」
真田は答える前に、机の上の資料へ視線を落とした。
「まだ調べているところです」
「そうですか」
「何か分かったことがあれば、ご連絡します」
牧野は頷いた。
その表情を見ていると、真田は少しだけ言葉を足したくなった。
何も分からないままにしておくつもりはありません、と。
けれど、それは今の段階で約束できることではなかった。
真田は礼を述べ、面談を終えた。
「二十二時四十一分ですか」
捜査本部へ戻ると、佐伯が資料を覗き込んだ。
「三宅さん、ずいぶん遅くまで誰かと話していたんですね」
「そうとは限らないわ」
真田は上着を椅子に掛けた。
「メッセージを送っただけかもしれないし、電話で確認していたのかもしれない」
「でも、少なくともその時間には生きていた」
「本人が送ったことを確認できればね」
「端末の記録も照会中です」
「その結果と合わせましょう」
佐伯は頷き、手帳に書き込んだ。
机の上には、三宅の所持品の写真が並んでいる。
黒いビジネスバッグ。
透明ファイル。
スマートフォン。
財布。
真田はそのうち、透明ファイルの写真を持ち上げた。
「牧野さんとの約束に持っていくつもりだった資料は、何だったんでしょうね」
佐伯が言った。
「受付記録か、事故報告書か。それとも別のものか」
「三宅さんが何を持っていたか、まだ分からないのよね」
「はい。鞄の中のファイルは空でした」
真田は写真を机へ戻した。
今のところ、書類が盗まれたと断定できる証拠はない。
三宅が最初から何も入れていなかった可能性もある。
ただ、翌日に資料を見せる約束をしていた人物が、夜遅くまで担当者との確認を続けていた。
その事実を考えると、ファイルの空白が少し気になった。
「旧センターの出入りについては?」
「作業関係者の一覧を確認しています。施設の裏手は道路側からも近づけるので、入館記録だけで全員を把握するのは難しそうです」
「照明は?」
「管理人の話では、夜間も点灯するはずですが、一部の照明は交換待ちだったそうです」
「そう」
真田は現場写真を開いた。
七段の階段。
右側の手すり。
コンクリートの壁。
踊り場から道路へ抜ける細い通路。
昼間は何の変哲もない場所だった。
しかし、夜になれば足元の段差が見えにくくなる。
酒を飲んでいたり、急いでいたりすれば、転倒することもあるだろう。
それだけなら、事故として説明できる。
問題は、三宅がなぜそこにいたのかだった。
午後四時半。
旧配送センターの現場確認から戻った担当者が、真田へ追加の写真を見せた。
「階段の上の踊り場ですが、雨で流された部分が多く、靴跡ははっきり残っていません」
「そうですか」
「ただ、壁際に衣服が擦れた可能性のある部分があります。採取して確認しています」
「遺体の損傷との関係は?」
「まだ断定できません。転落前に接触したのか、落下中についたのか、その点も調べています」
真田は写真を受け取った。
コンクリートの表面に、薄い擦過痕が見える。
そこから少し離れた場所には、雨の跡がまだ残っていた。
現場に何があったのか。
写真だけでは分からないことが多い。
「爪の付着物については?」
「こちらも鑑定中です。採取したものに皮膚由来の成分が含まれている可能性がありますが、誰のものかはまだ分かりません」
真田は頷いた。
人と争ったのかもしれない。
転落した際に自分の身体を掻いたのかもしれない。
今はまだ、可能性を並べることしかできなかった。
午後五時を過ぎると、署内の窓には夜の色が滲み始めた。
真田は一人で、これまでの資料を整理していた。
三宅が最後に送ったメッセージ。
午後十時四十一分。
担当者との確認がまだ終わらない。
翌日、予定していた資料確認を行うつもりだった。
一方、三宅の死亡推定時刻は金曜日の夜遅くから深夜にかけて。
少なくとも、メッセージが本人から送信されたのであれば、その時点では生きていたことになる。
真田は時計を見た。
八年前の事故を調べていた人物が、古い配送センターの外階段で亡くなっている。
その事故に関する確認は、死の直前まで続いていた。
そこまでは、すべて事実だった。
しかし、確認していた相手が誰なのか。
なぜその時間に旧施設へ向かったのか。
何を持っていたのか。
肝心なところが、まだ空白のままだった。
「真田さん、帰らないんですか」
佐伯が声をかけた。
「もう少し」
「またコーヒーですか」
「今日はやめておく。胃がもたれそう」
「珍しいですね」
「私だって学習するのよ」
佐伯は笑って、先に帰る支度を始めた。
真田は手帳を閉じかけた。
そのとき、机の端に置かれた一枚の資料が目に入った。
朝凪ロジスティクスから提供された、古い保管資料の移管予定表だった。
事故報告書。
設備点検記録。
受付台帳。
現場への伝達記録。
記録の種類ごとに、保管先が分かれている。
真田は最後の項目を見つめた。
現場への伝達記録。
受付した書類が、その後どのように扱われたのかを示すものだろう。
八年前、設備を止めてほしいという要請が出ていた。
その書類は、誰が受け取ったのか。
そして、受け取った後にどうなったのか。
真田は新しい付箋を取り出した。
『事故前の停止要請、現場への伝達状況を確認』
短く書いて、資料の端へ貼る。
メッセージの時刻と、八年前の書類。
その二つがどこでつながるのかは、まだ分からなかった。
ただ、どちらにも共通することが一つある。
誰かが何かを確かめようとしていた。
そして、その確認が終わらないまま、人が死んでいる。
真田は机の明かりを消した。
窓の外では、すっかり暗くなった街を車のヘッドライトが流れていた。
午後十時四十一分。
手帳に残した数字だけが、閉じる直前まで目に残っていた。




