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第84話 空白地の主

 林の向こうから姿を現した未知の魔物は、エイルを見つけてもすぐには襲いかかってこなかった。


 肩までの高さは4メートル近くあり、全体の輪郭だけなら巨大な鹿に見えなくもないが、胴体は熊のように厚く、前脚の先には蹄ではなく岩へ食い込む太い鉤爪が備わっている。頭部から後方へ湾曲した2本の角は根元だけでも人の腕ほど太く、背中には6枚の骨板が斜めに並び、その隙間を流れる魔力が周囲の空気を僅かに歪ませていた。


 左右に2つずつ並ぶ4つの目のうち、上側だけがエイルを見ている。


 下側の2つは、別の方向を向いたままだった。


「……僕だけ見てるわけじゃないのか」


 長剣を抜いたまま、《警戒圏》を広げる。


 未知の魔物そのものから感じる危険は強い。ローデン周辺で出会ってきた大半の魔物より明らかに密度の高い魔力を持ち、その巨体から想像できるだけでも膂力は相当なものだろう。


 ところが、魔物の意識はエイルへ完全には向いていない。


 前脚が落ち着かなく地面を掻き、背中の骨板もわずかに震えている。


 《振動感知》へ意識を落とすと、魔物の足元から伝わる細かな揺れに混じって、もっと遠くから低い振動が届いていることへ気づいた。


 かなり弱い。


 距離もある。


 それでも一定ではなく、何か巨大なものが地面へ体重を掛けるたび、数秒遅れて岩盤を伝ってきている。


「後ろに何かいるな」


 エイルがそう呟いた直後、巨大な鹿型の魔物が動いた。


 2本の角を正面へ向けると、4本の脚で地面を強く蹴り、見た目からは想像しにくい速度で一気に距離を詰めてくる。


 ただし、その突進が純粋にエイルを獲物として狙ったものではないことは、《警戒圏》へ浮かんだ危険の流れを見た瞬間に分かった。


 正面へ残れば角に貫かれる。


 右へ避ければ前脚による薙ぎ払い。


 左へ入れば背中の骨板から魔力が飛ぶ。


 それらと同時に、エイルの後方へ走り抜ける可能性まで浮かんでいる。


「僕を倒したいんじゃなくて、逃げたいのか」


 なら道を空ければ済むのかもしれない。


 そう考えて横へ大きく移動したが、魔物は逃げるどころか、直前で進路を変えてエイルを追った。


 どうやら完全に無視できる相手だとは思われていないらしい。


 巨大な角が横から迫ったため、エイルは《高密度強化》を脚へ流して一歩だけ前へ入り、角の根元を長剣の腹で受けながら力を斜めへ逃がした。


 衝突した瞬間、腕に想像以上の負荷が走る。


「重いな」


 魔力強化を使っているとはいえ、完全に止めるのは得策ではない。


 エイルは身体を回して角を流し、そのまま首元へ剣を滑らせたが、刃は樹皮に似た外皮へ深く食い込まず、表面へ細い傷を残しただけだった。


 そこへ背中の骨板が震える。


 《警戒圏》が強く反応した。


 エイルは即座に地面を蹴った。


 直後、6枚の骨板から細い魔力の刃が扇状に放たれ、さっきまで立っていた地面と背後の木々をまとめて切り裂いた。


 射程は少なくとも50メートル以上あり、1枚ごとに異なる角度へ放たれるため、正面だけを見ていれば避けるのは難しい。


「結構強いな」


 それでも、今のエイルなら対応できる。


 再び突進へ入った魔物に対し、今度は真正面から受けず、《衝撃》を足元へ集中して右前脚だけを僅かに浮かせた。


 高速移動中に片脚をずらされた巨体が傾き、その瞬間に生まれた首の側面へ長剣を叩き込む。


 外皮は硬い。


 だから切り抜けようとはしない。


 刃を数センチ沈めたところで、《振動感知》を通して内部構造を拾いながら、《魔力圧縮》でまとめた《衝撃》を送り込む。


 重い低音が魔物の体内から響いた。


 巨体が大きく跳ねる。


 ただ、それでも倒れなかった。


 以前なら内部へ《衝撃》を通した時点で致命傷になっていた大きさの魔物が、数歩ふらついたあと再びエイルへ顔を向ける。


 その反応を見て、エイルは少しだけ口元を緩めた。


「やっぱり、この辺は面白いな」


 魔物の方は楽しんでいない。


 4つの目を見開き、背中の骨板へさらに魔力を集めながら大きく身体を反らした。


 次に放たれる攻撃は先ほどより強い。


 しかし、その直前だった。


 森の奥から聞こえていた低い振動が、急に大きくなった。


 鹿型の魔物が硬直する。


 エイルの《警戒圏》も、今までとは比較にならないほど強く反応した。


 危険の方向は正面の魔物ではない。


 そのさらに奥。


「来たか」


 林の向こうで、大木が倒れた。


 1本ではない。


 何十年も育った太い木々が、何かに押し退けられるように左右へ傾き、その中央から巨大な影がゆっくり姿を現した。


     ◇


 最初に見えたのは、岩壁の一部が動いているような背中だった。


 全長は40メートル近くある。


 地面から肩まででも10メートルを越え、前半身は特に太く発達しているため、遠目には巨大な四足獣に見えた。


 しかし近づくにつれて、その身体が普通の獣とはまるで違う構造をしていることが分かる。


 脚は6本。


 前方の2対、合計4本は太く短く、先端には岩を掴む5本の鉤爪がある。後方の1対だけが長く、巨体を前へ押し出すための脚として発達していた。


 頭部は鰐に似ているが、顎は左右ではなく上下へ2重に分かれている。外側の顎が開いた内側にもう1つ小さな口があり、そちらには槍の穂先ほどある歯が何列も並んでいた。


 眼球は左右へ1つずつしかない。


 その代わり、首から胸にかけて淡い膜で覆われた丸い器官がいくつも並び、周囲の魔力や振動へ反応するたび脈打っている。


 背中を覆う甲殻も異様だった。


 巨大な岩盤に似た板が何十枚も重なり、1枚ごとに厚さが1メートル近くある。その表面には長年擦られた傷が無数に走っているが、深く割れた跡はほとんどない。


 何より、魔力が濃い。


 以前戦った深層循環獣とは質が違うものの、身体そのものが周囲の魔力を引き寄せているようで、《魔力感知》へ入ってくる反応の大きさだけなら、これまで単独で遭遇した魔物の中でも明らかに上だった。


 鹿型の魔物が完全にエイルから意識を外した。


 背中の骨板を伏せ、巨体に似合わないほど素早く反対方向へ逃げようとする。


 その瞬間、40メートル級の魔物が口を開いた。


 咆哮は聞こえなかった。


 代わりに空気そのものが潰れた。


 エイルの《警戒圏》が危険を告げた直後、見えない圧力の塊が林を一直線に突き抜け、逃げ始めていた鹿型の魔物を横から捉える。


 4メートル近い巨体が地面から浮いた。


 そのまま数十メートル吹き飛ばされ、太い木を2本へし折って岩へ叩きつけられる。


 さっきまでエイルと戦っていた魔物が、一撃で動かなくなった。


「……あっちは格が違うな」


 誰かから聞いた危険度ではない。


 等級も知らない。


 それでも、今の一撃だけで分かる。


 強い。


 かなり。


 巨大な魔物は倒れた獲物へ近づこうとしたが、その途中で頭部を止めた。


 胸元に並ぶ感覚器官が一斉に震える。


 次に向いたのはエイルだった。


 獲物がもう1体いると判断したらしい。


 エイルは長剣を握り直す。


 逃げるという選択肢は当然あった。


 守るものもない。


 任務でもない。


 この魔物を倒さなければ誰かが死ぬと分かっているわけでもない。


 それでも足は後ろへ向かなかった。


 《危機感知》は強く鳴っている。


 《警戒圏》には、少し動いただけで何通りもの危険な結果が浮かんでは消えている。


 それを見てなお、エイルの中で勝ってみたいという気持ちの方が少しだけ上回った。


「どこまでいけるかな」


 巨大な魔物が動いた。


 そして次の瞬間、エイルの視界から巨体が消えた。


     ◇


 速いと理解した時には、《警戒圏》へ強烈な危険が流れ込んでいた。


 エイルは考えるより先に左斜め前へ《衝撃》を使い、身体を強引に押し出した。


 直後、右側から巨大な前脚が通過する。


 爪が地面へ触れただけで岩が抉れ、直径数メートルの石塊が軽々と宙へ舞った。


 あの巨体で、この速度。


 鹿型の魔物とは比較にならない。


 エイルは回避した勢いを利用して前脚の内側へ潜り、関節部分へ長剣を振り下ろした。


 刃が甲殻へ当たる。


 硬い音が返った。


「硬っ……」


 斬れない。


 なら内部へ通す。


 《衝撃》を叩き込んだ瞬間、いつもなら相手の体内へ抜けるはずの力が、甲殻の内側で大きく散った。


 何層もの組織が振動を別方向へ逃がしている。


 巨大な身体で生き続けるため、衝撃そのものへ耐える構造を持っているらしい。


 そこまで理解した時には、別の前脚が迫っていた。


 エイルは地面を蹴り、足元へ《衝撃》を重ねて跳ぶ。


 しかし空中へ逃げた先で《警戒圏》が再び鳴った。


 尾。


 巨大な鞭のような尾が背後から来る。


 空中では普通なら避けにくい。


 エイルは《衝撃》を斜め下へ放ち、身体の軌道を強引に上へ変えた。


 尾が靴底を掠める。


 それだけで空気が弾け、身体がさらに回転した。


 着地はできる。


 そう思った瞬間、巨大な口が真下から開いた。


「そこまで来るのかよ」


 空中にいるエイルへ、巨体が跳び上がった。


 2重の顎が開く。


 内側の歯まで見える。


 《警戒圏》へ複数の可能性が走るが、今までのように「ここへ動けば安全」と単純にはならない。


 右へ逃げても爪。


 左なら顎。


 下へ戻れば胴体。


 上へ行けば届かないほど高く跳ぶ前に噛まれる。


 安全な場所がない。


 エイルは初めて、攻撃そのものを正面から利用した。


 長剣を巨大な上顎へ突き立て、《衝撃》を刀身から一気に放つ。


 倒すためではない。


 自分を押し出すためだ。


 反動を全身へ受け、エイルの身体が斜め後方へ弾かれる。


 代わりに左腕へ巨大な爪が掠めた。


 戦闘用コートと軽装甲が裂け、その下の皮膚まで深く切れる。


 空中へ赤い血が散った。


 それでも噛まれるよりは遥かにましだった。


 エイルは地面へ着いた瞬間、《自己治癒》を左腕へ流しながら距離を取る。


 傷は深い。


 骨までは届いていない。


 出血もすぐに減り始める。


「今のは危なかったな」


 巨大な魔物が着地する。


 その重さだけで地面が沈んだ。


 エイルは呼吸を整えながら、初めて真正面から相手を観察した。


 速さ。


 膂力。


 防御。


 広範囲へ届く圧力攻撃。


 どれも高い。


 しかも今のところ、弱点らしい弱点を見せていない。


 最近戦ってきた相手の多くは、数が多くても個体ごとの動き自体は読めた。


 大型も、内部構造を拾えば《衝撃》を通す場所が分かった。


 しかしこいつは違う。


 今まで通じていた方法を、そのまま使っても足りない。


 それが妙に懐かしかった。


 深層循環獣と戦った時にも似た感覚があった。


 自分より明らかに大きな壁が目の前へある。


 そして、その壁を越えたあとに《越境》が大きく変わった。


「だったら、また越えればいい」


     ◇


 2度目の突進が来る。


 今度は逃げるだけではなく、《警戒圏》へ浮かぶ可能性を意識して見る。


 正面に残る。


 右。


 左。


 上。


 下。


 複数の結果がほんの一瞬だけ重なる。


 完全な映像ではない。


 それでも以前より輪郭が濃くなっており、魔物がまだ前脚を動かしていない段階で、その先に続く2手目まで危険として浮かび始めている。


 右へ避ければ前脚から尾へ繋がる。


 左なら頭部による薙ぎ払い。


 後方へ大きく離れれば、口から圧力が飛ぶ。


 なら前へ。


 エイルは魔物へ向かって走った。


 巨大な前脚が落ちるより早く、その内側へ入る。


 次に来るのは別の前脚。


 分かっている。


 長剣で受けず、《震圧》を真下へ集中して地面を崩し、巨大個体の踏み込みだけを数センチ沈ませる。


 わずかなずれ。


 しかし、それで十分だった。


 爪がエイルの背後を通過する。


 そのまま腹の下へ潜る。


 ここも甲殻に覆われているが、背中よりは薄い。


 長剣を両手で握り、《高密度強化》を肩と腕へ集中させて突き上げた。


 刃が入る。


 今度は内部まで届く。


 《振動感知》を流す。


 しかし巨大すぎる身体の中では、拾える情報量そのものが多すぎた。


 筋肉。


 骨。


 分厚い血管。


 複数の魔力器官。


 さらにその奥にも何かある。


 1つの核だけを潰せば終わる構造ではない。


「そっちも対策してるのか」


 巨大個体が腹を地面へ押しつけようとする。


 エイルは剣を抜いて横へ走り、《衝撃》で加速して潰される直前に抜けた。


 背後で地面が沈む。


 そのまま巨大個体が身体を回し、尾を薙ぎ払う。


 《警戒圏》へ先に浮かんでいたため、今回は余裕を持って跳べた。


 空中から遠隔の《衝撃》を頭部へ放つ。


 直撃。


 それでも少し首が動いただけだった。


 単発では足りない。


 なら重ねる。


 着地したエイルは《震圧》を広げ、巨大個体の6本の脚が触れている地面へ同時に魔力を伸ばした。


 広範囲へ薄く撒くのではなく、6ヶ所へ分ける。


 《魔力操作》で位置を固定。


 《魔力圧縮》で密度を上げる。


 同時に解放する。


 6つの重い音が重なった。


 巨大個体の身体が初めて大きく傾く。


「効くな」


 倒れない。


 ただし姿勢は崩れる。


 そこへ走る。


 エイルは前脚を足場にし、甲殻の傾斜を駆け上がった。


 巨大個体が身体を振る。


 背中の上へ乗ったエイルを落とすためだろう。


 しかし《近域感知》と《振動感知》があるため、甲殻がどちらへ動くかは足元から分かる。


 走る。


 跳ぶ。


 別の甲殻へ移る。


 その途中で、甲殻同士の隙間へ長剣を突き込む。


 《衝撃》。


 やはり散る。


 ならもっと細く。


 広げるのではなく、針のように一点へ通す。


 《魔力圧縮》を高める。


 刀身を伝う力が細くなり、今までの《衝撃》とは少し違う感覚へ変わっていく。


 打撃ではない。


 貫く。


 エイルはそのまま解放した。


 甲殻の内側で、鋭い低音が響く。


 巨大個体が激しく身を震わせた。


 今までより明らかに深く通った。


【《衝撃 Lv.49 → Lv.50》】


【《魔力圧縮 Lv.36 → Lv.38》】


【《魔力操作 Lv.39 → Lv.41》】


 表示が浮かんでも見る余裕はほとんどない。


 巨大個体が背中ごと岩壁へ身体を叩きつけようとしている。


 エイルは甲殻から飛び降り、空中で《衝撃》を使って距離を取った。


 数秒後、巨体が崖へ激突する。


 岩壁が大きく崩れ、何十トンあるのか分からない岩塊が次々に落ちた。


 魔物自身もその下へ埋まる。


 普通の大型魔物なら、それだけで戦闘が終わっていてもおかしくない。


 しかし《警戒圏》の危険は消えない。


 むしろ強くなる。


「まだ来るな」


 崩れた岩山が内側から弾けた。


 巨大個体が姿を現す。


 甲殻には傷が増えているものの、身体そのものはまだ十分に動いていた。


 しかも、胸元に並ぶ感覚器官が一斉に強く発光している。


 周囲の魔力が引き寄せられる。


 エイルの《危機感知》が、これまでで最も強く反応した。


 直後、巨大個体が頭を下げた。


「まずい」


 今度の圧力攻撃はさっきまでと違う。


 正面だけではない。


 全周囲。


 エイルの意識へ何通りもの結果が同時に浮かぶ。


 地面へ伏せる。


 吹き飛ばされる。


 跳ぶ。


 空中で捉えられる。


 距離を取る。


 間に合わない。


 岩の裏へ隠れる。


 岩ごと砕かれる。


 どれも悪い。


 逃げられる範囲の外まで攻撃が広がる。


 なら止めるしかない。


     ◇


 エイルは魔物へ向かって走った。


 周囲の魔力がさらに集まり、空気が重くなる。


 《高密度強化》を脚へ。


 《衝撃》で加速。


 もう1度。


 距離を一気に詰める。


 巨大個体の全身から圧力が放たれる直前、《警戒圏》へ無数の危険な結果が重なった。


 その中に、1つだけ違うものがある。


 攻撃が出ない結果。


 それは未来が確定して見えたわけではない。


 今ここで自分が何をすれば、数秒後の結果が変わるのか。


 その可能性だけが、他より僅かに強く浮かんだ。


「そこだ」


 巨大個体の胸元。


 並んでいる感覚器官の中央。


 周囲から集めた魔力が、一瞬だけ1ヶ所を通っている。


 エイルは真正面へ踏み込んだ。


 攻撃が来れば避けられない距離。


 だからこそ、相手も最も大きな力を集めている場所へ届く。


 長剣を両手で握る。


 《高密度強化》を全身へ。


 《魔力圧縮》を刀身へ。


 《衝撃》を、今までで最も細く、最も深くまとめる。


 踏み込む。


 突く。


 剣先が感覚器官の中央へ突き刺さった。


 巨大個体の魔力が膨張する。


 間に合わなければ、ここから吹き飛ばされる。


 エイルは刀身から《振動感知》を通し、集まっている力の流れを拾った。


 何本もの魔力路が中央へ集まっている。


 そこへ。


 圧縮した《衝撃》を叩き込む。


 音が消えたように感じた。


 実際には、あまりにも深い位置で力がぶつかったため、最初の瞬間だけ外へ音が届かなかったのだろう。


 次の瞬間。


 巨大個体の胸部が内側から跳ねた。


 遅れて、これまでの《衝撃》とは比較にならないほど重い音が谷全体へ響く。


 周囲へ集められていた魔力が霧散した。


 圧力攻撃は出ない。


 しかし巨大個体もまだ倒れない。


 エイルの長剣が刺さったまま、巨体が激しく暴れ始める。


 前脚が来る。


 《警戒圏》へ未来のような危険が浮かぶ。


 避けるために剣を抜けば、せっかく作った傷が閉じる。


 なら抜かない。


 エイルは柄を握ったまま身体を持ち上げ、振り抜かれる前脚の上へ足を掛けた。


 その勢いを利用してさらに深く剣を押し込む。


 《自己治癒》で左腕の傷を塞ぎながら、《魔力圧縮》を限界近くまで引き上げる。


 もう1度。


 《衝撃》。


 巨体が揺れる。


 さらに1度。


 今度は中央だけではなく、通した振動を内部で分岐させる。


 《震圧》の制御を体内へ持ち込む。


 1つの入口から。


 3ヶ所。


 5ヶ所。


 7ヶ所。


 巨大個体の内部で複数の低音が連続して鳴った。


 甲殻は割れない。


 外見もほとんど変わらない。


 それでも体内に張り巡らされていた太い魔力路が、1本ずつ乱れていくのが《振動感知》で分かる。


【《震圧 Lv.7 → Lv.9》】


【《衝撃 Lv.50 → Lv.52》】


 巨大個体が初めて後退した。


 その動きだけで、エイルには十分だった。


 効いている。


 なら続ける。


     ◇


 戦いが始まってから、どれほど時間が経ったのか分からなくなっていた。


 10分か。


 20分か。


 もっと長いかもしれない。


 エイルのコートには何ヶ所も裂け目が入り、左腕だけではなく脇腹と右腿にも傷が増えている。


 《自己治癒》がなければ、すでに動きは大きく鈍っていただろう。


 魔力もかなり使った。


 それでも巨大個体の方にも明確な変化が出始めている。


 前脚の1本がほとんど動かない。


 胸部の感覚器官は半分以上が潰れ、背中の甲殻にも数ヶ所、内側から入った衝撃による細い亀裂が走っている。


 最初は追い付くだけで精一杯だった速度も、今は《警戒圏》へ浮かぶ可能性と《近域感知》を重ねることで先回りできる場面が増えた。


 戦いながら変わっている。


 相手が弱くなっただけではない。


 エイル自身の認識速度と、身体の使い方が追いつき始めている。


 巨大個体が残る5本の脚で地面を踏みしめ、最後の突進へ入った。


 正面から見れば、岩山そのものが迫ってくるような圧力だった。


 エイルは逃げなかった。


 《震圧》を前方へ広げる。


 6ヶ所。


 12ヶ所。


 18ヶ所。


 地面を伝う魔力を一斉に起動する。


 巨大個体の足元から連続した重音が鳴り、巨体の進行方向が僅かにずれた。


 さらに《震圧》。


 今度は右側へ集中。


 巨大個体が左へ傾く。


 エイルはその外側へ回り込み、動かなくなっていた前脚を足場に跳び上がった。


 背中の甲殻へ着地する。


 最初に何度も弾かれた場所。


 今なら内部の構造を把握している。


 甲殻の隙間。


 その奥を通る太い魔力路。


 さらに深い位置に、複数の器官を繋いでいる中心部がある。


 エイルは両手で長剣を逆手に持った。


 《高密度強化》を腕だけではなく、肩、背中、腰、脚まで繋げる。


 全身の力を1本へ集める。


 長剣を突き下ろした。


 甲殻の隙間へ深く入る。


 《魔力圧縮》。


 《衝撃》。


 そして《震圧》。


 1本の剣を入口にして、巨大個体の体内へ複数の衝撃点を同時に作る。


 最初は7。


 さらに増やす。


 10。


 15。


 20。


 制御が崩れかける。


 それでも止めない。


 《魔力操作》で繋ぎ直す。


 《振動感知》で内部を確認し、壊したい場所へだけ力を寄せる。


「これで――」


 最後に、すべての衝撃を中心部へ収束させた。


「終わりだ」


 谷が震えた。


 巨大個体の内部から響いた重音は、もはや1発の《衝撃》というより、何十もの雷鳴が岩の下で重なったような轟きだった。


 背中の甲殻が数枚持ち上がる。


 巨体全体が大きく仰け反り、前脚が空を掻いた。


 エイルは長剣を抜き、《衝撃》で背中から離れる。


 数十メートル先へ着地した。


 巨大個体はまだ立っている。


 ほんの数秒だけ。


 やがて最初に前脚の力が抜け、そのまま頭部が地面へ落ちる。


 続いて胴体。


 最後に巨大な尾が岩場を叩いた。


 大地を揺らしながら、40メートル近い巨体が完全に沈んだ。


 エイルはその場でしばらく動かなかった。


 《警戒圏》には危険が残っていない。


 《振動感知》でも、体内から規則的な動きは返ってこない。


 そこでようやく長く息を吐いた。


「……強かった」


 素直にそう思った。


 最近は未知の魔物と遭遇しても、その場で対応できることが多かった。


 しかし今回は違った。


 何度も攻撃を受けかけた。


 実際に傷も負った。


 今まで使っていた《衝撃》も最初は十分に通らなかった。


 《警戒圏》があっても安全な場所を見つけられない瞬間さえあった。


 それでも戦いの中で方法を変え、最後には届いた。


 その瞬間を待っていたように、視界へ大量の表示が浮かんだ。


【Lv.60 → Lv.68】


【《剣術 Lv.33 → Lv.37》】


【《衝撃 Lv.52 → Lv.55》】


【《身体強化 Lv.31 → Lv.35》】


【《魔力操作 Lv.41 → Lv.44》】


【《魔力感知 Lv.27 → Lv.29》】


【《振動感知 Lv.32 → Lv.35》】


【《近域感知 Lv.32 → Lv.35》】


【《魔力圧縮 Lv.38 → Lv.42》】


【《高密度強化 Lv.16 → Lv.20》】


【《自己治癒 Lv.20 → Lv.24》】


【《警戒圏 Lv.7 → Lv.10》】


【《震圧 Lv.9 → Lv.12》】


 それだけでは終わらない。


【自身を大きく上回る未知個体との単独戦闘を確認しました】


【既存技能の不成立から新たな運用法を構築しました】


【複数の致死的状況を越え、戦闘中に認識・肉体・魔力制御の限界を更新しました】


【未知領域における新たな境界突破を確認しました】


 エイルの目が少し見開かれる。


【固有技能《越境 Lv.5 → Lv.6》】


 久しぶりに、その名前が上がった。


 同時に身体の奥へ熱が広がる。


 傷が突然消えるような変化ではない。


 むしろ、身体の構造そのものが「今までより高い場所まで伸びてもいい」と書き換えられたような、不思議な感覚だった。


 魔力の巡りが滑らかになる。


 感覚が広がる。


 使い切りかけていた筋肉も、《自己治癒》とは別の理由で僅かに軽くなっていく。


 そして最後に、もう1つだけ表示が残った。


【《衝撃》が上位化条件を満たしました】


【複数の発展経路が確認されています】


【現在の技能運用に応じ、上位化先は変動します】


 エイルはそこで少し笑った。


「そっちも来たか」


 すぐに進化するわけではないらしい。


 ただ、長い間使い続けてきた《衝撃》にも、ようやく次が見え始めた。


     ◇


 戦闘のあと、エイルは倒れた巨大個体の横で1時間ほど身体を休めた。


 日が暮れる前に素材を全部回収することは不可能なので、魔力反応の特に強い胸部器官と、比較的小さく割れた甲殻の一部だけを切り出す。


 それでも甲殻片だけでかなり重かったため、全部持って歩くのは諦め、位置を地図へ正確に記録した。


 その途中、久しぶりに自分の状態を細かく確認する。


【エイル・アーネット】


【年齢 16】


【Lv.68】


【生命力 758】


【魔力 914】


【筋力 781】


【耐久 716】


【敏捷 862】


【器用 744】


【感知 1096】


【固有技能《越境 Lv.6》】


 数字を見て、エイルは少しだけ黙った。


 Lv.41だった頃、A級昇格試験で自分の筋力は349、敏捷は374だった。


 まだそれほど時間は経っていない。


 それなのに今は、基礎値だけで当時の倍を大きく越えている項目がある。


 感知に至っては1000を越えていた。


「……さすがに伸び方、おかしくなってきたな」


 自分でもようやくそう思う。


 ただ、《越境》はLv.6になった。


 今までの傾向を考えれば、ここから成長速度はさらに上がる可能性が高い。


 今の数字も、しばらくすれば過去のものになるかもしれない。


 エイルは表示を閉じ、地図を取り出した。


 現在地は、リヴィアからもらった簡易地図でもほとんど何も書かれていない場所だ。


 倒した巨大個体にも名前はない。


 正式な危険度も分からない。


 自分が今どの程度の相手を倒したのかさえ、正確には判断できない。


 それでも構わなかった。


 分からないから来た。


 分からないものに出会えた。


 そして、今まで届かなかった相手へ届いた。


 エイルは巨大な死骸の向こうへ広がる丘陵を見た。


 さらに西には、地図から線が消えている。


 その先へ行けば、もっと強いものがいるかもしれない。


 あるいは、人間がまだ知らない場所や、名前すら残っていない何かが待っているかもしれない。


 《越境》が上がったことより、その可能性の方が少し嬉しかった。


 翌朝。


 エイルは巨大個体の位置を地図へ記し終えると、誰も歩いていない西の斜面へ向かって1人で歩き始めた。


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