第5話 空の透明ファイル
三宅尚人の鞄に残されていた透明ファイルは、どこにでも売っている安価なものだった。
真田亜紀は机の上に置かれた写真を見つめた。
薄い半透明の樹脂でできた、ごく普通の書類入れ。
表面には細かな擦り傷があり、右上の角が少し曲がっている。開口部の内側に薄い汚れが見えるものの、何かが抜き取られたことを直接示す痕跡は、今のところ確認できていない。
「これがどうかしました?」
向かいに座った若い刑事、佐伯が尋ねた。
「別に。よくあるファイルだなと思って」
「買ったばかりって感じじゃないですね」
「そうね」
月曜日の午後四時過ぎ。
捜査本部として使われている会議室には、コピー用紙とインスタントコーヒーの匂いが漂っていた。窓は西日で明るいが、古い空調が低い音を立て続けているせいか、室内の空気は妙に乾いている。
真田は写真を一枚めくった。
財布、車の鍵、スマートフォン、名刺入れ。
三宅の持ち物は整理されていた。
「金品目的には見えませんね」
佐伯が言った。
「そう見える」
「じゃあ、何かの資料を狙ったとか」
「空のファイル一枚でそこまでは言えないわ」
「ですよね」
佐伯は少し肩を落とした。
真田はその様子を見て、わずかに口元を緩めた。
「ただ、三宅さんが何を持って旧センターへ行ったかは確かめたい。そこは同じよ」
「はい」
「だから、まだファイルは捨てない」
「写真ですよ」
「分かってる」
佐伯が笑った。
真田は写真を机の端へ寄せた。
昨夜から集められた資料の中で、最も目立たない一枚だった。
けれど、三宅が元監査担当だったことを考えると、どうしても引っかかる。
仕事を終えた後、誰もいない旧施設で、何をしようとしていたのか。
ただ転落したという説明では、その前の行動が見えてこない。
「検視では、頭部への強い衝撃が死因として考えられています」
午後の報告で、担当者が資料を示した。
「転落による損傷として矛盾しない部分はあります。ただ、上肢にも複数の損傷が見られます。生前に誰かと争った可能性について、引き続き確認が必要です」
真田は頷いた。
「爪の付着物は?」
「採取しています。鑑定結果はまだです」
「死亡推定時刻は」
「現段階では、金曜日の夜遅くから深夜にかけてとみています。さらに絞れるか確認中です」
佐伯が隣で書き込む音がした。
真田は金曜日の夜という言葉を頭の中で繰り返した。
長峰の送別会。
十二人。
そして、その席にはいなかった三宅。
何か関係があるのかもしれないが、会が開かれたというだけでは何も言えない。
死亡した人間の周囲に、最後まで普通に仕事をしていた人がいたとしても不思議ではない。
ただ、三宅は亡くなる直前まで、古い記録を調べていた。
そのことは少しずつ確かになってきている。
真田は報告書を閉じた。
「会社から届いた資料、見せて」
朝凪ロジスティクスから任意で提供された資料は、想像していたより多かった。
旧配送センターの施設概要。
現在の保管資料の移管予定。
過去の事故発生一覧。
三宅尚人の在籍履歴。
真田は最初に移管予定表を開いた。
旧センターは数年前から段階的に縮小され、現在は売却に向けて建物内の設備と保管資料を整理している。
紙の書類は本社の保管庫へ移すもの、廃棄するもの、外部の保管会社へ預けるものに分けられていた。
「ずいぶん古い資料まで残ってるんですね」
佐伯が隣から覗き込んだ。
「物流関係は記録が多いから。設備の履歴や作業記録もあるだろうし」
「でも、全部が一か所にあるわけじゃない」
「そういうこと」
真田は一覧の一部を指で押さえた。
受付関係の記録は本社。
設備の点検履歴は旧センター。
一部の監査資料は、外部保管先。
同じ出来事に関する書類でも、保管場所が分かれていた。
三宅が何かを確認しようとしていたなら、一つの資料だけでは足りなかった可能性がある。
「三宅さん、退職してからもこの移管作業に関わってたんでしょうか」
「正式な担当者ではなかったそうよ。ただ、古い事故について問い合わせをしていたことは確認できてる」
「わざわざ辞めた会社の事故を?」
真田は返事をしなかった。
辞めたからこそ、気になることもある。
在職中は言えなかったこと。
忙しさに紛れて確かめられなかったこと。
何年も経ってから、ようやく自分の判断を疑うことだってあるだろう。
ただ、三宅がそうだったと決まったわけではない。
「事故の一覧を」
佐伯が資料を差し出した。
真田は受け取り、古い年から順番に確認した。
労働災害。
設備の故障。
車両の接触事故。
軽傷者の出た転倒事故。
日付と施設名、事故の区分、被害の程度が、同じ形式で並んでいる。
その中に、一件だけ死亡事故があった。
八年前。
旧配送センター。
搬送設備に関する事故。
死亡者一名。
被害者の名前は、結城紗江。
当時三十歳。
真田は指を止めた。
「これね」
佐伯が顔を寄せる。
「三宅さんが調べていた事故ですか」
「まだ断定はできない。でも、篠宮さんが話していた設備停止要請と時期も施設も一致する」
事故報告の概要を読む。
搬送設備付近で作業していた従業員が、設備の稼働中に事故に遭った。
原因については、作業手順の不徹底と設備周辺の確認不足が挙げられている。
形式の整った文章だった。
必要な項目は埋められ、経過は簡潔にまとめられている。
しかし、真田はある箇所で目を止めた。
『設備停止に関する要請については、事故発生後に正式確認』
少しだけ引っかかる表現だった。
真田はその一文を、もう一度読んだ。
「佐伯くん。篠宮さんの話、覚えてる?」
「事故より前に書類を受け取ったっていう話ですか」
「そう」
「でも、これは事故後に正式確認したって書いてありますね」
「受付と正式確認は別の手続きかもしれない」
「じゃあ、矛盾してない可能性もありますね」
「あるわね」
真田は頷いた。
そこが厄介だった。
同じ出来事について書かれた二つの記録が、必ずしも同じ時点を示しているとは限らない。
書類が窓口に届いた時刻。
担当部署へ回された時刻。
内容を確認した時刻。
処理を完了した時刻。
似ているようで、意味は違う。
しかし。
三宅はなぜ、その違いを今になって調べようとしたのだろう。
「事故の調査報告、詳しいものは?」
「追加で確認中です。古い分は本社と外部保管先に分かれているそうで」
「そう」
真田は資料を閉じかけて、もう一度、被害者の名前を見た。
結城紗江。
手帳に書き写す。
数字や日付だけが並ぶ資料の中で、その名前だけが少し違って見えた。
三十歳。
そこで止まってしまった人生があった。
事故の記録には、それ以上のことは何も書かれていない。
夕方、真田は三宅の以前の同僚だった男性から話を聞いた。
小さな面談室には自動販売機の紙コップが二つ置かれ、男性は一口飲むたびに蓋の縁を指で押していた。
「三宅さんは、あの事故のことを気にしていましたよ」
「昔からですか」
「ええ。監査の仕事をしていた頃にも、何度か資料を確認していたはずです」
「問題があったということですか」
男性は少し考えた。
「そこまでは分かりません。ただ、納得していないようには見えました」
「どんな点に?」
「会社から出てきた説明と、現場の人が言っていた話が少し違っていたみたいで」
「具体的には」
「詳しくは聞いていません。監査って、何でも話していい仕事じゃないでしょう」
真田は頷いた。
男性は紙コップを見下ろした。
「それに、当時はもう報告書がまとまっていましたから。あとから調べ直すとなると、いろんな部署に確認しなきゃいけない」
「三宅さんは、それをしなかった?」
「しなかったというより、できなかったのかもしれません」
男性は言葉を選ぶように、ゆっくり続けた。
「三宅さん、慎重な人だったんです。疑わしいだけで人を責めたりしない。だから、何かを言うなら確かなものが欲しかったんじゃないですか」
真田はペンを走らせた。
「最近になって、何か見つかったという話は?」
「移管作業で昔の資料が出てきたとは聞いてます。でも、何が見つかったのかまでは」
「三宅さんとは最近、直接会いましたか」
「先月、電話で話しました」
「何か言っていました?」
男性はしばらく黙った。
廊下から誰かの足音が近づき、扉の前を通り過ぎていく。
「……今度こそ、確かめられるかもしれないって」
「何を?」
「そこまでは聞けませんでした。三宅さん、途中で話をやめてしまったんです」
真田はペン先を止めた。
「どうしてでしょう」
「分かりません。ただ、まだ人に話せる段階じゃないんだろうなと思いました」
男性は紙コップを両手で包んだ。
「三宅さん、本当に亡くなったんですよね」
「はい」
「そうですか」
それきり、男性は黙ってしまった。
真田は少し時間を置いてから、最後の質問をした。
「三宅さんは、八年前の事故について、誰かを疑っていたんでしょうか」
男性は顔を上げた。
「疑っていたかどうかは分かりません」
しばらく考えてから、首を横に振る。
「でも、誰かを責めたいだけなら、あんなに長いこと調べていなかったと思います」
署へ戻ると、佐伯が机に向かっていた。
「真田さん、旧センターの資料移管担当から連絡がありました」
「何か分かった?」
「事故前の受付記録について、別の保管先にも控えがある可能性があるそうです」
真田は上着を椅子に掛けた。
「どこ?」
「外部の保管会社です。ただ、全部の内容はまだ確認できていないみたいで」
「提出をお願いして。今ある資料と照合したい」
「はい」
佐伯が電話へ手を伸ばす。
真田は席に座り、事故報告の写しを取り出した。
『事故発生後に正式確認』
その文章を、指先で押さえる。
嘘なのか。
それとも、手続き上の違いにすぎないのか。
まだ分からない。
ただ、三宅が八年も気にかけていたとすれば、そこには何か理由があるはずだった。
真田は手帳を開き、篠宮澪から聞いた内容と報告書の記載を並べた。
事故前に受付。
事故後に正式確認。
その間に、何があったのか。
二つの記録がどちらも正しいとしても、それだけで疑問が消えるわけではなかった。
何より、今はその事故を調べていた三宅が死んでいる。
真田は紙の上で指を止めた。
八年前の事故。
そして現在の死亡事件。
二つが関係していると考えるには、まだ足りないものが多すぎる。
けれど、無関係だと考えるには、三宅が死の直前まで調べていたものが、あまりに具体的だった。
真田は新しいページを開いた。
一番上に書く。
『結城紗江死亡事故』
その下に、もう一つ。
『三宅尚人死亡』
二つの名前のあいだには、八年という時間がある。
真田は線を引かなかった。
その線を引くための証拠が、まだなかった。




