第3話 午後四時四十分のメール
澪が久我からの連絡を読み終えたとき、コーヒーはすっかり冷めていた。
画面を閉じても、書かれていた名前が目の奥に残っている。
三宅尚人。
昨日まで生きていた人だった。
夕方にメールを送ってきて、八年前の書類について尋ねてきた。自分が返信するときも、当然、その先に続くやり取りがあるものだと思っていた。
また連絡します。
確認できたら教えてください。
そんな何でもない言葉を交わすつもりだった。
それがもう、できない。
澪はスマートフォンのメールを開いた。
昨日のやり取りが並んでいる。
午後四時四十分。
三宅からの問い合わせ。
午後五時過ぎ。
自分からの返信。
午後十時三十八分。
受付記録を確認したという追加の連絡。
一番下には、相手からの返信がないまま残っている。
澪は親指を画面の上に置いた。
昨夜、メールを送ったとき、三宅はどこにいたのだろう。
もう自宅へ帰っていたのか。
それとも、まだ旧配送センターにいたのか。
死亡したというだけで、詳しいことは何も分からない。
会社からの連絡にも、死因は書かれていなかった。
突然の病気かもしれない。
転んで頭を打ったのかもしれない。
そう考えながら、澪の視線は何度も昨日の発作記録へ戻った。
けれど、二つの出来事をつなぐ理由は何も見つからなかった。
澪はスマートフォンを伏せた。
テーブルの端に置いたコーヒーカップから、もう湯気は上がっていない。
午前十一時二十分。
航から電話がかかってきた。
「起きてた?」
開口一番、そんなことを言う。
「もう十一時だけど」
「休みの日だし、まだ寝てるかと思って」
「私を何だと思ってるの」
「休日にアラームを六回止める人」
「五回です」
「一回しか違わないだろ」
高瀬航は三十五歳。
同じ会社の情報管理部門に勤めていて、澪とは三年以上の付き合いになる。
もともとは社内システムの問い合わせを通じて顔を合わせるようになった。澪が何度も似たような質問をするので、航が根負けして操作手順をまとめて渡してくれたのが最初だった。
今でも、会社のパソコンが動かなくなると、澪はつい航の名前を検索しそうになる。
「昼、何か食べる?」
航が訊いた。
「まだ考えてない」
「朝は?」
「コーヒー」
「それ食事じゃない」
「豆からできてるよ」
「そこから説明しなきゃ駄目か」
澪は少し笑った。
笑った拍子に左腕が服へ擦れ、赤くなった皮膚がひりつく。
電話の向こうで、航が静かになった。
「腕、また出た?」
「なんで分かるの」
「昨日、飲み会だったから」
「飲み会のたびに出るわけじゃないけど」
「そうだな。で、今回は?」
澪はカップの取っ手を指でなぞった。
「出た。ちょっとひどかった」
「今は?」
「落ち着いてる」
「いつもの返事だな」
「本当に落ち着いてるって」
航はそれ以上問い詰めなかった。
澪の体質について、航は詳しい原因を知らない。少なくとも、澪が話している範囲では。
幼い頃から原因不明の発作があること。人混みや特定の場所で急に症状が出ること。
その程度だ。
誰かの殺意に反応しているという話までは、したことがなかった。
言っても信じてもらえないかもしれない。
それ以上に、航が自分をどんな目で見るようになるのかが分からなかった。
「そういえば」
澪が口を開くより先に、航が言った。
「三宅さんのこと、聞いた?」
澪の指が止まった。
「会社から連絡が来た」
「そうか」
「昨日、私にメールが来てたんだよ」
少し間があった。
「三宅さんから?」
「うん。昔の書類を調べてるみたいで」
「何の書類?」
「八年前の配送センターの記録」
電話の向こうで、何かを置く小さな音がした。
「……そうなんだ」
いつもの航なら、そこで詳しい事情を聞くか、何か気の利いたことを言う。
けれど、今はそれ以上尋ねてこなかった。
澪はわずかに眉を寄せた。
「どうしたの?」
「いや。亡くなった人から前日に連絡が来てたって、変な感じだろうなと思って」
「うん」
それは、そのとおりだった。
澪は椅子の背にもたれた。
「私、昨日、夜遅くにも返信したんだよね。あれ、読んだのかな」
「分からないな」
航の声は穏やかだった。
「気になるなら、メールは消さないほうがいいと思う。警察から何か聞かれるかもしれないし」
「そうだね」
「昼、無理して出てこなくていいから。必要なものあったら持っていくよ」
「そこまで弱ってないって」
「はいはい」
電話を切った後、澪はしばらく動かなかった。
航の声を聞いて少し落ち着いたはずなのに、最後の「はいはい」だけが耳に残っていた。
何かを言い忘れたような、聞き忘れたような。
けれど、それが何なのかは分からなかった。
午後一時四十分。
知らない番号から電話がかかってきた。
澪は一度見送りかけてから、画面に指を滑らせた。
「はい、篠宮です」
『突然のお電話、失礼します。警察の真田と申します』
澪は背筋を伸ばした。
『三宅尚人さんのことで、少しお話を伺いたいのですが』
「三宅さんのことですか」
『はい。昨日、三宅さんからご連絡を受けていたそうですね』
澪は机の上を見た。
伏せていたスマートフォンを持ち直す。
「……はい。メールをいただいていました」
『差し支えなければ、内容を確認させていただけますか』
「私に分かることであれば」
『ありがとうございます。ご都合を伺って、直接お話しできればと思っています』
電話は丁寧だった。
疑われている、と感じるほどの言葉はない。
それなのに澪は、相手が話している間ずっと、自分の左腕を見ていた。
昨日の発作。
昨夜のメール。
八年前の受付記録。
聞かれることは、そのどれだろう。
そして自分は、どこまで話せばいいのだろう。
真田と会ったのは、その日の午後だった。
案内された部屋は、想像していた取調室とは違っていた。
壁は薄いクリーム色で、窓際には小さな観葉植物が置かれている。長方形のテーブルを挟んで椅子が四脚あり、隅の電気ポットから微かな湯気が上がっていた。
しかし、空気はどこか乾いていた。
澪はバッグを膝の上に置き、持ち手を指に絡めた。
向かいに座った真田は、髪を短く整えた女性だった。
年齢は澪より少し上に見える。
薄い化粧と落ち着いた服装で、話し方にも余計な力がない。
「お休みのところ、ありがとうございます」
「いえ」
「三宅さんとは、以前からお付き合いがあったんですか」
「同じ会社でしたけど、部署が違いました。監査の関係で何度かお話しした程度です」
「最近も?」
「いいえ。直接連絡があったのは、昨日が久しぶりでした」
澪はメールを表示したスマートフォンを差し出した。
真田は内容をゆっくり読んだ。
「旧配送センターの受付記録について、ですね」
「はい」
「八年前の書類というのは?」
澪は息を整えた。
「設備の停止要請です。現場から、搬送設備を止めてほしいという書類が提出されていました」
「その受付を、篠宮さんが?」
「はい。当時はまだ新人で、総務の窓口を担当していました」
「覚えていらっしゃるんですね」
「……覚えています」
真田は一度だけ頷き、手元の資料へ目を落とした。
「昨夜は会社の送別会に参加されていたそうですね」
「はい」
「何時頃まで?」
「九時過ぎまでです」
「途中で席を外したと伺っています」
「体調が悪くなって、少し洗面所へ行きました」
「普段から、そういうことはありますか」
澪は袖口を押さえた。
「皮膚に症状が出ることがあるんです。原因がはっきりしていなくて」
「昨日も?」
「はい」
「それは大変ですね」
真田は同情するでも疑うでもない声で言った。
澪は曖昧に笑った。
「慣れていますから」
慣れている。
口に出してから、嫌な言葉だと思った。
慣れていれば平気なのかと訊かれれば、そんなことはない。
ただ、人に説明するのが面倒になっただけだった。
「送別会が終わった後は?」
真田が尋ねた。
「会社へ戻りました」
「本社へ?」
「はい」
「何かお忘れになったんですか」
「そういうわけでは……」
澪は一度口を閉じた。
真田は急かさなかった。
机の上でペンを持ち、ただ続きを待っている。
澪は膝の上のバッグを少しずらした。
「三宅さんからのメールが気になって、昔の受付記録を確認しようと思ったんです」
「送別会の後に?」
「はい」
「何時頃か覚えていますか」
「本社に入ったのは九時五十分を少し過ぎていたと思います。出たのは十一時前です」
真田がメモを取る。
「記録は確認できましたか」
「受付一覧には、私の名前が残っていました」
「ほかには?」
澪の喉が小さく動いた。
何を訊かれているのかは分かっている。
しかし、どう答えればいいのかが分からなかった。
八年前の事故。
その前に提出された停止要請。
事故の後に作られた報告書。
澪は、そこに書かれていた言葉を覚えている。
自分が書類を受け取ったときの状況と、報告書に書かれた経緯が、どうしても同じものに思えなかった。
当時、その違いについて説明を受けた。
そして、それ以上は追及しなかった。
「報告書と照らして、分からないところがありました」
澪は答えた。
「分からないところ?」
「受付時刻の扱いです。私が受け取った記録と、正式な報告書では、少し違っているように見えて」
「そのことを三宅さんへ伝えたんですか」
「はい。メールで」
真田は画面へ目を向けた。
「午後十時三十八分ですね」
澪は頷いた。
「その後、三宅さんから返信は?」
「ありませんでした」
真田は少し考えてから、ペンを置いた。
「では、三宅さんと最後に直接お話ししたのは、かなり前ということですね」
「はい」
「最近、お会いしたこともありませんか」
「ありません」
澪は答えながら、バッグの持ち手を握り直した。
真田はしばらく何も言わなかった。
机の上に置いたスマートフォンの画面が暗くなる。
その瞬間、澪は自分の顔が黒い画面に映ったのを見た。
昨日の夜、三宅は生きていた。
自分にメールを送り、返事を待っていた。
その人が、もういない。
そして、自分は今、警察に昨夜の行動を説明している。
当たり前のことをしているだけなのに、一つずつ言葉にするたび、自分の行動がどこか別の意味を持ち始める気がした。
「篠宮さん」
真田が顔を上げた。
「三宅さんが調べていた八年前の事故について、もう少し詳しく伺ってもいいですか」
澪は手首を押さえていた指を離した。
赤い跡は、ほとんど消えている。
「……はい」
声は思ったより小さかった。
真田は頷き、次の質問へ移る。
「当時の報告書を作成された方は、どなたか分かりますか」
澪はすぐには答えられなかった。
何人かの顔が浮かぶ。
当時の上司。
現場の責任者。
書類を扱った先輩。
八年も経てば、役職も部署も変わっている。
それでも、あの日の会話だけは思い出せた。
書類の扱いについて尋ねた自分に、落ち着いた声で説明してくれた女性。
受付した時点と、正式に内容を確認した時点は違うのだと。
新人だった澪は、その説明を聞いて頷いた。
あのとき、自分の身体には何の異常も起きなかった。
だから、少しだけ安心したのだ。
そんなことを思い出している自分に、澪は気づいた。
「篠宮さん?」
真田の声が聞こえる。
澪は目を上げた。
「すみません。昔のことなので、少し整理させてください」
「構いません。急がなくて大丈夫です」
真田はそう言って、ペンを持つ手を下ろした。
澪は膝の上で指を組んだ。
自分の身体は、あのとき反応しなかった。
それは本当だ。
けれど、あの書類の説明が正しかったかどうかまでは、何も教えてくれなかった。
どうして今になって、そんなことを考えているのだろう。
答えを探している間にも、部屋の時計は進んでいた。
警察署を出ると、空が少し暗くなり始めていた。
建物の外には夕方の風が流れ、街路樹の葉が乾いた音を立てている。道路を挟んだ向こう側から、揚げ物の油の匂いがした。
澪は立ち止まり、スマートフォンを取り出した。
三宅とのメールを開く。
最後に送った自分の文章が表示される。
『もう少し確認させてください』
あの人は、何を確認したかったのだろう。
八年前の記録のどこに疑問を持っていたのか。
そして、なぜ自分へ連絡してきたのか。
澪は画面を閉じかけて、もう一度開いた。
午後十時三十八分。
その数字が、どうしても目から離れなかった。
昨日の送別会で感じた殺意と、三宅の死が関係しているのかどうかは分からない。
ただ、あの夜のことを思い返すたびに、十二人の顔が浮かんでくる。
笑っていた人。
黙っていた人。
誰かの話に頷いていた人。
そして、あのとき何を考えていたのか、少しも分からなかった人たち。
澪は歩き始めた。
途中で左腕がかゆくなり、反射的に袖の上から指を当てる。
けれど、すぐに新しい発疹が出たわけではないと気づき、手を下ろした。
交差点の信号が赤に変わる。
待っている人たちの間を、冷たい風が抜けていった。
昨日の夜、自分の身体が何を知らせていたのか。
確かめる方法は、まだ何もなかった。
それでも、澪の頭には一つの考えが居座っていた。
あの十二人の中に、三宅尚人を殺そうとしていた人間がいたのではないか。
そう考えるだけの証拠は、一つもない。
分かっている。
分かっているのに、昨夜のかゆみを思い出すたび、その考えだけが戻ってくる。
信号が青になった。
澪は周囲の人たちに遅れて、ゆっくり横断歩道へ踏み出した。
その頃、警察では真田亜紀が、澪から聞いた証言を整理していた。
送別会で体調を崩したこと。
終了後に一人で本社へ戻ったこと。
死亡した三宅と事件前に連絡を取っていたこと。
八年前の記録を調べていたこと。
いずれも、それ自体は不自然な行動とは言い切れなかった。
しかし、三宅の死と無関係だと決めつけることもできない。
真田は手帳を閉じる前に、もう一度、篠宮澪の名前を見た。
彼女が何かを隠しているように感じたのは、気のせいだろうか。
もし隠しているのだとしたら、それは八年前の事故についてなのか。
それとも、昨夜の出来事なのか。
真田はその二つを、まだ同じものとして扱わなかった。
ただ、どちらも確かめる必要があると思った。
机の上に置かれた三宅の所持品一覧には、死亡するまで持ち歩いていた鞄の内容が記されている。
スマートフォン。
財布。
車の鍵。
筆記具。
透明ファイル。
真田はその最後の項目を見つめた。
ファイルの中身は空だった。
三宅が何を持って旧配送センターへ向かったのか、まだ分かっていない。
そして、八年前の受付記録を確かめようとしていた男が、なぜあの階段の下で死んでいたのか。
その答えも、まだどこにもなかった。




