第6話 壁の向こう
火曜日の朝、澪は薬の残りを数えていた。
白い錠剤が六つ。
週末に比べれば症状は落ち着いていたが、左腕にはまだ小さな赤い跡が残っている。
洗面所の鏡の前で袖をまくると、皮膚の表面に薄い凹凸が浮かんでいた。かきむしらないように気をつけていたつもりでも、眠っている間のことまでは分からない。
澪は指先を近づけ、触れる直前で止めた。
「……また掻いてる」
鏡の中の自分へ小さく文句を言う。
こういうとき、誰かが隣にいれば、もう少し気の利いた返事があるのかもしれない。
航ならきっと「自分に怒ってもしょうがないだろ」と言うだろう。
そう思うと、少し可笑しかった。
今朝は通院のために午前休を取っていた。
長年通っている皮膚科は、駅前の古い商業ビルの三階にある。いつも混んでいるので、予約時間どおりに診てもらえることはほとんどなかった。
それでも、同じ医師に診てもらうようになってからは、症状を一から説明する必要がなくなった。
原因だけは、相変わらず分からないままだった。
午前九時四十分。
診療所の待合室には、消毒液と柔軟剤の匂いが混ざっていた。
窓際の椅子には年配の女性が二人座り、静かな声で天気の話をしている。壁には皮膚の構造を説明するポスターが貼られ、受付の奥から電子カルテを操作する音が聞こえた。
澪は問診票を膝の上に置いた。
『症状が出た日時』
金曜日、午後八時十二分頃。
『症状が出た場所』
飲食店。
『考えられる原因』
そこで、ペンが止まった。
何を書けばいいのだろう。
今までにも何度も、この欄を前にして考え込んできた。
食べ物。
金属。
化粧品。
洗剤。
疲労。
気温の変化。
どれも完全には当てはまらない。
けれど、本当のことを書いたところで、きっと困らせるだけだろう。
『人混みの中で突然発症』
澪はそう記入した。
嘘ではない。
ただ、全部でもなかった。
「今回は腕が中心だったんですね」
診察室で、担当の医師が澪の皮膚を確認した。
五十代半ばの女性で、話すときに眼鏡を少し持ち上げる癖がある。
「はい。首も少しかゆくなって」
「呼吸は苦しくなりませんでしたか」
「少し息苦しい感じはありましたけど、すぐ落ち着きました」
医師は顔を上げた。
「その症状が出たときは、我慢しないでくださいね。呼吸に異常を感じたら、すぐに医療機関へ相談してください。急に強くなるようなら救急対応が必要です」
「はい」
澪は頷いた。
以前、発作がひどくなり、救急外来で診てもらったことがある。
あのときの息苦しさは、今でも忘れられない。
胸の奥へ空気を入れたいのに、吸った分だけどこかで押し戻される。
自分の身体なのに、自分の思いどおりにならない。
その感覚は、皮膚のかゆみよりもずっと厄介だった。
「最近、強いストレスはありました?」
医師に尋ねられ、澪は少し考えた。
ストレス。
便利な言葉だと思う。
これさえあれば、説明のつかないものの大半をひとまとめにできてしまう。
「仕事は、いつもどおりです」
「無理していませんか」
「してないつもりです」
医師は小さく笑った。
「篠宮さんの『つもり』は、あまり信用できないんですよね」
「先生までそんなこと言うんですか」
「長い付き合いですから」
澪は観念したように肩を落とした。
医師はカルテを確認し、症状の経過についていくつか質問した。
食事内容。
服薬状況。
発作が始まってから落ち着くまでの時間。
澪は記憶している範囲で答えた。
ただ、送別会の席にいた十二人のことまでは話さなかった。
診察が終わると、医師はいつもどおりに言った。
「症状の記録は続けてくださいね。何か共通点が見つかるかもしれませんから」
「はい」
澪は返事をした。
共通点なら、もう見つけている。
けれど、それを証明する方法だけが、いつまで経っても見つからなかった。
診療所を出ると、午前の光が駅前のビルのガラスに反射していた。
外は思ったより暖かかったが、風が吹くたびに首元が冷える。近くのパン屋から焼きたての生地の匂いが流れ、通りを歩く人たちはそれぞれの行き先へ急いでいた。
午後から出勤するまで、まだ少し時間がある。
澪は処方箋をバッグへしまい、駅へ向かって歩き始めた。
途中で、小さなショッピングモールの前を通った。
入口には秋物の服を着たマネキンが並び、天井から吊るされた飾りが空調の風で揺れている。
その光景を見た瞬間、澪は足を止めた。
特別な理由があったわけではない。
ただ、似ていた。
天井の高さ。
ガラス張りの入口。
子どもの声が遠くから響いてくる感じ。
そして、店内に流れている少し甘い香り。
ずっと前に訪れた、別のショッピングモールのことを思い出した。
あのとき、澪はまだ小学生だった。
母親と二人で買い物へ出かけ、昼食を終えた後だった。
おもちゃ売り場の前でしばらく足を止め、欲しいものを一つだけ選ぶように言われていた。
けれど、どれも気になって決められない。
母親は困ったように笑い、先に日用品を見てくるから、近くの椅子で待っていなさいと言った。
澪は頷き、売り場の端にある通路へ向かった。
そこは客の行き来が少なく、奥に従業員用の扉があった。
壁は淡い水色で、天井には丸い照明が等間隔に並んでいた。近くの飲食店から油の匂いが流れ込み、冷房の風が制服の薄い袖を揺らしていた。
椅子へ座ろうとしたところで、腕がかゆくなった。
最初は虫に刺されたのだと思った。
けれど、掻いても掻いてもかゆみは治まらない。
手首に赤い点が浮かび、それが肘へ向かって広がっていく。
澪は袖をまくった。
見たことのない大きさの膨らみができていた。
怖くなって母親を探そうとしたが、立ち上がった瞬間、胸が苦しくなった。
息を吸う。
思ったほど空気が入らない。
もう一度吸おうとしても、胸の奥が何かにつかえたように動かなかった。
通路には誰もいない。
目の前にあるのは、淡い水色の壁と閉じた扉だけだった。
母親を呼ぼうとした。
声が出なかった。
やがて足音が近づき、母親が澪の様子に気づいた。
そこから先のことは、途切れ途切れにしか覚えていない。
母親が自分の名前を呼んでいたこと。
誰かが車椅子を持ってきたこと。
白い天井を見上げながら移動したこと。
病院で目を開けたとき、母親は椅子に座り、両手でハンカチを握っていた。
「もう大丈夫だからね」
そう言われた。
けれど、その言葉に頷くことさえ、少し疲れた。
後になって、同じショッピングモールで殺人事件が起きていたことを知った。
従業員の一人が、建物の裏側にある関係者用の区域で殺害されていた。
事件が起きたのは、自分があの通路で倒れた頃だった。
従業員用の扉の先には、売り場の裏へ続く通路があったという。
澪はニュースを見ながら、あの淡い水色の壁を思い出した。
壁の向こうで、誰かが誰かを殺そうとしていた。
自分は何も見ていなかった。
声も聞いていなかった。
ただ、身体だけがおかしくなった。
もちろん、それが事件と関係していたという証拠はなかった。
母親にも、医師にも、そんな話はしなかった。
小学生が何を言っているのかと困らせるだけだと思った。
その後も、似たような発作は何度か起きた。
誰かが怒鳴っている場所で何も起きなかったこともある。
逆に、誰もいないと思っていた場所で、突然かゆくなったこともあった。
最初のうちは、その違いが分からなかった。
ただ、長い年月の中で、一つだけ気になることが残った。
自分が見ている景色と、身体が反応する範囲は、必ずしも同じではないらしい。
あのショッピングモールでも、澪が見ていたのは何の変哲もない水色の壁だった。
その向こうに何があるのか、考えもしなかった。
「お客様、大丈夫ですか?」
声をかけられ、澪は顔を上げた。
ショッピングモールの入口で、案内係の女性がこちらを見ている。
「すみません。ちょっと考え事をしていて」
「そうでしたか」
女性は軽く頭を下げ、入口へ戻っていった。
澪は自分の腕を確認した。
新しい発疹は出ていない。
ただ、思い出しただけだった。
それでも指先が少し冷えている。
昔のことだ。
もう何年も前の出来事なのに、あのときの冷房の風や、母親のハンカチの皺まで覚えている。
澪は歩き出した。
駅へ向かう途中、すれ違った男性が電話で誰かに謝っていた。
反対側から来た女性は、険しい顔でスマートフォンを操作している。
制服姿の学生たちが笑いながら走り抜けていく。
人は、外から見える表情だけでは何を考えているのか分からない。
そんなことは、特殊な体質がなくても分かる。
けれど澪は、かゆみが出るたびに顔を探してしまう。
自分が見える範囲のどこかに、原因となる人間がいるはずだと考えてしまう。
あの水色の壁の向こうにも、人がいたかもしれないのに。
午後一時。
澪が出勤すると、総務部では月末の準備が始まっていた。
小森が机の上に資料を積み、久我は電話をしながら別の書類を確認している。
「お疲れさまです」
澪が声をかけると、小森が顔を上げた。
「篠宮さん、病院どうでした?」
「いつもどおり」
「良くなってました?」
「だいぶね。薬ももらえたし」
「よかったです」
小森は安心したように笑った。
澪は上着を脱ぎ、自分の席へ座る。
パソコンを起動している間に、久我が電話を終えた。
「篠宮さん、体調は?」
「大丈夫です。午後から普通に働けます」
「無理しないでね。今日はそんなに急ぎの仕事ないから」
「その言葉、信じていいですか」
「半分くらいなら」
「半分なんですね」
久我は笑った。
その右手には、金曜日にはなかったはずの小さな傷がまだ残っていた。
澪は一瞬、そこへ視線を向けた。
久我は気づかず、書類を揃えている。
紙の端が机の角へ当たり、乾いた音を立てた。
「そうだ、篠宮さん」
「はい」
「金曜日に確認してくれた古い受付記録なんだけど、資料移管の担当から問い合わせが来てるの。必要なら閲覧履歴と照らして確認するって」
「分かりました」
「三宅さんの件もあるから、今は社外への回答は一度こちらでまとめることになってる。何か聞かれたら教えてね」
「はい」
久我は頷き、自席へ戻った。
澪は画面に表示された受信箱を見つめた。
会社が古い記録を確認し始めている。
三宅が亡くなったからだろうか。
それとも、三宅が何かを見つけていたからだろうか。
八年前に自分が受け取った書類。
事故の後に作られた報告書。
何度考えても、その二つのあいだには埋まらない部分があった。
澪は新しいメールを開き、仕事を始めようとした。
しかし、指が止まる。
金曜日の発作記録。
送別会の十二人。
その中には、まだ一度も事件について詳しく話していない人間が何人もいる。
結城晴臣も、その一人だった。
昨夜、ノートの端に書きかけたのは、彼の名前だった。
長峰の話を聞いていたときの表情。
ほとんど減らなかったビール。
そして、何度も確認していたスマートフォン。
気になったことは確かだ。
けれど、それだけで殺意の持ち主だと決めることはできない。
澪は机の引き出しからメモ用紙を取り出した。
送別会で確認したことを、覚えている範囲で書き出す。
長峰が話していた内容。
結城が途中で席を外したこと。
久我が追加の料理を注文していたこと。
小森が自分の体調を心配してくれたこと。
書き始めると、些細なことばかりだった。
それが少し可笑しくなった。
人の殺意を探そうとしているのに、覚えているのは料理や会話の断片ばかりだ。
それでも、澪は書き続けた。
誰が何をしたか。
自分は何を見たか。
分からないことは、分からないままにしておく。
少なくとも、今は。
その夜、澪は自宅の机で古い発作記録を開いていた。
学生時代のノート。
社会人になってからの手帳。
診察のときに書いた症状のメモ。
一冊ずつ確認していくと、過去に何度も似たような記録を残していたことが分かった。
駅の構内。
病院の待合室。
職場の廊下。
繁華街の飲食店。
そのすべてで事件が起きたわけではない。
少なくとも、澪が知っている範囲では。
誰かが本気で殺そうと思っても、実際には何も起きなかったのかもしれない。
あるいは、澪の知らないところで事件が起きていた可能性もある。
ノートをめくる手が止まった。
古いページの端に、母親の字で書かれた小さなメモが挟まっていた。
『買い物中に急な発疹と呼吸症状。近くにいた人は確認できず』
あのショッピングモールでの出来事だった。
澪は紙を取り出し、机の上へ置いた。
『近くにいた人は確認できず』
何度読んでも、そこにはそれ以上のことが書かれていない。
当時の母親が見た事実だけだった。
澪は紙を裏返した。
何も書かれていない。
その白い面を見つめているうちに、ふと、あの水色の壁が浮かんだ。
自分には何も見えていなかった。
しかし、壁の向こう側まで空っぽだったとは限らない。
澪はメモを元のページへ戻した。
それから、金曜日の発作記録をもう一度開く。
送別会で感じた殺意。
参加者十二人。
翌朝の三宅の死。
澪は最後の行を見つめた。
『関連は不明』
昨日まで、その四文字を書くことは、分からないことを先延ばしにしているように感じられた。
今は少し違って見える。
分からないことを分かったつもりになるよりは、ずっとましなのかもしれない。
それでも、三宅の死について何も知りたくないわけではなかった。
むしろ、知りたかった。
あの人は何を調べていたのか。
なぜ八年前の書類を確認しようとしていたのか。
そして、どうしてあの階段の下で亡くなったのか。
澪はノートを閉じた。
窓の外では、遅い時間の電車が高架を走っていた。
車輪の音が遠ざかり、部屋に静けさが戻る。
殺意は目に見えない。
その存在を身体が知らせてくれても、誰のものなのかまでは分からない。
けれど、記録は残る。
書類も、メールも、人が交わした言葉も。
八年前の事故についても、どこかにまだ残っているものがあるのかもしれない。
澪は机に置いたスマートフォンを手に取り、三宅からのメールを開いた。
最後まで読んでから、画面を伏せる。
あのとき受け取った書類を、もう一度確かめたい。
三宅が何を知ろうとしていたのか、少しでも近づけるなら。
澪は立ち上がり、机の明かりを消した。
暗くなった部屋で、窓の外の街灯だけが、閉じたノートの端を淡く照らしていた。




