第4話 紙で切った手
月曜日の朝、篠宮澪はいつもより一本早い電車に乗った。
週末の間に何度も目を覚ましたせいで、眠った時間のわりに頭が重い。車窓には薄い雲が映り込み、その向こうを流れていく街並みが、汚れたガラス越しでは少し色褪せて見えた。
吊革を握ろうと左手を上げ、途中でやめる。
手首の赤みはほとんど消えていたが、袖口が触れるとまだ少しかゆかった。
金曜日の夜から三日。
三宅尚人が亡くなったという知らせを受けてから、澪は何度も同じことを考えていた。
あの送別会で感じた殺意は、三宅の死と関係していたのだろうか。
関係があったとして、誰が、どう関わったのか。
そこまで考えると、いつも行き詰まる。
そもそも三宅は送別会にいなかった。
自分がその夜に知ったのは、近くに殺意を抱く人間がいたということだけで、それが誰に向けられたものかなど分からないのだ。
分かっているのに、十一人の顔を思い浮かべることをやめられなかった。
スマートフォンが震えた。
航からだった。
『ちゃんと朝ごはん食べた?』
澪は画面を見て、わずかに口元を緩めた。
『食べました』
すぐに返事が届く。
『何を?』
『食パン』
『何枚?』
『尋問ですか』
『昨日、夕飯も適当だっただろ』
澪は返信欄に『うるさい』と打ちかけ、少し考えてから消した。
『一枚半。残り半分は明日の私に託した』
『明日には硬くなってるよ』
何をしているんだろう、と自分で思う。
三宅が亡くなった。
その死に、自分が感じた殺意が関係しているかもしれない。
そんなことを考えている朝に、パンの残り半分について恋人とやり取りしている。
けれど、こういうくだらない会話がなければ、きっと今朝は会社まで辿り着けなかった。
『今日、無理するなよ』
最後に届いた文章を見て、澪はスマートフォンをバッグへしまった。
無理をしているつもりはない。
ただ、何をしないことが無理をしないことになるのか、最近は少し分からなくなっていた。
始業十分前の総務部には、すでに何人かが出勤していた。
空調が動き始めたばかりの室内はまだ冷えていて、コピー機の周辺だけが少し暖かい。淹れたてのコーヒーと湿った紙の匂いが混ざり、窓のブラインドの隙間から細長い朝日が床へ落ちていた。
「おはようございます!」
小森が元気よく挨拶した。
「おはよう。朝から元気だね」
「昨日、十時間寝ました」
「羨ましい。私にも二時間分けて」
「それは無理ですけど、栄養ドリンクならあります」
「それも違う気がする」
小森が笑い、机の下から小さな紙袋を取り出した。
「これ、土曜日に買ったんです。篠宮さんにも一つ」
中には個包装の焼き菓子が入っていた。
「ありがとう。どうしたの、急に」
「金曜日、あんまり食べられてなかったじゃないですか。体調悪そうだったし」
澪は菓子を受け取った。
後輩にまで気を遣わせたことが少し気まずい。
「小森さん、もしかして私を太らせようとしてる?」
「違いますよ。いつもお菓子くれるじゃないですか。そのお返しです」
「そういうことなら遠慮なく」
封を開けると、焦がしバターの甘い匂いがした。
澪は一口かじり、ようやく自分が朝食をほとんど味わっていなかったことに気づいた。
「おいしい」
「ですよね。駅前に新しくできたお店なんです」
「今度、場所教えて」
「はい!」
小森は嬉しそうに頷き、自分の席へ戻っていった。
澪は残りを紙袋に戻し、パソコンを起動した。
受信箱には週末を挟んで三十件以上のメールが溜まっている。
備品の発注。
勤怠の修正依頼。
会議室の予約変更。
一番上には、会社から送られた三宅の死亡に関する連絡があった。
澪はその件名を避けるように、別のメールを開いた。
「篠宮さん、少しいい?」
午前十時過ぎ、久我千晴が声をかけてきた。
片手に薄いファイルを持っている。
「はい」
「先月の備品費なんだけど、管理部門の集計と数字が合わなくて。時間あるときに見てもらえる?」
「今日中ですか」
「急ぎじゃない。今週中で大丈夫」
澪はファイルを受け取った。
久我が手を離すとき、親指の付け根に小さな傷が見えた。
赤黒い線が、手の甲へ向かって短く伸びている。
「あれ、久我課長。手、どうしたんですか」
「え?」
久我は自分の手を見た。
「ああ、これ。大したことないよ」
「紙で切ったんですか?」
「いつだったかな。週末に気づいたんだけど」
久我は指を軽く曲げてから、ファイルを抱え直した。
「地味にしみるのよね。手を洗うと」
「分かります。小さい傷ほど痛いんですよね」
「そうそう。なのに見た目は全然大したことないっていう」
久我が笑った。
その声につられて澪も笑い、受け取ったファイルを机へ置いた。
「無理しないでくださいね」
「それ、篠宮さんに言われたくないな」
久我は肩をすくめた。
「金曜日だって、顔色が悪かったじゃない。もう大丈夫?」
「はい。いつものことなので」
「その『いつものこと』が心配なんだけど」
少しだけ声が柔らかくなった。
澪は視線を落とした。
「ありがとうございます」
「何かあったら言って。仕事はこっちで調整するから」
久我が自席へ戻っていく。
澪はファイルを開き、数字の違いを確認し始めた。
二つの集計表を並べると、合計が三千円ほどずれている。
どこかで同じものを二度計上したのだろう。
こういう作業は嫌いではない。
間違っている数字には、必ず理由がある。
元のデータを順番に確認していけば、いつか正しい合計に辿り着く。
人間の言葉も、そうだったらいいのに。
ふとそんなことを考えて、澪は指を止めた。
画面に並ぶ数字は、ただそこにあるだけだった。
昼休み、小森がスマートフォンを差し出してきた。
「金曜日の写真、送ってもいいですか?」
画面には、送別会の最後に撮影した集合写真が表示されていた。
長峰を中心に、十二人が二列に並んでいる。
澪は端のほうで、少しぎこちなく笑っていた。
「私、変な顔してない?」
「いつもと同じですよ」
「それは褒めてる?」
「もちろんです」
写真を拡大すると、一人ひとりの表情がよく見えた。
長峰は顔を赤くして笑っている。
久我は花束を持つ長峰の横に立ち、小森は前列で両手を揃えていた。
結城は後ろの列にいる。
口元はわずかに緩んでいるものの、視線がカメラから少し外れていた。
「結城さん、写真苦手なんですかね」
小森が言った。
「どうして?」
「なんか、ずっと静かだったから。長峰さんとは昔、同じ現場だったんですよね」
「そうみたい」
「送別会って、仲のいい人だけが来るわけじゃないですもんね」
小森は何気なく言い、写真を送信した。
澪のスマートフォンが短く震える。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
小森は自分の席へ戻っていった。
澪は写真を閉じようとして、指を止めた。
仲のいい人だけが来るわけではない。
当たり前のことだ。
長く同じ会社に勤めていれば、表面上は笑っていても、相手を嫌っていることくらいある。
仕事で責任を押しつけられたこと。
自分だけ評価されなかったこと。
何年経っても忘れられない失敗や、謝ってもらえなかった一言。
そういうものを抱えたまま、同じテーブルを囲むことだってある。
けれど。
相手を嫌っていることと、殺そうと思うことは違う。
澪は画面を閉じた。
その違いを、いったい何人が意識して暮らしているのだろう。
午後三時を回った頃、澪のもとに社内システムから通知が届いた。
旧配送センター関連資料の閲覧履歴についての確認だった。
金曜日の夜、自分が古い受付記録を開いたことが記録されている。
保管資料の移管作業に伴い、古いデータへのアクセスが通常より多くなっているため、担当部署で利用目的を確認しているという。
澪は画面を見つめた。
特別なことではない。
会社の記録を扱う以上、誰がいつ何を閲覧したのか履歴が残るのは当然だ。
しかし、送別会の後に一人で会社へ戻ったことを、警察にも説明したばかりだった。
澪は利用目的の欄に文字を入力した。
『元監査担当者からの問い合わせに伴う、過去の受付記録確認』
送信ボタンを押す。
これで十分なはずだ。
十分なはずなのに、画面が切り替わっても、指先の力が抜けなかった。
背後では誰かが電話に出ている。
「はい、総務部です。担当を確認いたしますので、少々お待ちください」
いつもと変わらない午後だった。
帰宅したのは午後七時を少し過ぎた頃だった。
玄関で靴を脱ぎ、洗面所で手を洗う。
左腕の赤みはほとんど見えなくなっていた。
澪はリビングの棚から一冊のノートを取り出した。
濃い紺色の表紙。
角が擦れ、背表紙の布が少し浮いている。
中には日付と場所、発作の症状が細かな字で記録されていた。
以前は医師に説明するためにつけていたものだ。
いつ頃からか、ほかのことも書き加えるようになった。
近くにいた人間。
周囲の状況。
その後に起きた出来事。
澪は新しいページを開いた。
金曜日の日付。
時刻は午後八時十二分頃。
場所は、長峰の送別会。
左腕の蕁麻疹。首筋のかゆみ。軽い息苦しさ。
参加者十二人。
そこまで書いてから、澪はペンを止めた。
『殺意の持ち主は不明』
一行空けて、そう記した。
その下には、翌朝の出来事を書き足した。
『翌朝、三宅尚人さんが旧配送センターで死亡しているのが発見された』
そして、さらにその下へ。
『関連は不明』
澪はしばらく、その四文字を見つめていた。
分からない。
本当に、何も分からない。
それなのに、送別会の集合写真を見たときから、ある人物の顔が何度も浮かんでくる。
澪はノートの端に、書きかけた名前を一文字だけ残して手を止めた。
まだ、何も確かめていない。
ペン先を紙から離す。
その小さな動きが、自分の中で何かを押し戻すように感じられた。
ノートを閉じる直前、澪はもう一度、最後の一行を確認した。
関連は不明。
ただ、その言葉を書いたからといって、頭の中に浮かぶ疑いまで消えるわけではなかった。




