第9話 昇格試験
翌朝、エイルが南門へ着いた時には、まだ街の影が長く伸びていた。
門前には荷馬車が数台並び、商人たちが出発の準備をしている。昨日までなら、その横を抜けて一人で街道へ出るだけだった。
今日は違う。
「エイル・アーネットか?」
門脇の石壁に寄りかかっていた男が、腕を組んだままこちらを見る。
三十代半ばくらいだろうか。短い黒髪に、日に焼けた顔。革鎧の上から灰色の外套を羽織り、腰には幅広の剣を下げている。
「はい」
「早いな」
「遅れるよりはいいかと思って」
「その通りだ」
男は壁から背を離した。
「俺はガレス。C級冒険者で、今日はお前の試験官だ」
「よろしくお願いします」
エイルが頭を下げると、ガレスは少しだけ目を細めた。
「随分普通だな」
「……普通じゃ駄目ですか?」
「いや」
ガレスは笑う。
「登録数日で特例昇格試験なんぞ受ける奴だから、もっと妙なのを想像してた」
「それ、最近よく言われます」
「そうか。なら慣れろ」
「嫌です」
「即答か」
ガレスは少し楽しそうだった。
やがて門の外を顎で示す。
「行くぞ。説明は歩きながらする」
◇
今回の試験場所はローデン南東の丘陵地だった。
街から歩いて一時間半ほど。
森ほど視界は悪くないが、低い丘と林が連なっていて、場所によっては遠くまで見通せない。
「今回のお前の仕事は、ここから先にある廃小屋まで行って戻ることだ」
歩きながらガレスが言った。
「それだけですか?」
「それだけで済めばな」
その言い方で、何かあることは分かる。
ガレスは地図を一枚取り出し、エイルへ渡した。
簡単なものだった。
現在地。
丘。
小川。
目的地の廃小屋。
距離は片道二時間ほど。
「道中で何が起きるかは教えない。魔物が出れば対処しろ。怪我人がいれば助ける。危険なら撤退する。目的地へ着くことより、冒険者として妥当な判断をする方が大事だ」
「戦闘試験じゃないんですね」
「戦えるかどうかなんぞ、鎧猪と棘狼の報告である程度分かってる」
エイルは少しだけ目を逸らした。
「本当にその話、広がってるんですね」
「ギルドの中だけだ。今のところはな」
「今のところ……」
「嫌そうな顔するな」
「嫌なので」
「強い奴は目立つぞ」
「じゃあ、あまり強くならない方がいいですかね」
「お前がそれ言うのか」
ガレスは呆れたように笑った。
エイルは返事をせず、地図へ目を落とす。
現在地から廃小屋までは、途中で二つの経路に分かれている。
一つは小川沿いの平坦な道。
もう一つは丘を越える近道。
「どっちでも?」
「ああ」
エイルは少し考えた。
小川沿い。
距離は長いが、水場があり、地形も分かりやすい。
丘越え。
短いが、傾斜があり、地図上では林を二つ抜ける。
今日は試験。
わざわざ難しい方へ行く必要はない。
「小川沿いで行きます」
ガレスが横目で見る。
「近道は使わないのか?」
「早く着くことが目的じゃないんですよね」
「そうだな」
「だったら、視界が取りやすい方がいいです。何か起きるって分かってますし」
ガレスは何も言わなかった。
ただ、少しだけ口元を上げた。
◇
小川沿いの道は静かだった。
水の音。
風。
草の擦れる音。
時折、小型の鳥が飛び立つ。
エイルは歩きながら周囲を見る。
初めての場所。
地図と地形を照らし合わせる。
右手に小川。
左は緩い斜面。
先に木立。
ここまでは地図通り。
ただ。
「……」
エイルが止まった。
「どうした?」
ガレスが後ろから聞く。
「誰か通ってます」
「何で分かる?」
「草が倒れてるので」
街道ほど明確ではない。
それでも、水際の背の高い草が一部だけ同じ方向へ倒れている。
人。
多分、二人以上。
「いつ頃だ」
エイルはしゃがみ、地面を見る。
土。
靴跡。
乾き方。
「朝……だと思います。少なくとも昨日ではないです」
「人数は?」
「二人。いや……」
少し先を見る。
小さい跡。
「三人ですね。一人は体重が軽い」
「子供か?」
「そこまでは分かりません」
「正解だ」
ガレスがあっさり言った。
「昨日仕込んだ足跡じゃない。今朝、別の職員に歩かせた」
「試験用?」
「ああ」
「じゃあ、全部仕込みなんですか?」
「それは教えん」
エイルは少し眉を寄せる。
「面倒ですね」
「試験ってのはそういうもんだ」
また歩き出す。
十分ほど進んだ頃。
《気配感知》に、微かな反応があった。
まだ曖昧。
だが。
左前方。
木立の向こう。
一つ。
「止まってください」
エイルが小さく言った。
ガレスはすぐに止まる。
「何かいる?」
「はい。多分一体」
「多分?」
「まだ、この技能に慣れてなくて」
エイルは周囲を見る。
音はない。
気配だけ。
木立の奥。
少し動く。
「来ます」
直後。
草を割って一体の魔物が飛び出した。
牙犬。
狼より一回り小さく、顎だけが異様に発達した魔物。
エイルは剣を抜く。
だが、牙犬はすぐには襲ってこなかった。
低く唸りながら、こちらを警戒している。
「倒せ」
ガレスが言う。
エイルは動かなかった。
「……本当に?」
「試験官の指示だ」
「でも、向こうから来てません」
「魔物だぞ」
「そうですけど」
エイルは牙犬を見る。
唸っている。
怖がっている。
こちらへ向かうというより。
守っている?
エイルの視線が少し横へ動く。
木の根元。
何か。
小さい。
「……子供?」
牙犬の後ろ。
木陰に、さらに小さな二つの影が見えた。
幼体。
エイルは剣を少し下げる。
「迂回します」
ガレスが眉を上げた。
「討伐しないのか?」
「こっちを追ってくるなら倒します。でも、今は子供を守ってるだけだと思います」
「魔物は街へ降りれば人を襲う」
「ここは街じゃないです」
「依頼で討伐指定されてたら?」
「その時は倒します」
「今日は?」
「廃小屋へ行って戻るのが仕事です」
少し間があった。
ガレスが笑った。
「行け」
「はい」
エイルは牙犬から距離を取り、斜面側へ大きく迂回した。
牙犬はしばらくこちらを見ていたが、追ってこなかった。
「正解なんですか?」
少し離れてから、エイルが聞く。
「試験中に聞くな」
「気になるので」
「不正解なら止めてる」
「じゃあ正解じゃないですか」
「お前、意外と面倒な性格してるな」
「よく分かりません」
「分かってないのが一番面倒だな」
◇
その後はしばらく何も起きなかった。
ただ歩く。
地図を見て。
周囲を見る。
小川が二股に分かれる。
地図では右側。
エイルは進路を変える。
一時間ほど経った頃。
《危機感知》が反応した。
「……」
エイルの足が止まる。
強くはない。
でも。
前方。
「何かあるな」
ガレスも気づいたらしい。
「はい」
丘の陰へ回る。
そこで。
荷車が見えた。
横倒しになっている。
車輪が一つ外れ、荷物が地面へ散らばっていた。
その横。
「助けてくれ!」
男が一人。
足を押さえて座り込んでいる。
もう一人。
年若い女性。
こちらも動けないようだった。
エイルはすぐ走ろうとして――。
止まった。
「……」
「どうした?」
ガレスが聞く。
エイルは周囲を見る。
危機感知。
まだ反応している。
怪我人からではない。
もっと奥。
草むら。
「何かいます」
男が叫ぶ。
「何でもいい! 早く来てくれ!」
エイルは剣を抜いた。
「ガレスさん」
「俺は手を出さん」
「ですよね」
なら。
先に安全確認。
エイルは荷車へ一直線に向かわず、少し外側から近づいた。
男の顔が焦る。
「何してる!?」
「少し待ってください」
「こっちは怪我してるんだぞ!」
「分かってます」
《気配感知》。
一つ。
二つ。
草の中。
動く。
「……二体」
その直後。
草が爆ぜた。
飛び出したのは裂爪猿。
人間ほどの大きさ。
長い腕。
指先に刃のような爪。
一体目がエイルへ。
二体目は怪我人の方へ走る。
「っ」
両方は止められない。
まず近い方。
エイルは一歩踏み込み、爪を剣で受け流した。
まともに受けるのではなく、斜めに。
相手の腕が流れる。
そのまま腹へ剣を入れる。
浅い。
裂爪猿が跳び退く。
もう一体。
怪我人まで残り数歩。
「《衝撃》!」
エイルは左手を向けた。
空気が弾ける。
裂爪猿の身体が横へ押され、進路がずれる。
女性のすぐ横を通り抜ける。
「離れて!」
エイルが叫ぶ。
「動けない!」
足を負傷しているらしい。
なら、守るしかない。
最初の一体がまた来る。
エイルは身体を横へずらす。
爪。
避ける。
剣を返す。
肩へ。
裂爪猿が吠える。
もう一体。
背後。
《危機感知》。
振り向かずに前へ踏み込む。
爪が背中のすぐ後ろを通る。
エイルはそこで身体を捻った。
「――《衝撃》」
足元。
一気に加速。
裂爪猿との距離を詰める。
相手が反応する前に、剣を胸へ突き込んだ。
深い。
そのまま。
「《衝撃》!」
刃を通して衝撃。
裂爪猿の身体が大きく震え、力が抜ける。
エイルは剣を引き抜き、すぐにもう一体を見る。
肩を斬った個体。
怒っている。
唸り声。
腕を大きく振り上げる。
来る。
エイルは待つ。
棘狼ほど速くない。
鎧猪ほど重くない。
見える。
振り下ろされた爪。
半歩。
外す。
相手の腕が地面へ。
その瞬間。
エイルの剣が首元を走った。
裂爪猿が崩れる。
終わり。
《危機感知》も静かになる。
「……」
エイルは周囲を確認してから、ようやく怪我人へ向かった。
「大丈夫ですか?」
「お、おう……」
男は少し呆然としていた。
女性も同じような顔でエイルを見ている。
「足、見せてもらえますか」
男は右足首。
腫れている。
折れてはいない。
女性は膝。
浅い裂傷。
エイルは背負い袋から布と薬草を出した。
「応急処置だけします。歩けます?」
「多分……」
「無理しない方がいいですね」
固定。
布。
簡単な杖。
村で覚えた程度。
完璧ではない。
それでも何もしないよりはいい。
作業を終えた頃。
後ろからガレスが歩いてきた。
「終わったか」
「はい」
エイルはそこで、ふと思う。
「……この人たちも試験?」
男と女性が顔を見合わせた。
ガレスが笑った。
「半分な」
「半分?」
「怪我は本物。裂爪猿も本物。荷車が壊れたのも本物だ」
「じゃあ偶然?」
「昨日、街道で立ち往生した商人をギルドが保護した。今日は状態が安定したから、この辺まで運んで試験に協力してもらった」
エイルは怪我人を見る。
「よく協力しましたね」
「報酬出るからな」
男が答えた。
「それに、あの猿は聞いてねえぞ」
「俺もだ」
ガレスが言う。
「予定にはなかった」
「……本当に?」
「ああ」
「じゃあ、危なかったじゃないですか」
「だから俺がいた」
「手を出さないって言ってましたよね」
「死にそうなら出す」
「最初に言ってください」
「言ったら試験にならん」
エイルは少し不満そうにした。
だが、すぐに荷車を見る。
「この人たち、どうします?」
「そこを決めるのも試験だ」
「……まだ続くんですか」
「当然」
エイルは地図を見る。
廃小屋まで、まだ三十分ほど。
怪我人二人。
壊れた荷車。
ここから街へ戻るなら一時間以上。
目的地へ進む意味。
試験。
依頼。
でも。
「戻ります」
ガレスが聞く。
「廃小屋は?」
「行きません」
「試験の目的地だぞ」
「怪我人を置いていく理由がないので」
「ここで待たせて、帰りに拾う手もある」
「また魔物が来たら危ないです」
「俺が残る」
「それだと僕一人で先へ行くんですよね」
「そうなるな」
エイルは少し考えた。
それでも。
「戻ります」
「理由は?」
「廃小屋へ着くより、この人たちを街へ戻す方が優先です。目的地に行くことより、妥当な判断をしろって最初に言いましたよね」
ガレスはしばらく黙っていた。
やがて。
「覚えてたか」
「大事そうだったので」
「よし」
それだけ言って、ガレスは怪我人へ手を貸した。
「試験終了だ」
「……もう?」
「ああ」
「廃小屋は?」
「行かなくていい」
「最初から?」
「行ければ行けばよかった。だが、戻る判断ができるかも見たかった」
エイルは少しだけ眉を寄せる。
「試験って、やっぱり面倒ですね」
「さっきからそればっかりだな」
◇
ローデンへ戻ったのは昼を少し過ぎた頃だった。
怪我人を治療院へ送り、そのままギルドへ。
ガレスは受付の奥へ消えた。
エイルは待つ。
十分。
二十分。
レナはいない。
ミレイは仕事中。
暇だった。
依頼掲示板を見る。
E級の欄。
今までは見ても仕方がなかった。
今日は。
少しだけ眺める。
【青晶洞・第一層魔石採取】
【青晶洞・第二層調査補助】
【小型亜竜討伐】
【北街道・二日間護衛】
「……」
やはり、受けられる依頼が増える。
特に。
青晶洞。
エイルが見ていると。
「気が早いですよ」
後ろからミレイの声。
「まだ結果出てません」
「見るだけならいいかなって」
「まあ、見るだけなら」
ミレイが少し笑う。
「どうでした?」
「面倒でした」
「感想がそれですか」
「色々考えさせられたので」
「それが試験です」
そこで、奥の扉が開いた。
ガレスが出てくる。
「エイル」
「はい」
「来い」
受付の端。
ミレイも一緒。
ガレスは一枚の紙を置いた。
「結果だ」
エイルは少し緊張した。
落ちる可能性もある。
戦闘は問題なかったと思う。
でも。
廃小屋には行っていない。
「……どうでした?」
ガレスが答える。
「合格」
一瞬。
エイルは黙った。
「……本当に?」
「何で疑う」
「目的地、着いてないので」
「それで落とすなら、最初から廃小屋へ走らせるだけの試験にする」
ガレスは紙を指で叩く。
「経路選択。周辺警戒。痕跡確認。戦闘。救助。撤退判断。どれもE級として問題なし」
そして少し間を置く。
「戦闘能力だけなら、もうE級の範囲じゃない」
「そうなんですか?」
「自覚ないのか」
「比較したことないので」
ガレスがミレイを見る。
「こいつ、本当にこうなのか?」
「ずっとこうです」
「大変だな」
「はい」
「何で僕の前で共感してるんですか」
ミレイは答えず、エイルの冒険者証を受け取った。
受付奥の魔道具へ通す。
一瞬、淡い光。
返された札。
表面。
名前。
その下。
【E】
「……」
エイルは少し眺めた。
冒険者登録から。
まだ。
何日だろう。
「早いですね」
「とても」
ミレイが答える。
「ローデン支部でも、ここまで早いF級卒業は滅多にありません」
「記録?」
「そこまでは調べてません。でも、かなり上位でしょうね」
エイルの顔が少し曇った。
「記録とか残らなくていいんですけど」
「昇格履歴は残ります」
「消せません?」
「消せません」
「……そうですか」
ガレスが笑った。
「普通は喜ぶところだぞ」
「受けられる依頼が増えるのは嬉しいです」
「ランクそのものは?」
「そこまで」
「変な奴だな」
エイルは新しい冒険者証をしまう。
その視線が。
自然と掲示板へ向いた。
E級。
青晶洞。
ミレイがすぐに気づく。
「今日は駄目ですよ」
「まだ何も言ってません」
「顔に書いてあります」
「……明日は?」
「怪我がなければ」
エイルの目が少し明るくなる。
「じゃあ明日」
「待ってください。初めての迷宮ですよね?」
「はい」
「まず説明を受けてください」
「分かりました」
「本当に?」
「今回はちゃんと聞きます」
「今回は、って何ですか」
エイルは少しだけ笑った。
E級。
別に、その文字自体が欲しかったわけではない。
けれど。
行ける場所が一つ増えた。
それなら。
昇格も悪くない。
掲示板の奥。
青晶洞の名前。
今まで本の中にしかなかった場所が、急に現実のものとして近づいていた。
明日。
初めての迷宮へ行く。
そう考えるだけで。
エイルの胸は、少しだけ高鳴った。




