第7話 もう一通の連絡
水曜日の朝、総務部には見慣れない段ボール箱が三つ届いていた。
いずれも使い古されたもので、角を補強した透明なテープが黄ばんでいる。側面には太い黒の油性ペンで管理番号が書かれ、一番上の箱だけ蓋が少し浮いていた。
澪はコートを脱ぎながら、その前で足を止めた。
「これ、何?」
「旧センターの資料です」
小森が机の向こうから答えた。
「昨日の夕方に届いたらしいんですけど、受領処理がまだ終わってなくて。久我課長から午前中に確認するように言われました」
「三箱だけ?」
「今日はこれだけみたいです。まだ別の保管場所にもあるそうですよ」
澪は箱の側面を見た。
旧配送センター。
その文字だけが、周囲のほかの文字より少し濃く見えた。
「中身は?」
「備品関係と施設管理の書類だそうです。三宅さんの件で警察から問い合わせも来てるみたいで、勝手に開けないようにって」
「そうだね。じゃあ、まず受領だけ済ませようか」
「お願いします。私、こういう古い管理番号って苦手で」
「新しい番号なら得意なの?」
「新しいのも苦手です」
「小森さん、苦手なもの多くない?」
「その分、得意なこともありますから」
「例えば?」
「お菓子のおいしいお店を見つけることです」
澪は笑いながら、受領用の端末を開いた。
部屋には朝の空気がまだ残っていた。窓の外は曇っていて、向かいのビルの窓が薄い灰色に光っている。暖房の吹き出し口からは埃が温められたような匂いが漂い、誰かが淹れたコーヒーの香りと混ざっていた。
段ボール箱に貼られた管理票を一枚ずつ確認する。
箱番号。
元の保管場所。
移管予定日。
受領担当者。
印字された数字を入力していると、過去の記録が次々と画面に呼び出された。
八年前にも、似たような作業をしていた。
その頃の澪はまだ、書類に押す受付印の向きを間違えることがあった。斜めになった印影を見て慌てると、隣から久我が「読めれば大丈夫」と笑ってくれたものだった。
そこまで思い出して、澪は入力する手を止めた。
「篠宮さん?」
小森が顔を覗き込んだ。
「どうしました?」
「ううん。なんでもない」
澪は次の番号を入力した。
午前十時過ぎ、久我が会議から戻ってきた。
黒いジャケットの肩に細い糸くずがついていて、片手には社内用のファイルを三冊抱えている。
「おはよう。ごめんね、朝から箱の処理をお願いして」
「もう受領は終わりました。中身はまだ確認してません」
「ありがとう。助かる」
久我は机にファイルを置き、受領一覧を覗き込んだ。
「警察から古い資料について問い合わせが増えてるから、しばらく慌ただしくなるかもしれない。通常業務と重なるところは私が調整するね」
「分かりました」
「あと、旧センター関係は担当者が曖昧になってる資料もあるから、閲覧や持ち出しは記録を残して。あとから誰が何を確認したのか分からなくなると困るから」
「はい」
澪は頷いた。
記録を残す。
そんな当たり前の言葉が、最近は妙に重く感じられる。
金曜日の夜、自分が本社で古い受付履歴を開いたことも残っていた。あれは業務上の問い合わせを受けて行った確認だったが、夜遅く一人で戻った理由を警察へ説明したときには、自分でもずいぶん奇妙な行動だったように思えた。
「そういえば、篠宮さん」
久我が言った。
「三宅さんから、昔の受付記録について連絡をもらってたんだよね」
「はい。金曜日の夕方にメールが来ました」
「内容、警察にはお話しした?」
「聞かれたことは答えました。メールも見てもらっています」
「そう。だったらよかった」
久我はファイルの角を揃えた。
澪はその手元を見ていた。
右手の小さな傷は、薄い赤色になっている。
「課長も、三宅さんから何か聞いていたんですか」
何気なく尋ねたつもりだった。
けれど、久我はすぐには返事をしなかった。
ファイルの一冊を持ち上げ、下になっていた紙を抜いてから顔を上げる。
「私にも連絡はあったよ。古い事故関係の資料について」
澪は瞬きをした。
「そうだったんですか」
「総務で保管してるものもあるからね。担当部署として、どこに何が残っているか確認したいって」
「それで、何か分かったんですか」
「全部はまだ。保管先も分かれてるし、古い書類はすぐに見つからないこともあるから」
久我はそこで小さく息をついた。
「亡くなったって聞いたときは、本当に驚いた。ついこの間まで普通に連絡を取っていたのに」
澪は頷いた。
それは、自分も同じだった。
まだ返事を待っているような気がする。
メールを開けば、三宅から新しい文章が届いているのではないか。記録について少し確認したいだけだったと、いつもの丁寧な言葉で書かれているのではないか。
そんなことを、今朝も一度考えてしまった。
「三宅さん、何か急いでいたんでしょうか」
澪が尋ねると、久我は首を少し傾けた。
「どうだろう。確認したいことがあったのは確かだと思うけど」
「八年前の書類を、今になってですもんね」
「旧センターの資料移管が始まってるから、それがきっかけかもしれないね」
久我はそう言い、腕時計を確かめた。
「ごめん、次の会議があるから。箱の件は午後でも大丈夫。小森さんと二人で無理しないで」
「はい」
「それと、警察からまた連絡が来るかもしれないけど、分かることはそのまま話してくれればいいから」
「分かりました」
久我は軽く手を振って部屋を出ていった。
澪は閉じた扉を見つめた。
三宅は、自分だけに連絡していたわけではなかった。
考えてみれば当然だ。
八年前の書類を調べるなら、当時の担当者にも今の管理者にも問い合わせるだろう。
それなのに、澪はどこかで、自分へ届いたメールを特別なものとして考えていた。
なぜ自分なのか。
なぜ今なのか。
そんなことばかり気にしていた。
小森が段ボールの伝票を一枚持ち上げた。
「篠宮さん、これ、受領欄にもう一つ確認印が必要みたいです」
「どれ?」
「この右下です」
澪は書類を受け取った。
空白になっている小さな四角形。
その隣には、確認者という文字が印刷されている。
「そうだね。これ、久我課長が戻ってからお願いしよう」
「はい」
小森が頷く。
澪は伝票を机の端へ置いた。
書類には、いつも誰かの名前が残る。
誰が受け取ったか。
誰が確認したか。
誰が次の担当者へ渡したか。
その一つ一つが、何年も後になって別の意味を持つことがある。
八年前、自分が押した受付印も、そうだった。
昼休み、澪は社員食堂へ向かわず、近くのコンビニで買ったサンドイッチを休憩室で食べていた。
窓際の席は日当たりが悪く、膝に掛けた薄いブランケットが少しずつずり落ちる。
スマートフォンを取り出し、三宅から届いたメールを開く。
『最初に受け付けたのは篠宮さんだったと記憶していますが、間違いないでしょうか』
丁寧な文章だ。
相手を責めているわけではない。
それでも澪には、その一文が何度読んでも同じように引っかかった。
自分の名前を覚えていた。
八年前の、たった一度の受付業務を。
どうしてだろう。
そのとき、スマートフォンが震えた。
航からだった。
『今日、帰り遅い?』
『今のところ定時。そっちは?』
『こっちも。夕飯どうする?』
澪はサンドイッチを一口かじった。
具材のレタスが少し乾いている。
『温かいものがいい』
『鍋?』
『先週も鍋だった』
『先週はうどん』
『鍋にうどん入れたでしょ』
『じゃあ今日はうどんに鍋を入れる』
澪は口元を押さえた。
向かいの席にいた社員がちらりとこちらを見たので、何でもない顔でスマートフォンを伏せる。
少しして、また通知が来た。
『六時半、駅前で』
澪は『了解』と送った。
それから三宅のメールへ戻る。
画面に並ぶ文字が、さっきより少し小さく見えた。
午後六時半。
航は駅前の書店の前で待っていた。
片手に紙袋を持ち、もう一方の手でスマートフォンを操作している。澪に気づくと画面を消し、顔を上げた。
「お疲れ」
「何買ったの?」
澪は紙袋を指差した。
「本」
「見れば分かる」
「じゃあ聞くなよ」
「ジャンルを聞いてるんです」
「仕事の本。つまらないやつ」
「自分で買っておいて」
航は笑い、紙袋を持ち直した。
二人は駅前の通りを歩き始めた。
雨上がりの歩道には街灯がにじみ、焼き鳥屋の換気口から煙が細く流れている。車が通るたびに湿ったアスファルトの匂いが立ち、風に混じってどこかの店の甘い醤油の香りが漂った。
「今日はどうだった?」
航が訊いた。
「普通。古い資料の受領があったくらい」
「旧センター?」
「うん」
航は少しだけ目を向けた。
「今、あっちの資料は結構動いてるからな」
「情報管理も関わってるの?」
「一部はね。電子化したものの保管先とか、アクセス権の整理とか」
「大変そう」
「まあ、古いシステムは誰が作ったのか分からないものもあるし」
「そういうの、航が直すんでしょ」
「俺が直したものも、何年かしたら誰が作ったか分からなくなるんだろうな」
「その頃には偉くなってるかもよ」
「ないない」
航はすぐに首を振った。
澪は横顔を見た。
少し疲れているようだった。
目の下に薄い影があり、笑うといつもより口元の動きが遅い。
「航こそ、無理してない?」
「してないつもり」
「その返事、信用できないな」
「どこかで聞いたな、それ」
「優秀な医師の受け売りです」
信号が赤になり、二人は立ち止まった。
航が紙袋を持つ手を替える。
澪はその動作を見ながら、昼間の久我の言葉を思い出した。
三宅から、久我にも連絡があった。
そのことを航に話そうとして、口を閉じる。
何でも事件に結びつけるのはよくない。
久我は総務課長だ。
古い資料について問い合わせが来ても、何も不自然ではない。
「どうした?」
航が澪を見た。
「ううん。夕飯、結局何にするのかなと思って」
「まだ決めてなかったの?」
「決めてると思ってた」
「俺も」
二人は顔を見合わせた。
「じゃあ、今日はじゃんけんで決めよう」
澪が言うと、航は呆れたように笑った。
「勝ったほうが決めるの?」
「負けたほう」
「なんで?」
「責任を負っていただくためです」
「それ、勝っても得しないだろ」
「そういう日もあります」
青信号になった。
澪は一歩踏み出し、航の隣を歩いた。
久我にも三宅から連絡があった。
その事実は、澪の頭から消えなかった。
けれど今は、航が夕飯の店を決められずにいることのほうが、少しだけ気になった。
そういう自分が、澪にはありがたかった。




