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殺意アレルギー  作者: asnt2026


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第5話 空の透明ファイル

三宅尚人の鞄に残されていた透明ファイルは、どこにでも売っている安価なものだった。

真田亜紀は机の上に置かれた写真を見つめた。

薄い半透明の樹脂でできた、ごく普通の書類入れ。

表面には細かな擦り傷があり、右上の角が少し曲がっている。開口部の内側に薄い汚れが見えるものの、何かが抜き取られたことを直接示す痕跡は、今のところ確認できていない。

「これがどうかしました?」

向かいに座った若い刑事、佐伯が尋ねた。

「別に。よくあるファイルだなと思って」

「買ったばかりって感じじゃないですね」

「そうね」

月曜日の午後四時過ぎ。

捜査本部として使われている会議室には、コピー用紙とインスタントコーヒーの匂いが漂っていた。窓は西日で明るいが、古い空調が低い音を立て続けているせいか、室内の空気は妙に乾いている。

真田は写真を一枚めくった。

財布、車の鍵、スマートフォン、名刺入れ。

三宅の持ち物は整理されていた。

「金品目的には見えませんね」

佐伯が言った。

「そう見える」

「じゃあ、何かの資料を狙ったとか」

「空のファイル一枚でそこまでは言えないわ」

「ですよね」

佐伯は少し肩を落とした。

真田はその様子を見て、わずかに口元を緩めた。

「ただ、三宅さんが何を持って旧センターへ行ったかは確かめたい。そこは同じよ」

「はい」

「だから、まだファイルは捨てない」

「写真ですよ」

「分かってる」

佐伯が笑った。

真田は写真を机の端へ寄せた。

昨夜から集められた資料の中で、最も目立たない一枚だった。

けれど、三宅が元監査担当だったことを考えると、どうしても引っかかる。

仕事を終えた後、誰もいない旧施設で、何をしようとしていたのか。

ただ転落したという説明では、その前の行動が見えてこない。


「検視では、頭部への強い衝撃が死因として考えられています」

午後の報告で、担当者が資料を示した。

「転落による損傷として矛盾しない部分はあります。ただ、上肢にも複数の損傷が見られます。生前に誰かと争った可能性について、引き続き確認が必要です」

真田は頷いた。

「爪の付着物は?」

「採取しています。鑑定結果はまだです」

「死亡推定時刻は」

「現段階では、金曜日の夜遅くから深夜にかけてとみています。さらに絞れるか確認中です」

佐伯が隣で書き込む音がした。

真田は金曜日の夜という言葉を頭の中で繰り返した。

長峰の送別会。

十二人。

そして、その席にはいなかった三宅。

何か関係があるのかもしれないが、会が開かれたというだけでは何も言えない。

死亡した人間の周囲に、最後まで普通に仕事をしていた人がいたとしても不思議ではない。

ただ、三宅は亡くなる直前まで、古い記録を調べていた。

そのことは少しずつ確かになってきている。

真田は報告書を閉じた。

「会社から届いた資料、見せて」


朝凪ロジスティクスから任意で提供された資料は、想像していたより多かった。

旧配送センターの施設概要。

現在の保管資料の移管予定。

過去の事故発生一覧。

三宅尚人の在籍履歴。

真田は最初に移管予定表を開いた。

旧センターは数年前から段階的に縮小され、現在は売却に向けて建物内の設備と保管資料を整理している。

紙の書類は本社の保管庫へ移すもの、廃棄するもの、外部の保管会社へ預けるものに分けられていた。

「ずいぶん古い資料まで残ってるんですね」

佐伯が隣から覗き込んだ。

「物流関係は記録が多いから。設備の履歴や作業記録もあるだろうし」

「でも、全部が一か所にあるわけじゃない」

「そういうこと」

真田は一覧の一部を指で押さえた。

受付関係の記録は本社。

設備の点検履歴は旧センター。

一部の監査資料は、外部保管先。

同じ出来事に関する書類でも、保管場所が分かれていた。

三宅が何かを確認しようとしていたなら、一つの資料だけでは足りなかった可能性がある。

「三宅さん、退職してからもこの移管作業に関わってたんでしょうか」

「正式な担当者ではなかったそうよ。ただ、古い事故について問い合わせをしていたことは確認できてる」

「わざわざ辞めた会社の事故を?」

真田は返事をしなかった。

辞めたからこそ、気になることもある。

在職中は言えなかったこと。

忙しさに紛れて確かめられなかったこと。

何年も経ってから、ようやく自分の判断を疑うことだってあるだろう。

ただ、三宅がそうだったと決まったわけではない。

「事故の一覧を」

佐伯が資料を差し出した。

真田は受け取り、古い年から順番に確認した。

労働災害。

設備の故障。

車両の接触事故。

軽傷者の出た転倒事故。

日付と施設名、事故の区分、被害の程度が、同じ形式で並んでいる。

その中に、一件だけ死亡事故があった。

八年前。

旧配送センター。

搬送設備に関する事故。

死亡者一名。

被害者の名前は、結城紗江。

当時三十歳。

真田は指を止めた。

「これね」

佐伯が顔を寄せる。

「三宅さんが調べていた事故ですか」

「まだ断定はできない。でも、篠宮さんが話していた設備停止要請と時期も施設も一致する」

事故報告の概要を読む。

搬送設備付近で作業していた従業員が、設備の稼働中に事故に遭った。

原因については、作業手順の不徹底と設備周辺の確認不足が挙げられている。

形式の整った文章だった。

必要な項目は埋められ、経過は簡潔にまとめられている。

しかし、真田はある箇所で目を止めた。

『設備停止に関する要請については、事故発生後に正式確認』

少しだけ引っかかる表現だった。

真田はその一文を、もう一度読んだ。

「佐伯くん。篠宮さんの話、覚えてる?」

「事故より前に書類を受け取ったっていう話ですか」

「そう」

「でも、これは事故後に正式確認したって書いてありますね」

「受付と正式確認は別の手続きかもしれない」

「じゃあ、矛盾してない可能性もありますね」

「あるわね」

真田は頷いた。

そこが厄介だった。

同じ出来事について書かれた二つの記録が、必ずしも同じ時点を示しているとは限らない。

書類が窓口に届いた時刻。

担当部署へ回された時刻。

内容を確認した時刻。

処理を完了した時刻。

似ているようで、意味は違う。

しかし。

三宅はなぜ、その違いを今になって調べようとしたのだろう。

「事故の調査報告、詳しいものは?」

「追加で確認中です。古い分は本社と外部保管先に分かれているそうで」

「そう」

真田は資料を閉じかけて、もう一度、被害者の名前を見た。

結城紗江。

手帳に書き写す。

数字や日付だけが並ぶ資料の中で、その名前だけが少し違って見えた。

三十歳。

そこで止まってしまった人生があった。

事故の記録には、それ以上のことは何も書かれていない。


夕方、真田は三宅の以前の同僚だった男性から話を聞いた。

小さな面談室には自動販売機の紙コップが二つ置かれ、男性は一口飲むたびに蓋の縁を指で押していた。

「三宅さんは、あの事故のことを気にしていましたよ」

「昔からですか」

「ええ。監査の仕事をしていた頃にも、何度か資料を確認していたはずです」

「問題があったということですか」

男性は少し考えた。

「そこまでは分かりません。ただ、納得していないようには見えました」

「どんな点に?」

「会社から出てきた説明と、現場の人が言っていた話が少し違っていたみたいで」

「具体的には」

「詳しくは聞いていません。監査って、何でも話していい仕事じゃないでしょう」

真田は頷いた。

男性は紙コップを見下ろした。

「それに、当時はもう報告書がまとまっていましたから。あとから調べ直すとなると、いろんな部署に確認しなきゃいけない」

「三宅さんは、それをしなかった?」

「しなかったというより、できなかったのかもしれません」

男性は言葉を選ぶように、ゆっくり続けた。

「三宅さん、慎重な人だったんです。疑わしいだけで人を責めたりしない。だから、何かを言うなら確かなものが欲しかったんじゃないですか」

真田はペンを走らせた。

「最近になって、何か見つかったという話は?」

「移管作業で昔の資料が出てきたとは聞いてます。でも、何が見つかったのかまでは」

「三宅さんとは最近、直接会いましたか」

「先月、電話で話しました」

「何か言っていました?」

男性はしばらく黙った。

廊下から誰かの足音が近づき、扉の前を通り過ぎていく。

「……今度こそ、確かめられるかもしれないって」

「何を?」

「そこまでは聞けませんでした。三宅さん、途中で話をやめてしまったんです」

真田はペン先を止めた。

「どうしてでしょう」

「分かりません。ただ、まだ人に話せる段階じゃないんだろうなと思いました」

男性は紙コップを両手で包んだ。

「三宅さん、本当に亡くなったんですよね」

「はい」

「そうですか」

それきり、男性は黙ってしまった。

真田は少し時間を置いてから、最後の質問をした。

「三宅さんは、八年前の事故について、誰かを疑っていたんでしょうか」

男性は顔を上げた。

「疑っていたかどうかは分かりません」

しばらく考えてから、首を横に振る。

「でも、誰かを責めたいだけなら、あんなに長いこと調べていなかったと思います」


署へ戻ると、佐伯が机に向かっていた。

「真田さん、旧センターの資料移管担当から連絡がありました」

「何か分かった?」

「事故前の受付記録について、別の保管先にも控えがある可能性があるそうです」

真田は上着を椅子に掛けた。

「どこ?」

「外部の保管会社です。ただ、全部の内容はまだ確認できていないみたいで」

「提出をお願いして。今ある資料と照合したい」

「はい」

佐伯が電話へ手を伸ばす。

真田は席に座り、事故報告の写しを取り出した。

『事故発生後に正式確認』

その文章を、指先で押さえる。

嘘なのか。

それとも、手続き上の違いにすぎないのか。

まだ分からない。

ただ、三宅が八年も気にかけていたとすれば、そこには何か理由があるはずだった。

真田は手帳を開き、篠宮澪から聞いた内容と報告書の記載を並べた。

事故前に受付。

事故後に正式確認。

その間に、何があったのか。

二つの記録がどちらも正しいとしても、それだけで疑問が消えるわけではなかった。

何より、今はその事故を調べていた三宅が死んでいる。

真田は紙の上で指を止めた。

八年前の事故。

そして現在の死亡事件。

二つが関係していると考えるには、まだ足りないものが多すぎる。

けれど、無関係だと考えるには、三宅が死の直前まで調べていたものが、あまりに具体的だった。

真田は新しいページを開いた。

一番上に書く。

『結城紗江死亡事故』

その下に、もう一つ。

『三宅尚人死亡』

二つの名前のあいだには、八年という時間がある。

真田は線を引かなかった。

その線を引くための証拠が、まだなかった。

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