第10話 青晶洞
翌朝。
エイルはいつもより少し早く目を覚ました。
窓の外はまだ薄暗く、通りを歩く人もほとんどいない。
それでも眠気はなかった。
「……迷宮か」
寝台の上で呟く。
昨日、E級へ昇格した。
その結果、今まで入れなかった場所へ行けるようになった。
青晶洞。
ローデン北方にある、小規模な自然迷宮。
全七層。
初心者冒険者が迷宮探索を覚える場所として使われており、前三層ならE級の単独探索も認められている。
エイルは昨日買った地図を机へ広げた。
ローデンから北へ街道を進み、途中で東へ分岐。
そこから半刻ほど。
地図上では、それほど遠くない。
ただ。
「中の地図は……ないんだよな」
昨日ギルドで聞いたところによると、迷宮内部の地図は入口で簡易版を購入できるらしい。
もっとも、それも完全なものではない。
迷宮には、内部構造が変化するものがある。
青晶洞も大きく形を変えることはないが、狭い通路が塞がったり、新しい空洞ができたりすることがあるという。
エイルはその説明を聞いた時、かなり行きたくなった。
地図が完全ではない。
それだけで魅力が増してしまう。
「準備」
浮かれて忘れないよう、声に出す。
水。
保存食。
予備の布。
薬草。
簡単な解毒薬。
火口。
ロープ。
小型の採掘槌。
それから、昨日武器屋で研ぎ直してもらった剣。
鞘から少し抜く。
刃こぼれはなくなっている。
「よし」
背負い袋を閉じた。
◇
「最初に言っておきます」
ギルドへ着くなり、ミレイにそう言われた。
「はい」
「青晶洞は初心者向けですが、安全な場所ではありません」
「分かってます」
「迷宮では、野外と違って逃走方向が限られます。通路の先に別の魔物がいる場合もありますし、戦闘音で寄ってくることもあります」
エイルは素直に頷く。
今日は本当にちゃんと聞いている。
「それから魔力濃度が地上より高いので、感知系技能が普段と違う反応をすることがあります」
「違う反応?」
「過敏になる人もいれば、逆に魔力に紛れて分かりにくくなる人もいます。《危機感知》持ちだからといって、絶対に信用しすぎないでください」
「はい」
これは重要だった。
エイルは《危機感知》をかなり頼りにしている。
実際、これがなければ鎧猪にも棘狼にももっと深い傷を負っていた。
だからこそ、使えない可能性は頭に入れておく必要がある。
「前三層まで。今日は初回なので、それより下へは行かないでください」
「分かりました」
「本当に?」
「……今日は」
「その言い方やめません?」
エイルは少しだけ目を逸らした。
ミレイはため息をついたが、それ以上は言わなかった。
「あと、青晶洞では青晶石の採取依頼が常時出ています。見つけたら持ち帰って構いません」
「青晶石?」
「照明用魔道具の素材です。高価ではありませんが、量があればそれなりになります」
「それ、受けていっていいですか?」
「もちろんです」
依頼票を処理してもらう。
【E級依頼】
【青晶洞・青晶石採取】
【規定量なし】
【採取量に応じて出来高払い】
エイルは冒険者証へ受注記録を入れてもらい、ギルドを出た。
迷宮へ行くだけでもいい。
それで金まで稼げる。
かなりありがたい。
◇
青晶洞の入口には、小さな詰所があった。
想像していたより人が多い。
武器を持った冒険者。
荷車。
素材を買い取る商人。
入口近くには簡単な食事を売る屋台まで並んでいる。
「……迷宮だけで人が集まるんだ」
受付で冒険者証を見せる。
「E級。単独か?」
「はい」
「前三層までだな」
「はい」
「初回?」
「そうです」
受付の男が簡易地図を一枚取り出した。
「買っとけ。銀貨一枚」
「買います」
即答した。
男が少し笑う。
「迷わなかったな」
「地図なので」
「そういう意味じゃないんだが」
エイルは受け取った紙をすぐ開いた。
第一層。
入口から比較的広い通路が三方向へ伸びている。
ただし、細部までは描かれていない。
壁際には、
【崩落あり】
【魔物出現多】
【採取地点】
などの簡単な注意書き。
「……いいな」
「何がだ?」
「結構空いてるので」
「普通は不安になるところだぞ」
昨日から似たようなことを何度も言われている。
エイルは地図を畳んだ。
「行ってきます」
「死ぬなよ」
「はい」
迷宮へ入る。
途端に。
空気が変わった。
「……」
まず涼しい。
外より明らかに気温が低い。
それから、微かな光。
洞窟の壁面に埋まった青い結晶が、ぼんやりと周囲を照らしている。
完全に明るいわけではない。
ただ、松明なしでも歩ける程度には見える。
天井から落ちる水滴。
石を踏む靴音。
遠くから聞こえる何かの鳴き声。
「これが迷宮……」
思っていた以上に静かだった。
もっと冒険者が大勢いて騒がしいのかと思っていたが、入口から少し進むだけで他人の気配が薄くなる。
エイルは立ち止まり、《気配感知》へ意識を向けた。
すぐに眉が寄る。
「……分かりにくい」
何かがいる。
それ自体は感じる。
だが地上より曖昧だった。
壁の向こうなのか。
前なのか。
距離も上手く掴めない。
ミレイが言っていた通り、迷宮全体に満ちた魔力が感覚へ混ざっているらしい。
対して《危機感知》は――。
今のところ反応なし。
「これに慣れないと駄目だな」
地図を見る。
まず右の通路。
採取地点が近い。
ゆっくり進む。
壁。
地面。
天井。
野外なら木や草の動きから気づけるものも、迷宮では使えない。
代わりに。
石の擦れ。
水。
狭い空間で反響する音。
エイルは一歩ずつ進んだ。
最初の青晶石は、十分ほどで見つかった。
壁面。
拳ほどの青い結晶。
「これかな」
採掘槌を取り出す。
周囲を軽く叩き、根元を探す。
適当に叩けば割れて価値が落ちると聞いた。
少しずつ。
丁寧に。
五分ほどかけて一つ外す。
【《採掘》を獲得しました】
「……増えた」
視界に表示が浮かぶ。
新しい技能。
《採掘 Lv.1》
エイルは少しだけ嬉しくなった。
迷宮へ入って早々、できることが一つ増えた。
青晶石を布で包み、袋へ入れる。
さらに進む。
二つ目。
三つ目。
思ったより採れる。
ただし。
四つ目を外そうとした時。
《危機感知》が反応した。
「……後ろ」
エイルはすぐ振り向く。
何もいない。
だが。
地面。
小石が一つ転がった。
直後、天井から何かが落ちてくる。
エイルは横へ飛んだ。
石床に、黒い影が着地する。
六本脚。
平たい身体。
大きさは犬ほど。
背中には硬そうな殻。
「岩甲蟲……だったかな」
青晶洞の浅層に出る魔物。
資料で見た。
殻は硬いが動きは速くない。
弱点は腹側。
一体。
エイルは剣を抜く。
岩甲蟲が脚を鳴らしながら突っ込んできた。
遅い。
角兎よりも。
棘狼よりも。
エイルは横へ一歩ずれ、剣を振る。
殻へ当たる。
ガッ、と硬い音。
「硬いな」
傷は浅い。
岩甲蟲が旋回する。
腹を狙うなら。
ひっくり返す。
エイルは左手を向けた。
いつものように口を開きかける。
「――」
そこで。
魔力を押し出した。
声は出なかった。
ドンッ。
岩甲蟲の横腹へ衝撃がぶつかり、身体が半回転する。
「……」
エイルの動きが一瞬止まった。
岩甲蟲が仰向けに倒れて脚をばたつかせる。
「今……」
言わなかった。
《衝撃》と。
それでも出た。
いや。
考えている場合ではない。
エイルは露出した腹へ剣を突き刺した。
柔らかい。
一撃で身体から力が抜ける。
剣を抜きながら、改めて左手を見る。
「……できた」
もう一度。
何もない壁へ向ける。
魔力を掌へ。
押す。
ぱん、と小さな音。
壁面の埃が散った。
「できる」
今度は確実だった。
技能名を口に出していない。
それでも《衝撃》が発動した。
「なんで今まで言ってたんだろう」
考えてみる。
習った時。
村にいた魔法を使える男が言っていた。
まず名前を声に出せ。
使いたい魔法を頭の中ではっきり形にしろ。
そうすれば失敗しにくい。
だから、そうしていた。
声に出さなければ使えないとは、一度も言われていない。
「……そういうことか」
多分。
今までは、発動の形を固定するために声へ頼っていた。
《魔力操作》を覚え。
《衝撃》そのものも伸びた。
だから頭の中だけで魔力を動かせるようになった。
エイルは少し試す。
右足の後ろ。
小さく。
衝撃。
トンッ。
身体が半歩前へ押された。
「……便利だな」
かなり。
戦闘中、毎回声を出す必要がない。
相手にも何をするか分かりにくい。
何より速い。
口を開くより、魔力を動かすだけの方が早い。
ただ。
もう少し強く。
先ほどより出力を上げようとする。
ドンッ!
「うわっ」
身体が予想以上に前へ飛び、慌てて足を踏ん張った。
「……まだ雑だな」
小さいものなら無言で出せる。
強いものは。
まだ声に出した方が安定するかもしれない。
エイルはそう判断した。
これなら使い分けられる。
普段は無言。
強く使う時だけ、発動名で意識を固める。
「悪くない」
少し機嫌が良くなった。
◇
第一層の奥へ進むにつれ、魔物は少しずつ増えた。
岩甲蟲。
二体。
今度は最初から無言で《衝撃》を使う。
片方の進路を横からずらし、もう一体へ先に剣を入れる。
狭い通路。
二体を同時に相手にしない。
棘狼との戦いで覚えたことが、そのまま使えた。
一体目。
腹。
二体目。
殻へ剣を当てるふりをして、反対側から小さな衝撃を当てる。
身体が傾く。
そこへ蹴り。
仰向け。
剣。
終了。
「……楽だ」
数日前なら。
多分、一体ずつ慎重に戦っていた。
今は二体いても焦らない。
どう崩すかを先に考えられる。
さらに奥。
小さな分岐。
簡易地図では一本の通路になっている。
「違う」
左に細い穴。
人一人が通れる程度。
新しくできたのか。
それとも地図に載せていないだけか。
エイルは入口を見る。
気になる。
かなり。
「……いや」
今日は初回。
まだ第一層。
未知の穴へ入る理由はない。
ただし。
地図へ書き込む。
現在位置。
左。
細い通路あり。
「次に確認すればいい」
少しずつ。
こういう判断ができるようになってきた気がする。
興味があるから即入る。
それでは長く旅できない。
行きたい場所があるなら。
行ける状態で行く。
エイルは本道へ戻った。
◇
第一層の中央付近。
少し広い空間へ出た。
壁面に青晶石がいくつも見える。
「……多いな」
先客はいない。
採り放題。
エイルは周囲を確認してから槌を取り出した。
一つ。
二つ。
三つ。
《採掘》を得た影響なのか、最初より明らかに作業が速い。
石の割れ方。
槌を入れる位置。
なんとなく分かる。
五つ目。
六つ目。
その時。
《気配感知》に何かが触れた。
「……?」
今までとは違う。
ぼんやりと。
複数。
遠い。
通路の向こう。
エイルは作業を止める。
耳を澄ませる。
何も聞こえない。
だが。
いる。
「三……いや、四?」
少しずつ近づいている。
そして。
数秒遅れて《危機感知》が反応した。
エイルは採掘槌をしまい、剣を抜いた。
通路。
暗い。
微かな青い光の中。
影。
一つ。
二つ。
四つ。
岩甲蟲ではない。
低い身体。
四足。
白っぽい毛。
口元から長い牙。
「洞牙狼……」
これも資料で見た。
第一層でも稀に出るが、主な生息域は第二層。
一体ならE級初心者でも対処可能。
群れなら注意。
「四体か」
棘狼三体を思い出す。
あの時より。
今の方が強い。
技能も。
感知も。
《衝撃》も。
それでも、油断する理由にはならない。
エイルは周囲を見る。
広い空間。
背後には壁。
右に大きな結晶柱。
左に細い窪み。
逃げるなら後ろの通路。
だが。
四体は既にこちらを見ている。
一体が低く唸った。
エイルは剣を構える。
今までなら。
ここで。
技名を口にしていた。
今日は違う。
足元へ魔力を集める。
小さく。
鋭く。
無言の衝撃。
トンッ。
エイルの身体が横へ滑った。
洞牙狼の一体が反応して顔を向ける。
「……うん」
使える。
声は必要ない。
剣先を少し下げる。
四体。
狭い場所ではない。
なら、囲まれる前に位置を取る。
エイルは結晶柱の方へ動いた。
洞牙狼も散開する。
その瞬間。
エイルは小さく笑った。
「迷宮って」
少し怖い。
でも。
それ以上に。
「……やっぱり面白いな」
最初の一体が、地面を蹴った。




