第2話 階段の下
男を見つけたのは、旧配送センターの管理を任されている六十三歳の男性だった。
午前七時十分。
土曜日の朝は普段より車が少なく、施設の裏手を通る道路にも人影はなかった。
管理人はいつものように敷地を見回り、屋外搬入口へ続く階段の前で足を止めた。
初めは、何か大きな荷物が放置されているのだと思った。
灰色のジャケット。
黒い革靴。
身体の下で、不自然な方向へ曲がった片腕。
何が落ちているのか理解した瞬間、管理人は持っていた鍵束を落とした。
金属のぶつかる音が、朝の静けさの中でひどく大きく響いた。
真田亜紀が現場に到着したのは、午前八時を少し過ぎた頃だった。
旧配送センターの建物は、長年の排気ガスと雨で外壁がくすんでいた。閉鎖されてからしばらく経つらしく、正面の看板は取り外され、残った金具が錆びている。
裏手には濡れた段ボールと古い木材の匂いが漂っていた。
昨夜の雨がまだ乾ききっていない。
規制線をくぐったところで、真田は足元を確かめた。
コンクリートには浅い水たまりがあり、階段の下には男性が倒れていた位置を示す目印が置かれている。
遺体はすでに検視に向けた確認が進められていた。
「四十代男性。所持品から三宅尚人、四十六歳と判明しています」
隣に来た若い刑事が手帳を開く。
真田は頷き、階段を見上げた。
七段。
手すりは右側にあり、踊り場から道路へ抜ける細い通路が続いている。
上から足を滑らせれば、確かに頭を強く打つ可能性はある。
「見つけた人は?」
「施設の管理人です。朝の見回り中に発見しました。昨夜はこの場所に来ていないそうです」
「それは確認が必要ね」
「はい」
真田は階段をゆっくり上がった。
靴底が濡れたコンクリートを踏むたび、細かな砂が擦れる音がする。
手すりには剥がれかけた灰色の塗料が残り、その下から茶色い錆がのぞいていた。
最上段で振り返る。
道路から搬入口までは、ほとんど死角のない短い通路だった。
しかし夜になれば話は違う。
街灯は少し離れた交差点に一つ。階段の上を照らす照明器具はあるものの、現在使われているかどうかは分からない。
昨夜、ここで誰かと会っていたとしても、それに気づく人がいたとは限らなかった。
「事故に見えますか」
若い刑事が尋ねた。
真田はすぐには答えなかった。
「見えるわね」
手すりに触れないよう身体を傾け、下をのぞき込む。
「でも、事故に見えることと、事故だったことは別だから」
言い終えてから、少し説教じみたと思った。
若い刑事は気にした様子もなく、階段の下へ戻っていった。
真田も後を追う。
遺体の頭部には強い衝撃を受けた痕跡があり、衣服には擦れた跡が残っていた。
ただ、気になることが一つあった。
「右手、見せてもらっていいですか」
担当者が位置を調整する。
三宅の右手は、何かを握ろうとしたように指が曲がっていた。
爪の周囲には細かな傷があり、その一部に乾いた汚れが残っている。
転落した際に周囲のものを掴んだのかもしれない。
誰かと争った可能性もある。
「爪の下の付着物も、落とさずに回してください」
真田が言うと、担当者は頷いた。
「ほかに所持品は?」
「財布、スマートフォン、車の鍵。鞄も近くにあります」
「金品は?」
「現時点では、抜き取られたような様子はありません」
真田は鞄を確認した。
黒いビジネスバッグ。
表面には使い込まれた細かな傷があり、持ち手の革だけが少し白くなっている。
中には筆記具、財布とは別のカードケース、折り畳まれたハンカチ、それから薄い透明ファイルが一枚。
ファイルには何も挟まっていなかった。
鞄を持っていたからといって、必ず書類が入っていたとは限らない。
ただ、なぜ土曜日の朝に、すでに閉鎖された配送センターで死んでいたのか。
そこを確かめる必要があった。
管理人は施設の事務室で事情を聞かれていた。
壁に掛けられた時計は、数分遅れているらしい。真田が入ると、管理人は何度も頭を下げた。
「私、本当に何も見てなくて」
「大丈夫です。分かっていることから教えてください」
真田は向かいの椅子に座った。
暖房の切れた部屋は外よりも冷え、古い机から湿った木の匂いがした。窓の向こうでは鑑識の作業が続いており、時折、無線の声が聞こえてくる。
「この施設は、今も使われているんですか」
「荷物はもう扱っていません。ただ、古い書類や設備の整理をしてまして。売却の話もあるんで」
「昨日も人の出入りが?」
「ええ。昼間は何人か。書類を運び出したり、残すものを確認したりしてました」
「亡くなった三宅さんを見たことはありますか」
管理人は首を傾げた。
「昔、監査の関係で来ていた方ですよね。顔は知ってます。でも、昨日は見てないと思います」
「以前はこの会社に勤めていたんですか」
「そう聞いてます。長いこと監査の仕事をしてたとか」
真田は手帳に書き込んだ。
「昨夜、施設の外階段を使う人はいましたか」
「私が見た範囲じゃ、いません。あの階段、外からも入れますけど、夜はまず人が来ないんですよ」
「照明はつきます?」
「つくはずです。少し暗いですが」
管理人はそこで口を閉じた。
窓の外を見てから、声を落とす。
「事故なんでしょうか」
「まだ調べているところです」
「そうですか」
管理人は膝の上で手を重ねた。
その指先が小刻みに動いていた。
真田は彼が落としたという鍵束のことを思い出した。
人が死んでいるところを最初に見つければ、落ち着いて話せる人間のほうが少ない。
それでも、確認しておかなければならないことは残っている。
「最後に見回りをした時間を、もう一度教えてください」
午前十時過ぎ。
現場を離れた真田は、車内で冷めた缶コーヒーを口にした。
苦みばかりが残り、甘さがほとんど感じられなかった。
助手席では若い刑事が、管理人の証言と施設の出入りに関する情報を照らし合わせている。
「三宅さんは元内部監査担当ですね。退職後も会社の人間と連絡を取っていたようです」
「最近の連絡先は?」
「まだ確認中です。旧センターの資料移管について問い合わせをしていた形跡があるそうです」
「会社には連絡した?」
「はい。施設を所有している朝凪ロジスティクスへは警察から連絡が入っています。総務の責任者が対応してくれるそうです」
「名前は?」
「久我千晴。総務課長です」
真田は缶をカップホルダーへ戻した。
会社に関係する人間が、会社の古い施設で死亡している。
それ自体は不自然だが、まだ殺人と決まったわけではない。
たまたま昔の職場へ来た可能性もあるし、誰かに呼ばれたのかもしれない。
あるいは、何かを取りに来たのか。
「亡くなった方のご家族には?」
「連絡を進めています」
「所持品の確認は慎重に。最近の通信履歴と、この施設へ来た理由が分からないと、転落の状況だけ見ていても進まないから」
若い刑事は頷いた。
真田は窓の外を見た。
秋の日差しが建物の壁を照らしている。
こういう日の朝に、人が死んでいる。
それは何度経験しても、景色と出来事がうまく重ならなかった。
久我千晴との連絡がついたのは、午前十時半を回った頃だった。
電話の声は落ち着いていたが、少し早口だった。
「三宅さんのことですよね。今朝、施設の担当者から連絡を受けました。私も驚いているところです」
「お忙しいところ申し訳ありません。三宅さんは最近、会社へいらしていましたか」
「直接は確認できていません。ただ、古い書類を調べていたとは聞いています」
「どういった書類ですか」
「昔の配送センターに関するものだと思います。保管資料の移管が進んでいますので、その関係かと」
「具体的な担当者は分かりますか」
電話の向こうで紙が擦れる音がした。
「当時の受付記録について、うちの篠宮という社員に確認していたようです」
真田はペンを止めた。
「篠宮さん、ですね」
「はい。篠宮澪です。現在も総務部におります」
「三宅さんとは親しかったんですか」
「そこまでは分かりません。以前、同じ会社に勤めていたという関係ですから」
久我は少し間を置いた。
「ただ、昨夜は長峰という社員の送別会がありまして。篠宮も参加していました」
「送別会ですか」
「はい。社員十二人で集まりました。三宅さんは参加していませんけれど」
真田は手帳の端に数字を書いた。
十二。
「篠宮さんは、何時頃まで参加されていましたか」
「途中で体調が悪くなって、一度席を外していたと思います。最後はいたはずですけど、正確な時間は本人に確認していただいたほうがいいですね」
「体調が悪くなった?」
「ええ。以前から皮膚の症状があるようで、ときどき急に席を外すことがあるんです」
「そうでしたか」
それ以上は尋ねなかった。
体調を崩した社員が宴席から退席したというだけなら、珍しい話でもない。
久我は続けて、会社側として必要な資料があれば協力すると申し出た。
真田は礼を述べ、電話を切った。
助手席の刑事が顔を向ける。
「送別会、関係あるんですかね」
「まだ分からない」
「元社員の三宅さんは参加してなかったそうですし」
「だからこそ、どうしてその話が出たのかは確認したいわね」
真田は手帳を見下ろした。
三宅尚人。
四十六歳。
旧配送センターの外階段で死亡。
元内部監査担当。
最近、過去の資料を調べていた。
そして、八年前の受付記録を確認していたという女性社員。
篠宮澪。
名前の横に小さく印をつけた。
午後になって、現場からの追加報告が届いた。
三宅の衣服には、転落による擦過傷とは異なる可能性のある傷みがあった。
ただし、それが生前の争いによるものなのか、落下した際に生じたものなのかは、まだ判断できない。
検視と鑑定の結果を待つ必要がある。
「殺人ですかね」
若い刑事が訊いた。
真田は報告書を机に置いた。
「その可能性はある」
「最初は事故かと思いました」
「私も、そう見えた」
「でも、違うかもしれない」
「だから調べるんでしょう」
真田は立ち上がり、窓際へ歩いた。
警察署の前を、親子連れが通り過ぎていく。
子どもが片方の靴を引きずり、母親がしゃがんで何かを直してやっている。小さな身体が母親の肩に寄りかかり、やがて二人は何事もなかったように歩き出した。
真田はその姿を見送り、机へ戻った。
三宅が最後に誰と会ったのかは、まだ分からない。
過去の資料を調べていたことが、死亡と関係しているかどうかも不明だった。
しかし、彼の死を知った人々がそれぞれ何を話し、何を話さなかったかは、これから確かめられる。
そして人間は、嘘をつくときだけ何かを隠すわけではない。
本人にとっては必要のない話だったり、思い出したくない出来事だったりすることもある。
その違いを見誤ると、捜査は簡単に間違った方向へ進む。
真田は手帳の新しいページを開いた。
最初に書いたのは、篠宮澪の名前だった。
その横に、三宅からの古い記録の問い合わせと、送別会を途中で離れたという情報を書き加える。
今のところ、それ以上の意味はなかった。




