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殺意アレルギー  作者: asnt2026


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第6話 壁の向こう

火曜日の朝、澪は薬の残りを数えていた。

白い錠剤が六つ。

週末に比べれば症状は落ち着いていたが、左腕にはまだ小さな赤い跡が残っている。

洗面所の鏡の前で袖をまくると、皮膚の表面に薄い凹凸が浮かんでいた。かきむしらないように気をつけていたつもりでも、眠っている間のことまでは分からない。

澪は指先を近づけ、触れる直前で止めた。

「……また掻いてる」

鏡の中の自分へ小さく文句を言う。

こういうとき、誰かが隣にいれば、もう少し気の利いた返事があるのかもしれない。

航ならきっと「自分に怒ってもしょうがないだろ」と言うだろう。

そう思うと、少し可笑しかった。

今朝は通院のために午前休を取っていた。

長年通っている皮膚科は、駅前の古い商業ビルの三階にある。いつも混んでいるので、予約時間どおりに診てもらえることはほとんどなかった。

それでも、同じ医師に診てもらうようになってからは、症状を一から説明する必要がなくなった。

原因だけは、相変わらず分からないままだった。


午前九時四十分。

診療所の待合室には、消毒液と柔軟剤の匂いが混ざっていた。

窓際の椅子には年配の女性が二人座り、静かな声で天気の話をしている。壁には皮膚の構造を説明するポスターが貼られ、受付の奥から電子カルテを操作する音が聞こえた。

澪は問診票を膝の上に置いた。

『症状が出た日時』

金曜日、午後八時十二分頃。

『症状が出た場所』

飲食店。

『考えられる原因』

そこで、ペンが止まった。

何を書けばいいのだろう。

今までにも何度も、この欄を前にして考え込んできた。

食べ物。

金属。

化粧品。

洗剤。

疲労。

気温の変化。

どれも完全には当てはまらない。

けれど、本当のことを書いたところで、きっと困らせるだけだろう。

『人混みの中で突然発症』

澪はそう記入した。

嘘ではない。

ただ、全部でもなかった。


「今回は腕が中心だったんですね」

診察室で、担当の医師が澪の皮膚を確認した。

五十代半ばの女性で、話すときに眼鏡を少し持ち上げる癖がある。

「はい。首も少しかゆくなって」

「呼吸は苦しくなりませんでしたか」

「少し息苦しい感じはありましたけど、すぐ落ち着きました」

医師は顔を上げた。

「その症状が出たときは、我慢しないでくださいね。呼吸に異常を感じたら、すぐに医療機関へ相談してください。急に強くなるようなら救急対応が必要です」

「はい」

澪は頷いた。

以前、発作がひどくなり、救急外来で診てもらったことがある。

あのときの息苦しさは、今でも忘れられない。

胸の奥へ空気を入れたいのに、吸った分だけどこかで押し戻される。

自分の身体なのに、自分の思いどおりにならない。

その感覚は、皮膚のかゆみよりもずっと厄介だった。

「最近、強いストレスはありました?」

医師に尋ねられ、澪は少し考えた。

ストレス。

便利な言葉だと思う。

これさえあれば、説明のつかないものの大半をひとまとめにできてしまう。

「仕事は、いつもどおりです」

「無理していませんか」

「してないつもりです」

医師は小さく笑った。

「篠宮さんの『つもり』は、あまり信用できないんですよね」

「先生までそんなこと言うんですか」

「長い付き合いですから」

澪は観念したように肩を落とした。

医師はカルテを確認し、症状の経過についていくつか質問した。

食事内容。

服薬状況。

発作が始まってから落ち着くまでの時間。

澪は記憶している範囲で答えた。

ただ、送別会の席にいた十二人のことまでは話さなかった。

診察が終わると、医師はいつもどおりに言った。

「症状の記録は続けてくださいね。何か共通点が見つかるかもしれませんから」

「はい」

澪は返事をした。

共通点なら、もう見つけている。

けれど、それを証明する方法だけが、いつまで経っても見つからなかった。


診療所を出ると、午前の光が駅前のビルのガラスに反射していた。

外は思ったより暖かかったが、風が吹くたびに首元が冷える。近くのパン屋から焼きたての生地の匂いが流れ、通りを歩く人たちはそれぞれの行き先へ急いでいた。

午後から出勤するまで、まだ少し時間がある。

澪は処方箋をバッグへしまい、駅へ向かって歩き始めた。

途中で、小さなショッピングモールの前を通った。

入口には秋物の服を着たマネキンが並び、天井から吊るされた飾りが空調の風で揺れている。

その光景を見た瞬間、澪は足を止めた。

特別な理由があったわけではない。

ただ、似ていた。

天井の高さ。

ガラス張りの入口。

子どもの声が遠くから響いてくる感じ。

そして、店内に流れている少し甘い香り。

ずっと前に訪れた、別のショッピングモールのことを思い出した。


あのとき、澪はまだ小学生だった。

母親と二人で買い物へ出かけ、昼食を終えた後だった。

おもちゃ売り場の前でしばらく足を止め、欲しいものを一つだけ選ぶように言われていた。

けれど、どれも気になって決められない。

母親は困ったように笑い、先に日用品を見てくるから、近くの椅子で待っていなさいと言った。

澪は頷き、売り場の端にある通路へ向かった。

そこは客の行き来が少なく、奥に従業員用の扉があった。

壁は淡い水色で、天井には丸い照明が等間隔に並んでいた。近くの飲食店から油の匂いが流れ込み、冷房の風が制服の薄い袖を揺らしていた。

椅子へ座ろうとしたところで、腕がかゆくなった。

最初は虫に刺されたのだと思った。

けれど、掻いても掻いてもかゆみは治まらない。

手首に赤い点が浮かび、それが肘へ向かって広がっていく。

澪は袖をまくった。

見たことのない大きさの膨らみができていた。

怖くなって母親を探そうとしたが、立ち上がった瞬間、胸が苦しくなった。

息を吸う。

思ったほど空気が入らない。

もう一度吸おうとしても、胸の奥が何かにつかえたように動かなかった。

通路には誰もいない。

目の前にあるのは、淡い水色の壁と閉じた扉だけだった。

母親を呼ぼうとした。

声が出なかった。

やがて足音が近づき、母親が澪の様子に気づいた。

そこから先のことは、途切れ途切れにしか覚えていない。

母親が自分の名前を呼んでいたこと。

誰かが車椅子を持ってきたこと。

白い天井を見上げながら移動したこと。

病院で目を開けたとき、母親は椅子に座り、両手でハンカチを握っていた。

「もう大丈夫だからね」

そう言われた。

けれど、その言葉に頷くことさえ、少し疲れた。

後になって、同じショッピングモールで殺人事件が起きていたことを知った。

従業員の一人が、建物の裏側にある関係者用の区域で殺害されていた。

事件が起きたのは、自分があの通路で倒れた頃だった。

従業員用の扉の先には、売り場の裏へ続く通路があったという。

澪はニュースを見ながら、あの淡い水色の壁を思い出した。

壁の向こうで、誰かが誰かを殺そうとしていた。

自分は何も見ていなかった。

声も聞いていなかった。

ただ、身体だけがおかしくなった。

もちろん、それが事件と関係していたという証拠はなかった。

母親にも、医師にも、そんな話はしなかった。

小学生が何を言っているのかと困らせるだけだと思った。

その後も、似たような発作は何度か起きた。

誰かが怒鳴っている場所で何も起きなかったこともある。

逆に、誰もいないと思っていた場所で、突然かゆくなったこともあった。

最初のうちは、その違いが分からなかった。

ただ、長い年月の中で、一つだけ気になることが残った。

自分が見ている景色と、身体が反応する範囲は、必ずしも同じではないらしい。

あのショッピングモールでも、澪が見ていたのは何の変哲もない水色の壁だった。

その向こうに何があるのか、考えもしなかった。


「お客様、大丈夫ですか?」

声をかけられ、澪は顔を上げた。

ショッピングモールの入口で、案内係の女性がこちらを見ている。

「すみません。ちょっと考え事をしていて」

「そうでしたか」

女性は軽く頭を下げ、入口へ戻っていった。

澪は自分の腕を確認した。

新しい発疹は出ていない。

ただ、思い出しただけだった。

それでも指先が少し冷えている。

昔のことだ。

もう何年も前の出来事なのに、あのときの冷房の風や、母親のハンカチの皺まで覚えている。

澪は歩き出した。

駅へ向かう途中、すれ違った男性が電話で誰かに謝っていた。

反対側から来た女性は、険しい顔でスマートフォンを操作している。

制服姿の学生たちが笑いながら走り抜けていく。

人は、外から見える表情だけでは何を考えているのか分からない。

そんなことは、特殊な体質がなくても分かる。

けれど澪は、かゆみが出るたびに顔を探してしまう。

自分が見える範囲のどこかに、原因となる人間がいるはずだと考えてしまう。

あの水色の壁の向こうにも、人がいたかもしれないのに。


午後一時。

澪が出勤すると、総務部では月末の準備が始まっていた。

小森が机の上に資料を積み、久我は電話をしながら別の書類を確認している。

「お疲れさまです」

澪が声をかけると、小森が顔を上げた。

「篠宮さん、病院どうでした?」

「いつもどおり」

「良くなってました?」

「だいぶね。薬ももらえたし」

「よかったです」

小森は安心したように笑った。

澪は上着を脱ぎ、自分の席へ座る。

パソコンを起動している間に、久我が電話を終えた。

「篠宮さん、体調は?」

「大丈夫です。午後から普通に働けます」

「無理しないでね。今日はそんなに急ぎの仕事ないから」

「その言葉、信じていいですか」

「半分くらいなら」

「半分なんですね」

久我は笑った。

その右手には、金曜日にはなかったはずの小さな傷がまだ残っていた。

澪は一瞬、そこへ視線を向けた。

久我は気づかず、書類を揃えている。

紙の端が机の角へ当たり、乾いた音を立てた。

「そうだ、篠宮さん」

「はい」

「金曜日に確認してくれた古い受付記録なんだけど、資料移管の担当から問い合わせが来てるの。必要なら閲覧履歴と照らして確認するって」

「分かりました」

「三宅さんの件もあるから、今は社外への回答は一度こちらでまとめることになってる。何か聞かれたら教えてね」

「はい」

久我は頷き、自席へ戻った。

澪は画面に表示された受信箱を見つめた。

会社が古い記録を確認し始めている。

三宅が亡くなったからだろうか。

それとも、三宅が何かを見つけていたからだろうか。

八年前に自分が受け取った書類。

事故の後に作られた報告書。

何度考えても、その二つのあいだには埋まらない部分があった。

澪は新しいメールを開き、仕事を始めようとした。

しかし、指が止まる。

金曜日の発作記録。

送別会の十二人。

その中には、まだ一度も事件について詳しく話していない人間が何人もいる。

結城晴臣も、その一人だった。

昨夜、ノートの端に書きかけたのは、彼の名前だった。

長峰の話を聞いていたときの表情。

ほとんど減らなかったビール。

そして、何度も確認していたスマートフォン。

気になったことは確かだ。

けれど、それだけで殺意の持ち主だと決めることはできない。

澪は机の引き出しからメモ用紙を取り出した。

送別会で確認したことを、覚えている範囲で書き出す。

長峰が話していた内容。

結城が途中で席を外したこと。

久我が追加の料理を注文していたこと。

小森が自分の体調を心配してくれたこと。

書き始めると、些細なことばかりだった。

それが少し可笑しくなった。

人の殺意を探そうとしているのに、覚えているのは料理や会話の断片ばかりだ。

それでも、澪は書き続けた。

誰が何をしたか。

自分は何を見たか。

分からないことは、分からないままにしておく。

少なくとも、今は。


その夜、澪は自宅の机で古い発作記録を開いていた。

学生時代のノート。

社会人になってからの手帳。

診察のときに書いた症状のメモ。

一冊ずつ確認していくと、過去に何度も似たような記録を残していたことが分かった。

駅の構内。

病院の待合室。

職場の廊下。

繁華街の飲食店。

そのすべてで事件が起きたわけではない。

少なくとも、澪が知っている範囲では。

誰かが本気で殺そうと思っても、実際には何も起きなかったのかもしれない。

あるいは、澪の知らないところで事件が起きていた可能性もある。

ノートをめくる手が止まった。

古いページの端に、母親の字で書かれた小さなメモが挟まっていた。

『買い物中に急な発疹と呼吸症状。近くにいた人は確認できず』

あのショッピングモールでの出来事だった。

澪は紙を取り出し、机の上へ置いた。

『近くにいた人は確認できず』

何度読んでも、そこにはそれ以上のことが書かれていない。

当時の母親が見た事実だけだった。

澪は紙を裏返した。

何も書かれていない。

その白い面を見つめているうちに、ふと、あの水色の壁が浮かんだ。

自分には何も見えていなかった。

しかし、壁の向こう側まで空っぽだったとは限らない。

澪はメモを元のページへ戻した。

それから、金曜日の発作記録をもう一度開く。

送別会で感じた殺意。

参加者十二人。

翌朝の三宅の死。

澪は最後の行を見つめた。

『関連は不明』

昨日まで、その四文字を書くことは、分からないことを先延ばしにしているように感じられた。

今は少し違って見える。

分からないことを分かったつもりになるよりは、ずっとましなのかもしれない。

それでも、三宅の死について何も知りたくないわけではなかった。

むしろ、知りたかった。

あの人は何を調べていたのか。

なぜ八年前の書類を確認しようとしていたのか。

そして、どうしてあの階段の下で亡くなったのか。

澪はノートを閉じた。

窓の外では、遅い時間の電車が高架を走っていた。

車輪の音が遠ざかり、部屋に静けさが戻る。

殺意は目に見えない。

その存在を身体が知らせてくれても、誰のものなのかまでは分からない。

けれど、記録は残る。

書類も、メールも、人が交わした言葉も。

八年前の事故についても、どこかにまだ残っているものがあるのかもしれない。

澪は机に置いたスマートフォンを手に取り、三宅からのメールを開いた。

最後まで読んでから、画面を伏せる。

あのとき受け取った書類を、もう一度確かめたい。

三宅が何を知ろうとしていたのか、少しでも近づけるなら。

澪は立ち上がり、机の明かりを消した。

暗くなった部屋で、窓の外の街灯だけが、閉じたノートの端を淡く照らしていた。

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