第85話 空白を歩いた先
《越境》がLv.6へ上がった翌朝から、エイルの旅は以前とは少し違うものになった。
何か劇的な能力を手に入れたわけではなく、歩けば景色は変わり、腹が減れば食事を取り、夜になれば安全そうな場所を探して眠るという旅そのものは変わらない。ただ、身体を動かした時に返ってくる感覚も、魔力を扱った時の伸びも、空白地を進むほど目に見えて速くなっていた。
丘陵地帯へ入って3日目には、《高密度強化》を使った直後に残っていた筋肉の重さが、数時間もすればほとんど消えるようになった。
5日目には、朝から夕方まで《警戒圏》を維持したまま歩いても、以前ほど精神的な疲労を感じなくなっていた。
そして7日目、谷を越えるために高さ30メートルほどある岩壁を登った時、指先へ集中させた身体強化が以前より明らかに細かく制御できることへ気づいた。
必要な場所へ、必要な瞬間だけ魔力を入れる。
それだけなら以前からできている。
しかし今は、その精度が身体の成長へ追いつくだけではなく、成長する身体に合わせて自然に更新され続けているようだった。
「Lv.6、結構変わってるな」
岩壁の上へ身体を引き上げたエイルは、眼下へ広がる景色を見ながら小さく呟いた。
西へ進むほど人の痕跡は減っていた。
古い焚き火跡を見つけたのは最初の2日だけで、それ以降は切られた木も、踏み固められた道も、人間が残した杭も見ていない。
地図も同じだった。
リヴィアから受け取った簡易地図には大まかな高低差と川だけが書かれているが、現在地付近から西側は余白が大きく、山の形すら実際に見えるものと少し違っている。
エイルは休憩するたび、その違いを自分の地図へ書き足していた。
丘の位置。
水場。
崖。
浅い洞窟。
魔物が頻繁に通る場所。
遠くから見える特徴的な岩山。
そうやって1本ずつ線を増やしていく時間は、強い魔物と戦うのとは別の意味で楽しかった。
◇
空白地へ入って8日目。
エイルは川沿いの林で、全長7メートルほどの魔物と遭遇した。
最初に《警戒圏》へ入った時には大型の四足獣だと思ったが、木々の間から姿を現したそれは、前半身と後半身でまるで別の生き物を繋いだような形をしていた。
頭部から胸までは巨大な猫科の獣に近く、太い前脚の先には湾曲した4本の爪がある一方、腰から後ろは爬虫類のように低く長く伸び、後脚は短い。背中から尾の先まで硬い鱗が帯状に並び、その間には淡い魔力を帯びた薄膜が何枚も挟まっている。
さらに頭部には耳がなく、代わりに頬から後方へ2本の角状器官が伸びており、そこから周囲へごく弱い魔力の波を放っていた。
エイルが林へ入った瞬間から位置を把握していたのも、その器官のためらしい。
魔物は唸り声を上げると、前脚だけで地面を蹴って一気に距離を詰めてきた。
動きは速かった。
それでも、40メートル級の未知個体と戦った直後のエイルにとっては、対応できない速度ではない。
《警戒圏》へ浮かんだ軌道に合わせて半歩だけ位置を変え、爪を避けながら首の付け根へ長剣を入れる。
鱗が硬いため刃だけでは浅い。
そこへ圧縮した《衝撃》を細く通すと、魔物の上半身が大きく傾いた。
以前なら倒れた相手へ続けて斬り込んでいたかもしれない。
今は違う。
《振動感知》によって内部の魔力路がすでに分かっている。
2撃目はそこへ合わせる。
魔物が立ち直るより先に、エイルは肩の少し後ろへ剣を差し込み、内部で《衝撃》を分岐させた。
重い音が1度だけ響き、巨体はそのまま地面へ倒れた。
「昨日のよりは楽だったな」
それだけ確認すると、素材になりそうな角状器官を1本だけ回収して先へ進んだ。
魔物の名前は知らない。
危険度も分からない。
だから特に気にしなかった。
◇
その翌日には、背中へ長い棘を持つ6脚の肉食獣が5体。
さらに2日後には、谷の壁面へ張り付いていた全長10メートルほどの軟体種。
13日目には、夜営中に上空から大型の飛行種が2体降りてきた。
どれもギルドの図鑑には記憶がなく、正式な危険度も分からない。
以前のエイルなら、戦う前に既知種との共通点を探し、どの程度の強さなのかある程度考えていただろう。
しかし最近は、その考え自体が薄くなっていた。
危険なら《警戒圏》が教える。
攻撃が見えれば避ける。
硬ければ別の場所を探す。
単発の《衝撃》が通らなければ内部で分け、《震圧》が広すぎれば範囲を狭める。
相手が何級なのかを知らなくても、戦闘そのものには困らない。
それどころか、未知種と戦うたびに技能の使い方が細かく増えていった。
飛行種との戦いでは、地面を介さず空気中へ《衝撃》を残す方法を試し、まだ威力は低いものの、数メートル以内なら踏み込んできた敵へ遅れて衝撃を発生させられるようになった。
谷の軟体種を相手にした時には、柔らかい身体へ普通の内部衝撃を通しても力が逃げるため、振動数を細かく変えながら最も反応の大きい場所を探し、体内組織そのものを揺らす使い方を覚えた。
《衝撃》が上位化条件を満たしてからというもの、技能そのものが「次に何へ変わるのか」を試しているようにも感じられる。
ただし、エイルは急いで進化させようとはしなかった。
選べる発展経路が複数あるなら、今のうちにできるだけ多く試した方がいい。
その程度に考えていた。
◇
空白地へ入ってから17日が過ぎた朝、エイルは久しぶりに自分の状態を確認した。
【エイル・アーネット】
【年齢 16】
【Lv.68 → Lv.79】
【《越境 Lv.6》】
【《剣術 Lv.37 → Lv.41》】
【《衝撃 Lv.55 → Lv.61》】
【《身体強化 Lv.35 → Lv.40》】
【《魔力操作 Lv.44 → Lv.49》】
【《振動感知 Lv.35 → Lv.41》】
【《近域感知 Lv.35 → Lv.40》】
【《魔力圧縮 Lv.42 → Lv.48》】
【《高密度強化 Lv.20 → Lv.27》】
【《自己治癒 Lv.24 → Lv.31》】
【《警戒圏 Lv.10 → Lv.16》】
【《震圧 Lv.12 → Lv.18》】
予想していた以上に伸びていた。
40メートル級との戦闘ほど大きな境界を越えた感覚はないため、《越境》自体はLv.6のままだが、そこから先の通常成長が明らかに速くなっている。
特に《自己治癒》の伸びが大きかった。
今では浅い切り傷なら、戦闘中に意識を向けなくても血が止まり始める。
深い傷でも魔力を集中すれば回復速度が大きく上がるため、数日単位で残っていた身体の負荷が翌朝にはかなり軽くなっている。
その結果、《高密度強化》を使える回数も増え、強化を繰り返したことで身体そのものまでさらに伸びる。
《越境》が成長効率を上げ、《自己治癒》が訓練回数を増やし、《高密度強化》が身体へ高い負荷を与え、その負荷へ適応することでまた基礎能力が伸びる。
いくつかの技能が互いに噛み合い始めたことで、以前より成長の循環そのものが速くなっていた。
「これ、本当にこのまま行くのかな」
少し気にはなった。
ただ、止める理由もない。
エイルは表示を閉じると、朝食を済ませて再び歩き出した。
◇
人の作った道へ戻ったのは、空白地へ入ってから21日目だった。
最初に見つけたのは轍だった。
かなり深い。
複数の荷車が定期的に通っている。
その少し先では木々が伐採され、石を敷いた簡易街道が北西から南東へ伸びていた。
地図を確認すると、予定していた位置よりかなり北へ出ている。
「結構ずれたな」
途中で面白そうな谷へ何度か寄った結果だった。
街道を南東へ進めば、第3前進砦方面へ戻る。
逆に北西へ進めば、西部方面軍の主要拠点の1つである城塞都市があるらしい。
ローデンより規模は小さいが、西境へ向かう軍と冒険者の多くが立ち寄る都市であり、冒険者ギルドの支部も大きい。
食料も減っている。
装備の手入れもしたい。
それに、持っている素材が何なのか少し気になっていた。
エイルはそのまま北西へ向かった。
◇
レグノアへ到着したのは翌日の昼だった。
街の南側は高さ8メートルほどの石壁に囲まれ、門の外には軍用荷車と商人の馬車が長い列を作っている。城壁の向こうには背の低い石造建築が密集し、そのさらに奥には周囲より一段高い軍施設の塔が何本も見えた。
第3前進砦より遥かに大きい。
門で冒険者証を提示すると、A級を示す金属証を見た衛兵が一度エイルを確認したものの、特に止められることなく通された。
街へ入って最初に向かったのは冒険者ギルドだった。
建物は3階建てで、ローデン支部より広い。
昼過ぎにもかかわらず内部には数十人の冒険者がおり、依頼板の前では装備を整えた集団が何組も話している。
エイルは受付で宿と鍛冶屋の場所だけ聞くつもりだったが、背負っている素材袋を見た職員に声を掛けられた。
「そちら、魔物素材ですか?」
「はい。名前が分からないものが多いので、分かるものだけ教えてもらえますか」
「もちろんです。査定も同時に行えます」
奥の素材査定台へ案内され、エイルはこの3週間で拾ったものをいくつか並べた。
すべて持ってきたわけではない。
運びやすい角。
爪。
薄い甲殻。
魔力器官。
そして8日目に倒した、猫科と爬虫類を混ぜたような魔物の角状器官。
査定員は最初の数点を順番に確認していたが、その角状器官を手に取ったところで動きを止めた。
「……これ、どこで?」
「ここから南東の丘陵です。正確な場所なら地図にあります」
「個体は?」
「倒しました」
「お1人で?」
「はい」
査定員はもう1度素材を見る。
そのあと近くの別職員を呼び、2人で何かを確認し始めた。
「何か珍しいんですか?」
「珍しいというより、おそらく《断崖喰らい》です」
「名前あるんですね」
「あります。西部ではかなり有名ですよ」
初めて聞く名前だった。
職員が棚から厚い資料集を持ってくる。
開かれたページには、エイルが見た魔物とほぼ同じ姿が描かれていた。
前半身は大型猫科。
後半身は鱗に覆われた長い胴体。
頬から伸びる感覚角。
「西境南部の岩谷で稀に確認される大型種で、単独討伐記録は少ないです。正式な推奨編成は、経験豊富なA級を含む複数人ですね」
エイルは資料と素材を交互に見た。
「……そんなに?」
「そんなに、です」
「普通にいましたけど」
「普通にはいません」
言い切られた。
査定員は続けて、別の爪も確認する。
「こちらも、おそらく《岩駆け棘獣》ですね。これも西部の危険地域で――」
「それも名前あるんですか」
「むしろ、どこを歩いてきたんです?」
地図を出す。
この3週間で自分が歩いた線を指でなぞると、査定員の表情が少しずつ険しくなった。
「ここ、軍の詳細測量が終わっていない地域ですよ」
「そうみたいですね」
「そこから、この谷を抜けて?」
「はい」
「この辺りで野営も?」
「何日か」
査定員は頭を抱えた。
「A級なのは分かっていますけど、もう少し危険地域に入っている自覚を持ってください」
「危ないのは分かってます」
「たぶん、私が言ってる意味と違います」
最近よく聞く言い方だった。
◇
査定に時間が掛かるということで、エイルは素材を預け、ギルド内の食堂で遅い昼食を取ることにした。
温かい肉料理を食べるのは久しぶりだったため、戦闘よりそちらの方に少し感動していたところで、受付職員が1人こちらへ近づいてきた。
「エイル・アーネットさんで間違いありませんか?」
「はい」
「ローデン支部から転送されている書類があります。到着記録が確認できた場合に渡すよう指定されていました」
「僕に?」
差し出されたのは封蝋された2通の書類だった。
1通には冒険者ギルドの紋章。
もう1通には、西部方面軍の紋章がある。
エイルは先に軍側を開いた。
差出人は見覚えのある名前だった。
ジーク・ハウゼン。
内容は簡潔で、以前話していた《西部方面軍戦技席次・公開入れ替え戦》と、それに続く《軍・騎士団・冒険者合同演習》の日程が正式に決まったという通知だった。
開催は約1か月後。
そして最後に、ジークからの推薦により、エイルには合同演習への参加資格が用意されていると書かれている。
「1か月か」
今からなら間に合う。
続いてギルド側の封書を開く。
こちらには、さらに別の内容があった。
合同演習へ参加する冒険者の中に、S級冒険者が1名含まれる予定であること。
加えて王都騎士団からも複数の上位者が参加し、王国武技競技会へ向けた推薦候補の選考も兼ねること。
そしてA級以上の招待者については、希望すれば事前の能力測定を受けられると記されている。
エイルは文章を最後まで読んだ。
S級という言葉にも、武技競技会という言葉にも、それほど強く惹かれたわけではない。
ただ。
強い人間が集まる。
その一点だけは気になった。
空白地では、自分がどこまで強くなったのか比較できる相手がいない。
未知の魔物と戦うのは面白いが、人間の技術には魔物とは違うものがある。
ミレアとの模擬戦でも、自分より低い力でこちらの動きを崩される場面が何度もあった。
さらにS級。
軍の上位席次。
王都騎士団。
その中には、今の自分より明確に強い人間もいるのだろう。
「……ちょうどいいかもな」
1か月あれば、まだ西を歩ける。
そのあと戻ればいい。
エイルは封書を畳み、地図の横へ置いた。
この3週間だけでLvは79まで上がった。
《越境》はLv.6。
成長速度は、自分でも分かるほど上がり続けている。
それでも世界には、まだ会ったことのない強者がいる。
その事実を確かめられる場所があるなら、少しくらい寄り道しても悪くなかった。




