↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
殺意アレルギー  作者: asnt2026


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
7/30

第7話 もう一通の連絡

水曜日の朝、総務部には見慣れない段ボール箱が三つ届いていた。

いずれも使い古されたもので、角を補強した透明なテープが黄ばんでいる。側面には太い黒の油性ペンで管理番号が書かれ、一番上の箱だけ蓋が少し浮いていた。

澪はコートを脱ぎながら、その前で足を止めた。

「これ、何?」

「旧センターの資料です」

小森が机の向こうから答えた。

「昨日の夕方に届いたらしいんですけど、受領処理がまだ終わってなくて。久我課長から午前中に確認するように言われました」

「三箱だけ?」

「今日はこれだけみたいです。まだ別の保管場所にもあるそうですよ」

澪は箱の側面を見た。

旧配送センター。

その文字だけが、周囲のほかの文字より少し濃く見えた。

「中身は?」

「備品関係と施設管理の書類だそうです。三宅さんの件で警察から問い合わせも来てるみたいで、勝手に開けないようにって」

「そうだね。じゃあ、まず受領だけ済ませようか」

「お願いします。私、こういう古い管理番号って苦手で」

「新しい番号なら得意なの?」

「新しいのも苦手です」

「小森さん、苦手なもの多くない?」

「その分、得意なこともありますから」

「例えば?」

「お菓子のおいしいお店を見つけることです」

澪は笑いながら、受領用の端末を開いた。

部屋には朝の空気がまだ残っていた。窓の外は曇っていて、向かいのビルの窓が薄い灰色に光っている。暖房の吹き出し口からは埃が温められたような匂いが漂い、誰かが淹れたコーヒーの香りと混ざっていた。

段ボール箱に貼られた管理票を一枚ずつ確認する。

箱番号。

元の保管場所。

移管予定日。

受領担当者。

印字された数字を入力していると、過去の記録が次々と画面に呼び出された。

八年前にも、似たような作業をしていた。

その頃の澪はまだ、書類に押す受付印の向きを間違えることがあった。斜めになった印影を見て慌てると、隣から久我が「読めれば大丈夫」と笑ってくれたものだった。

そこまで思い出して、澪は入力する手を止めた。

「篠宮さん?」

小森が顔を覗き込んだ。

「どうしました?」

「ううん。なんでもない」

澪は次の番号を入力した。


午前十時過ぎ、久我が会議から戻ってきた。

黒いジャケットの肩に細い糸くずがついていて、片手には社内用のファイルを三冊抱えている。

「おはよう。ごめんね、朝から箱の処理をお願いして」

「もう受領は終わりました。中身はまだ確認してません」

「ありがとう。助かる」

久我は机にファイルを置き、受領一覧を覗き込んだ。

「警察から古い資料について問い合わせが増えてるから、しばらく慌ただしくなるかもしれない。通常業務と重なるところは私が調整するね」

「分かりました」

「あと、旧センター関係は担当者が曖昧になってる資料もあるから、閲覧や持ち出しは記録を残して。あとから誰が何を確認したのか分からなくなると困るから」

「はい」

澪は頷いた。

記録を残す。

そんな当たり前の言葉が、最近は妙に重く感じられる。

金曜日の夜、自分が本社で古い受付履歴を開いたことも残っていた。あれは業務上の問い合わせを受けて行った確認だったが、夜遅く一人で戻った理由を警察へ説明したときには、自分でもずいぶん奇妙な行動だったように思えた。

「そういえば、篠宮さん」

久我が言った。

「三宅さんから、昔の受付記録について連絡をもらってたんだよね」

「はい。金曜日の夕方にメールが来ました」

「内容、警察にはお話しした?」

「聞かれたことは答えました。メールも見てもらっています」

「そう。だったらよかった」

久我はファイルの角を揃えた。

澪はその手元を見ていた。

右手の小さな傷は、薄い赤色になっている。

「課長も、三宅さんから何か聞いていたんですか」

何気なく尋ねたつもりだった。

けれど、久我はすぐには返事をしなかった。

ファイルの一冊を持ち上げ、下になっていた紙を抜いてから顔を上げる。

「私にも連絡はあったよ。古い事故関係の資料について」

澪は瞬きをした。

「そうだったんですか」

「総務で保管してるものもあるからね。担当部署として、どこに何が残っているか確認したいって」

「それで、何か分かったんですか」

「全部はまだ。保管先も分かれてるし、古い書類はすぐに見つからないこともあるから」

久我はそこで小さく息をついた。

「亡くなったって聞いたときは、本当に驚いた。ついこの間まで普通に連絡を取っていたのに」

澪は頷いた。

それは、自分も同じだった。

まだ返事を待っているような気がする。

メールを開けば、三宅から新しい文章が届いているのではないか。記録について少し確認したいだけだったと、いつもの丁寧な言葉で書かれているのではないか。

そんなことを、今朝も一度考えてしまった。

「三宅さん、何か急いでいたんでしょうか」

澪が尋ねると、久我は首を少し傾けた。

「どうだろう。確認したいことがあったのは確かだと思うけど」

「八年前の書類を、今になってですもんね」

「旧センターの資料移管が始まってるから、それがきっかけかもしれないね」

久我はそう言い、腕時計を確かめた。

「ごめん、次の会議があるから。箱の件は午後でも大丈夫。小森さんと二人で無理しないで」

「はい」

「それと、警察からまた連絡が来るかもしれないけど、分かることはそのまま話してくれればいいから」

「分かりました」

久我は軽く手を振って部屋を出ていった。

澪は閉じた扉を見つめた。

三宅は、自分だけに連絡していたわけではなかった。

考えてみれば当然だ。

八年前の書類を調べるなら、当時の担当者にも今の管理者にも問い合わせるだろう。

それなのに、澪はどこかで、自分へ届いたメールを特別なものとして考えていた。

なぜ自分なのか。

なぜ今なのか。

そんなことばかり気にしていた。

小森が段ボールの伝票を一枚持ち上げた。

「篠宮さん、これ、受領欄にもう一つ確認印が必要みたいです」

「どれ?」

「この右下です」

澪は書類を受け取った。

空白になっている小さな四角形。

その隣には、確認者という文字が印刷されている。

「そうだね。これ、久我課長が戻ってからお願いしよう」

「はい」

小森が頷く。

澪は伝票を机の端へ置いた。

書類には、いつも誰かの名前が残る。

誰が受け取ったか。

誰が確認したか。

誰が次の担当者へ渡したか。

その一つ一つが、何年も後になって別の意味を持つことがある。

八年前、自分が押した受付印も、そうだった。


昼休み、澪は社員食堂へ向かわず、近くのコンビニで買ったサンドイッチを休憩室で食べていた。

窓際の席は日当たりが悪く、膝に掛けた薄いブランケットが少しずつずり落ちる。

スマートフォンを取り出し、三宅から届いたメールを開く。

『最初に受け付けたのは篠宮さんだったと記憶していますが、間違いないでしょうか』

丁寧な文章だ。

相手を責めているわけではない。

それでも澪には、その一文が何度読んでも同じように引っかかった。

自分の名前を覚えていた。

八年前の、たった一度の受付業務を。

どうしてだろう。

そのとき、スマートフォンが震えた。

航からだった。

『今日、帰り遅い?』

『今のところ定時。そっちは?』

『こっちも。夕飯どうする?』

澪はサンドイッチを一口かじった。

具材のレタスが少し乾いている。

『温かいものがいい』

『鍋?』

『先週も鍋だった』

『先週はうどん』

『鍋にうどん入れたでしょ』

『じゃあ今日はうどんに鍋を入れる』

澪は口元を押さえた。

向かいの席にいた社員がちらりとこちらを見たので、何でもない顔でスマートフォンを伏せる。

少しして、また通知が来た。

『六時半、駅前で』

澪は『了解』と送った。

それから三宅のメールへ戻る。

画面に並ぶ文字が、さっきより少し小さく見えた。


午後六時半。

航は駅前の書店の前で待っていた。

片手に紙袋を持ち、もう一方の手でスマートフォンを操作している。澪に気づくと画面を消し、顔を上げた。

「お疲れ」

「何買ったの?」

澪は紙袋を指差した。

「本」

「見れば分かる」

「じゃあ聞くなよ」

「ジャンルを聞いてるんです」

「仕事の本。つまらないやつ」

「自分で買っておいて」

航は笑い、紙袋を持ち直した。

二人は駅前の通りを歩き始めた。

雨上がりの歩道には街灯がにじみ、焼き鳥屋の換気口から煙が細く流れている。車が通るたびに湿ったアスファルトの匂いが立ち、風に混じってどこかの店の甘い醤油の香りが漂った。

「今日はどうだった?」

航が訊いた。

「普通。古い資料の受領があったくらい」

「旧センター?」

「うん」

航は少しだけ目を向けた。

「今、あっちの資料は結構動いてるからな」

「情報管理も関わってるの?」

「一部はね。電子化したものの保管先とか、アクセス権の整理とか」

「大変そう」

「まあ、古いシステムは誰が作ったのか分からないものもあるし」

「そういうの、航が直すんでしょ」

「俺が直したものも、何年かしたら誰が作ったか分からなくなるんだろうな」

「その頃には偉くなってるかもよ」

「ないない」

航はすぐに首を振った。

澪は横顔を見た。

少し疲れているようだった。

目の下に薄い影があり、笑うといつもより口元の動きが遅い。

「航こそ、無理してない?」

「してないつもり」

「その返事、信用できないな」

「どこかで聞いたな、それ」

「優秀な医師の受け売りです」

信号が赤になり、二人は立ち止まった。

航が紙袋を持つ手を替える。

澪はその動作を見ながら、昼間の久我の言葉を思い出した。

三宅から、久我にも連絡があった。

そのことを航に話そうとして、口を閉じる。

何でも事件に結びつけるのはよくない。

久我は総務課長だ。

古い資料について問い合わせが来ても、何も不自然ではない。

「どうした?」

航が澪を見た。

「ううん。夕飯、結局何にするのかなと思って」

「まだ決めてなかったの?」

「決めてると思ってた」

「俺も」

二人は顔を見合わせた。

「じゃあ、今日はじゃんけんで決めよう」

澪が言うと、航は呆れたように笑った。

「勝ったほうが決めるの?」

「負けたほう」

「なんで?」

「責任を負っていただくためです」

「それ、勝っても得しないだろ」

「そういう日もあります」

青信号になった。

澪は一歩踏み出し、航の隣を歩いた。

久我にも三宅から連絡があった。

その事実は、澪の頭から消えなかった。

けれど今は、航が夕飯の店を決められずにいることのほうが、少しだけ気になった。

そういう自分が、澪にはありがたかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。