第92話 深鉱炉の底
中央の縦穴から響いていた音は、巨大な何かが壁を登っているというより、穴の内側そのものを削りながら上昇しているように聞こえた。
エイルは長剣を抜いたまま縦穴から距離を取り、《警戒圏》と《振動感知》を重ねる。
深さは判別できない。
途中までなら《衝界》を通して構造を拾えるが、縦穴の中ほどから魔力と振動の密度が異常に高くなり、返ってくる情報が何重にも重なって輪郭を失う。
ただ、上がってくるものが大きいことだけは間違いなかった。
壁面の表示も変化を続けている。
《生体侵食率 41》
《47》
《第3循環路 逆流》
《深鉱圧力 許容域超過》
《自動隔離――失敗》
直後、縦穴の縁が内側から砕けた。
直径数メートルの金属片と岩塊が宙へ舞い、その向こうから最初に現れたのは、巨大な鉤爪だった。
黒い。
ただし純粋な甲殻ではなく、肉と鉱石と古い金属が溶け合ったような奇妙な表面をしている。
鉤爪が縦穴の縁へ食い込む。
続いてもう1本。
さらに2本。
合計4本の前肢が施設床を掴み、その下から巨大な頭部がゆっくり持ち上がった。
「……これは、だいぶ変だな」
全長は見えている部分だけでも30メートルを越える。
胴体は蛇のように長いものの、左右には節ごとに太い脚が並び、少なくとも12本以上ある。前方の4本だけが特に発達し、岩盤を掘削するためか、先端には湾曲した鉤爪と平たい骨質板の両方が備わっていた。
頭部は縦に長く、口は4方向へ開く。
その内側に歯はほとんどなく、代わりに硬質な鉱石板が幾重にも並び、岩や結晶ごと削り取って飲み込める構造になっている。
眼球らしいものはない。
頭部の側面から首にかけて、大小30近い半透明の球体器官が埋め込まれており、それぞれが施設内の魔力に反応して不規則に明滅していた。
背中にはさらに異様なものがある。
迷宮結晶だけではない。
古い金属管。
人工的な魔力導線。
何かの部品。
それらが肉体へ突き刺さり、そのまま組織に取り込まれている。
施設へ侵入した魔物が変質したという程度ではない。
長い時間を掛けて、下層の機構そのものを食いながら成長したように見えた。
巨大個体が縦穴から身体を半分ほど引き上げたところで、壁面の表示がさらに変わる。
《侵食体 循環炉へ接続》
《排除不能》
《圧力保持率 19》
エイルは表示と魔物を見比べた。
「こいつが原因の一部か」
完全な原因かは分からない。
ただ、この個体が施設の循環系へ直接食い込んでいることは確からしい。
次の瞬間、巨大個体の首元に並ぶ球体器官が一斉に強く光った。
《警戒圏》へ大量の危険が浮かぶ。
エイルは即座に走った。
巨大個体の口から放たれたのは炎でも魔力弾でもなく、透明な圧力の塊だった。
直線ではない。
空間全体が前方へ押し潰される。
床面に残っていた金属片が一斉に吹き飛び、数十メートル先の壁へ突き刺さる。
エイルは横へ逃れながら《衝界》を足元へ流し、身体へ届いた圧力の一部を床へ逃がした。
それでも肩と脇腹へ重い衝撃が残る。
「広いな」
これまで戦った深層循環獣の圧力攻撃と似ている。
ただし、こちらは施設内部の循環路そのものから魔力を引き込み、撃つ直前に首元の器官へ圧縮している。
単純な生物能力ではない。
巨大個体が前肢を床へ掛ける。
体重が乗った瞬間、施設全体へ振動が走った。
その振動に合わせて、床下の魔力路まで反応する。
エイルの目が僅かに細くなった。
「また周りを使うタイプか」
巨大鉱晶獣と同じではない。
あちらは結晶網を支配していた。
こちらは施設内部の循環路へ身体を接続し、そこから直接力を吸い上げている。
なら、身体だけを斬って終わりという相手ではない可能性が高い。
◇
巨大個体が完全に縦穴から這い出した。
長い胴体が円形空間の半分近くを占め、後方の脚が床へ触れるたび、壊れかけた金属板が大きく沈む。
エイルは正面へ回り込まず、右側へ大きく移動しながら構造を読む。
頭部。
首。
胸部。
腹側。
背中。
どこにも明確な核が1つだけ存在している様子はない。
それどころか魔力反応の強い器官が全身へ散っている。
首元に30近い圧力器官。
胸部深くに2つ。
腹側にも複数。
背中へ取り込まれた施設部品の周囲にも大きな反応がある。
「また分散型か」
40メートル級の空白地個体と似ている。
1ヶ所を潰して終わる相手ではない。
巨大個体の前肢が横から来る。
エイルは《警戒圏》へ浮かんだ軌道より半歩早く内側へ入り、鉤爪を避けながら腕の付け根へ長剣を当てた。
斬る。
刃は入る。
しかし浅い。
鉱石を食い続けた影響なのか、皮膚の下へ薄い硬質層が何枚も形成されている。
そこで無理に押し込まず、《衝界》を通した。
外皮。
硬質層。
筋肉。
さらに奥。
衝撃を細く流す。
途中で何度も分岐させられそうになるが、《衝界》で経路を固定して胸部方向へ送る。
初めて内部へ届いた。
その瞬間、巨大個体の背中へ取り込まれている金属管が一斉に震えた。
エイルの《衝界》が横へ引かれる。
「吸ってる?」
相手が意図しているかは分からない。
ただし、身体の中へ入った衝撃の一部が施設側へ逃げている。
巨大個体が自身の肉体だけではなく、周囲の設備まで衝撃吸収に使っている。
エイルはすぐ剣を抜いた。
直後、別の前肢が上から落ちる。
床へ叩きつけられる前に横へ抜けたが、着地地点で《警戒圏》が再び強く反応した。
下。
エイルはそのまま前へ跳んだ。
背後の床が破裂する。
古い循環管から圧縮された魔力が噴き上がり、金属板をまとめて吹き飛ばした。
「床まで使うのか」
相手の身体へ通った魔力が、施設側へ戻る。
そこから別経路を通って攻撃へ変換されている。
ますます面倒だった。
それでも、エイルの口元には僅かな笑みが残っていた。
「でも、その方が分かりやすいな」
繋がっている。
なら、こちらも使える。
◇
エイルは巨大個体から一度距離を取り、長剣を床へ突き立てた。
《衝界》を流す。
壊すためではない。
施設側へ。
細く。
何十本にも分かれる循環路を追い、どの経路が巨大個体へ接続しているかを探る。
情報量が多い。
巨大鉱晶獣の空洞で扱った鉱晶網よりも複雑で、途中には壊れた区画、閉塞した管、逆流している魔力路まで混じっている。
それでも《振動感知》と《魔力感知》を重ねれば、少しずつ区別できる。
正常な循環。
壊れた経路。
迷宮側から流れ込む魔力。
そして。
侵食体へ向かう流れ。
「見つけた」
右側の第4柱。
床下。
そこから巨大個体の背中へ繋がっている。
エイルは《衝界》をその経路へ滑り込ませた。
巨大個体が圧力攻撃を準備する。
首元の球体器官へ魔力が集まる。
その直前に、エイルは接続路へ小さな衝撃を入れた。
壊さない。
ただ流れを一瞬だけずらす。
圧力器官のうち5つが光を失った。
巨大個体が口を開く。
攻撃は出た。
しかし範囲が片側へ偏る。
エイルは空いた方向へ走った。
「いけるな」
相手の身体を直接壊すだけではない。
供給を乱せる。
巨大個体が怒ったように身体を振り、12本以上ある脚で床を激しく踏む。
そのたび施設内の魔力路が揺れる。
エイルは長剣を抜き、その振動へ《衝界》を重ねた。
相手が生み出した力を受ける。
全部は無理でも、一部なら経路を変えられる。
右前脚の衝撃を左側の床へ。
尾が叩きつけた力を、壊れた金属柱へ。
自分へ向かってきた圧力の一部を、逆に相手へ接続している循環路へ押し戻す。
巨大個体の動きが僅かに乱れた。
【《衝界 Lv.16 → Lv.18》】
【《魔力操作 Lv.63 → Lv.65》】
エイルは表示を意識の外へ流した。
まだ終わらない。
◇
次に狙ったのは接続部だった。
巨大個体の背中には、古い金属管と肉体が完全に融合している場所が6ヶ所ある。
そこから施設側の魔力を引き込んでいる。
まず1つ。
エイルは《高密度強化》を脚へ集中し、床を蹴った。
巨大個体の横腹へ接近する。
尾が来る。
《警戒圏》には、尾を避けた先へ前脚が落ちる可能性まで浮かんでいる。
右へ行かない。
左でもない。
前。
尾へ向かって踏み込み、当たる直前に《衝界》を空気と床へ流して身体を一段低く沈めた。
巨大な尾が頭上を通る。
そのまま胴体へ駆け寄る。
背中へ直接登るには高さがある。
エイルは横腹の硬質層へ長剣を浅く差し込み、それを足場代わりに身体を上へ跳ね上げた。
さらに《衝界》で反動を下へ流す。
背中へ着地。
周囲には、肉体へ半分埋まった古い管が何本も伸びている。
狙うのは太い1本。
長剣を接続部分へ振り下ろす。
金属。
結晶。
肉。
3つが混じった構造は想像以上に硬かった。
刃へ明確な抵抗が返る。
エイルは《高密度強化》を腕へ増やし、そのまま押し込んだ。
刃が入る。
さらに《衝界》を通し、接続部分の内側だけを何度も揺らす。
巨大個体が激しく身体を振った。
エイルは長剣を抜き、背中を走る。
その直後、切断した接続部から大量の魔力が吹き出した。
1つ。
残り5つ。
「全部切れば、かなり落ちるはずだ」
ただし相手も黙ってはいない。
巨大個体が背中の一部を大きく持ち上げた。
体表へ埋まる結晶が一斉に割れる。
次の瞬間、周囲へ無数の破片が飛んだ。
エイルは《衝界》を前方へ薄く広げる。
完全な壁にはならない。
しかし飛来する結晶片の衝撃方向を僅かにずらし、自分へ直撃するものだけ軌道を外す。
それでも全部は避けられない。
左肩へ1本。
右腿へ2本。
コートと軽装甲を抜き、皮膚まで届く。
エイルは顔をしかめたが、動きは止めなかった。
《自己治癒》がすぐに出血を抑え始める。
【《自己治癒 Lv.33 → Lv.34》】
2つ目。
3つ目。
接続部を順番に切る。
4つ目へ向かう途中で巨大個体が壁へ身体を叩きつけたため、エイルは背中から跳び降りざるを得なかった。
着地。
その瞬間、足元の床が沈む。
相手の圧力攻撃。
エイルは横へ逃げようとして、止めた。
《警戒圏》へ浮かぶ可能性の中に、安全な場所がほとんどない。
前へ行けば前脚。
後ろは圧力。
右には尾。
左には床下から魔力噴出。
以前なら、最も被害の少ない方向を選ぶしかなかった。
しかし今はもう1つある。
相手の攻撃を、相手の経路へ返す。
エイルは床へ長剣を突き立てた。
圧力が来る。
身体へ届く直前、《衝界》を広げる。
受け止めない。
流す。
床。
循環路。
切断していない残り3本の接続部。
そこへ。
巨大な圧力がエイルの周囲を抜ける。
完全には消せないため、身体が後方へ数メートル押され、靴底が床へ長い跡を残した。
しかし相手自身へも力が戻った。
残る接続部の1つが内側から弾ける。
巨大個体が初めて大きく体勢を崩した。
「今のは効いたな」
【《衝界 Lv.18 → Lv.21》】
【《魔力操作 Lv.65 → Lv.67》】
【《震圧 Lv.21 → Lv.23》】
◇
接続部を5つまで失った巨大個体は、明らかに変わった。
首元の圧力器官へ魔力が集まる速度が落ち、床からの遠隔攻撃も減っている。
その代わり、純粋な肉体による攻撃が増えた。
それでも十分に強い。
12本以上の脚を使った移動は、30メートルを越える巨体から想像できないほど速く、正面へ入れば4本の前肢が角度を変えながら連続で襲ってくる。
エイルは長時間、それを避け続けた。
最初は《警戒圏》へ浮かぶ可能性を1つずつ選んでいた。
やがて、それでは間に合わなくなる。
相手もこちらへ適応している。
同じ回避を繰り返せば、次の脚が先回りする。
前へ入れば尾を途中で止め、逃げ道へ変える。
圧力攻撃を回避した直後へ身体ごと突っ込んでくる。
だからエイル側も変える。
脚の動き。
筋肉が収縮する振動。
床へ掛かる重量。
体内を移動する魔力。
《警戒圏》へ浮かぶ危険。
すべてをまとめる。
そのうち、まだ相手が動いていない段階で、次に選びやすい攻撃が何となく分かるようになった。
前肢を持ち上げる前から。
尾が動く前から。
魔力が集まる前から。
いくつかの可能性の中で、相手が選ぶ確率の高いものだけ輪郭が濃くなる。
完全に見えるわけではない。
それでも、以前より明らかに一歩先へ進んでいた。
【複数の戦闘可能性に対する連続選別を確認しました】
【未発生行動への予測精度が上昇しています】
表示が一瞬浮かぶ。
エイルはそれを見ず、巨大な前脚の内側へ入った。
予測通り。
次は尾。
しゃがむ。
その次に左前脚。
そこへ《震圧》を小さく入れ、踏み込みを数センチだけずらす。
軌道が外れる。
「前より分かるな」
巨大個体の動きが、少しずつ遅く感じ始めていた。
実際に遅くなった部分もある。
接続を切られ、負傷している。
しかしそれだけではない。
エイル自身が戦闘中に追いついている。
また。
◇
最後の接続部は胸の近くにあった。
背中へ回る必要はない。
ただし首元の圧力器官に最も近く、守りも厚い。
エイルは正面から走った。
巨大個体が口を開く。
圧力が集まる。
以前なら横へ逃げていた。
今回は逃げない。
攻撃が出る直前に《衝界》を前方へ絞り、真正面から来る圧力の中心だけを左右へ分ける。
完全に押し返すのではない。
自分の身体が通れる幅だけ、流れを裂く。
耳が痛くなるほど空気が鳴った。
エイルのコートが大きく後ろへ引かれ、裾の裂け目がさらに広がる。
それでも前へ出る。
巨大個体の口元まで到達。
下顎を足場に跳ぶ。
首。
胸。
最後の接続部。
長剣を突き立てる。
今度は1撃で切らない。
接続部を通っている魔力を《衝界》で掴み、その流れだけを逆方向へ返した。
施設から巨大個体へ。
ではなく。
巨大個体から施設へ。
流れが反転する。
接続部が膨らむ。
エイルは剣を抜いて後方へ跳んだ。
直後、最後の金属管が根元から破裂した。
施設との接続が切れる。
巨大個体の全身から光が消えた。
完全に魔力を失ったわけではない。
ただ、今まで周囲から無尽蔵に近く供給されていた分が途絶えた。
ここからは、身体の中にあるものだけ。
「やっと本体だけか」
その本体だけでも十分に危険だった。
むしろ巨大個体は、接続をすべて失った直後からさらに激しく暴れ始めた。
◇
長い尾が床を薙ぐ。
避ける。
前脚。
内側へ入る。
圧力器官が残る魔力をまとめて放つ。
《衝界》で一部を流し、残りは身体を低くして抜ける。
エイルの右腕へ浅い裂傷が増える。
左肩の結晶片はすでに《自己治癒》によって押し出され始めていた。
身体は動く。
魔力もまだある。
巨大個体も傷だらけだった。
接続部周辺。
前脚の関節。
腹側。
首元の球体器官も半分近くが潰れている。
それでも倒れない。
「しぶといな」
エイルは呼吸を整えた。
倒すだけなら、もっと大きな《震圧》を使って施設ごと攻撃する手もある。
しかし、この場所には欲しいものが多すぎる。
高密度の鉱物。
古代施設。
巨大個体自身の素材。
何より、この循環機構はグレイグやドルガンに見せれば、次の装備へ繋がる可能性が高い。
なら、壊す範囲を選ぶ。
《衝界》を覚えた意味もそこにある。
エイルは長剣へ魔力を流す。
刀身の状態が返ってくる。
先端の欠け。
中央に増えた細い傷。
内部伝導路にも、以前より明確な負荷が溜まり始めている。
まだ耐える。
ただし、この戦いで最大出力を何度も通せば、次は本当に危ない。
「あと1回くらいなら」
ドルガンが聞けば怒るだろう。
それでも剣へ流す魔力を絞った。
巨大個体が突進する。
正面から。
4本の前肢。
圧力。
尾。
複数の危険が重なる。
エイルの意識には、その先の可能性が何通りも浮かんでいた。
そこで最も安全な道を選ばなかった。
最も深く届く道を選ぶ。
右前脚を避ける。
左前脚は長剣で受け、その衝撃を《衝界》で刀身から地面へ逃がす。
3本目を《震圧》で僅かにずらす。
4本目が肩を掠める。
血が飛ぶ。
それでも前へ。
頭部の下。
首元へ残る球体器官の中心。
そこへ長剣を突き込んだ。
刃が深く入る。
《振動感知》。
体内構造。
もう何度も読んでいる。
圧力器官から胸部。
胸部から腹側。
さらに全身へ散る複数の魔力路。
施設への接続はない。
今なら全部、この身体の中で閉じている。
「今度は逃がせないな」
《魔力圧縮》を限界近くまで高める。
刀身へ通す。
細く。
無駄なく。
途中で《衝界》によって何十本にも分ける。
首。
胸。
腹。
脚。
背中。
ただし素材として欲しい外殻や器官は避ける。
壊すのは内部の魔力路だけ。
30。
40。
さらに増える。
剣の内部が悲鳴を上げるように僅かに震えた。
エイルはそこで増やすのを止めた。
50近い経路を固定する。
巨大個体が頭を振る。
剣が抜けそうになる。
柄を両手で握る。
《高密度強化》を全身へ。
踏ん張る。
そして解放した。
轟音はなかった。
代わりに、巨大個体の身体の内部だけから、何十もの低い破裂音がほぼ同時に響いた。
全身が止まる。
ほんの一瞬。
そこへ最後の1本。
分散したすべての《衝界》を胸部中央へ集め直す。
「これで終わりだ」
収束。
重い音が1度だけ鳴った。
巨大個体の口から圧力ではなく濁った息が漏れ、12本以上あった脚から順番に力が抜けていく。
最初に頭部が床へ落ちた。
次に胸。
長い胴体。
最後に尾が施設床へ叩きつけられ、円形空間全体へ大きな揺れが広がった。
エイルは剣を抜き、数十メートル離れた。
《警戒圏》。
《振動感知》。
反応はない。
巨大個体は完全に動きを止めていた。
◇
静かになった空間で、エイルは長く息を吐いた。
「さすがに疲れたな」
身体にはいくつも傷がある。
装備もまた酷い。
補修したロングコートは左肩と右脇が破れ、裾にも長い裂け目が増えている。軽装甲には結晶片が刺さった跡が残り、靴底も急加速と強引な踏み込みでまた削れていた。
そして剣。
刃先には新しい欠け。
中央部にも細い筋。
魔力を通すと、内部伝導路の1ヶ所で僅かな乱れが返ってくる。
「……これは戻った方がいいな」
さすがに理解した。
応急補修を繰り返しながら使い続ける段階ではなくなっている。
次は本格的に更新する。
そのための素材なら、十分すぎるほど集まっている。
そこで視界へ表示が浮かび始めた。
【Lv.92 → Lv.95】
【Lv.95 → Lv.98】
【Lv.98 → Lv.101】
エイルの目が少しだけ止まる。
「100、越えたか」
それでも表示は終わらない。
【Lv.101 → Lv.104】
【《剣術 Lv.47 → Lv.51》】
【《衝界 Lv.21 → Lv.27》】
【《震圧 Lv.23 → Lv.26》】
【《身体強化 Lv.42 → Lv.46》】
【《魔力操作 Lv.67 → Lv.72》】
【《魔力感知 Lv.29 → Lv.33》】
【《振動感知 Lv.55 → Lv.61》】
【《近域感知 Lv.46 → Lv.51》】
【《魔力圧縮 Lv.56 → Lv.62》】
【《高密度強化 Lv.33 → Lv.38》】
【《自己治癒 Lv.34 → Lv.38》】
【《警戒圏 Lv.26 → Lv.31》】
戦闘前はLv92だった。
たった1回の戦闘で12上がっている。
技能も同じだった。
《衝界》に至っては、この施設へ入った時にはLv7だったものが、今は27まで上がっている。
エイルは表示を見ながら、少しだけ眉を寄せた。
「Lv.6になってから、本当に速いな」
空白地へ入る以前とは、成長速度の桁が違い始めている。
それでも《越境》は変わらなかった。
【固有技能《越境 Lv.6》】
その表示だけは静かに残る。
今回の相手は強かった。
戦い方も複雑で、何度か危険な場面があった。
ただ、40メートル級の未知個体と戦った時のように、自分の限界そのものを完全に越えた感覚とは少し違う。
戦闘中に追いつけた。
方法を変えれば届いた。
つまり、今の《越境》が押し上げた範囲の中で勝てた相手だったのだろう。
「次はもっと上か」
嫌ではなかった。
むしろその方がいい。
◇
巨大個体の解体を始めると、予想していた以上の素材が見つかった。
まず首元の圧力器官。
半透明の球体は外側こそ柔らかい膜に覆われているが、内部には極細の繊維が何千本も走り、魔力を集めるほど圧力へ変換する構造を持っている。
防具へ使えるかは分からない。
ただ、武器や靴の加速機構には何か応用できるかもしれない。
次に、施設と接続していた部分。
肉と金属の境界から、非常に細い銀灰色の繊維束が採れた。
引っ張る。
伸びる。
手を離せば元へ戻る。
さらに魔力を流すと、一部が硬化し、流れを止めるとまた柔らかくなる。
「これ、かなり良さそうだな」
コート。
軽装甲。
靴。
可動部へ入れるには理想的に見える。
高速移動時には硬く支え、普段は柔らかさを残せるなら、今のエイルの戦い方へかなり合う。
さらに胸部深くには、拳より大きな黒い結晶核が2つあった。
ただし純粋な魔石ではない。
表面に何十本もの細い溝が走り、魔力を流すと内部で勝手に圧縮と分散を繰り返す。
《脈晶鉄》。
《響殻》。
巨大鉱晶獣の中心結晶。
今回の侵食体から採れた圧力器官と循環繊維。
性質の違う素材が揃ってきた。
「これなら、次の剣はかなり変えられそうだな」
問題はグレイグがどう反応するかだった。
喜ぶのか。
怒るのか。
おそらく両方だろう。
◇
素材を回収している途中で、施設の表示が変わった。
《侵食体 反応消失》
《循環路 再構築》
《圧力保持率 19 → 26》
《31》
《37》
巨大個体がいなくなったことで、施設へ流れる魔力が少しずつ正常化している。
壊れている柱までは戻らない。
それでも危険な上昇は止まったらしい。
続いて別の表示。
《上層迷宮核 接続維持》
《循環圧 安定化》
《第3深鉱循環区 暫定稼働》
エイルはその文字を地図の余白へ書き写した。
少なくとも今すぐ施設全体が崩れる様子はない。
なら、ここで無理にさらに奥へ進む必要もなかった。
装備が限界へ近い。
素材も増えた。
何よりLv104まで一気に上がったことで、一度地上へ戻って今の状態を確かめたくもなっている。
「十分だな」
珍しく、奥へ続く別の扉を見つけてもすぐ開けようとはしなかった。
位置だけ記録する。
戻れる場所は、あとで戻ればいい。
◇
帰路は驚くほど速かった。
今まで苦戦していた施設内の魔物も、地図外区画の結晶背8脚種も、《衝界》のLvが27まで上がった今では動きを止めるまで数撃も必要ない。
硬い場所を避ける必要すら減っていた。
硬いなら、そこを通す。
内部へ届く経路だけ作ればいい。
第6層へ戻る頃には、エイル自身の感覚まで少し変わっていた。
以前は危険だと感じていた反応が、《警戒圏》へ入っても強い警告を返さない。
弱くなったわけではない。
エイル側の基準が上がった。
途中で《鳴殻甲獣》を1体感知した時も、戦うか避けるかで迷うことなく、素材がもう十分あるからという理由だけで通路を変えた。
危険だから避けたのではない。
必要がないから戦わなかった。
その違いを本人はあまり気にしていなかった。
数日後に別の誰かが聞けば、たぶん驚く。
◇
地上へ戻ったのは翌日の朝だった。
迷宮入口へ近づくにつれ人の気配が増え、やがて第5層へ上がる通路で、武装した冒険者と軍人が何組も待機しているのが見えた。
いつもと様子が違う。
第4層へ上がったところでは、さらに人数が増える。
そして第3層の中継所へ着いたところで、軍装の男に止められた。
「下から来たのか?」
「はい」
「第6層?」
「そこより少し下です」
男の表情が固まった。
「少し下?」
「地図にない区画があって、その奥まで」
「待て」
近くにいた別の軍人が呼ばれる。
エイルは何事かと思いながら冒険者証を出した。
A級証。
名前を確認した軍人の顔が変わる。
「エイル・アーネット?」
「はい」
「昨日、B級4名を救助した?」
「途中まで案内しました」
「……なるほど」
軍人が深く息を吐く。
「地上へ戻ったら、そのまま管理棟へ来てくれ。第7層以下は今朝から封鎖された」
「封鎖?」
「昨夜、迷宮全体で大規模な魔力変動が観測された。第7層の複数地点で崩落、魔物の移動、深部からの圧力上昇が確認されている」
エイルは少し考えた。
ちょうど自分が施設で戦っていた時間と重なる可能性が高い。
「今は?」
「数時間前から急速に落ち着いた」
「そうなんですね」
軍人はそこでエイルを見る。
ボロボロになったコート。
新しい傷の増えた軽装甲。
素材で膨らんだ荷物。
そして欠けの入った長剣。
「……下で、何をしてた?」
エイルは一瞬だけ考えた。
「大きいのを1体倒しました」
「大きい?」
「30メートルちょっとです」
軍人が黙った。
エイルは自分の答えが足りなかったかと思い、少し付け足した。
「施設と繋がってました」
今度は周囲にいた軍人までこちらを向いた。
どうやら管理棟では、かなり長い説明が必要になりそうだった。




