第1話 十二人の中に
午後四時四十分。
篠宮澪は、届いたばかりのメールを開いてから、しばらくマウスを動かせずにいた。
総務部の窓際では、後輩の小森がコピー機と格闘している。給紙トレイを引き出しては戻し、そのたびに機械が短い警告音を鳴らした。秋の夕日は向かいのビルに遮られ、蛍光灯の白さだけが机の上に残っている。
「篠宮さん、すみません。これ、紙が詰まってるって出るんですけど、どこにもないんです」
「もう一回開けてみて。奥のローラーのところ」
「見たんですけど」
「じゃあ、たぶん小森さんが嫌われてる」
「機械にもですか」
「ほかにも心当たりあるの?」
「やめてくださいよ」
小森が笑ったところで、ようやく澪も席を立った。
コピー機の奥から折れ曲がった紙片を引き抜くと、警告表示が消えた。小森は大げさに両手を合わせ、澪はその額に紙片を貼りつける真似をしてから自分の席へ戻る。
画面には、まだメールが開かれていた。
差出人は三宅尚人。
以前、社内監査を担当していた男性だ。
数年前に会社を離れてから直接話したことはなかったが、律儀な文章の癖は変わっていない。
件名は『旧配送センターの受付記録について』。
本文は短かった。
八年前に提出された設備停止要請票について、確認したいことがあります。
最初に受け付けたのは篠宮さんだったと記憶していますが、間違いないでしょうか。
可能であれば、当時の受付時刻を確認していただけませんか。
お忙しいところ申し訳ありません。
最後まで読んだところで、澪は右手の人差し指を握り込んだ。
八年前。
あの日も、こんなふうに仕事が立て込んでいた。
受付印を押した赤い台紙と、窓口に立っていた女性の顔が頭をよぎる。女性は何かを急いでいた。紙の端を押さえる指に黒い汚れがついていて、それが機械油だったのか、ただの埃だったのかまでは覚えていない。
けれど、事故が起きる前に書類を受け取ったことだけは、今でもはっきりしていた。
「篠宮さん」
背後から声をかけられ、澪は反射的に画面を切り替えた。
振り向くと、久我千晴が書類の束を抱えて立っていた。
「その顔、まだ帰れそうにない?」
「帰れます。たぶん」
「たぶんは困るな。今日は長峰さんの送別会なんだから」
「久我課長こそ、机の上に仕事が積んでありますよ」
「私の机は見ないで。あれは景色だから」
「ずいぶん圧迫感のある景色ですね」
久我は小さく笑い、書類を澪の机に一部置いた。
三十九歳。総務課長になって二年が経つ。
仕事の速さに定評がある一方、細かな雑務を後回しにする癖もあった。忙しいときほど人に頼むのがうまくなり、それが嫌味にならないのは、本人も誰より遅くまで残っているからだろう。
澪が入社した頃から、ずっと同じ部署で働いている。
「じゃあ、六時半には切り上げて。遅刻したら乾杯の挨拶、代わってもらうから」
「それだけは絶対に嫌です」
「だったら仕事を終わらせて」
久我が離れてから、澪はもう一度メールを開いた。
返信欄に文字を打つ。
『私が受け取った記憶があります。記録を確認してみます』
送信ボタンを押すまでに、二度読み返した。
たったそれだけの文章なのに、何か余計なことまで認めてしまった気がした。
送別会の会場は、駅から五分ほど歩いたところにある和食店だった。
店内には焼いた魚と醤油の匂いが漂い、壁際に置かれた小さな暖房器具から乾いた温風が流れている。外では夕方から細い雨が降っていたらしく、入口に並んだ傘の先から、畳敷きの廊下へ水滴が落ちていた。
午後六時四十五分。
乾杯の音頭を取った長峰省吾が、ビールの入ったグラスを高く掲げる。
「まあ、こうして送り出していただけるだけでもありがたいことです。長い間、本当にお世話になりました」
長峰は五十八歳。
現場一筋で働いてきたという自負があり、会社の行事でも声が大きい。退職が決まってからは、どこか肩の荷が下りたように見えた。
「お疲れさまでした!」
十二人の声が重なり、グラスが触れ合う。
澪はウーロン茶を少しだけ飲んだ。
アルコールを避けているのは、翌日も予定があるからではない。普段から、こういう席ではなるべく飲まないようにしている。
体調を崩したとき、原因を酒のせいにされたくなかった。
「篠宮さん、料理取りましょうか」
隣に座った小森が、大皿を持ち上げる。
「ありがとう。じゃあ、お刺身を少し」
「サーモンでいいです?」
「うん。できればワサビも」
「ワサビ、結構つけるんですね」
「辛いのは平気。人生のほうが辛いから」
「今日も残業代の話ですか」
「よく分かったね」
小森が笑う。
こういう会話をしている間は、澪も普通の会社員でいられた。
毎月の締め作業に追われ、上司に頼まれた書類を整え、帰りにスーパーで値引きされた惣菜を買う。朝になればまた同じ場所へ向かう、ごく当たり前の生活。
それを当たり前のまま続けるのは、思っていたより難しい。
長峰の話は相変わらず長かった。
若い頃にどれだけ忙しかったか。配送センターの立ち上げがどれほど大変だったか。今の社員は恵まれているから、もっと積極的に仕事を覚えたほうがいい。
澪の向かいに座っていた男性社員が、誰にも見えないように時計を確認した。
久我は長峰の話に相槌を打ちながら、空いた皿をまとめている。
その少し先に結城晴臣が座っていた。
物流部門の社員で、四十一歳。以前は現場にいたが、今は配送計画の仕事が中心だと聞いている。
澪とは必要な書類のやり取りをする程度で、個人的な話をしたことはほとんどない。
ただ、今夜は少し様子が違っていた。
乾杯から一時間ほど経っても、結城の前にあるビールはほとんど減っていない。
何度かスマートフォンを取り出し、画面を確かめては伏せている。
「結城さん、今日は早く帰るんですか」
近くの社員に尋ねられ、結城はわずかに顔を上げた。
「娘と約束があるんで」
「そりゃ大事だ。何歳でしたっけ」
「十二です」
「もう中学生になるのか。早いなあ」
結城は曖昧に笑った。
澪は刺身に醤油をつけ、口へ運ぶ。
そのとき、長峰がグラスを置いた。
「うちの仕事はね、結局、荷物を止めないことが一番なんですよ。予定どおりに回して、お客さんに迷惑をかけない。その積み重ねです」
何気ない仕事の話だった。
誰かが頷き、別の誰かが笑った。
澪は飲み物に手を伸ばしたまま、結城の箸が止まったことに気づいた。
午後八時十二分。
最初は、左手首に小さな虫が止まったような感覚だった。
澪は袖の上から軽くこすった。
しかし、かゆみは消えなかった。
皮膚の内側を細い糸で引っかかれるような感覚が、手首から肘へ向かってゆっくり移動していく。
嫌な予感がして、澪はテーブルの下で袖をまくった。
赤い膨らみが三つ。
そのうちの一つが、見ている間に少しずつ大きくなった。
膨らみの輪郭が隣とつながり、皮膚の上に不規則な地図のような模様を作っていく。
澪は息を吐いた。
まただ。
「篠宮さん?」
小森が顔を寄せてきた。
「大丈夫ですか。顔、ちょっと赤いですよ」
「お店、暖かいからね」
「でも、腕が」
「いつものこと。肌が弱いの」
澪は袖を下ろした。
まだ誰も気づいていない。
それなら、今は余計な騒ぎを起こさずに済む。
けれど、目の前の料理へ視線を戻しても、かゆみは引かなかった。
首筋にも小さな熱が生まれ、襟の内側が触れるたびに皮膚がひりつく。
食べ物ではない。
酒も飲んでいない。
この感覚を、澪は知っている。
小学生の頃から、何度も同じ目に遭ってきた。
最初は食べ物のせいだと思われた。
次に、金属。洗剤。花粉。ストレス。
病院を変えるたびに疑われるものも変わったが、検査を重ねても原因ははっきりしなかった。
やがて澪は、ある共通点に気づいた。
誰かが、本気で人を殺そうとしている。
そういう場所に居合わせたとき、決まって身体がおかしくなる。
もちろん、その理由を人に説明しても信じてもらえない。
だから、今も自分だけの秘密にしている。
澪は目の前の十一人を見渡した。
長峰は酒の勢いで過去の苦労話を続けている。
久我は追加の料理を注文し、小森は届いたばかりの茶碗蒸しを嬉しそうに眺めていた。
向かいの男性社員は、さっきから同じスマートフォンの画面を何度も見ている。
結城は俯いていた。
誰も、特別におかしなことはしていない。
この中の誰かが、本気で誰かを殺そうとしている。
ただ、それが誰なのかまでは分からない。
相手がこの店にいるとも限らなかった。
澪は唇の内側を噛んだ。
人の頭の中を見られるわけではない。目が合えば分かるとか、声を聞けば判別できるとか、そんな便利な仕組みでもなかった。
分かるのは、身体が反応したという事実だけだ。
それなのに、こういうときには、どうしても顔を探してしまう。
誰が怪しいのか。
誰が怒っているのか。
今夜、誰かを殺してしまいそうなのは誰なのか。
「篠宮さん、本当に大丈夫?」
小森が小声で尋ねた。
「ちょっと洗面所に行ってくる」
澪は椅子を引いた。
立ち上がった瞬間、膝の裏にもかゆみが走った。
洗面所の鏡には、いつもより白い自分の顔が映っていた。
袖をまくると、左腕の内側が赤く腫れている。
水道の水は冷たく、手首を濡らすと一瞬だけ気持ちがよかった。けれどタオルで水気を押さえる頃には、また皮膚の奥からむずがゆさが戻ってくる。
澪はバッグから、いつも携帯している薬を取り出した。
鏡の中の自分と目が合う。
三十二歳。
もう何度も経験しているのに、発作が始まるといつも同じことを考えてしまう。
なぜ自分なのだろう。
ほかの誰かなら気づかずに済むものを、どうして自分だけが知ってしまうのか。
それから、決まって次の考えが浮かぶ。
知ってしまった以上、何かしなければいけないのではないか。
だが、何を。
あの席で「誰かが殺人を考えています」と言えばいいのだろうか。
冗談だと思われるか、救急車を呼ばれるか。どちらにしても、誰かの命を救うことにはつながらない気がした。
昔、発作が起きた後に実際の事件を知ったこともある。
逆に、何日経っても何も起きなかったことも、数えきれないほどあった。
澪には、何が違うのか分からない。
洗面所の外から笑い声が聞こえてくる。
その声に押し戻されるように、澪は袖を下ろした。
席へ戻ると、送別会はまだ続いていた。
長峰の話題は若い頃の出張へ移り、何人かが料理の残りを取り分けている。
久我が澪を見つけた。
「大丈夫? 無理しなくていいからね」
「ありがとうございます。少し落ち着きました」
「顔色はまだ悪いよ」
「元からこういう色です」
「そういう問題じゃないでしょ」
久我は呆れたように笑い、澪のグラスに水を注いだ。
その仕草があまりに普段どおりだったので、澪は少しだけ肩の力を抜いた。
午後八時三十六分。
結城のスマートフォンが振動した。
テーブルの上で細かく震える端末に、彼はすぐには手を伸ばさなかった。
画面を見た途端、何かを迷うように指が止まる。
やがて通話ボタンを押し、周囲に小さく頭を下げて席を立った。
「もしもし。どうした」
襖の向こうへ消えていく声は、それまでよりずっと柔らかかった。
澪は何となく、その背中を見送った。
数分後、結城が戻ってきたときには、少し目元が疲れて見えた。
彼はビールに手をつけず、残っていたウーロン茶を飲み干した。
かゆみはまだ引いていない。
それでも、さっきまで胸の奥に溜まっていた息苦しい感じが、いくらか薄れた気がした。
薬が効いてきたのかもしれない。
澪には分からなかった。
送別会が終わったのは午後九時十分だった。
長峰を囲んで写真を撮り、何度か別れの挨拶を繰り返してから、参加者たちは駅へ向かった。
雨は上がっていた。
濡れたアスファルトが街灯を映し、通りには焼き鳥屋から流れてくる煙と、夜風に運ばれた土の匂いが混ざっていた。薄いコートでは少し寒かったが、首筋の火照りにはちょうどよかった。
「篠宮さん、一緒に帰らない?」
小森が声をかけてきた。
「ごめん。ちょっと寄るところがあるから」
「こんな時間にですか」
「大人にはいろいろあるの」
「その言い方、怪しいですよ」
「内緒にしといて」
小森は笑って手を振った。
澪も笑い返したが、駅へ向かう集団とは反対方向へ歩き始めると、足取りは自然と重くなった。
三宅から届いたメールが気になっていた。
八年前の受付時刻。
あの書類が事故より前に提出されていたことは覚えている。
けれど事故の後に目を通した報告書では、受付の扱いが曖昧になっていた。
自分の記憶違いだったのかもしれない。
そう考えておけば、その後の仕事は普通に続けられた。
三宅は、なぜ今になって確かめようとしているのだろう。
そして、自分が記憶違いではなかったとしたら。
そこから先は、考えないようにしてきた。
午後九時五十二分。
社員証をかざすと、本社の通用口が短い電子音を鳴らした。
夜のオフィスは昼間とは違う匂いがした。人の熱が消えた空間に空調の冷たい風だけが流れ、コピー用紙と古いカーペットの乾いた匂いが浮き上がっている。
自分の席でパソコンを起動し、澪は古い受付履歴を開いた。
八年前の記録。
検索欄に日付を入れる。
一覧が表示されるまでの数秒が妙に長く感じられ、澪は机に置いた左手を見た。
赤みは少し薄くなっていたが、まだ熱を持っている。
画面が切り替わる。
当時の受付一覧には、確かに自分の名前が残っていた。
篠宮澪。
その横には受付時刻を示す数字。
事故の発生より前の記録だった。
しかし、対応する正式な報告書を探しても、同じ時刻が見当たらない。
当時も気になったことだ。
担当部署によって記録する基準が違うと説明され、それ以上は確認しなかった。
なぜ、あのとき納得したのだろう。
いや。
本当に納得していたのだろうか。
澪はマウスを握り直した。
机の隅に置いたスマートフォンが午後十時三十八分を示していた。
三宅への返信を作る。
『私が受付したことは記録でも確認できました。ただ、当時の正式な報告書と照らすと、時刻の扱いについて分からない部分があります。もう少し確認させてください』
一度だけ読み直して送信した。
三宅からの返事はなかった。
午後十時五十分。
澪はパソコンを終了し、社員証をかざして本社を出た。
歩道に残った水たまりへ街灯の光が揺れていた。
誰かが殺意を抱いていた夜。
その夜に、八年前の記録を調べたこと。
二つの出来事のあいだに、何か関係があるのだろうか。
そう考えてから、澪は首を横に振った。
今夜は、ただの送別会だった。
少なくとも、自分が知っている範囲では。
翌朝、澪が目を覚ましたとき、部屋はすっかり明るくなっていた。
カーテンの隙間から細い光が差し込み、ベッドの足元に置いたバッグの金具が光っている。
左腕には、昨夜かきむしった薄い跡が残っていた。
まだ少しかゆい。
キッチンで湯を沸かし、コーヒーの粉をカップに入れる。
湯気の匂いが立ち始めたところで、スマートフォンが震えた。
久我からの社内連絡だった。
『旧配送センターで、元社員の三宅尚人さんが亡くなっているのが今朝発見されました。現在、警察が状況を調べています。詳細が分かるまでは憶測による連絡や情報の拡散を控えてください』
澪は、カップに湯を注ぐ手を止めた。
画面をもう一度読む。
三宅尚人。
昨日の午後、メールを送ってきた人。
昨夜、自分が返信した人。
指先に熱湯の湯気が触れたが、それにも気づかなかった。
脳裏に浮かんだのは、昨夜の送別会だった。
赤く腫れた腕。
誰もが普通に笑っていた食卓。
十二人の顔が、ゆっくりと入れ替わっていく。
誰かが、誰かを殺そうとしていた。
そのことだけは確かだった。
けれど。
澪はスマートフォンを持つ手に力を込めた。
三宅尚人は、昨夜の送別会には来ていなかった。




